箒で飛んだことがある。リーマスと二人でだ。実践にこだわる俺とジェームズは、荷物を抱えてどっちが早く飛べるかレースをした。箒はジェームズの奴が爪の先くらいの差で俺より早い。だから、奴の荷物が『本当のお荷物ピーター』、俺の方が残ったリーマス。

 俺は勝ったと思った。でもハプニングが起きて、俺とリーマスは落ちた。何故だか俺の方の箒が折れやがったからだ。おい、理屈に合わないぞ! と思いながら、森に落ちたついでに俺は足を折り、上手い具合に雨まで降ってきた。リーマスに引きずられながら、本当のお荷物は俺に決定。洞窟に逃げ込んで、小さな火を焚いている間に、熱が出た。

何もかもぐにゃぐにゃだ。朦朧として、意識があったりなかったりを繰り返して、いつの間にか俺は眠っていた。体はまるでグラグラ煮える鍋の中。頭の中では、皿をフォークで引っかいたような声のババアどもが現れて叫んだ。

シリウス、シリウス、シリウスこの化け物! 間違った血はどこで混ざったの!? どうしてこんな化け物に育ってしまったの!? お前の所為、いやあなたの所為だわ! 違うこの子は狂った血よりも狂った子供よ! ブラック家の面汚し! お前が皆を不幸にする、お前の言うことは何もかもが間違っている、悪いことは何もかもお前が起こした、何もかも、必ず、お前が悪い!

俺は叫び返してやった!

「俺じゃない! お前らだ! 自分の顔を鏡で見てみろよこの豚ども! 俺を生んだお前らが先に俺を傷つけた! お前たちが! いつも俺を! 傷つけて傷つけて傷つけるだけで、逃げやがった! いつか殺してやる! 生きたまま首を切り落としてやる! お前たちの中にたった一人も、俺に心から言葉をかけてくれた奴はいなかった。誰も、誰一人たりとも、俺を愛さなかった!」

 

 悪魔を呼んだことがある。ナイフで手の甲をえぐって星を描いて、空に翳して呼んだ。にしても、あれはやりすぎだった。骨が見えていた。赤黒く腫れて腐ったパンみたいになった手を夜空にブンブン振り回した。血が顔に飛び散った。ブラック家お気に入りの、イカれたデザインの白シャツが夜の中で黒く染まった。いいぞ。俺はこれがいい。俺にはこっちが似合う。

夜空に血が飛び散った。俺の上に俺の血の雨。おーい! ここだ。迎えにきてくれ。悪魔たち。化け物たち。俺の仲間たち。頼むから来てくれ。もう、ここにいたくない! 俺はここだ! 印がここにあるぞ――!

 

 目を開けると、俺の手をリーマスが握っていた。洞窟の中で炎が揺らめいてた。汗だくの俺は呟いた。

「……俺が悪いのか? 俺が化け物か?」

 リーマスが言った。

「シリウス、君は人間。美しい人間だよ。ねえ、だって君は……本物を見たことあるだろ……満月の晩に」

 冷たい手が、俺の額に乗った。俺は長い息を吐いた。リーマスは言った。

「君は人間だよ」

 

 

 

廊下に、踏みつけられた紙切れが山ほど落ちている。最近流行りとやらの紙飛行機のラブレター、そのなれの果てだ。弱い魔法で、目的の相手に辿り着く前に誰にでも捕まえることができるシロモノ。こうして! 俺も顔の横を通りかかった奴を掴んで握りつぶして、投げ捨てた。丸まって廊下に落ちた飛行機は、それでもヨレヨレと動いて壁に当たり、そこで止まった。

誰がやってるのか知らないが(まあ下級生どもだろうが)、時代に逆行だな。それとも目的は公開告白か? 中を見た奴の口から、口コミで伝わって、ついには意中の相手に? 何年計画だ、能無しども!

