、あほー松の人生
自衛隊編
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二等陸士 松本 勉(入隊時) |
昭和30年8月1日・・倉敷市水島の陸上自衛隊水島駐屯部隊教育第二中隊に入隊しました。入隊後三日間はお客さん扱いでしたが、その間、内務班の編成、装備品の支給・・・小銃、銃剣、鉄兜、ヘルメット、背嚢、テント、携帯ショベル、飯ごう等々、衣服については正装用軍服、制帽、作業服、下着類、軍手、軍足、半長靴、衣類等を収納する袋・・衣嚢、日常生活、教育訓練に必要なものすべてが支給されました。これらを称して「官物品」と言います。又各個人に固有認識番号が付与されました。私の場合288075ですが、この番号で防衛庁に照会すれば、私に関するすべての個人情報が分かるシステムになっているそうです。
例えば戦場において戦死すれば固有認識番号票さえ持ち帰れば戦死者のすべての個人情報が判明するというように使われるのだそうです。これからいよいよ教育訓練を受けるわけですが内務班について少し説明しておきます。内務班は軍隊における人員配置の最小単位で通常10人前後で編成され分隊ともいいます。分隊が5から10位の集団を小隊と言い5個小隊から10個小隊の集団を中隊と云い、5個中隊位の集団を大隊といいます。分隊長は陸曹クラス(下士官)、小隊長は3尉クラス(将校)、中隊長は2尉又は1尉、大隊長は3佐又は2佐クラスが指揮官となります。自衛隊の階級についてはリンクしている自衛隊のサイトで見て下さい。内務班(分隊)では陸曹クラスの班長(分隊長)と起居を共にし、隊内生活のすべてにおいて指揮監督を受ける事になります。分隊ではすべての事において全員の連帯責任を問われます。例えば一人の隊員がミスを犯すと全員の責任となるので、お互い助け合い支えあいして何事も団体行動ですから、自然と同期としての連帯感が育成されるのです。
さてここで日米の武器、特に小火器について比較してみましょう。旧日本陸軍の装備していた小銃は主として九九式歩兵銃ですが一弾倉に五発の弾丸が入っていて手動式ですから、射撃も一発ずつしか出来ません。一方私たちがこれから使用する小銃は米軍が使用していたM-1ライフル銃で弾丸発射時のガス反動利用の自動式で、一弾倉八発の弾丸が入っており八発の連射が出来るのです。又陸曹クラス以上になるとカービン銃を携行します。カービン銃はちよっと小振りで確か20発くらい連射出来たと思います。従って地上戦闘で射撃戦となればどちらが有利か、一目瞭然だと思います。日米太平洋戦争の研究は戦後いろいろな分野で行われましたが、生産力、武器装備の優劣、作戦戦術論あらゆる観点から見て日本は総体的に劣っていたと思われます。従ってこの戦争は敗戦とならざるを得なかったと思います。神国日本というような精神論だけで戦勝出来るはずがありません。それともう一つとても重要な事は、日本政府や日本軍の発する暗号電報はすべて米国諜報機関によって解読されていたのです。従って日本政府の外交方針や日本軍の作戦行動の大部分は米国に筒抜けであったのですから、この戦争に勝てるわけがありませんでした。このことは後に私が後期教育訓練を終了して通信専門分野に配属され、無線通信士から信務要員(暗号士)として専門教育を受けた時、聞かされた事で、後ほど又改めてお話しすることになると思います。お話がちよっと横道にそれましたが、いよいよ内務班生活が始まり新隊員教育訓練が開始されました。教育訓練は前期3ヶ月、後期3ヶ月の計6ヶ月間です。前期は基本的訓練から野戦戦闘訓練まで。後期はそれぞれの適性に応じて各兵科に配属されての兵科別基本的訓練を受け、6ヶ月間の新隊員教育終了後、それぞれの適性に応じて各駐屯地に配属され、専門的分野の教育訓練等を受ける事になります。
