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震災2年8カ月 「マスコミなんて来なくなった」風化との戦い

産経新聞 11月10日(日)23時57分配信

 風化が切実な問題になっている。東日本大震災の被災地で取材を続けている同僚にこう言われ、三陸を歩くことにした。

 津波に流された岩手県宮古市の田老地区の集落は、だだっ広い空き地か原っぱのようにしか見えなかった。東北の別の場所ではあるが、2年前の秋に見た被災地の風景とほぼ同じだ。

 復興が進んでいない。そういう事前の下調べで想像していた景色とそう変わらないはずなのに、まったく違って映る。

 空き缶が転がっている。人が暮らしていた跡がわずかとはいえ、はっきりと目に入ることを忘れていた。少ない人通りでも、時間の蓄積が人の表情を変えることに思いが及んでいなかった。風化は自分の頭の中で起きていた。

 誰かと話をしないと、どこに何があったのかも分からない。周囲を見渡すと、プレハブの理容店がぽつんと建っていた。

 ドアを開けて名乗ると、店主の高橋優さん(63)はきょとんとした。「東京の記者さん? 珍しいね。マスコミなんてめったに来なくなったのに」

 仮設住宅の暮らしが続く高橋さんとの話は3時間に及んだ。明るい人柄だが、たまに顔を曇らせた。申し訳なさそうに、9月8日早朝に東京五輪開催が決まる直前のことを振り返った。

 「東京、落ちろ」

 そう祈っている自分に気付いて、ハッとしたそうだ。

 「誤解しないでほしいんだけど、オリンピックがくることは喜んでいるんですよ。復興にもつなげてほしい。でも、ここが忘れられていくような不安が頭をよぎったんです」

 見送ってくれるとき、高橋さんは高台にある寺の墓地を見上げた。「月命日に墓参りする人が減りましたね。多いときの3分の1ぐらいかな」

 それが単に悲しい変化だとは思わないという。「つらい思い出を乗り越えないと、前を向いて生きてはいけないから」。被災者や遺族の心で大惨事が風化することはないとも言われた。

 岩手県釜石市では、200人以上が犠牲になった鵜住居(うのすまい)地区防災センターの中に入った。「祭壇」に向かうと、両親を描いた幼い子供の絵やお菓子、ぬいぐるみなどとともに、壁に貼られた手紙が目に入った。

 年内に解体されることが決まったこの建物の保存を訴えている。幼稚園教諭だった娘の片桐理香子さん=当時(31)=を亡くした寺澤仲子さん(62)の名前が添えられていた。

 寺澤さんは毎月11日、月命日の度にここを訪れ、娘とそのおなかにいた孫に語りかける。9月下旬、生存者の証言で、理香子さんがいたのは2階の部屋だと分かったばかりだ。「建物がなくなると、また場所が分からなくなるね」

 もちろん、建物を見るだけでつらいという遺族や生存者は多い。市によると、解体を望む声のほうが強かった。寺澤さんもその気持ちは分かるという。「この問題に答えはないと思います」

 寺澤さんの頭には、理香子さんを育てた自分の町の歴史がある。釜石市の隣、大船渡市の三陸町吉浜。吉浜村といわれていた明治29年、明治三陸津波で約200人が犠牲になった後、当時の村長の手腕で低地の集落を高台に移転させた地区だ。低地はその後も農地化などで人が住むのを防ぎ、今回の震災の人的被害は行方不明1人だった。

 「センターが残れば、見るだけで震災の教訓が将来に伝わる。風化が防げる。娘の死も無駄にならない。そう思っていたんですが」

 被災地での風化との戦いは、その人の生き方を投影していた。(副編集長 三笠博志)

最終更新:11月11日(月)9時27分

産経新聞

 
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