それにしてもジェームズの笑い声は尋常ではありませんでした。

 脚本を数行読んだ時点で、ジェームズは、呪いか茸か、はたまた危険な妙薬の結果なのかと皆が恐れを抱く程度には笑い出していました。最近の日刊預言者新聞で、便器が爆発し用を足していた体が左右に分かれた状態で見つかった魔法使いの記事を見つけた時よりも激しい笑い声でした。

「ちょ、ちょっと! ここ見ろよ! 『可愛いシリウス、どうか落ち着いて』! すごいなこれ。もう他に思いつかないってくらいの台詞だ! おいシリウス、君ここを読めよ」

「何だよ、ああ、ここか。『俺は怒って当然なんだ! 君が、俺を一番に扱わないから!』」

「リーマス、君も読むんだ。ここから、『可愛いシリウス、どうか落ち着いて』から。歯がとけるくらい甘ったるく!」

 言葉の途中でジェームズの声はもう笑い出していました。隣のシリウスも巻き込まれるようにして吹き出し、二人は酒に酔ったような馬鹿笑いを続けていました。

 リーマスは曖昧な笑みだけを返して、手元の本に意識を集中させました。

 彼らと付き合うようになってから、リーマスの集中力は格段に増しました。また彼は、皆に恐れられている教師、沢山の女生徒、時には柄の悪い男子生徒の注目の真っ只中にあっても、手元の紙束の海に精神だけを飛び込ませることができるという特技も手に入れました。ジェームズやシリウスの注目から逃れるよりも、ずっと楽だったからです。

 ジェームズは手に持った分厚く長い羊皮紙、つまり先ほどまで読みふけっていた(というより嘲っていた)脚本をパンパンと叩きながら言いました。

「つまり、この話の教訓は何だと思う?」

 シリウスが答えました。

「『学生結婚にはマンドレイクが飛んでくる』」

「『女を喰いすぎると』が前提だろ。『安い家は壊れる』」

「近所の森で狼と豚が闘争中ならな。『脱走者は仮装でキスする羽目になる』」

「それ本当にやらせればいいのに。『プロポーズははっきりと大きな声で』」

「ごもっとも。あとは……『変な神父には気をつけろ』」

「どこの神父だか紹介して欲しいよな」

 顔を近づけて悪ぶった笑いを見せ合う二人は、「薬は君が試せよ?」と言って更に肩を上下させました。

 薬の件から、シリウスの視線が、上から下へ自分の体をチロチロと舐めていることにリーマスは気づいていました。気づかない振りをしていると、シリウスはリーマスの方へにじり寄ってきました。

「……僕らには必要ないよな? 月に何度かは死にそうな顔を見てる。そのうち一回は、本当に死んでるんじゃないかって思うくらいだ。なあ、心配してるんだぜリーマス」

 光のない目で何行かの文を追いながらリーマスは答えました。

「ありがとう。来月あたりは本当に死ぬことにするよ」

 クックッと笑ったのはジェームズでした。

 ピーターは自分が持ってきた脚本があまりにもジェームズたちに持て囃されていたために、何かお褒めの言葉が貰えるのではないかと期待しながら待っていました。彼の目の光が何よりも(たぶん彼が何かを口走るよりもずっと)雄弁にそれを物語っていました。ただ、真正面に座っているシリウスとジェームズは、何故かその光が見えないようでした。

 

**

 

「この暗いご時世に必要なのは喜劇だ!」と言い出したのは確かにジェームズでした。

「誰か! 知性のないことにかけては我こそがホグワーツ一! と自慢できる奴はいないか? 腹の底から笑える、馬鹿馬鹿しくて騒々しくて奇想天外な話を書けるやつはいないのか? もしそんな話があるなら、僕らがこの身をもって演じてやろうじゃないか」

 それは大広間の祭壇の上で行われた演説ではなく、こっそり持ち込まれたバタービールを片手に談話室の一席で吐き出された戯言でした。そして数日の後、ピーターがことづけられたという脚本を持って現れた時には、ジェームズは自分の言ったことを忘れていました。

