談話室に学生たちが集い、思い思いに語らっている時も、ジェームズとシリウスの二人は皆の目を引いていた。むしろ彼らこそ嵐の目だった。僕は彼らが別のものに集中している間に、そっと距離を取ることが多い。逆にピーターは片時も彼らの傍を離れようとはしない。

 

 その時、僕は上手い具合に周りに騒音の少ない椅子を見つけて落ち着き、借りたばかりの本をめくっていた。ジェームズの姿はなく、シリウスはソファーに腰かけ、彼の取り巻きたちと談笑していた。そう。シリウスには彼の気の向いた時だけ周りにはべることを許されたグルーピーがいる。

 早く駆けようとして足をもつれさせたか、どこかに足を取られた少年が、うっかり僕の上に倒れこんでしまった。僕は、本を取り落とした代わりに、倒れこんできた彼の体を受け止めた。気にしていないと言って少し笑った。些細なアクシデントだった。

「悪い悪い!」

 少年が立ち上がって、僕の本を拾った。振り返った少年の後ろにシリウスが立っていた。あれ、シリウスは向こうに……? 突然現れたシリウスとさっきまでソファーに座っていたシリウスを、僕が交互に見比べようとしたところだった。

何故か僕は、シリウスが少年にキスをしたように思った。

襟首から少年の体が浮き上がり、短く鈍い音がした。殴ったのだ。と気づくまでに少しかかった。少年の顔の真ん中、つまりへこんだ鼻から一筋の血が流れて、彼が泡を吹き白目をむいて後ろに倒れるのを、ただぼんやりと眺めていた。

「来いよ」

 ちょっと大きなゴミを投げ捨てた(と言った風な)シリウスは、笑顔で僕を呼んだ。足元で倒れた少年の足が道を塞いでいたのに、それを見もせず綺麗に跨いで元のソファーに座った。いつの間にか手を引かれていた僕は、横たわる足に躓いてよろけた。

「お前がぼーっとしてるのが悪い」

 危うく腕の中に入るところをなんとか避け、踏みとどまった。シリウスは僕の体を支えて、何故か勝ち誇ったような顔をしていた。え、何が起こってる?

「……シリウス、何で」

「ここに座れ。今お前の話をしてた」

 シリウスが目をやるだけで、座っていた誰かが立ち上がり隣接したソファーに空きができた。僕は体ごと振り返ろうとしたけど、シリウスの手が離れなかった。視界の隅に倒れた人間の体が見えた。

「駄目だ。放してくれ。彼を医務室に連れて行って来る」

「ほっとけよ。ただ寝てるだけだ。いいから座れ」

「見ただろう? 泡を吹いてたし、血が出てたんだ。それからもちろん君を減点ッ……」

 シリウスの手が僕の手首に食い込んだ。完璧な笑顔を浮かべて目だけの鋭いシリウスが僕に命を下していた。

「リーマス、座れ」

 談話室中の視線が――

「座れ」

 ――今シリウスに、一点集中している。こういう時、誰も彼に逆らえない。呪文のようにシリウスが繰り返し、僕は観念して空いた場所に腰を下ろした。

「……ここはグリフィンドールの談話室だったね」

「スリザリンが恋しいか? お前本当はあっちに行くはずだったもんな」

「僕が狡猾なら君はどうなるんだ」

「もちろん俺もあっちのはずだった……あー、冗談だよ! お前は狡猾なんかじゃない……素直で可愛くていい奴さ。監督生どのはお堅い話ばっかりでつまらないよな!」

 恐ろしいのは、誰もシリウスを止めないということだ。それどころか、シリウスが後半部分で呼びかけた言葉に対して、なんと今笑いが起こった。シリウスの取り巻きを僕は正確に把握していない。ただその筆頭がピーターであること以外は。彼は目にも見えない速さで拍手をしていた。

 

 

 確かに彼らは僕の話をしていた。如何にくだらないことで監督生に減点されたのかを。パトリシアの話も出た。踏み込んだ僕が「ワーオ!」ではなくて「減点」と言ったこと。取り巻きの口から連発される「頭がおかしい」。

 シリウスの手が離れない。まるで恋人同士のようにシリウスはソファーの肘掛の上で僕と手を繋いでいる。誰かの持ってきた林檎をシリウスが理想的な音をたてて齧った。それから、それを僕に差し出した。僕が少し躊躇った後、一口齧ると、シリウスは嫌な笑い方をした。