 梟と違って何の抵抗もせずに破られた、あるいは壁に貼り付けになった紙たちを、拾って剥がして集めているのはリーマスだった。監督生の仕事だかなんだか知らないが。正気じゃない。

また窓から飛行機が一通、しゃがんだリーマスの上に迷い込んだ。気づいたあいつが手を差し伸べると、飛行機はふわっと開いた。そう――目的の相手の前ではああなる。文字に目を走らせて、リーマスが困惑の表情を浮かべた。俺はすかさず近づいて行って、紙のきれっぱしを取り上げた。

まっぷたつに裂いた。縦、次に横、また縦、横、縦! ビリビリにして頭の上から降らせてやった。リーマスが顔を上げた。

「何て書いてあった?」

俺の顔を見て、リーマスははっとした。眉を寄せて、それからローブを叩いて、紙ふぶきの中から立ち上がった。手の中から幾つかの曲がった飛行機が落ちた。

「……シリウス……手伝ってくれるのかい? せめて君が破った分くらいは」

「お前に告白する女なんて、あそこにカビが生えてるような女だろうけどな。ほら、髪についてる分くらいは取ってやる」

何枚かの汚れたしわくちゃの紙を、リーマスの手が捲った。

「これ君宛だ。これも……あとこれも。自分の名前がある分も拾ってくれると嬉しいんだけどね」

「一生拾い続けろって? 一人でやってろよ。バーカ」

「ああ、これも君のだ……読んであげようか。美しい文だよ。きっと綺麗な子だ……あれ、君……目が」

手を止め、疲れたリーマスの目が俺を見上げた。

「……また、誰かと殴りあった? 腫れてる……」

指を伸ばし、俺の瞼の上に人差し指と中指が触れた。俺はその手を掴んだ。

「触るな。読めよ」

「冷やした方がいい」

「それを読め」

「……いいよ。『私にはあなたの苦しみが分かったの。愛しい人よ。だからあなたの気持ちに全てをゆるすわ。どうか私を彼女にしてね。思慮分別は遠く去り 悲しみなんてとうに過ぎた。私は強く憧れる。2人の幸せな時間を。あなたが欲しい』。……どう?」

 紙の上からリーマスが目を上げる。俺は鼻で笑ってやった。

「へーえ。それを俺が気に入る! 続きを歌ってやろうか。『Je n'ai pas de regrets.Et je n'ai Qu'une envie.Pres de toi touut pres Vivre toute ma vie.Que mon coeur soit le tien Et ta lever la mienne Que ton corps soit le mien Et que toute ma chair soit tienne. J'ai compris ta detresse, etc』。マグルの歌なら俺が知らないと思ってるんだからな!」

「わかって書いてあるんだよ」

「添削して返してやる。俺とやりたいなら、もっと魅惑的な誘い文句を書け。まず『ファックミー』、あー読むのが面倒だ。女子寮の地図に赤印をつけて、『便所はここ』! お前、何て書く? 俺と寝たいなら」

 俺は、リーマスの痩せぎすの体を舐めるように上から下へ見た。上下する目から、リーマスは逃れようとした。居心地悪そうに体をよじった。

「今どこか怪我してたな? どこに」

「どこって、背中のあたり……だったかな」

 俺が体を寄せるとリーマスは窓際に逃げた。左手を窓枠に置いて塞ぐ。もう片方で右からリーマスの肩を強く掴んだ。リーマスが体を窓の外に半分出すくらいに身を引いた。落ちるんじゃないかこいつ。

「左? 違うな。右側か? 飛びたきゃ飛べよ。でも下は地面だ。地面は硬い。お前の頭よりも、っておい、本当に落ちる気か?」

「……シリウス。この前のことを僕は、あまりいい思い出だと思えない。もう僕に構わないでくれ……ッ! シリウス!」

「右だな、リーマス」

 左肩から背中へ。回した手が右肩に近づいた時、リーマスが声を詰まらせた。腕を回して右肩を抱いた。力を込めるとリーマスの息が跳ね、顔が強張った。

「何か、君の気に食わないことを……?」

「誤解するなよ。お前のためだ」

顔を近づけて、リーマスの耳元に囁く。

「……よく見たら、ローブに血が滲んでる。隠しててやるから、来いよ」

肩を抱いたまま歩き出すと、リーマスは素直についてきた。信じたからだ。

 