 まんざらでもない様子のシリウスは、ジェームズがその喜劇の束で起こした風を浴びながら言いました。

「それにしても、これを書いた女は結局僕たちに何をさせたいんだろうな」

「王子様の格好と、キスだろ?」

「馬鹿言うな。……なあ、彼女が僕らの中の誰と寝たいのか気にならないか?」

「ハハッ! そりゃあ君さシリウス。自覚があるから言ってるんだろう? まあ、このシリウス=ブラックは実に紳士的だよ。リーマスの我儘にもとろけた頭にも切れずに付き合ってやってる。なんたって、『ダー……、ダージリン?』だ。普通こんなこと言い出したら、その場でシャツのボタンを飛ばしているだろう君が」

「心外の極みだな、ジェームズ! 僕がそんな乱暴をするか? 事実、今だってこうして……ただ見てるだけで満足してる。見ろ。シャツどころか指一本触れてないぞ。確かに、脳みその中でもそうかと言われれば、それは保障しないが。まあ待てよ。結論を急ぎすぎるな。君かもしれない! 結局一番美味しい所を持って行くのは、思春期のマンドレイクから危ない薬までお手の物の、神父役だ」

 ジェームズは脚本をシリウスに押し付け、両手を頭の後ろに組んでごろんと芝生の上に寝転がりました。

「それで? 僕が相談もなく逃避行を決めた君たちのために、学校主催の結婚式と復学のお手伝いかい? しかも無償で。ショックだなあ。これまでどんな雑用係も避けおおせてきたつもりだったのに。……まあ、それはともかく、リーマスって線も捨てがたいんじゃないか?」

「……へえ? リーマスと」

 シリウスが呟き、覗き込んだので、ジェームズの顔にふっと影が落ちました。

「そう。君のリーマスと。『花嫁』と素直に書けばいいのに『花婿(その二)』と書いてある。彼に気を使っている証拠だ。女役をさせるのが嫌なんだろう。結局君好みのドレスも着てないし。僕なら同じ天使でも、ちゃんと羽をつけておくだろうな。それで、君がその両翼を引き千切る。もちろん彼を地上に縛り付けたいがために! 狼の着ぐるみってのもいいな。その場合、後ろのファスナーを開けたら中から大量のチョコレートが……」

 後半は、ほとんどシリウスの耳には入っていない様子でした。

「おい、ピーター! これを書いた女の名前はなんだった? バザー、いやギャザーだったか?」

 ジェームズはもう腸のどこかが危なくなるのではないかというほどの笑いぶりでした。

「シリウス、本気にするなよ! まったく飽きないやつだな!」

 

***

 

 四人はいつも通りの中庭で、木陰の下、特別に心地のよい場所を陣取っていました。どこかしら浮き上がっている彼ら四人を、皆は遠巻きにして見るともなく見ていました。ジェームズやシリウスはもちろん、四方から注がれる視線に気づいていました。

 一番影の落ちる涼しい場所に腰を下ろしているのはジェームズでした。ほとんど変わらない隣にいるのがシリウスで、そこから少し離れて、ちょっと湿っぽい場所にいるのがリーマスでした。

 ピーターはほとんど影のない場所にいました。ジェームズやシリウスの隣にはもっと影のある涼しい場所がありましたが、何故か彼はそちらに寄って座ることは許されないという風にいつまでも日に焼かれているのでした。

 もちろんリーマスにも同じことが言えるのですが、彼が近づかない理由はピーターとは別でした。

「そういやピーター、君は――……出てたか?」

「で、出てたよ!」

 ピーターは上ずった声で言いました。彼は自分が話しかけられた時のために大分前から準備をしていたはずでしたが(それもいつだって失敗しないように)、やっぱり今回もうまくはゆきませんでした。

「出てたよなあ。リーマスに話しかけてたし、王子様が気づかなかった時リーマスの代役をするために、たぶん女装して待ってたんだよ。……でも、もっとわかりやすく登場している所があった」

「ああ、『君は美しいなリリー』、だろ? 『俺の口からは言いたくないが』!」

 言って、シリウスは吹き出しました。ジェームズは起き上がり、眼鏡の下の目を怪しく光らせました。

「わ、わかったの? どうして、わかったんだろう。僕、そんなつもりじゃないんだけど!」

 ピーターは自分がこっそり付け加えておいた部分を褒められているのだと思いました。ですので、顔を赤らめてもじもじとした態度を取っていました。正面に座る二人は顔を見合わせて、おいおい、と苦笑しました。

