夢で逢えたら

 

 

 

 僕たちが互いに魔法をかけあうことは珍しくない。命に関わるものでない限り、それらは頻繁に行われた。高度な魔法になるほど、ある程度の練習なしに成功させることは難しいからだ。時折僕らは自分たちの部屋に集まって、それぞれの望む魔法を相手に施し、あるいは相手の練習台(さもなければ実験体)になった。

 よく考えてみれば、何故それまで思いつかなかったのかということの方が不思議だが、ある時シリウスはこういうことを言い出した。つまり「リーマスに恋の魔法をかけたい」と。「ちょっとした悪戯だ。成功させようなんて思ってもいない!」とシリウスは言い、僕はハハハと乾いた声で笑った。

 もちろんリーマスにそれが知らされることはなかった。理由にはシリウスの強い口止めもあったが、正直に言えば、僕らの好奇心が後押したのだ。

 ただ、一つ付け加えるとするなら僕はシリウスの持ってきた『大好きなあの子ともっと仲良くなる魔法』(明らかに魔女用だ)をパラパラとめくって、先に安全性を確かめてあった。そしてシリウスのかけようとしている魔法に、こんな注意書きがあるのを見つけていた。

『この魔法の成功の鍵は、あなたが心から愛を望むこと。でももっと大切なのは、相手があなたよりも強くそれを望んでいることよ!』

 100%成功しないと確信することができた。

 つまりこれは両想いのカップルの素直でない方に、合意の上でかける魔法だ。当然だった。でなければ、世界中に犯罪が横行することになる。(もしかするともっと卑劣な魔法も存在するかもしれないが)

 納得した僕はその部分に赤いラインを引くような真似はせず、静かに本を閉じた。

 

***

 

 小さな机を挟んで椅子に腰掛け、シリウスとリーマスは対峙した。元はピンク色の表紙を即席の黒いブックカバーで覆い隠した魔法書を前に置き、シリウスは緊張した様子で言った。

「目を瞑ってくれ」

 そこでリーマスはもう異変に気づいていた。

「シリウス、なんだか君の口元がにやけているように思うんだけど」

「気のせいだろう!」

「これ、変な魔法じゃないだろうね。髪の毛を爆発させるようなことはしないでくれるね?」

「しない」

「もしかして、僕が君を相手に失敗した時のことかい。まさか君の歯が全部チョコレートになるなんて思わなかったんだよ。君が報復をしたいのなら」

「やめろ! あの時のことは早く忘れさせてくれ。目を瞑れよ」

 リーマスが一瞬僕と目を合わせた。たぶん「もしもの時はよろしく」という合図だった。僕の口が「ノープロブレム」と動いたのを見て、安心したのかリーマスは目を閉じた。

 

 明らかに事前に予習し尽くしていると思しきシリウスの、華麗で流れるような手つきを、僕たちは半分呆れ顔で見ていた。僕の横に立ち、もぞもぞと落ち着きなく動いているピーターは、どちらかというと期待しているようでもあった。

「……せ、成功するのかな?」

「しない。でも僕たちは失敗して起こる何かに備えておくべきだ。君逃げないでくれよ?」

「逃げないよ……た、たぶん」

 シリウスは実に見栄えのする男だった。ただ、しつこいようだけど、端正な顔をした彼が今真剣な様子で取り組んでいるのは、恋人の心をよりエロティックに、そして自分の言いなりにするという、これ以上になく情けない魔法だ。

 一通りの手順を終えたらしいシリウスは強い声で叫んだ。

「われらが唇は一つ。われらが同じ炎に燃え立つ時、血と肉と魂とを溶かし分け合う。わが心の熱き矢を受けよ。エアインルネン!」

 僕らは思わず身を乗り出した、が、リーマスに変化はないようだった。少なくとも彼が心配していた外見についてはクリアだ。もしかしたらシリウスの望む姿に変化するのかと思ったが、それは行き過ぎた心配だった。