 

石像の美女は俺の顔を見ると、片目を瞑って胡桃でも砕けそうなウィンクをした。冷たくて硬い唇にキスしてやると跳ね、ズシーンと音を立てて離れた場所に着地。隠された部屋の扉が現れる。自分好みの男にしか使わせないこの石女の部屋だ。重い石の扉が開いて、湿った空気が中から溢れた。

肩を抱いたまま進もうとしたが、今度はリーマスが動かない。

「お前の足も石か? 入れよ。誰も来ない。誰も知らない」

「……シリウス、僕は医務室に行きたい」

「包帯を巻くだけで? いつも行きたがらないのは誰だ。お前だろうが」

「そう……そうだね。でも」

 リーマスが顔を上げてじっと俺を見つめた。俺はリーマスの視線を受け止めた。見返して、目を細めて笑ってやった。

「怖いか? 俺が……いいぜ、逃げろよ。ほら! 逃げろよ!」

俺が肩から手を離しても、リーマスは表情を変えずに、いつもの落ち窪んで疲れた目で俺を見つめ続けた。それから一度目を瞑り、俯き、ふっと息を吐いて、足を前に出した。俺はリーマスの背を押して中に入った。

後ろで石の扉がゴゴゴと、また音をたてて閉まっていくのを、リーマスが目だけ動かして見ていた。こいつ、逃げればいいのに。おい、逃げたきゃ逃げろ。今しかないぞ。ああ、でも、もうあと数センチで閉まる。無理か。幾らこいつが細くても数センチじゃな!

「お前、本ッ当に馬鹿な奴だな!」

 俺は笑い出していた。腹からクックッと笑いがこみ上げて止まらない。扉が閉じた瞬間、リーマスの体を扉に押し付けた。顔を近づけて、そこで、俺の顎に何か当たった。

 俺はにっこりと笑いかけた。

「何だ?」

 杖を俺の顎に突きつけたまま、リーマスは俺を睨みつけていた。迫力なんて欠片もないが。

「僕が言いたいよ……包帯を巻くために来たんだ」

「だったらなんだ。腕に巻いてやろうか? 両腕一緒に」

「君を信じてここに入った。でも君は、こんなにも簡単に僕を裏切ろうとしてる。信じられない」

 俺は両手をあげた。そのお手上げポーズのまま、リーマスから一歩分体を離した。

「裏切る! とんでもない。ただの冗談だろ。お前があんまり簡単についてきたから、ちょっと脅かしてやりたくなっただけだ。俺がお前を襲う物好きだってのか? そっちこそ冗談もほどほどにしろ! うぬぼれ屋の優等生。杖を下ろせ」

「…………」

「お前の趣味は、お前を心配して秘密の場所にまで連れてきてやった親友に対して杖を向けて脅すことか。わーお! 面白いな! 見直したぜ、リーマス」

「シリウス、本当だね」

「杖を下ろせよ……包帯を巻くんだろ?」

 顎で杖の先をツンと押すと、少し間を置いて、杖を持ったリーマスの手がだらんと下に垂れた。

「……そうだよ。だから、君も誤解を招くことばっかりしないでくれよ」

 

 

 ローブを脱ぐと、本当にリーマスの背中には血が滲んでいた。白いシャツに新しい血。相変わらずこの痩せっぽっちは我慢や忍耐を着て歩いているらしい。こいつの本当の趣味はコレだ。

「痛むか?」

「あんまり」

「おい、くそったれの秘密主義者。見えない所に傷があって血が出てても、それを誰にも気づかせない。そういう自分がカッコいいとでも思ってるんだろうな?」

リーマスが少し笑った。ボタンを外す手を見たこともないくらいにノロノロさせた後、シャツを脱ぎ、背中を俺に向けた。骨の浮き出た背中だった。皮膚が薄くて白くて傷だらけの。治って白く筋になった痕、瘡蓋、まだ血が乾いたばかりのもの。右肩の、肩甲骨の下にある長い傷から血が出ていた。今回の主役だ。