「君の考えていることがわからない僕だと思うか? もしも万が一そうなったら、僕はいつこの世からいなくなってもおかしくないだろうな!」

「そう、そうかもね! うん、シリウスはすごいから!」

 ピーターは心からという風に言いました。するとシリウスだけでなくジェームズも大笑いを始めました。ピーターは二人を交互に見て、それから顔を真っ赤にしました。二人が何を笑っているのかわかりません。自分が何を間違えたのかも、もちろんわかりませんでした。少しして、ピーターは二人と一緒に笑いました。

「ピーター、教えてやるよ。君の頭の中が読める僕らじゃない。占い学は取っていないしね。ただ、僕たちは二人とも……字が読めるんだ! だからわかった!」

 ジェームズはピーターに顔を近づけ、最後の部分はかなり重要なことだ、というように強調して言いました。しかしピーターはジェームズの言うことがわかりませんでした。それは彼が焦り羞恥し、緊張していたこともありましたが、多くの部分では能力の問題でした。

 シリウスは真顔になりました。彼がジェームズの言葉を理解できていない、ということに気づいただけでなく、それが心から信じられなかったからです。シリウスは少し考えて、それからあまり抑揚のない声で一言一言を区切りました。

「僕らは、この目で、字を見て、君の文と、筆跡がわかった。君は、僕の言うことが、わかるか?」

「も、もういいシリウス! これ以上笑わせないでくれ! 僕は今日一年分くらい笑ってる気がする。ものには限度ってのがあるんだ!」

 ジェームズはゴホッゴホッと悪い堰に似たものを何度か吐き、眼鏡を取って、滲み出た涙を拭きました。少しして落ち着いたようで、こう言いました。

「まあいいさ。ピーターが誰と寝たいかってことよりも、もっと気になることがある。この話ときたら、スタートした途端に何の迷いもなく、君がリーマスの手を取る。そして教会まで走ってゆき、ゴール! ……シリウス、君たちはどこかで見られていたんじゃないか?」

「何を」

「『何もかもを』」

 シリウスは口の端を曲げて笑いました。

「どっちにしたって同じ話だ。とにかく、その女と寝てやればいいんだろ? おい、ピーター! さっさと、これを書いた女の名前を言えよ!」

「だから、本気にするなって言ってるのに! まいるよな、この色魔には!」

 

****

 

 リーマスはふっとため息をつきました。

 本に、文章の中に集中しなければなりません。酷く空虚な思いが、黒い影となり、もう肩口にまで来て、圧し掛かかっていました。取り付かれ押しつぶされてしまいそうでした。さもなければ、リーマスはこの場で立ち上がり、突然狂ったような大声を上げてしまうような気すらしました。

 そんな予感たちを全て静めてしまうためにも、リーマスはこの場所に体だけを残して、精神は本の中の遠い異世界へ旅立ってしまう必要があったのです。厚い一冊の本だけが今リーマスを守る壁でした。

 しかし黒い影以上に迫っているものがありました。象牙で作られた彫刻の一部を切り取ったような、理想の形を持った手がにゅっと横から突き出され、その手のひらがリーマスの顔の前を上下しました。

「僕の可愛い狼ちゃん、そうやってすぐに自分だけの巣穴へ逃げ込むのはやめろよ」

 本の間に手を滑り込ませたシリウスは、ふんぞり返った王様が傍の寵童にするように、リーマスの顎を二本の指でくすぐりました。ジェームズが仰け反って更なる大笑いをしました。リーマスは静かに顔を背けました。

「怒ったのか? ならキスしてやるから来いよ。それとも、もっと別のことがいいか? おい、何か言え。言わないと止めないからな!」

 シリウスの目が残酷に、しかしこれ以上になく美しい形で細まると、比較的早いうちにリーマスの精神は肉体に呼び戻されていました。リーマスの壁はシリウスの手によっていとも容易く弾き飛ばされてしまったからです。

 そしてシリウスは座っていたリーマスの体の下に両腕を入れて彼を抱き上げました。横抱きにされた体からペンや菓子類が零れ落ちました。流石に焦った様子のリーマスが、君は狂ったのか? と問いかけるような顔で見ましたが、シリウスはそれに満足した様子で、ハハハッ! と快活に笑いました。