さて日課について簡単に説明しておきます。朝6時起床、総員点呼、洗面・用便清掃、7時朝食、8時課業開始、正午昼食13時午後の課業開始、17時課業終了、17時30分夕食、入浴、21時消灯就寝。夕食、入浴後から21時までの間が自由時間ですが、同室者の誰かがへまをやれば班長から整列を命じられ徹底的に絞られます。何事も連帯責任ですから・・。日課についてもう少し詳しくドキュメンタリー風に説明します。朝6時起床ラッパが高らかに鳴り響く「♪新兵さんは早よ起きよ〜〜起きねば班長さんに怒鳴られる〜〜♪」・・・不寝番隊員が「起床〜〜」と大声で叫ぶ・・・皆大急ぎで身支度を整える・・・班長が「隊舎前に集合〜〜〜」・・と叫ぶ・・急いで隊舎前グランドに整列する・・「気をつけ〜〜右へならえ・・番号・・」新隊員が「一・二・三・四・・・・・・・」と呼称する。中隊全員が整列後、各班長が小隊長に敬礼し「第○班、班長以下総員○○名異常無し〜〜」、小隊長は「よ〜〜し」といい全班長の点呼報告が終わると、各小隊長は中隊長に順次敬礼し「第○小隊、小隊長以下総員○○名異常無し〜〜」と点呼報告する。その後中隊長が「よし・・注目」と言って訓示を行い、続いて専任陸曹が命令回報伝達を行い解散となる。その後洗面、用便、清掃を素早く済ませ朝食となる。
午前8時、隊舎前グランドに整列、課業開始のラッパが響き渡り国旗掲揚を行う。終了まで全員注目敬礼、終了後中隊長訓示、命令回報が伝達され、それぞれの教育訓練に入る。正午、午前の課業終了。待ちに待った昼食だ、訓練で腹はぺこぺこ、食事が一番の楽しみだった。13時午後の課業開始・・17時課業終了。全隊集合整列し課業終了のラッパが高らかに鳴り響き、国旗が降下収納されるまで注目敬礼・・・その後中隊長以下各上官の訓示注意事項伝達等があり解散。その後夕食、入浴となり21時の消灯ラッパがなるまで自由時間だが誰かがへまをやったり、班長の虫の居所が悪かったりすると全員整列させられ体罰一歩手前というきわどい、いじめかと思うような事も多々ありました。21時消灯ラッパが鳴り響く「♪新兵さんはつらいよな〜〜〜・・又寝て泣くのかよ〜〜〜・・♪」と聞こえて来る。不寝番隊員がやけくそみたいな大声で「消灯〜〜〜」と叫び非常灯以外一斉に電灯が消える。
ライフル銃、実弾射撃訓練、標的300ヤード |
自衛官の身分はご存知と思いますが特別職国家公務員です。内務生活を送るうち娑婆が恋しくなったり、訓練が思いのほか厳しく耐え切れなかったりして、嫌になり退職するものも数多く出ました。別に昔の軍隊と違って応募志願制ですからそれは自由です。ただきちんと手続きをしてやめればいいのですが、切羽詰って中には脱走するものもいました。脱走は重大な過失となり直ちに懲戒免職となり、自身の経歴に傷をつける結果となります。写真はライフル銃実弾射撃訓練で左手の射手は私ですが、標的がかすかに見えていますが300ヤードと云えば約270メートルくらいでしょうか。的中率の優劣によって一級射手、二級射手、無資格と区分されるのです。やはり一級射手になれば班長の覚え目出度く昇格の時の条件にもなります。後々普通科配属となれば狙撃手(スナイパー)に選ばれる一つの条件となります。
旧日本軍でも一緒だったと思いますが軍隊用語で「早メシ、早ク゛ソ」というのがあります。兎に角何でも一番又は上位に入らねばバカにされ足手まといにされるのです。班内に出来が悪くて愚図でとろくさいのがいると、大迷惑です。・・・何しろ何事も連帯責任ですから・・・・従ってなんでも競争です。メシなんか5分で終了、クソも思い切り気張り早く済ませます。それは結局いつ敵に襲撃を受けても対処出来るようにするための訓練なんです。水島駐屯地の外に「亀島」という標高100メートル弱の山がありました。体力を練成するという目的でその山の頂上まで往復するという訓練がありましたが、びりから5人までは罰としてもう一ぺん往復を命じられるため、それはもう死に物狂いで往復したものです。兎に角びりから5人に入らぬよう必死でしたね。例えば2000メートルマラソンでも、びりから5人はもう一度走らされますから、必死でした。又ライフル銃の取り扱い訓練では分解組み立てを何分以内とか、夜間真っ暗闇の中で手探りで時間制限の中、分解組み立てを行うとか、そして出来なかった者には必ず罰則がありました。武器取り扱い訓練にはそのほか、重機関銃、バズーカ砲、拳銃などの実弾射撃訓練、手榴弾投擲訓練等々。最後に突撃戦闘訓練があり。数々の苦難を乗り越え三ヶ月にわたる前期訓練の総仕上げとしての査閲が終わり。我々は後期3ヶ月の訓練をそれぞれの希望に基ずいて各地の駐屯部隊に配属される事になるわけです。