 そしてシリウスが、コホンとわざとらしい咳払いをしてから、確かめるようにこう問いかけた時だった。

「あー、それで、リーマス。君は僕のことが好きだろう? 僕を愛しているな?」

 リーマスの瞳が開かれた。一瞬、彼は夢から覚めた時の顔に見えた。でも僕らの顔を見渡した後、また眠る泉に身を浮かべたような瞳に戻り、静かにこう言った。

「……ああ。愛しているよ、シリウス」

 しん、と部屋が静まり返った。

 もちろん四人しかいない僕たち、そして魔法をかけているシリウスとかけられているリーマスを除いた、僕とピーターだけでさっきまでドンチャン騒ぎをしていたわけじゃない。最もそのテンションに近かったのは、魔法をかけてながらウキウキを隠し切れなかったシリウスだが、それにしても、そう広くないこの部屋が近所中から鼻つまみになるほどやかましくはなかった。

 ただ、その時、音を発するものの全てがひと時の死を迎えた。シリウスを始め、僕、そしてピーター、花、鳥、空、星、ああ、とにかく世界が凍り付いて時を忘れた。何ものも比較にならない、痛いほどの静寂が僕らの部屋を満たしていた。

 

***

 

奇跡の一瞬が終わった後も、シリウスは声が出せずに僅かに開いた口の中から、乾いた音を立てているだけだった。僕がピーターと目を合わせると、彼はこんな時もシリウスの真似をしているのか、同じく、だらしない口を開けていた。

 事態の収拾に動き出した僕が、トン! と軽く机に手を置くと、そこでシリウスの封印は解かれた。激しい勢いで見返ったシリウスに対して、僕は言った。

「……さてと、どこの死霊が入り込んだのか知らないが、彼には早々にお帰りいただいてこの体には僕らのリーマスを呼び戻さなけりゃな。全く、君の厄介ごとに次々巻き込まれる方の身にもなってくれ」

「待て。ジェームズ。これは、リーマスだ」

 僕は「うん」と頷いた。そして身を乗り出してシリウスの前に開かれた本のページを素早く後ろへ向けてめくり始めた。

「わが友、君の気持ちはわかる。痛いほど。でも、欲望に忠実なる時とそれに抗うべき時を見極めろよ。ここはまず、第一にリーマスの身の安全を考えるんだ。君は、冷静になり、その薄汚れた妄執を捨てる。そして、この本の後半部分を調べる。そうすれば魔法の」

 ここまで言って、僕の体は激しく横にぶれた。バシーンと僕の手ごと思い切りよく、シリウスが本を弾き飛ばしたからだ。本はテーブルの上を綺麗に横滑りして床に落ちた。

「違う! 服従の魔法が成功したんだ! 確かに今の彼はちょっとばかりいつもと雰囲気は違うが、魔法の力を借りて普段の抑制された自分を捨てた彼の真実の姿がこうだったというだけで、これが、僕のリーマスだ! そうだよなリーマス? 君はリーマス=ルーピンだな?」

 シリウスの、その興奮たるやすごかった。この時僕は、実に正確に先程のシリウスを模倣することができた。彼を前にして、今、口を開け唖然とする他に何ができるだろう。またリーマスは、シリウスの、それこそ必死の懇願に屈したという風ではなかった。彼はゆっくりと頷いた。微笑を浮かべて。

「……そう。リーマス=ルーピンだ。君の魔法が成功したんだ」

 シリウスは満面の笑みで、また僕に向き直った。

「ほらみろ! こう言ってる! 彼の言うことを信じないのか?」

「正しくは、体を手放したくないためにリーマスの体に入り込んだ誰かが口裏を合わせていることを、だろ」

「馬鹿を言うな! 彼が彼の意思で喋ってるんだ! 今自分で見るものすら信じられないのか!」

 僕は腕を組み、ため息を吐いた。

「シリウス、聞くんだ。君の考えは矛盾してる。リーマスを乗っ取った悪霊が喋っているなら、これは悪霊の意思。そして百歩譲って仮に君の魔法が成功していたとしても、服従させているわけだから、彼の言葉は君の意思をそのまま口にしただけ」