「罰だ! 君が僕を無視するからいけない。そうだろう? おい、見ろよジェームズ、こっちの方が良くないか? 花嫁はこうして運ぶんだったよな!」

 シリウスはそのままでクルクルと回転しました。リーマスは振り落とされて体が泥まみれになる(さもなければ投げ飛ばされて背を強打する)覚悟をしました。シリウスはちゃんと断りました。「安心しろ、落としやしない!」。

「ああ、全くだ! 花嫁は元来、征服者に捧げられる貢物、敵の手に渡されてゆく戦利品で、そして略奪者たちに連れ去られる供物だ。君、最高だよ! 待ってくれ、それもちゃんと書きとめておくぞ、わが友」

 一番喜んでいる様子のジェームズは動き回るシリウスを制止し、急いで羊皮紙の上で手を走らせました。しかしよく見ると彼は何も書いてはいませんでした。シリウスはそれを見咎めて、やっぱり腹の底からの大笑いでした。

「……降ろしてくれないかい、シリウス。もう気は済んだだろう」

 リーマスが諦めたように言いました。シリウスは「嫌だ!」と断言しました。

「シリウス、降ろしてくれ」

 どこか遠い国にいたようだったリーマスが、今ははっきりと自分の目を見つめています。シリウスは少し胸がすっとしました。凶暴な気持ちが和らぎ、別の感情が増したので、シリウスはこう言いました。

「じゃあこうしよう。今ここで僕に誓いのキスをしろよ! そうすれば降ろしてやる」

「できるわけがないだろう」

「頬で許してやるよ。……早くした方が身のためだぞ? 君がしないなら僕がする」

 シリウスは顔を近づけて長く艶めかしい舌を出し、リーマスの薄い唇を舐める素振りをしました。リーマスの目の中でチラッと何かの炎が燃えました。それはたぶん怒りでした。

 ジェームズが誰にも気づかれない程度に肩を竦めました。そして、甘えた声で言いました。

「酷いじゃないかシリウス! 君には可愛い恋人が他に二人もいるだろう? ここに一人、それから向こうにも一人」

 ぬるっと蛇が動くように、ジェームズの腕がシリウスの首に巻きつきました。シリウスはクックッと笑いました。ジェームズの息が彼の首元をくすぐったからだけではありません。たまらなく愉快だったのです。

「そう、そうだったな。寂しい思いをさせて悪かった、僕の半身。僕の小鹿。でも君の顔は僕の好みじゃないから、ちょっとそこで待ってろよ」

「おいおい、はっきり言ってくれるじゃないか。ならもう一人は?」

 シリウスはチラッと確認だけするようにピーターを見ました。ピーターが怯えたような愛想笑いをしました。

「ああ、あっちの子豚は……後で丸焼きにするから毛を毟っておいてくれ!」

 言い終わるか終わらないかのところでシリウスは爆発するような声で笑っていました。同じくらいに笑っているジェームズは、額に手を当てながら呼吸を困難にしていましたが、それでもこう付け足すのを忘れてはいませんでした。

「毟る毛があればね!」

 指がしっかりとピーターの頭を指していました。

 二人はあまりに大笑いしたので、足元が不確かになり、シリウスはついにリーマスを地面に降ろしました。リーマスは何も言わずに本を拾い上げ、汚れのついたところを手ではたきました。足の形をしたそれは、落ちた本をシリウスが踏みつけた跡でした。

 リーマスは笑い続けているシリウスをじっと見つめました。シリウスはすぐに気づいて、君もおかしいだろう? という魅力的な笑み(もちろんこれで笑い返さなかった、さもなければ顔を赤く染めなかった相手はいませんでした)を投げかけましたが、リーマスは笑いませんでした。少しして、シリウスは目を逸らしました。

 次に見ると、ジェームズはすでにこちらを見ていました。ジェームズは全く視線を逸らす様子はありませんでした。リーマスはため息をついて、目を伏せました。

「君たちを見ていると、こっちまで楽しい気分になってくるよ」とリーマスは言いました。

「思いついたことがあるんだ。聞いて貰えるかな? さっきの話なんだけどね」

「おお! 君も結構やる気じゃないか!」

 ジェームズが大げさに明るい声を出しました。リーマスは口元だけ微笑みました。

「マントを取るところがあったね。天使や、狼の着ぐるみもいいけれど、僕ならこうする。中から出てくるのは本物の狼人間だ。驚いた王子様はそのためにキスをすることができない」

