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マスコミは報じない、小泉元総理は原発事故直後から“脱原発”を唱えていた(大貫 康雄)

2013年10月29日

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小泉氏の最近の言動について、和田千才(Chitose Wada)さんが、今月『THE HUFFINGYON POST』(日本版)に書いているのを読み、思うところがあった。

小泉氏が尊敬する政治家が(“憲政の神様”と言われる)尾崎行雄だから、この歳になって原発推進から一転、反原発に姿勢を変えることができた……という。

尾崎行雄は特に高齢期、軍部が言論を弾圧しながら軍国主義を推進した時代、平和、軍縮を主張し続けた数少ない政治家だった。私は小泉氏の講演を聞いたことがないのでわらないが、和田千才氏によると、小泉氏は「人生の本舞台は常に将来にあり」という尾崎が晩年に到達した信念を講演で紹介することがあるという。

国会近くの憲政記念館内には、この尾崎の言葉を刻んだ石碑があるので訪れることをお薦めする。

尾崎行雄の娘、故・相馬雪花さんは父とほぼ同じ96歳で亡くなられたが、相馬さんは常々、「人生の本舞台は明日にあり」と語っていた。

相馬さんは、日本政府がいわゆるインドシナ難民を受け入れず、門戸を閉ざしていた頃、「政府がやらないのであれば私たち市民がやる!」とヴォランティア団体「インドシナ難民を助ける会」(現AAR・「難民を助ける会」を結成し難民支援や受け入れを日本社会に働きかけた。1979年、相馬さん67歳の時である。

ベトナム戦争後、インドシナ3国(ベトナム、ラオス、カンボジア)から多くのいわゆる「インドシナ難民」が国外脱出をはかり漂流、遭難事故が相次ぎ世界中の問題になった。

難民受け入れを拒否する日本政府の姿勢が批判を浴び、相馬さんにカナダの友人から「日本は冷たい国」と手紙が来たのに衝撃を受けたのが契機だった。以来、亡くなる一カ月前まで難民支援活動の先頭に立っておられた。

また尾崎行雄記念財団を通じ、民主主義社会での有権者の責任、積極的な政治参加の必要性を説き、平和の大切さを呼びかける活動も続けた。

相馬さんには一記者として30年間お付き合いさせて頂いたが、何をするにしても常々「人生の本舞台は明日にあり」と語っていたのを想い出す。

個人的には、小泉政権(竹中担当大臣)下での新自由主義経済政策は、日本社会の貧富の差を拡大し、日本人を長期的に疲弊させる結果になっていると見ている。

しかし尾崎行雄の娘、相馬雪花さんのように、小泉氏が本当に「人生の本舞台は常に将来にあり」を座右の銘に、一過性に終わらせることなく脱原発活動を進めていくならば、政界を退いた後の社会貢献として新しい生き方を示すことになる。

【DNBオリジナル】

2010年、ブラジルを訪問した小泉元総理とルーラ大統領

by Fabio Rodrigues Pozzebom/ABr

from:http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Luiz_Koizumi_2010.jpg?uselang=ja

 

 

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