リーマスは脱いだシャツ――血のついたそれを自分の目で見て、ふっと息を漏らした。脇に置いてあったローブのポケットを探って、中から丸めた包帯を一つ取り出し、半分振り返って俺に渡す。

「まだ、血が出てるかな。沢山? 巻ける?」

「ダラダラってことはない。あのお忙しい白衣の天使は、お前の傷一つまともに治せないわけだ。何か当てるものをよこせよ」

「違うんだ。何度も同じ場所を引っかくから……上手く治らないんだよ。当てるもの、あったかな……ああ、ないなあ。そのまま巻いてもいいよ。そう。何度か巻けば、たぶん血は止ま……る……」

リーマスの身がビクッと揺れた。俺の指が幾つかの傷痕に触れて、なぞったからだ。振り返ろうとしたリーマスの頭を押し返す。

「前を向いてろ。どうしてここまで傷つけたいんだろうな。自分のものだってことか? マーキングにしたってやりすぎだ。俺の方が、あいつよりずっと優しい。俺はお前をここまで傷つけない。そう思うだろ?」

「……それは、誰の話」

「満月の晩の話。いつもお前をこんな風にする奴、お前の影から現れるあの毛むくじゃらの、大きな奴」

「僕の影から……ああ、その話。話したのいつだっただろう。君まだ覚えてたのか。あの夢……」

「今でも見るか?」

「……時々見るよ。でももう慣れた。いいんだ。早く巻いて、帰ろう」

右腕を上げさせて包帯を巻きながら、時々リーマスの短い髪、耳元や首筋、うなじを撫でると、リーマスは息をのんだ。足元のローブの端を握り締めた拳が丸くなり震え始めた。

俺は前のめりになり、リーマスに寄り添った。唇を耳の裏に当ててやったら、リーマスの鼓動が早まった。心臓がドクドクいってるのが、聞こえる。

「俺も見てる。あの夢。あれが俺だったらどうだ? お前だってその方が苦しくない。俺はもっと、ずっと優しくしてやるよ、お前に。リーマス」

「シリウス、夢の話だよ」

「でもな、夢に追いつけないんだ。いつもあいつが先に来てお前を取っちまう。そりゃそうだ。お前のすぐ下にいるんだからな。でも気づいてみたら、簡単だった。俺も思ったより馬鹿だ。夢になる前にすればいい。夜が来る前に」

「もうやめよう。包帯を巻くだけだって言ったじゃないか」

「あいつがお前をやるのが許せない。俺がしてやるよ。お前が苦しくないように……巻き終わったぜ……こっち向けよ」

 縛った包帯の端を下の層に折り込みながら、俺はリーマスを抱きすくめて、丸くなった手に俺の手を重ねた。首元や頬に、チュッと音を立ててキスをすると、リーマスは短く声を漏らして、次に激しく首を振った。

「……僕たちは友達だ。僕は、僕が思っていることが当たってるなら、できない。したくない」

「お前が思ってること? 何だ? 言ってみろよ」

「やめよう、シリウス。冗談にしたって、ほどがある」

「言えよ。言うまで続ける」

 リーマスの首と腹に手を絡めて、背中に見える傷を唇でなぞり、舐めあげた。途端にリーマスが物凄い力で体を反転させ、俺の体を突き飛ばした。

「やめろ! 傷や血に触らないでくれ!」

 足元のローブを拾い上げて素早く体に纏いながら、リーマスは俺から逃げた。俺はのろのろと立ちあがり、血のついたリーマスのシャツを手に持ってブラブラと振った。

「包帯のついでに、これを腕に巻いてやる。俺に、そう言わせたいか? こっちに来いよ。どっちみち、お前は出口を知らない」

「待ってくれ……今、舐めたんじゃないか? 君は、僕が何か知っていて」

 リーマスが青ざめ、この手のことを言い出すのも予想していた。俺はハーッと怒りのこもった息を吐いた。

「時間稼ぎは俺を苛立たせるだけだ! わからないか? お前の体が狼の時にだけ、感染物質、つまり毒が出る。蛇みたいに、噛み付いた牙の裏の腺からって仕組みだ。腺に毒が貯まるのは満月の晩だけ。だから、お前の姿が人間の時は、噛み付いても意味はないし、血も問題ない。普段でも問題があるのは呪ってやろうと思って噛んだ時だけだ。物質的感染と呪いによる感染の二種。試験の前に暗唱させて満足だな。俺は知ってる」