私は各駐屯地に配属される事については、出来るだけ遠いところへ行きたいと思い、北海道を希望しました。当時北海道を希望するものは少なくほとんどが自身の出身地に近いところばかりでしたので、中隊長以下班長まで大変喜んでくれ、大いに点数を上げたのでした。点数とは勤務成績の事で、何事も点数が自衛隊へいる限りついて回るのです。昭和30年10月下旬、青函連絡船に乗り北海道へ渡りました。千歳市東千歳駐屯部隊第一特科団第四特科群第一○五特科大隊第二中隊へ配属され。着任後中隊長に申告をする。「申告します、二等陸士松本 勉は昭和30年10月30日をもって第一○五特科大隊第二中隊へ配属を命令されました、以上謹んで申告いたします。」
いよいよ北海道における後期3ヶ月訓練の開始であるが、私は適性検査の結果により通信班の無線通信班に配属されました。通信は当時有線通信と無線通信に分かれていましたが私は無線通信に配属され良かったなあと思いました。その理由は有線通信は各陣地拠点間に電話通信網を張り巡らすのが主たる任務、野戦訓練において、かなり重労働なんです。それに比較して無線通信は無線通信機を拠点、拠点に置いて無線電話やモールス信号による作戦電報のやり取りが主たる任務で頭脳的職種でしたから・・・でも当時の無線機は米軍払い下げの「アングロナイン」という無線機でよく故障したので中隊長に「通じん屋」と冷やかされたものです。
後期の訓練はまず無線教育から始まりました。電気工学理論から無線通信理論等の学習、モールス信号の習得・・・これが一番厄介で、信号の受信から、送信までなかなか難物で一日に覚える字数を決められそれが完璧に覚えられるまで休憩も、食事も無し、従って必死で覚えました。一日の教育終了時、教官が信号を送って来ます、正解出来たものから課業終了ですから、もう本当に真剣でした。
我々無線通信士はモールス信号を送信器を使って操作するので、微妙な手首の動きと指の動きが必要で、とにかく力仕事は厳禁でしたから、通信運用幹部の指示であまり力仕事をさせないよう通達が出されていたので、体力的には随分楽をさせてもらいました。やがてモールス信号を完全にものにし、無線通信における送受信作業を一人前に出来るようになり、ほっとしたのもつかの間、通信運用幹部からの命令で私は信務要員としての教育を受けるよう命令されたのです。信務要員と云うのは暗号士の事で、当然軍隊では作戦上、各部隊間で交わされる電報はすべて暗号電報であり、指揮官から手交された通信文を暗号に変換し送信する。一方受信した暗号電報を平通信文に変換し指揮官に渡す。これら一連の作業を任務とするのが信務要員であり非常に重要な職種で、しかも機密事項に触れるので特別な資格が必要だったのです。その要員になるために本人についての身辺調査が行われたのだそうです。
私の場合でも出身した米子の在所において身辺調査が行われたようで、当時母は私が何か悪い事でもしたのかと心配して手紙をよこして来たことがありました。私は引き続き暗号士としての教育を受けたのです。まあ余り詳しい事は機密保持の観点から云うわけにはいきませんが、私は今でも他人に知られたくない事は、すべて暗号で書きますから、絶対分からないと思います。例えば・・・・・7030 2194 2673 2301 2603 4653 7308・・・・これで一つの文章になっているのです。この四桁の数字の羅列が何を意味しているのか、理解出来る人は、その方面の教育を受けた者しかいないと思います。と言うわけで私は教育終了後は部隊にとって貴重な存在となり、毎日の課業は隊内にあっては通信室勤務で、機密事項を取り扱い、電報の送受信と暗号士としての勤務ですから、肉体的にはとても楽で、しかも通信室は幹部と言えども入室禁止で治外法権でしたから・・・・ただ一人の例外は通信運用幹部だけが入室できたのです、従って本当に楽な勤務でした。