取り巻きたちの目がギラギラしている。期待と緊張と興奮と……

僕は何度も倒れた足に目をやった。立ち上がろうとする度に、僕の指へシリウスの指が強く絡んだ。

「どこ行く気だ?」

「……もう、いいだろう。頭を強く打ってるのかもしれないんだ。お願いだから行かせてくれよ」

「呆れるくらい仕事熱心だな! でも優先順位ってのがわかってない。今は俺の面倒をみるのがお前の大事な仕事だろ。あの白髭が今お前を見てるか? ずっといい子ちゃんでいるのは疲れるよなあ、ルーピンくん」

「彼に何かあったら退学になるのは君なんだ。君の面倒をみろというんだったら」

 シリウスの手の中で林檎が砕けた。欠片の一つが恐ろしい勢いで飛んでゆき、倒れた少年の頭か頬かに当たった。そして、微かに「うーん」と呻き声のようなものがした。

「奇跡だ、生きてる! これでひと安心だろ。良かったな」

「……どうしたんだ。おかしいよ。何がそんなに気に食わないんだ」

 シリウスの顔がこちらに寄せられた。唇が耳に触れた、というより柔らかく噛まれていた。

「さあ、何がだろうな。お前の何もかもが気に食わないのかもな……リーマス、キスしてやろうか」

「……落ち着いてくれ。頼むから……」

「特別なんだろ? 男も女も、誰もいらないお前の、俺はたった一人の特別」

 そして、無実の相手を殴って気絶させ放置し、更にはそれを標的にした的当てに成功したヒーローに惜しみない拍手を送るピーターのことを、彼のヒーローはちゃんと評価していた。シリウスは声をかけた。

「ピーター、お前ここに座るか?」

 他の公共物と同じく談話室の椅子は誰のものでもない。でも人が集えばどの場所でも暗黙のルールというものが生まれて、それに従うならこのソファーはシリウスのものだった。彼がいる時はもちろんいない時にも座ろうとする者はいない。

 シリウスは答えを待たずに立ち上がった。ピーターはぽかんとして、信じられない栄誉を与えられたその感動に打ちひしがれていた。

顔を上げると影が落ちていた。見下ろすシリウスと僕の目がはっきりと合った。

「椅子が足りなくなった」

 背中を冷たいものが滑り、肌の表面がざわめいた。そう感じた時には遅かった。身を翻そうとするより早く、もうシリウスの体が僕の上にあった。

「うそ! 嘘だろ! お、いッ、やめろ!」

「誰かタイ貸せ。ああ、いい。ここにあった!」

 束ねた僕の手首にシリウスの左手が、僕の足の間にシリウスの膝が、あっという間に引き抜かれた僕のタイがシリウスの右手の中に、あった。

「シリウス……! 嘘だ、こんなのは、おかしい……!」

「男同士のラブシーンが見たい奴! 来いよ! 見せてやる!」

 僕は……僕は、いつも自分自身に起こる出来事を自分から引き離して見るようにしている。それは悪い癖だ。言い訳に過ぎないかもしれないけど、そうでなければ耐えられないことが多かったからだ。

 いつもならシリウスの行為について僕は考えた。暗黙のルールを増やそうとしたのか、ただ怒りをぶつけたかっただけなのか、何か悪い薬でも試したのか、でも、何も考えられなかった。

「本気なら、本当に、頭がおかしい……だって……!」

「じゃあ、目の前の頭がおかしい奴を減点してみろ。何点だ? 俺は何点だと思う?」

「シリウス……やめよう……やめよう! お願いだ!」

「言ってみろよ……」

 真正面にあるシリウスの目が本気だということがわかったからだ。ハハッと笑いの漏れたシリウスの唇が仰け反る僕に近づいてきて、いつもと変わらず――違う。いつもよりも情熱的に僕の口に噛み付いた。熱い! 火みたいに……! そこで僕は一瞬記憶が飛んだ。何かどっと歓声のようなものがあったような、自分の体が痙攣したような、気がするけど思い出せない。

 

 

 

 

「シリウス、パース!」

 飄々とした声が言い、シリウスが動きを止めた。ああ……ジェームズだ……たった一人シリウスを止められる人間。

 たぶんそれは、シリウスが髪を掴んで僕の顔を上向け、首や肩を舐め初めた時、指の何本かが口の中に入れられた時だった。僕は「これは夢の中だ」と思おうとする自分を必死で引き止めていた。シリウスの指から林檎の味がしていた。