「それが、永遠に正しい説かは、まだわからない。もし、歯に触れてうっかり皮膚が切れただけでも、呪いがあったら」

「誤魔化すな。治癒の研究はイマイチだが、感染の研究はよーくされてる。俺たち魔法使いってのは、どいつもこいつも相当のエゴイストだ! 感染した奴を治すことより先に、どうしたら自分たちには染らないかってことの方に手を打った。その結果がこうだ。オーケー、リーマス? 染らない! それでも心配ならこれを口に突っ込んでやる。それだけか? なら。もう、黙って、こっちに来い」

「……どうして話もさせてくれないんだ」

「お前が言葉を使って俺を煙に巻く奴だからだ。今やろうとしたな。でも、もうその手は効かない」

 俺はうんうんと頷きながらリーマスに近づいていった。リーマスは後ろに逃げて、すぐに壁に背中が当たった。部屋は狭くて薄暗い。逃げ場なんかはほとんどない。そんなのは入った時からわかってたことだ。

「次は何だ。俺と力で勝負するか。でなきゃ魔法でか? さっさとやれよ。俺が来いと言ったら来るんだ。俺の言う通りに。それしか道がないってことを教えてやるよ」

「シリウス……」

「先にやってやる! 手縛りと足縛り、どっちか選べ!」

 俺とリーマスの杖が構えられたのは同時だった。リーマスは叫んだ。

「武器よ去れ!」

 俺は何も唱えなかった。ただ見ていた。叫んだリーマスの手が何に弾かれたように、跳ね、リーマスが呻いて手から杖を取り落とすのを。転がってきた杖を俺は拾い上げて、元から持っていた分と、両手に一本ずつの杖を掲げて見せた。

「これがお前の、今のが俺のだ」

 俺はそのまま近づいて、右腕を押さえてうずくまったリーマスをドンと突いて、押し倒し、体に乗り上げた。

「さっき杖を入れ替えといた。俺は誰の杖でも使える。でも、俺の杖は俺以外の誰にも使えない。俺は知ってる」

 

 

 

 それからしばらくの間、俺たちは何も言わずに揉み合った。リーマスが俺の胸を叩き、髪を引っ張り、腹を蹴ろうとした。利き腕が痺れて使えない。だから左手一本で。で、俺は半分笑いながら、3歳のガキにするみたいにあしらっていた。手足を掴んでどけて、上半身の上に引っ掛けられていたローブを脱がせた。驚いた。こいつがひ弱すぎて魔法なんて必要ない。

 動かないリーマスの右手を取って、手のひらや、指や、手首の裏に唇を当てた。左手が俺の顔を押しどけようとやってくると、俺は虫みたいにそれを叩き落とした。息を弾ませて俺を見上げてきたリーマスの、真っ赤になった顔を見て俺は吹き出した。

「勘違いをしてた。魔法はかけないでやるよ。足縛りくらいは必要だと思ってたが、このままで十分だ」

「……僕をどうしたら満足なんだ」

「お前が思ってるように、俺がしたいように。この前の続きだ。そういえばお前、どうして逃げた? あの女は好みじゃなかったか」

 俺が顔を近づけると、リーマスは顎を引いた。両手で顔を押さえてやったら、「待ってくれ」と言いかけた。目が怯えていた。構わずに口を押し付けて、上唇を、次に下を。唇でリーマスの唇を食んでやると、リーマスは硬直した。全く喋れなくなった。上下を舐めて、舌を入れるはずが、歯ががっちり閉まっている。