大体野外訓練と言えば数十キロ離れた拠点同士の交信訓練でしたから、北海道内いろんなところに行きました。また部隊全体の野外訓練等ではほとんど部隊長のジープに同乗して無線通信業務に従事したので楽なものでした。又年一回北海道全部隊参加しての無線通信競技大会がありましたが、その競技大会の信務部門で優勝した事もあり。その時は大隊長が朝礼において「このたび全道部隊における第○○回無線通信競技大会において松本一士が信務部門において優勝した。正にわが一○五大隊の名誉、誉れである。松本一士はわが大隊の宝である。」などと大げさに紹介された事もありました。これが点数を上げるということなのです。それから私は後期3ヶ月の訓練終了後、成績優秀と言う事で第一選抜で一等陸士に昇任しました。同じ新入隊員で第一選抜での昇任は全体の5パーセントくらいの人員だったでしょうか・・・そんなわけで多くの昇任出来なかった隊員達からねたまれたものです。いわゆる出る杭は打たれると言うやつです。
ここで自衛隊の兵科について説明しておきます。陸上自衛隊における兵科の分類は大雑把にわけて、普通科(歩兵)、特科(大砲関係)、施設(工兵)、空挺(落下傘)、機甲(戦車、装甲車)、補給(後方支援)等々でしょうか、私は特科でしたので大砲の部隊ですが、大砲と言っても色々あり、榴弾砲、カノン砲、迫撃砲、対空高射砲と色々あります。私たちの部隊は155ミリ榴弾砲の部隊でした、その砲弾は射程距離15キロメートル位ありました。現在では対空ミサイル、対戦車ミサイルなど兵器も格段に進歩しているでしょうし、暗号士等の任務も当然コンピューターが使用されていることと思います。
写真は155ミリ榴弾砲と一等陸士 松本 勉 |
内務班生活をした米軍払下げカマボコ式隊舎 |
千歳高校定時制入学クラスメートと記念写真 |
それから大砲の後方に見えているかまぼこ型の建物が当時の私たちが日常の内務班生活をしていた隊舎です、なかなか合理的に出来ています。もちろん米軍が用いていた方式です。真ん中に通路があり両側に隊員用シングルベッドがずらっと並んでいます。入り口と一番奥に個室があり班長クラス(陸曹)の個室になっています。一つの隊舎で3ないし4内務班、だいたい30名から40名くらい入っていたでしょうか、隊舎と隊舎の間に連絡している建物があり其処に洋式トイレ、洗面所、シャワー室がありました。洋式トイレは10個くらいが何の仕切りもなくずらっと並んでいました。大小便をするときはお互い丸見えでした。このようなかまぼこ型隊舎が何十と建っていました。何しろ東千歳駐屯地には当時約一万名くらいの隊員がいたそうですからちょっとした町で、中には映画館、体育館、PX(ショッピングセンター)等があり、いずれも課業終了後、あるいは休日等に利用出来ました。
さすがは米軍式。課業後あるいは休日等に映画が楽しめ、ショッピングが楽しめる。旧日本軍ではこんな事は出来なかったのでは・・・・それに課業後外出も申請すれば許可されましたが、ただし21時消灯ですから、消灯時間に間に合うよう帰隊しないと大変な罰則を受けるので平日はよほどの事がない限り外出せず、休日まで我慢したものです。それから内務班生活において週末土曜日には官物品の員数点検が実施されます。支給された官物品がきちんとあるかどうかと云う点検ですが、中には紛失しているものもあったりしますので、他者のものを物干場から、ちよぃと失敬するという、いわゆる「員数付け」と称する行為がありますので、点検日は油断禁物でした。しかし最終的にはうまくしたもので、員数不足になったときはPX(隊内売店)に行けば官物品と同一のものが売られていますので買ってくるということになります。ようやく後期訓練、職種別専門訓練も終了し自身の隊内生活にも多少余裕が出てきましたので、私は日常の課業後、かねて入学したかった道立千歳高校定時制に中隊長の許可を得て入学しました。その入学試験の成績が一番だったということで、またまた学校で評判になってしまい、先生方にも注目されたのでした。でも学校のほうは結局、訓練や夜間演習とか勤務の都合上、欠席が多く結局挫折し、中退してしまいました。自衛隊生活における一番残念な出来事になりました。
