***

 

「シリウス、君はもう十分に楽しんだ。これでも僕は君のために恐ろしいほどの危険を冒したっていう自覚がある。確かに、僕も悪かったよ。成功したとしても、せいぜい数分の間君の名前しか呼べなくなるか、君以外の姿が見えなくなる程度のものだと思ってた。まさか入れ物を自由にするために中身を入れ替えるものだとはね」

言いながら、途中から、まるで自分こそが真の悪役なのではないかと思えてきた。

何故って、シリウスは買ったばかりの人形を抱いて五分で奪われる子供のような顔をしていたし、リーマスもまた魔法の効果が覿面というべきか、別の狙いがあるのか(一体リーマスの中に入っているのは何なんだ)、明らかにシリウスから離れがたい様子を見せていた。

ピーターはさっきのシリウスの言いつけを守って言葉を発せず、僕は孤軍奮闘、二人を引き剥がしにかかるしかなかった。

ねえ! と僕は宥めるように(あやすように?)シリウスに問いかけた。シリウスの目が泳ぎ、彼の葛藤が見て取れたが、その目が最後にはやはり腕の中の最愛の恋人に帰り着いた。再度穏やかな微笑に包まれた結果、彼はぎゅっとリーマスを抱きしめる腕の力を強め、僕を睨みつけた。

「……お前が、いつも僕からリーマスを奪おうとするんだ!」

軽く眩暈がした。が、ここで気を失ったが最後。次に目を開けた時には地獄絵図が待っているかもしれない。

「おいおい、頼むよ! 言っている意味がわからないかい? ヒートアップしすぎてる君の脳にもわかりやすく言う。今、君たちは二人とも、同じくらいに、危険だ。もし、リーマスの中にいるのが最近になって僕らを付け回していたゴーストだったらどうする? 僕らのプライベートなんか筒抜けだ。たぶんリーマスも同意してくれるはずだから言うけど、狙いは君の体という可能性の方が高いんだ。キスした瞬間に魂が消えるか、入れ替わるか、どちらにしてもそうなってからじゃ遅い。ラブシーンはそこまで。続きは魔法を解いてから存分に楽しめよ」

 シリウスが、眉根を寄せた。しぶしぶという風に、そして確かめたくもないことだというのをありありと感じさせる声でリーマスに問いかけた。

「リーマス、君は僕を好きだな? 愛しているから魔法がかかったんだ。そうだろう」

「君の言う通りだ」

「僕のために何でもできるか?」

「君が望むことを、全て」

 シリウスの手がリーマスの額にかかる柔らかい髪を何度か撫でた。そして、ふーっと忌々しそうにため息を漏らした。

「確かに……確かに、リーマスがこんなことを言うなんて信じられない。夢を見ている気分だ。そう。彼が別人だって気持ちにもなる。実際リーマスなら魔法に抗いそうだからな。僕は、騙されてるのか? 僕をたらしこむ最も有効な手段、美味しい餌はこれだと知っている誰かに。でもそんなことを言い出したら、逆に魔法が全くかかっていない可能性だってあるぞ。まあ、だとしたらリーマスがここまでする理由はな……」

 言葉に詰まって一秒もしない内に、シリウスの目がバチッと開かれ、彼に何らかの結論がもたらされたのがわかった。彼の不機嫌そうな顔が、みるみる内に憤怒の相に変わった。低い唸るような声でシリウスは言った。

「読めてきた……つまり、君の差し金か」

「は?」

「お前の話をしてるんだ。この神様気取りの人でなし野郎! 賭けか? それとも罰ゲームか? 僕がどこまでできるか試そうって魂胆だろう。降ってわいた幸運に臆することなくやり通すか、それとも土壇場になって怖気ずくか……君はどっちにかけてるんだ、リーマス? もちろん前者だと言ってくれるな?」

「君の望む方を」

ふんふんと皮肉たっぷりにシリウスは首を上下させた。

「ああ、わかった。じゃあ試そう。魔法にかかったリーマス、命令だ。いつも僕が君にしているようなキスを君からしろ」

ものすごい勘違いをしているというのに、それが彼の中では既に確定してしまっている。付き合いきれない。僕は目の前がくらくらするのを抑えていた。

「ほんっと、呆れた奴だな。シリウス」

「黙れ。お前はそこで見ていろ。後者であるという賭けが外れる様子を。さもなければ……忠実なリーマスが、最後までお前の命令に従うところをな」

――これはいただけない。僕は眼鏡の奥の目を細めた。杖を取り出し、冷たい眼差しと共にすっと彼につきつけた。

「黙るのは誰だ? ブラック、この世で最も愚かな獣。僕は魔法を解く。邪魔をしたら、首から上はなくなっていると思えよ」

 もちろん僕は本気だったが、頭に血の上ったシリウスが同じく本気で応戦しようと杖を取り出し、大乱闘が始まる前に、リーマスの静かな声が響いた。

「いいんだ。ジェームズ。君の言っていることはある意味において正しい。でも、私は危害を加えるために現れたのではない。つい、観客として成り行きを見ていたくなってしまってね。でもあの時君も言ってくれた通り――」