「開けろよ」

 もちろん開かなかった。おかしくなってきて俺はクックッと笑いながら、目までぎゅっと瞑ったリーマスの首や耳を舐めた。舐めた場所が追うようにして赤くなる。腕の中の体が強く身じろぎ跳ね、左手がドンドンと俺の胸を叩いた。鎖骨のあたりを強く吸い上げて噛んだ瞬間、リーマスが叫んだ。

「シリウス……! やめ」

 開けられた口に俺は吸い付いて、中に舌を入れ、口内をかき回した。リーマスの舌は薄かった。絡めようとしたらすぐ奥に逃げた。俺は楽しくなり、追い回して捕まえて、味わうことに全精力をかけた。どかそうとする手が必死で俺の顔を押した。が、その手を床に押し付けてしまえばそれっきりだ。歯は閉じられない。理由は『歯に触れてうっかり皮膚が〜』。

 どんどん呻き声が酷くなって、床に擦れるリーマスの髪がジャリジャリ音を立てた。俺が体重をかけて乗ると、敷かれたローブ越し、それでも背中が石の床に当たっているらしく、リーマスが息を詰まらせ、身を強張らせた。

 舌が痺れるくらいに弄んでから解放した時には、リーマスは肩で息をしていた。口を離すと唾液が糸を引いて、途端にリーマスがむせたように咳をした。

「もう抵抗するなよ。次の満月までお前はどう転んでもただの人間だ。杖もなければ、何の、力もない」

 息のあがったリーマスが、呻くように言った。

「……人間は君だ」

精一杯の皮肉だってことはわかっていた。確かに俺に染すことを考えなければ、こいつは歯を立てることも爪を立てることもできる。俺の成すがままになってる理由もない。

見下ろしたリーマスは、ぐったりとしていた。目が潤んで、ぼんやりしている。髪が乱れて、体中に傷がある。結局包帯はよれて、ほどけていた。薄暗い部屋の中で、リーマスの上に乗っているのは俺だ。これでいいはずだ。夢なら。いや夢ならこんなのは序の口だ。

ただ現実は、違った。あの時リーマスはとても静かな目をしていて、冷たい手を俺の額に当てた。少し微笑んで、「君は人間だよ」と言った。そう言われて、俺はほっとした。とても、とてもほっとした。じゃあどうして今俺は……

 突然、物凄い吐き気がやってきた。やかましい俺の血族。人間たち。その女たちの叫び声、俺の下で嬌声を上げていた若い女たちの声、俺が傷つけたと言って泣き喚いて俺を叩いた女の声が聞こえる。煮える鍋みたいにグツグツいって、うだってる世界。口の中から腐った肉の味がする。ジェームズのサンドイッチか? あんなことするんじゃなかった。あいつがあんなものを食べてたから……!

 俺はよろめき、両手を前に突き出して、それでも体が支えられなかった。リーマスの横に倒れこんで、咳き込んだ。リーマスが起き上がり、俺の肩に触れて「シリウス、大丈夫かい、シリウス?」と何度か言った。そしてリーマスはふらふらしながら立ち上がった。ああ……! 逃げちまった!

 

 俺が薄暗い部屋を見渡すと、少ししてリーマスらしい人影がこっちに戻ってきた。何で戻ってきた? と思ったら、左手に何か、握られている。長い、瓶……瓶だ。何かの。つまり、物理的に俺を眠らせようってことだ。

 俺は、上半身だけを起こした。立ち上がれなかった。ぐらぐらしている。顔を上げて、薄ら笑いを浮かべて「殴れよ」と呟いた。リーマスが、俺の前に座った。瓶を俺の前に置いて。

「これ……ラベルが剥いであるけどビールか何かだろう。飲んだら少しはよくなるかもしれない。どこかに水が置いてあるなら取ってくるよ……場所がわかるかい。これは君の杖だ。明かりをつけた方がいい」

上手く立たずに転がった瓶を、リーマスの左手がもたもたと起こした。それから、同じ手で転がっていた俺の杖を拾って、俺の手の傍に置いた。俺は杖を握った。振りかぶり、リーマスの後ろの壁に叩き付けた。バシッと杖が当たってどこかに飛んだ。

リーマス! こいつは頭がおかしい! どう考えても!