自衛隊生活の中での一番の楽しみはやはり外出と休暇でしょうか、外出は日曜日ですが私の場合は千歳高校通学という特別許可があったので平日も課業後外出しました。授業が終わりバス停の前の屋台のラーメンを食べるのが唯一の楽しみでした。又休暇については年二回のまとまった休暇・・・年末年始と夏季に大体10日間から2週間の休暇を貰い、米子市に帰省するのがとても待ち遠しく思えたものです。当時は青函連絡船に乗り国鉄を乗り継いで帰省したものですが米子に着くと、疲れがドット出てしまい一日は家でこ゜ろこ゜ろしていました。
さて自衛隊入隊後の信子さんのことですが入隊後、一応所在地は連絡していましたので、毎月2回ぐらい手紙を貰ったでしょうか。北海道に渡ってからのある日、彼女から手紙を貰いました。私との別れを知らせる内容でした。「私は勉さんを心から愛していました。あなたの赤ちゃんが欲しい欲しいと願う余り何回夢を見たことでしょうか・・でも所詮、勉さんとは結婚出来ない事もよく理解出来ました。このたび縁談をすすめて下さる方がおられて、その方のご紹介でお見合いをしました。相手方は私をとても気に入って、婿養子の件もご了解下さって、結婚する事になりました。勉さんとのことは一生忘れません。本当です。心から愛していました。」・・・というような内容であった。正直なところ私はほっとしました。彼女には本当に幸せになってもらいたかったから・・・・と同時に内心ちょっと残念だなあとも思いました。
昭和32年夏期休暇で帰省。気になっていたので「みちづれ」に行って見ました。カウンターの奥にハンサムなマスターがいました。そして彼女のお母さんも、信子さんもいました。マスターが彼女のお婿さんでした。彼女は私をマスターに昔のお友達よ、と紹介してくれました。暫くの間自衛隊の生活や北海道の話を興味深そうに聞いてくれました。帰りがけに店外に出て来て「きょうは来て下さってありがとう・・」といい少し目を潤ませていました。さようなら・・信子さん・・いい人が見つかってよかった。幸せになってくれと心から祈りました。今彼女はどうしているのでしょうか。きっとお孫さんにも恵まれていいおばあちゃんになっているのでしょうか・・・・そしてそれ以降、彼女とは2度と会うことはありませんでした。
さて自衛隊時代のお話をもう少ししておきましょう。自衛隊員の身分は前にも述べたとおり特別職国家公務員ですが入隊すると同時に年間20日間の有給休暇が付与されます。しかし平素は課業勤務の都合上休暇を自由に取る事はよほどの事情のない限り出来ません。従って年二回、夏季と年末年始にまとめて1週間から10日間位の休暇となります。又賃金は2等陸士の初任給として月額6000円が支給され、3月、6月、12月に期末勤勉手当、いわゆるボーナスに該当するものが支給されました。昭和30年ごろの一般的労働者の賃金水準はおおむね月収10000円前後だったと思いますので、比較してみれば衣食住が保障されての6000円はかなり価値があったと思います。ちなみに現在の自衛官の給与については中卒で採用される自衛隊生徒三等陸士で初任給153100円、高卒の二等陸士で159600円、そのほかボーナスが年間4.4ヶ月分だそうですから、民間企業よりかなり優遇されているように思います。
私は長男でしかも下に弟妹が3人おり、母は父の死後、大変な苦労で生活も苦しく、地区の民生委員の勧めで生活保護を申請されたらという申し出も、「国のご厄介になりたくないので・・・」という理由で断りました。それが旧制女学校を出たという母のせめてものプライドだったんでしょうか。母の実家は当時すでに衰退していましたが、母が女学校に通学していたという昭和の初期に母の父は呉の海軍工廠の幹部社員で、当時月額100円くらいの月給取りだったそうですから、お嬢さん育ちのこれという職能も無かった母は日雇い労働などで苦労しておりました。私は6000円の内から毎月4000円を仕送りしました。これで母も随分助かった事と思います。現在では自衛官の給料も口座振込みになっていることと思いますが、当時は現金支給で、給料日には中隊事務室で中隊長立会いの下、人事担当の先任陸曹から受領していました。少しドキュメンタリー風に月給受領を再現してみます。「一等陸士・・固有認識番号288075松本 勉・・入ります!」「よーし・・入れ!」そして給料が手渡され、その場で開封、点検し、「まちがいありません!」というと中隊長が「松本一士、使途計画はどうナットルカ?」「ハイッ母に4000円仕送りし2000円は自分の小遣いであります・・・」。「う〜む・・貴様はなかなか感心だな〜、よろしい」「松本一士・・帰りマ〜ス」・・・まあこんな感じですが、皆んな月給受領時、中隊長に使途計画を聞かれるので、手持ちの小遣いを増やしたくて、その理由作りに苦心したものです。