 シリウスは待っていたとばかりに、ここぞと強い声で言いました。

「僕ならできる」

 リーマスは頷きました。

「すればいい。した後、王子様の綺麗な顔には歯形つきの穴が開いて、その『中身』が見られるだろう。男の子は喜ぶだろうけど、女の子たちは悲しむんじゃないかな。それでもいいなら結婚の誓いは終わり。神父はこう言う。『皆さん拍手を。ヒトと人狼が結ばれた記念すべき日だ!』。うまく言えそうだね、ジェームズ?」

 ジェームズは苦笑いをして肩を竦めました。シリウスがバツの悪そうな顔をしました。

「まだ続きがある。キスをしなかった方の王子様は自分を騙していた狼人間を追って彼らの家まで戻ってくる。そして家に隠れていた狼人間を見つけ出して、殺す。家には機能性や外観も必要だけど、一番大切なのは歴史だ。つまり、その家で誰かが死ぬことだよ。家に必要なものが全て揃ったところでお話は終わりだ。完璧な家と完璧な王子様だけが残り、教訓は『異世界の者とは共存できない』。どうかな? きっと君たちは気に入ると思ったんだけど。もし良かったら、書き直しておいてくれ」

 リーマスは、言い終わった時にはもう身を翻して歩き出していました。

「おい、どこに行くんだよ!」

 シリウスが怒りを込めて呼びましたが、リーマスはこう言っただけでした。その相手はピーターでした。

「僕は君の書いたシーンが一番好きだったよ、ピーター」

 ぱっと顔を輝かせたピーターをシリウスが睨みつけました。

 シリウスはもう一度リーマスの名前を呼びましたが、リーマスは全く振り返ることなく歩き去ってしまいました。

 

*****

 

「やりすぎたな、シリウス。君の可愛い、可愛い狼ちゃんはご立腹だ。爪と牙が出るくらいに」

「あれが彼の手なんだ。前にもあった。ああやって僕を嫉妬させ、不安にさせて気を引こうとする。まったく可愛いやつさ」

 シリウスは余裕に満ちた笑みを浮かべましたが、彼の指は意味もなく動いて、トントンと自分の太ももを叩きました。次に傍らの雑草をブチブチと引き抜き、投げ捨て、それからシリウスは、その指で彼の美しい黒髪を無造作にかき回しました。

「悪いのは誰だ!? ――君は? 彼が怒るのをわかっていて、どうして僕を止めなかった?」

「ちゃんと止めたよ。こうやって息をかけてやったろう? 静まれ静まれ、熱したシリウスってね」

「焚きつけたの間違いだろ。馬鹿やめろ、くすぐったいんだよ!」

 遠巻きに見ていた女生徒たちから悲鳴が上がりました。彼女たちは、これまでも要所要所で甲高い叫び声を上げていました。シリウスはすぐにそちらを向いて叫びました。

「黙れこの雌豚ども!」

 別の悲鳴が上がった後、女生徒の一人が泣き出しました。先ほどまでシリウスが彼女たちに投げかけていたのはウィンクの類だったのですが。ジェームズが手だけそちらに向けて謝りました。

「いや、本当に可愛かったよな。見た? リーマスのやつ、ものっすごく怒ってた。そして、『完璧な王子様と完璧な家だけが残った』」

「そんなことはわかってる! ……『異世界』だと? クソッ! ふざけるな!」

 後半は何かを殴りつけるような響きでした。もうシリウスは隠せないほどに苛立っていました。

「わかった。行ってくる! でも君に言われたからじゃないぞ!」

 シリウスは立ち上がり、長い形の良い指をびしりとジェームズに突きつけました。それから顔を近づけ、相手の耳元で囁きました。

「もっと怒ったところを僕は見たことがあるんだからな」

 ジェームズが仕方のないやつだという笑みを浮かべて答えました。

「ベッドの中でだろ?」

「わかってるじゃないか。あの時はすごかった。噛み付いたのは僕の方だったのに」

「君、救いようのない馬鹿だな!」

 こうしてジェームズが大声で言ったところ以外は聞こえませんでした。ピーターは二人が何を喋っているのかよくわかりませんが、それはいつものことでした。ただ、ピーターは自分に聞く権利が与えられていないことをちゃんとわかっていました。それでいいのです。