よろけた俺の体をリーマスが支えた。でも右手が震えて支えきれなかった。俺の体を乗せたままリーマスは後ろに倒れこみ、背中を打ちそうになった。それを、俺が床に手を差し出して支えた。

「…………お前は、狂ってる、のか! ……自分が、何を」

「シリウス、今は、動かない方がいいよ」

「生ぬるいこと、言うな。反吐が、出る! 逃げろよ! 俺から逃げろ! 今なら俺に勝てるとでも思ってるのか!? こんなのは、すぐ治まる。そうしたらお前をめちゃくちゃにしてやる!」

「逃げないよ。友達だろ」

まだぐらぐらしている。俺は何か言うのも嫌になり、リーマスの肩に頭だけを乗せて、目を閉じた。リーマスは俺の眩暈が治まるまで待とうとしてる。それがわかった。ほとんど治まっても、こいつがあんまり馬鹿な奴で、俺は驚きすぎて、動けなかった。その間、リーマスが静かにこう言っていた。

「自分が何をしてるのかわかってないのは……きっと君だよ。気分が悪いんだろ。本当はしたくないってことだ。どうして君は、こんな風にしなきゃいけないと思ってるのかな。君は自分が化け物だと思いこんでる。でもそうじゃない。本物になりたいのか。僕に憎ませて、本物に……そうでなければ、本物を、僕を征服したい。理由がどうでも、何もわからないでこんなことをしたって空しいままだ。力でも、魔法でも敵わないことはわかってるよ……そんなことは最初から」

 

 

俺の目の上に冷たい指が触れた。目を開けて、リーマスと目が合った。リーマスは「腫れてる」と呟いた。やっぱりこいつはどうかしてる。その手を掴んで唇を当てた。

「……俺だって、お前が自分でシャツを脱ぐまで待ってやった。怪我した場所を悪化させるのは嫌だから、包帯を巻いてやったんだ。もういい。後は俺の好きにさせろよ。あの時、足が折れてなきゃ……あの時にしてた。そうだ。覚えてるか、リーマス、考えてみたら、俺は結構待った。俺は、俺は」

「わかってるよ、シリウス……僕を庇って落ちたから、君は上手く着地できなかった。だから足を折った。ちゃんと覚えてるよ」

まだ何か言おうとしていたリーマスの、半分空いた口を俺の口で塞いだ。

確かに俺は喉が渇いていた。冷たい水が、この喉の奥にあるような気がした。俺の舌はもっと伸びないか、もっと奥に入りたい。俺がめり込むくらいに口を押し付けて、ぐいぐい舌を伸ばしている間、リーマスは体中を震わせながら呻いていた。また歯のことを考えてる。俺はリーマスの髪を撫でて、口を離す度に「大丈夫だ」と言った。

「待って……僕だって、君から逃げたくない。君は一度逃げた相手を絶対に許さないだろう。憎んで、憎んで、その憎しみと同じ強さで、君は自分を傷つける。でも、もっと別の……」

「お前が触った時から、俺の夢が変わった。うるさい奴らの声が消えて、お前が食われる夢ばかりだ。お前の声もやかましいが、前よりもずっとマシになった。だから、助けてやるよ。俺が、助けてやる」

「……どうしても……どうしても、この方法じゃなきゃ駄目なのかい」

 どうしてだ? リーマスの目が優しい。朝の海みたいに静かだ。ずっと見ていたいような気持ちになった。でも、それは俺がしたいことじゃない。

 俺はリーマスを抱きしめて、髪に顔を埋めた。唇にふわふわした毛が当たってる。気持ちがいい。そうだ。こんな風にしたかった。いつも病気の話をするたび、こいつがこう言ってるみたいで腹が立った。「先約がいるから君の相手はできない」。馬鹿らしい。なんで夢の化け物なんかに永遠に独占されなきゃならない? 俺はこいつに触りたい。俺だけのものにしたい。