「ノープロブレム」、とリーマスの口が動いた。見た瞬間、どちらの可能性を考慮したら良いのか迷ったのと、そして心から驚いたために、杖を取り落としそうになった。

だが全く気づかないシリウスが、こちらに向いていたリーマスの体をぐいっと自分の方へ引き戻した。

「おい、この期に及んで打ち合わせか? 逃げるつもりじゃないだろうな、リーマス」

「いいや。逃げはしない。君の望み通りにするよ」

 言って、ふわっと抱きしめられ、一瞬シリウスは怯んだ。が、彼の怒りがそれを打ち消したのか、その手はゆっくりと覆いかぶさったリーマスの、首に巻かれたタイを掴んでいた。もちろん、途中で逃げないためにだろう。

でも、そんな必要はない。僕が彼らを引き離す必要もだ。さっきそれがわかった。

リーマスは両手で、シリウスの質の良い黒髪を撫でた。何か探しものでもするように髪の中に指を入れ、彼の頭の形を確かめながら、顔を寄せて、額に、瞼に、そして頬に唇を当てていった。静かに、壊れやすいものにするように。

両目にキスを貰った時点で、シリウスは明らかに動揺していた。普段のリーマスからは考えられない行動だったのは確かだ。そして、たとえ魔法にかかっていたとしても、リーマスがそれ以上のことを、しかも僕らの目の前でできるとは考えていなかったのだ。そんなことだろうとは思っていたけど。

シリウスはタイを逆に引いた。リーマスの体が少しよれて、シリウスから遠ざかった。

「待て、リーマス……本気か?」

「……シリウス、黙ってくれ」

「でも君は……う……」

 シリウスの制止は意味をなさなかった。薄く唇を開けたリーマスがシリウスに口付けをした。椅子に乗りあげ、二つの手でシリウスの顔を持ち上げ、そしてその上に覆いかぶさるようにして――まさしく『お前に口付けするよ』と言った風情で――。タイを掴んでいたシリウスの手がズルッと滑るようにして下に落ちた。

 しばらく彼らの中で、たぶんシリウスは理性と本能の葛藤、そしてリーマスの中でもきっと何らかの激しい感情が交錯していたようだった。結局リーマスの腰と背に手を回し、背から登った手で、一心不乱にキスを続けるリーマスの頭を撫でていたシリウスは、二人の唇が離れ、互いの額を当てた時、溺れるような表情で叫んだ。

「こ……この魔法を解……いや、永遠に、解かないでくれ……!」

 部屋中にシリウスの幸福な叫びはこだました。そして、ピーターの「口をきいてはならない」という戒めは解かれ、彼の「した! した! してるよ!」という興奮した声が横で沸きあがった。

 そうさ。してる。リーマスがここまでしている。つまりそれは、どういうことだと思う?

 そして、溢れんばかりのキスを受け一生分の幸福を使い果たしたと思しきシリウスが、呟くようにこう訂正するまで、そう時間はかからなかった。

「――やっぱり解いてくれ」

 散歩に最適だったはずの空が曇り、雨が降り出していた。でも、さっきのシリウスの言葉が間違っていたわけじゃない。静かな雨が僕たちの部屋の中、ただ一人の上だけに降り注いでいた。

 

***

 

 私の目の後ろに海がある。私は、それをみんな泣いてしまわなければならない。

 マグルの美しい詩だ。

 リーマスの泣き方には特徴があった。彼の目の淵に涙が押しあがり、それが美しい宝石のようにしてポロポロと零れ落ちるまでは、彼が泣いているのかどうかはわからない。表情は変わらず、ただ彼の目の色が揺らぎ、そこから彼の海が現れるのだ。静寂の中で。

 シリウスは、彼の上に流れ落ちるリーマスの海を、少しの間ただ呆然と受け止めていた。

「リーマス……」

「なんだい」

「……泣いてるよな」

「ああ、そのようだ」

 そして、シリウスの頭の中で作られた物語はこうだ。リーマスにかかった魔法は、態度や言葉に異論を表せない種類の魔法で、望んでやっているように見えて、その実本人には大変な苦痛を伴わせている。だから今こうしてリーマスが涙を零しているのは、その苦痛を堪えかねて――そんなところだろう。