「違う! リーマスの意思だ! なあ、リーマス、君はさっき自分の意思でその……僕を愛していると言ったんだよな?」

「ああ、自分の意思で言った」

「みろ!」

「真実を知りたいなら、君は質問の仕方を変えるか頭から水を浴びるべきだ」

 そこで、ピーターがいつの間にか逆から身を乗り出していた。リーマスの前へその太くて丸い手をひらひら翳しながら浮かれた調子で言った。シリウスはすっかり忘れていたらしく、サッと顔色を変えた。

「ね、ねえ! リーマスは、僕たちの言うこともきくのかな? つまりその、僕やジェームズの言うことも……ねえ、リーマス」

「ピーター」

ギギギ……と接合の悪いアンティークドールのようにシリウスの首が動いた。

「ピーター=ぺディグリュー」

 確かめるようにシリウスがそう呼んだ時、ピーターはやっと相手の顔を見た。そしてもちろん蒼白になった。

シリウスは、過去の記憶と照らし合わせ、そういえば今この場所に最も悲しいできごとをもたらしそうなのは誰か? ということに思い当たったらしかった。確かに、僕たちには及びもつかないピーターの発想、そして行動は、目の前にあるシリウスの楽園を粉々に破壊したとしても不思議じゃなかった。

シリウスは立ち上がり、ずいずいと近づくことでピーターの体を壁際に追い詰めた。

「この魔法をかけたのは僕だな? 君はただこの部屋の隅っこに体を押し込んでぎゅうぎゅうになっていただけ。違うか?」

「そ、そう、そうだ。シリウスの、言う通り」

「だったら、今までも、そしてこれからも、そこで出損ねた糞爆弾みたいにしてぎゅうぎゅうと詰まっていろ。おい、一言でも彼に話しかけてみろ……? 後で『ずばりそのもの』の姿に変えてやるからな。僕は本気だ。いいか、とにかく君は喋るな。全てが、終わるまで!」

「わかったよ! わかったよ! でも僕はただね、本当に、どうなのかなって、思って言っただけで」

「ワームテール……黙・れ!」

「お、オーケー、パッドフット」

 そんなやり取りが行われている間に、僕はシリウスのいなくなった席に座り、正面にいる正体不明の魂に問いかけた。

「リーマス、僕の名前を呼んでくれ。僕たちだけに通じる名前を」

 途端にシリウスが物凄い勢いで振り返り、戻ってきて椅子の背に手をかけ、僕の体を揺さぶった。

「お前! 何を勝手に命令してるんだ! これから僕がリーマスに……今なんて言った? 『甘い声で僕を呼べ』と言ったか?」

「シリウス、君と僕とは影とその本体。でもそれは時と場合による。わかるかな? 僕は彼が真実何者であるかを試してるだけだ」

「じゃあ今なんて言ったんだ!」 

「僕たちだけが共有する秘密を言えとね。パッドフット。みろ。答えられないぞ。やっぱり偽者だ」

 シリウスはやや失速した。恐る恐るというように、まずは目だけでリーマスの方を見た。もちろんそれは、彼にとって都合の悪い、できれば見たくもない結果が出ることを恐れてだ。

「……リーマス、わからないのか?」

 リーマスは、ああ、と気づいたように瞼を開き、交互に僕らと視線を合わせた。さっきまで目を細めて、何かを――まるで彼の心に迫る何かの光景を?――じっと見つめていた様子だった。

「すまない。声が、詰まってしまってね……プロングス」

 シリウスの体が高揚したのが嫌でもわかった。僕は唸り、シリウスは飛び上がらんばかりに叫んだ。

「……どうだ!」

「おっかしいな」

「おっかしくない! 僕らのムーニー……リーマスだ。僕は成功した!」

 

***

 

 そんなわけでシリウスの今世紀最高の時間がスタートした。彼は懲りずに自分への気持ちを確かめることから始め……(しかし飛び交うこの「僕が好きだよな?」「ああ、好きだよ」という、空しい言葉たちはどうだ?)、リーマスの返事に一々喜び、それに一通り満足すると、次に肉体的な充足を求めた。