 そしてシリウスもリーマスもいなくなった後、ジェームズが口を開きました。ピーターは自分が話しかけられているのかどうか、今度は迷う必要がありませんでした。ジェームズは分厚い羊皮紙の束を差し出して言いました。

「じゃあ、これ捨ててきてよ」

 

 

 

******

 

 

 

「『薔薇と話をしているのか』? リーマス」

 シリウスが近づくと、リーマスは顔をこちらに向けずに声を返しました。

「いいや。一人になりたかったから来たんだ。誰とも話をしたくないと思ってね」

 庭園の薔薇は活き活きと咲き誇っていました。リーマスの背後で、出方に迷うシリウスの足音が薔薇の葉を踏んでガサガサと響きました。少し待ちましたが、リーマスの言葉はそれだけでした。

 シリウスはうんざりした声で言いました。

「……ああ、そうか。誰とも話をしたくないと思って、か! 僕がどうしてここに来たと思う? 君のためだ。追いかけて来たんだ。逃げた兎みたいな君をな! 君が――……とても、心配だったからだ! 何を不満に思ってるのか知らないが、自分を心配する相手まで追い払おうってのはいただけない。そう思うだろう、リーマス」

 彼に理性がないというのは間違っていました。正しくは通常の人間の半分ほどしかないというべきであり、シリウスはこれでも十分に破壊的な気持ちを押し止めていました。そして彼の倍か、それ以上の理性を持ち多少ストイックすぎるきらいのある恋人の返事はこうでした。

「心配してくれてありがとう。僕は大丈夫だから、帰ってくれ」

「今来たばかりだぞ! もし、君がまたしても秘密を抱えていて、その誰にも踏み込ませることのできない別世界へ行く扉がここだというんなら、僕だけにこっそり教えてくれよ。例によって秘密は守る」

「僕はどこへも行かない。行くのは君だ、シリウス」

 シリウスはあからさまな、そして怒りを滲ませたため息を吐きました。そして彼の長い足が動き出し、一歩ごとにリーマスに近づきましたが、しかし彼に触れるところまでは至りませんでした。彼は本能によって動かされていましたが、その本能がこれ以上近づけば命がないと告げていました。

 少し声高になったシリウスは言いました。

「そうか! そんなに嫌だったか! 僕らがちょっとふざけてたからってなんだ! 誰も気にしやしない。キスくらい誰だってやってる! 今、この薔薇の茂みの中を数えただけでも、片手じゃ収まらないだろうな!」

「僕もそう思うよ。じゃあ、話は終わりだ」

「僕が何を誓えば満足する? もう僕のことを嫌いになったか! それとも許せないのは抱き上げられたことかよ。僕が君を殺す話まででっちあげてみせたくせに、これ以上何を望んでる?」

「今は一人にして欲しい」

 あくまでもリーマスは冷静でした。シリウスは益々苛立ちました。触れてもいないのに、どこかの血管から入り込んだ薔薇の棘が体中を傷つけながら心臓まで回っていくようでした。しかし、それでも怒りを堪えました。やりきれないような、傷ついた声を出しました。

「嫌だ! 許すと言え! それで言ったからには心から許せよ。君がそうするなら、一人にしてやる」

「……シリウス、君は多分いつまでも変わらないだろうね」

 リーマスが大変聞き慣れた(仕様がない、という)ため息をつきました。もちろんこういったことが初めてのわけはありませんでした。何度目でしょう。こんな喜劇のような出来事は。

「一度しか言わないからちゃんと聞いていてくれ。……もう、怒ってなんかいない。君を許すよ」

 許すという言葉が静かに響き渡りました。そしてまた、静寂が彼らを取り囲みました。

 シリウスは、じっと響きに聴き入った後、微笑みました。ゆっくりと。誰もが見とれてしまうような笑みでした。しかし今それを見ているのは、後ろを向いているリーマスではなく、花びらを綻ばせた庭園の薔薇たちだけでした。

「……言ったな。いつも通りの、その『心にもない言葉』をな」

 そしてシリウスは目を見開き、叫びました。

「引き裂いてやろうか!」

 薔薇の群れへ、叩きつけるようにして手を突っ込んだかと思うと、次には掴めるだけの薔薇を掴んで力任せに引き千切りました。蔓は決して柔らかくはありませんでした。たぶん彼の理性の糸よりはずっと強いものでした。