「またやった……!」

 と、シリウスは苦々しげに叫んだ。うろたえ、ダムの決壊を止めるようにリーマスの顔に両手を添え、彼の目から零れる涙を何度も拭った。

「もう、飽き飽きしているだろうが、許してくれ。リーマス、つまり、僕は……そんなつもりじゃなかった。もうしない。すぐにやめる。おい、そんな風に泣くなよ。……頼むジェームズ、本を取って解き方を。今すぐこれを解きたい」

 シリウスの目が真剣に助けを求めていたが、僕は微かに顔を前に突き出して、彼をリーマスへ促した。シリウスは怪訝な表情を見せたが、リーマスに向き直った。

 リーマスはシリウスの上に落ちた彼の涙を、指でパラパラと払いのけながら言った。

「大丈夫。もう、すぐに終わるだろう」

「待て、僕たちの関係がという意味じゃないな?」

「違う。悪いのは君ではない。とても幸福な気持ちだ。本当に。互いにそうであることが――。そして、思ってしまった。ああ、たったこれだけのことで君を幸福にできた。それなら、何故私は幾らでも君にそうしてやらなかったのだろうとね」

「やめろ。魔法で無理強いした僕が悪かった。君にそんなことを言わ」

 シリウスの言葉を止めたのは、やはりリーマスの唇だった。

「われらが唇は一つ。でも、魔法ではないよ、シリウス。私は初めから自分の意思で君に触れている。君ばかりが悪者になる必要はないし、君ばかりが私を求めるわけではない。ただ、私が拒み、求めることに怯えていただけだ」

「……その理由は、わかってるつもりだ。僕は決して恨みに思ったりはしてないぞ。時折、僕の力でそれを打ち壊そうとはするが、それは君に対する不満というよりも、僕自身の欲望だ……だがリーマス、君は……本当に君か?」

「そう。臆病で卑怯で、誰かを傷つけたくないと言って、本当は、いつも自分の身を守ることばかりを考えていた私だ。君のような勇気もなければ、傷ついて立ち直ることのできる強さも持ち合わせてはいない。感情を表に出さないという努力だけを繰り返して。しかし、それが一体何を生んだ?」

 シリウスがはっとした。

 その時僕の眼鏡の調子がおかしくなったのでなければ、僕と、そして少なくともシリウスにはある幻が見えていた。シリウスの顔が上向いている理由は、椅子に座った彼の上にリーマスが乗り上げているためだった。しかし何故か、シリウスの傍に立ったリーマスが彼に合わせて屈みこんでいるようにも見えた。

 今のシリウスよりも背の高い、僕たちの知らない誰かの姿がリーマスに重なっている。明滅する光のように、薄く濃く、揺れながら。

「私は――いや……僕は、君に何をしてあげられただろう? そう。君はいつも自分自身の満足だと言いながら、僕の幸せばかりを考えてくれていたね。でも僕は、君のためだと言いながら、いつも自分自身のために逃げてばかりいたように思うよ。……シリウス、君に、何でもしてあげたい。僕にできることを、君が望むことを全て」

 シリウスは考えているようだった。もちろん今置かれた状況のことや、目の前の魂が誰のものなのか、そして、彼が欲していた質問がまさしくリーマスの口から発せられたことを。

 でもシリウスの中で、それらの答えはもう出ている。たぶん、考えるのではなくずっと持ち続けている一つの真実として。

「笑ってくれ」

 シリウスはそう答えた。

「笑ってくれ、リーマス。それが僕の望みの全てだ」

「……そうか。では、このキスは私の望みだ」

今リーマスが幸福であるというのは、確かだった。微かに頷いた彼の顔に、笑みが広がり、それは見る者全ての声を詰まらせた。僕たちの胸に透明な棘のような、痛みが突き刺さった。

リーマスは目を瞑り、そしてシリウスの額には良い魔法使いのキスが齎された。その場所に銀色の光が残るような、静かな、慈しみをこめた愛が。

 目を開けた二人の恋人は、しばらく言葉もなく見つめあい、そして、シリウスが言った。

「リーマス……本当にリーマスなのか? なのに、君は孤独なのか。君でも耐え切れないことが、何か僕の知らない、何かが……」

「……シリウス、やっぱり君の瞳は美しいなあ。君の指先や、唇が好きだよ。この前君の夢を見た。青空の中にぽつんと黒い点があって、見つめていると、それはバイクに乗って近づいてくる君だった。あの黒い大きなバイクにまたがった君が、意気揚々と私を誘いに来たんだ。遠くへ、ピクニックにでも行こうとね。心地の良い日だった。花が咲いていたよ。シリウス……――シリウス、私に手を貸してくれないかい」