「それじゃあ、リーマス、僕の傍に来てくれ。それで……ああ、つまり僕の上に横を向いて」

「……座ればいいのかい」

「そう! そうだ」

「重くは?」

「重くなんかない。来いよ! いや、来るんだ。リーマス」

リーマスは実に素直にシリウスの元へ行き、彼の言葉通り椅子に腰掛けたシリウスの上に、横向きで体を乗せた。素早くシリウスの手がリーマスの腰に回り、彼の体をぎゅっと自分に引き寄せた。

 シリウスは噛み締めるように(あえて言うなら、上質のチョコレートケーキを乗せたフォークを口に入れてから数秒後のリーマスのように)、じーんと、湧き上がってくる震えを抑えきれない様子で呟いた。

「一度やってみたかった……!」

「二人きりの時にやれよ」

「させてくれないから今やってるんだ! 隣に座るだけでも一苦労だっていうのに。ああ、いつもこうだったらいいんだが……リーマス、手は首に、そう……僕の首に回してくれ」

「こうかな」

「ああ、そうだ。君の顔が見やすくなった……クソ。可愛いな。こんなに従順な君は夢の中でしか見たことがないが、やっぱり現実には変えがたい。なんていうか、そう、罵りたい! 罵りたいくらいだ、僕の魔法に囚われた間抜けなリーマス! この……この可愛い奴!」

 そしてシリウスは我慢の限界に達したらしく、リーマスの額の髪を上げてキスをした。僕は心を落ち着けて見守っていた。もちろん、キスで魔法の解けたリーマスが目の前の彼に強烈な何かをお見舞いすると信じていたからだ。

 だが、今回僕の期待は手ひどく裏切られた。額に乗せられたシリウスの唇が離れた後、リーマスはふっと目を開けて、静かな眼差しを注いだ。そこに感じられたのは、目の前のどちらかと言えば愚かな顔つきをした男に対する、混じり気のない真摯な愛情だった。

 そしてシリウスの表情が一変した。大きく目を見開いた彼の目元にサッと赤い色が走った。さっきまでのデレデレした緊張感のない顔がひっこんで、こちらにも真剣などこか緊迫した様子の顔になった。

「……おい、君たち、たまには二人で散歩にでも行ったらどうだ」

「なんで」

「今日は散歩に最適だからだ。天気もいいし、花も咲き乱れている。僕たちを、二人きりにさせろ……」

「できるわけないだろ」

「頼む。こんなチャンスはめったにないんだ。どれだけこの魔法が持つのかわからないが……たぶん一時間も持たないんだろうが。それでもいい! その間だけリーマスは真実僕だけのリーマスだ。なあ、わかれよ。僕にも色々と、夢や浪漫がある。男として」

 と、ここまでシリウスは全くこちらを向かずに(つまり自分をじっと見つめるリーマスを負けじと熱く見つめ返していたからだ)言った。

「今君のやってることは、紛れもなく卑怯者の部類にあたるけどね。男として」

「綺麗事だけで生きていけたら誰も苦労しない! マジで頼んでる。ジェームズ、ピーター、わが友。僕とリーマスを二人にしてくれ。一生の頼みだ……!」

 命乞いをするような調子だった。が、僕は却下した。そうせざるをえなかった。

「答えはNOだ」

「ジェームズ……!」

 獣のような唸り声を上げたシリウスに、僕は手のひらを突きつけた。

「ストップ。先に言っておくけど、君がリーマスに望む、めくるめく男の夢と浪漫とやらが見物したいってわけじゃない。僕は、単純に、マジで――心配してるのさ。思うに彼、リーマスには魔法がかかりにくくはないか? 特に心の魔法が。肉体を補うためなのかはわからないけど、リーマスの精神は驚くほど強固だよ。幾ら君の力でも、試しにかけてみた程度の魔法で彼の精神を屈服できるとは思わない。今の状態はあまりにも不自然だ」

「……何が言いたい」

「魔法は失敗してる。たぶん、今君が抱いてるのはリーマスの姿をした別人だ」

 

 

 

 

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