「僕の前に跪かせて、這いつくばらせてやる……! いつも嘘ばかり言う口! 腹がたってたまらない! この忌々しい嘘つき野郎! どうして僕の思い通りにならないんだ! おい! 誰だって、僕の言う通りにしないやつはいないんだ! その僕が好きだと、愛していると言ってやってるんだぞ! 知っているくせに、この恩知らずめ!」

 薔薇は壊れ、彼の手から花弁が散り落ちました。

「呪いだ! お前がこの呪いと共に、僕に息を吹きかけたからだ! それ以外に考えられない。どうして僕がこんな気持ちになるんだこれが本当に、本当に――愛か!? 苦しめるな! これ以上僕を苦しめるなよ! 僕を壊したなら、その後はお前が鍋の中で柔らかい肉を差し出せばいいんだ僕のために! 支配するのは僕だ! お前を組み敷いたのはこの世でたった一人この僕だけだろう!」

 蔓はたてられるだけの棘をたて、棘をなくした蔓でさえ擦れて皮膚を裂きましたが、シリウスは全く気にも留めませんでした。まるで痛みを感じていないかのようでした。薔薇の全てをシリウスは地面に叩きつけました。

「こっちを向け! こっちを向けリーマス! 僕を見ろ!」

 シリウスは怒りで自分を見失いながら、それでも恐怖していました。これだけ大きな音を立て、恫喝するような声を上げているのに、リーマスは一度たりとも、こちらを見ません。振り返る素振りすら見せませんでした。

「どうしてこっちを見ないんだ……! 僕を愛しているくせに……!」

 彼は肩で息をしながら、ふと気づきました。こんな風に狂ったような大声を上げて自分の権利や愛を主張する人間をどこかで見たことがあります。シリウスは自分を産んだその人間のことを『名前を言うのすらおぞましいあの女』と呼んでいました。

 眩暈や吐き気が襲い、そしてシリウスは顔を覆うために近づけた手が血に塗れていることに、やっと気づきました。滴る鮮血を見ながら思い出しました。――確かに呪われている。それはたぶんこの世に生まれてきた時から。それを呪いと呼ぶのなら、と。

 それからもう一人、同じように、自分の体中の血を吸い出してたとえ干からびたカラカラの姿になっても構わない、この呪いから解放されたい! と欲してやまない人物がいることに気づきました。彼は今シリウスの前に立ち、こちらに背を向けていました。

 怒り狂う美しい獣であるシリウスであっても決して破ることのできない、強く堅い壁(しかし今度は形のない)を作りあげ、その不可侵の場所で神託を待っているようだったリーマスは、やっと口を開きました。

「直接手を下さなくても、君のその叫び声だけで薔薇は枯れてしまうんじゃないかって思うよ、シリウス。……すごいな。背中がビリビリしている。――そうだ。もうひとつ気に入った場面があった。君がマンドレイクよりも大きな声で誓いを叫ぶところだよ。だって、本当にそうしていそうに思ったからね」

 リーマスの声には怒りや悲しみといったものは全く感じられませんでした。もしリーマスの待っていた神託、そしてそれを下す神というのが、まさしくこの荒ぶる恋人であったなら、リーマスは彼の言葉を言葉通りの意味として捕らえていないのかもしれませんでした。

「シリウス、僕は約束も誓いもいらない。君がどんな孤独を抱えていて、それをどう埋めるために僕を愛しているのかだって、本当はどうでもいいことなんだ。僕らは互いに埋めあう。でも、それは決して悲しいことじゃない」

 声だけを聴いていてもわかりました。リーマスはたぶん微笑んでいるのです。シリウスははっと息をのみましたが、同時に足を踏み出していました。

「僕はね、君といて真実生きているってことを実感するんだ。食べたり飲んだり、甘い匂いを嗅いだりする時のように。そして干からび、乾き、ドロドロに腐る時のように。君を抱くと、体が温かいってことを知る。生きるぬくもりがこんなにも熱い、そして僕自身は思いのほか冷たいんだと……。どうして僕が君の生き方に言及できるだろう? 僕は、君が傍にいればいい。たったそれだけで、いいんだ」