「お前に優しくするのも、傷つけるのも全部俺がしてやるよ。全部俺が」

「……シリウス……僕は友達でいたい。別の方法を考えられないか……今なら、まだ間に合う」

 俺は首を横に振った。

「俺はそんなものじゃ足りない」

「……友達でいたいんだ」

 リーマス。俺が首に歯を立てたら、押し殺した悲鳴を上げた。俺は皮膚に食い込んだ歯をゆっくり抜いて、滲んだ血を舐めてやった。赤くなった耳に優しく囁いた。

「俺の夢を見ろよリーマス。俺の夢を」

 

 

 

 顔の上に本を乗せた昼寝スタイルで、ジェームズはまだ木陰に寝転んでいた。もう空も暗い。でもスキップしながら近づいてやろうかって気分だった。ジェームズの姿を見つけるなり、俺はハハハ! と腹から声を上げて笑った。そうしようと思ったんじゃないが、勝手にそうなった。俺の体からリーマスの匂いがしてる。

「おいおい、流石に待ちくたびれたんだけど。しっかし……上機嫌だね、ハンサム!」

「最高の気分だ! 一口なんてちゃちいこと言わずに、俺は全部食ってやった! 笑えるだろ!」

 そう。腹一杯食った気分だ。目の前にあるご馳走を手当たり次第に、馬鹿みたいに食ってるのに、喉を通る端から消えちまってるような。いつでも、飢えて乾いて、満たされなかった感覚が消えた。いいことだらけだ。酒も煙草も薬も女も必要ない。

「本当は連れて来ようとした! でも、一人にしてくれって泣くから置いてきてやったんだ。でも見ろよ。あいつのローブだ。で、俺のを今あいつが着てる」

「……ウッソだろ……!」

ジェームズはくらっと眩暈を起こす演技をした。で、天を仰いだ。それから、芝生にもう一度倒れこんで、ゴロゴロ左右に転がった。だだをこねるガキみたいに。

「あああー! うわああ! マジかよ! えー!? ちょっとちょっとちょっと!」

 奇声を上げるジェームズの横に俺はドサッと腰を下ろして、奴の横腹を靴の先で蹴ってやった。

「おい、なんだ? 不満かよ相棒!」

「いやいや……不満じゃないさ。不満じゃない。だって、お前のやることなんか手に取るみたいにわかるんだよ。しけこむ場所も出口も知ってる。全部書いた。なのに、まさかの展開! 逃げない理由どこにあった? リーマスの奴、あいつも馬鹿だよ! 自分を評価しすぎだよ。こいつを手に負えるとでも思ってんのかよ? 月に2匹も化け物を引き受けられる自信があるって? 今にシッターが必要だって気づく! まったく世の中狂ってる。それとも僕の周りが狂人だらけなのかなあ? もっかい言うけど、嘘だろ! ていうか……マジで!?」

 俺はジェームズの顔に乗っていた本、今は芝生の上に転がってる本を手に取った。開くと最後の余白のページが破れていた。手触りが同じだ。リーマスに届いた窓の外からの飛行機。リーマスが中を見た、俺が破いた紙のきれっぱしと。

「お前のラブレターなんかお断りだとさ!」

 俺は仰け反って腹の底から笑った。笑いすぎて涙が出そうだ。まだ転がり続けている、息も絶え絶えのジェームズが叫んだ。

「夢なら覚めろ!」

 

 

 

 それからしばらくしてあの夢を見たら、夢の中の俺は毛むくじゃらの化け物を出し抜いて、ちゃんと奴の代わりにリーマスの上に乗っていた。俺はリーマスを好きなだけ抱きしめ、舐め、噛み付いて、犯した。リーマスは泣き叫び、悲鳴を上げて俺から逃げようとして、逃げられなかった。でも最後には俺に笑いかけ、目を閉じて冷たい手を俺の背中に回した。これでオールオーケー、だろ?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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