 シリウスの手が、差し出されたリーマスの手のひらに乗ると、彼はその手を確かめるように握り、そっと自分の頬へ導いた。彼の目が細まっている。眩しいものを見つめる時と同じに。

「君は知らない。どんな風に私が君を愛しているのか。どんな風に、君を思い続けているのか……君の名を呼ぶたび、私の胸からこみ上げる美しい思い出と痛みを、涙を、君に見せてやりたいと思った。そして、君だけには見られたくないと、でも――それでも感謝しているよ。魔法は、いつも私の全てを救ってはくれないが、時折こうして眩いほどの光を見せてくれる。だからこそ私は、また少しの間、生きながらえることができるのだろう」

リーマスの手が、優しく、優しくシリウスの髪を撫でた。その指先が顔を伝って、肩に降り、そこで一瞬ためらい、動きを留め、震えた。そしてシリウスの肩口に、すがるようにしてぎゅっと強く食い込んだ。

「……愛しているよ」

胸の裂けるような声と共に美しい水が湧き上がり、リーマスの両目から、また静かな涙が一筋づつ零れた。

「愛しているよ。シリウス。私は孤独ではない。ただ、目が覚めると君がいないんだ」

そして次の瞬間リーマスは眠るようにして目を閉じ、力をなくしたその体をシリウスに持たれかけていた。

 

***

 

確かに、僕はその後シリウスを殴りつけてやる役目にあったのかもしれない。ただ、その必要があったのかどうか。

リーマスはほどなく目を覚まし、きょとんとして、まず自分の髪を、次に歯を確かめていた。そして自分の頬に伝う温かい水に触れて、「誰のだい?」と言った。シリウスが掠れた声で「君のものだ」と答えたが、説得力はなかった。

誰かにとっては、先程の魔法は真実幸福な何かだったのかもしれなかった。でも、僕たちはあの時部屋中に広がった、救いようもないほどの絶望感を、もう思い出したくはない。

 

 

「君はいつも自分自身の満足だと言いながら、僕の幸せばかりを考えてくれていた」という、リーマスの言葉は正しかった。

部屋の中に入ると、暖炉の中に焦げた塊があった。燃やされた本の残骸、つまりあの時の絶望の名残が。それだけでなく、シリウスはどこかの上級生から賭けで(と本人は言っていたが、明らかに力ずくで)巻き上げたらしい、精巧に作られた城が透明な瓶の中に納まっているものや、彼の気にいっている悪戯の道具、高級な装飾品、それら全てを粉々にしてしまっていた。

 僕が、彼の後悔と懺悔と自己嫌悪の墓場をジャリジャリと踏んで渡ると、シリウスは言った。

「気に食わない。あんなことを望んでいなかった。悪い夢だ。魔法は失敗だ。僕は、本物の糞野郎だ」

「その通りだよ」

魔法は成功していた。

シリウスに勝る愛を持ち、その望み通り、彼を抱きしめ愛していると囁くリーマスは確かに現れた。そのリーマスの胸には赤いラインがあり、ぱっくりと開いたその胸の裂け目から、ダラダラと血を流しながら、微笑み、涙を零し、キスをした。全ては失われた夢であるというように言った。愛しているよ。次に目を開けた時には――……悪夢でなければ一体なんだ?

 窓枠に腰掛け、長い手足と体をはめ込んで、こちらに顔を向けないシリウスの傍に、僕は座った。カーペットを引いた床は冷えていた。とても、とても冷たかった。

「あれはリーマスじゃない」

「そう。あれはリーマスじゃない。何度も言ったろ」

 そうして、その夜僕たちは互いに魔法をかけあった。覆いかぶさってくる不安を打ち消すために。命の終わりを忘れ、心安らかに眠るために。

「そうだったな。僕が間違っていた。あれは……」

 

あれは、確かにリーマスだった。頷く時、うつむける顔と共にゆっくりと瞼を閉じ、上げるのに合わせてその瞳を優しく開いてみせた。触れる時のためらう指先、時折傷ついたように笑う。彼の目の色が波のようにして揺れる。あれはリーマスだった。誰にも真似のできない苦しみによって作られた、僕たちの親友だった。

でも僕たちはもうあのリーマスに出会うことはないだろう。

僕もシリウスの意見に賛成だ。気に食わない。あんな未来は僕が変えてしまおう。

 

 

 

 

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