 そこで歩み寄ったシリウスが見えない荊の囲い超えてリーマスの手を掴み、強く引きました。

「愛していると言えばいいかい」

 そして振り返ったリーマスの頬に一筋の涙が流れました。

 輝きに当てられたシリウスは一瞬にして正気に立ち戻り「嘘だろ」「そんな」と呟きましたが、彼の喉はカラカラに渇いていて、声にはなりませんでした。シリウスはなんとかこう言いました。

「……どうして泣くんだ」

「さあ、何故だろう」

 それはたぶん、愛し合う数々の夫婦が、ささやかな一軒家で光と共に命を落としている時でした。幾多の人々が彼らに何が起こったのか彼ら自身知ることもできないまま、『人間』から『肉の細切れ』に変わり果てていた時でした。それらが彼らの周りで、そして世界中で起きている、たぶんそんな時でした。

 リーマス=ルーピンはそんな世の人たちに漏れず、すぐに笑顔に立ち戻り、言いました。

「きっと不相応なほどに、幸せだからだ。幸せすぎると涙が出るというからね」

 しかし理性を取り戻したシリウスはそれを言葉通りに受け取るほど愚かではありませんでした。

「……傷つけたのか? 僕が、か?」

 シリウスの喉がゴクリと鳴りました。目が泳ぎ、冷や汗をかいたシリウスは何かを呟きました。激しくショックを受けているのが見て取れました。しかしリーマスが何も言わず見つめているので、一度咳払いをして、同じ言葉を繰り返しました。

「リーマス、許してくれ。悪かった。もう君の嫌がることはしない。さっきのだって思ってもないことが口から出たんだ。……君に嫌われたくない。信じてくれ」

 リーマスは、先程のシリウスの言葉が全て本心から言われたものであることを知っていました。そして、彼に言われた全てのことを、まったく尤もな話だと思いながら聞いていました。

 こうして、体中を怒りで熱したシリウスの魂が弾け、砕けるのを、リーマスは幾度も見てきました。飛んでくる、その光る星のような欠片を受け止めてきました。そしてリーマスは、受け止めた欠片と同じ形の穴がシリウスの胸に開き、そこから赤い血が流れ出しているのを見るのが好きでした。

 リーマスは愛しいという感情を顕にして微笑みました。

「なんて顔をするんだろう……。違うと言っているのにね。シリウス、君こそ、いつも僕の言葉を信用しない。でも、そうでなければ……きっと、僕は君とこんな風にはならなかった。本当に、君の所為じゃないんだよ」

 シリウスは、その長い腕を広げてリーマスを包み、胸の中に押し込むようにして抱きしめました。

「なら、どうしたんだリーマス。不安なのか? 不安ならずっと目を瞑っていろよ。いつだって君が望む時に僕はこうしてやる」

 そうして安堵したのは明らかにシリウスの方でした。また、いつも呼吸を困難にするほど強く抱きしめてくるシリウスに辟易しているリーマスでしたが、今日は彼の胸に額を寄せ、静かに礼を述べました。

「ありがとう、シリウス。そうできたらいいね。でも僕は全てを見続けなければならない気がするんだよ。たぶんずっと」

「だったら僕も同じ運命だろうさ。二人で同じものを見続けるのは悪くない」

「ああ、そうだね。もしもそうなら、僕はきっと耐えられる……ううん――幸せだよ」

 背をきつく押されるリーマスのローブには、シリウスの血が染み入りました。リーマスは彼の衣服や体に血判を受けていることが、なんだかおかしくてたまりませんでした。自分にも恋人にも自制を呼びかけたのに、まるで誰もが寝静まる夜のベッドの上(さもなければ月の美しい晩の暗い屋敷)にいる時と変わらないように思えたからです。

 リーマスはシリウスの手のひらをとり、そこに深々と刺さり食い込んだ棘を引き抜きました。シリウスは黙って、少し目を伏せてリーマスの様子を見つめていました。まるで彼の手のひらを見えない糸で一心に縫い合わせているような静かなリーマスの表情を。

 そして顔を上げたリーマスの前に、じっと見つめるシリウスの悲しい目があった時、彼らは二つの瞼をゆっくりと閉じて誓いを交わしました。言葉はなく、しかし互いの唇をもって。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1