「僕にも回せよ」

 いつの間にか、向かい側の長椅子に足を組んだジェームズがどっかりと腰かけていた。シリウスのように決まった椅子があるわけじゃない。ただ言ってみれば、談話室の全ての椅子が望んだ時ジェームズの椅子だ。長椅子に座っていた取り巻きたちは全員立ち上がっていた。

 僕の上から体を起き上がらせたシリウスに、ジェームズはにっこりと笑いかけた。

「はい、お前目に余る。やりすぎ。ちょっと引っ込んでなさい。で、リーマスはこっち来て僕にもサービスして」

 シリウスが従ったのは、ジェームズがちょいちょいと手招いた手の中に、しっかりと杖が握られていたからだ。しぶしぶというより、威嚇のようなため息を吐いてシリウスは僕から退いた。

 たぶん、もう少し前から見ていたはずのジェームズはここまで止めなかった。当然だ。何故ってジェームズは、シリウスのすることを彼と同じくらいに楽しめる。だから彼とシリウスは影とその本体。ジェームズが止めに来るのは、退学と命に関わる時だけだ。今回は……前者だと思う。

 

 僕はきっと、それはそれは酷い、情けない格好をしていたので、近寄ってきた僕を上から下まで見て、ジェームズが思わず出かけた笑いをかみ殺した。

「キミの神様はキミに酷い苦難をお与えになった。一人で僕らを止めてみろって、そりゃ無理だ。よしよし、怖かっただろ」

「……うん……前例が、ないから困るよ。これって、何点減点したらいいと思う?」

「あっ、意外と余裕あるねえ。リーマス・ルーピンに20点進呈!」

 ジェームズは心底楽しそうに笑い、僕がベルトを締め直している間に、僕のシャツのボタンを元通りに閉めた。

「男同士のラブシーンかー。前衛的っていうか懐かしいっていうか、レトロフューチャー? どう思う? いやー公開レイプってあいつの悪趣味にも磨きがかかってきたよなあ」

「本気だったよ」

「ほら言わんこっちゃない。僕のラブレターを無視したりするからこうなる……シリウスはお前の手に負えるような男じゃないよ。確かにお前たちの苦しみは似てるけど、同情するにしてももっとやり方があった。自分の責任が自分で取れそうかい?」

 シャツを終えたジェームズの手が、僕のタイを絞め直していた。

「破いたのはシリウスなんだ」

「でも中身は読んだんだろ。ま、いいさ。じゃあ、あと三秒したら今度こそ本当に逃げること。集団リンチか集団レイプにでも発展したらもう目も当てられない。ここ談話室だぜ? にしても、まっさかキミが受け入れるなんてなあ。僕本気で驚いたんだけど! もしかして、実は男の方が好き? あ、これ今更の話?」

「……違うよ。シリウスが……彼が独りだから」

「は?」

「相手は人じゃ駄目なんだ」

 ジェームズはううーん、と呻いて僕の額にキスをした。途端に向かい側のシリウスが立ち上がった。

「あらまあ……お前たちって、クレイジーだよなあ」

 彼のクレイジーは時々褒め言葉だ。さーん、にー、いち! と数えてジェームズが僕の背を押し、僕の体はシリウスの所へ返された。

「はい、返却」

 図書館の本のように言ったジェームズは、もう僕らに興味をなくしたらしく椅子から立ち上がってどこへともなく去った。シリウスは明らかに怪訝な顔をしてジェームズを目で追い、それでも帰ってきた僕の両腕をがっちりと掴んで放さなかった。

「……何か言われたな? ちゃんと俺の相手をしてやれって?」

「もっと静かなところへ行こう……」

「ハ? そう言えって!? あいつ、ふざけやがって! そもそも、そんな手が通じるなんてお前本気で思ってないよな」

「思ってないよ。ジェームズには君から逃げろって言われたんだ。行こう、シリウス……騒がしいところは好きじゃない。僕に優しくしてくれるんだろ……?」

 ジェームズのくれたインターバルと、僕の先制パンチは有効だったみたいだ。シリウスは黙った。そして一瞬だけ、それでも確かに僕から目を反らした。次の瞬間には強く突き飛ばされていた。顔を上げるともうシリウスはいなかった。

 

 

 

 

 

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