私は最近書類の整理中、母に送金した書留の控えを見つけましたが、40枚ほどありました。さて年二回の休暇の過ごし方ですが、もちろん米子へ帰省していました。当時は国鉄で千歳から函館、函館から青函連絡船で青森、青森から急行「日本海」に乗り京都、京都から山陰本線で米子まで、ちょうど一昼夜くらいかかったと思います。米子に着いて列車を下りると若くて体力のあった私でも、さすがに疲れましたね。制服の左肩下に北海道マークの隊章が着いていたので皆に珍しがられました。通常の日曜休日の外出ではよく札幌や小樽などにも遊びに行きました。それから外出といえば、やはり平素禁欲生活を強いられていましたので、若くて体力もありましたから特飲街に行き性欲の処理に励みました。それは私だけでなく皆一緒でしたから・・・軍隊のあるところ女あり、当たり前です。当時はまだ遊郭のあった時代です。売春禁止法が施行されたのが確か昭和33年と記憶していますが、駐屯地の近くには遊郭はなくとも特殊飲食街・・略して特飲店、千歳の町も、その手の店があっちにもこっちにもあり、若いお姉ちゃんが、おいでおいでをして誘うのですから、たまりません。外出が許可されると全員整列してまず性病予防の訓示があり、鉄兜(コンドーム)の使い方など聞かされたうえでの出動となります。外出して街に出ると早速突撃開始・・・・ラッパ高らかに鳴り響きお姉ちゃんのところへまっしぐら・・・昼でも夜でも関係なし・・餓えたる狼です。当時のお姉ちゃんの相場・・ショートで500円から1000円くらいでしたが交渉しだいで値引きもありました。ただ相手の数より私たちのほうが圧倒的に多いので、あちらこちらで鉢合わせとなり、一時間ぐらい順番待ちになることもありました。人気のあるお姉ちゃんになると、鼻息が荒く、一人終わると「次の人いらっしゃあ〜い!」なんてね・・・・・・「まあいやらしい・・・」そう思いますか?でも私たちにとっては深刻な問題なのでした。その結果深刻な問題を背負い込み悩む事も。そうそれは不潔なお姉ちゃんからお土産を貰うという事です。訓辞を聞いたのにもかかわらず上の空で話を聞いてお土産を貰ってくるんです。もうお判りですね、一つは性病、もう一つは毛虱という厄介なお荷物です。お姉ちゃんから貰ったお土産退治のお話は又後ほどお話いたします。私の名誉のため云っときますが私はそんなへまはしませんでしたから。
さてここで皆さんの自衛隊に関する、疑問について少し説明しておきましょう。もちろん土曜日は半ドン、日曜祭日もお休みですが訓練計画にもとずく演習、特に野外野営訓練等の都合により、お休み返上という事は当然あります。それから任期についてですが2年間です。しかし希望すれば継続任用として2年間更に希望すれば定年まで継続任用されますので生涯勤務するという事も可能です。ただし階級ごとに定年が決まっていますので、それぞれの階級の定年までに昇任する必要があります。私は昭和32年12月に退職しました。理由は二つあります、一つは気候の問題です。北海道の夏は最高の環境で快適ですが、冬の厳しさは半端ではありません。それで嫌気がさしたのです。冬になれば零下十数度になるのは当たり前、そのような環境の中で夜間野営訓練などで二人用テントにグランドシートを敷き毛布と薄っぺらの布団で就寝するのですが、寒さの余り寝る事が出来ませんでした。何しろ眉毛は凍り鼻の穴は息を吸うたびに息が凍り、ピチャピチャとくっつきます、それはそれは苛酷な環境なんです。それが第一の問題点。第二点は当時私は信務要員として勤務していましたが、更に上級専門課程である陸上自衛隊通信学校内にある高等暗号課程を履修するよう命令を受けていたのです。もちろんその課程を履修すれば通信運用幹部自衛官への登竜門となるのですが、同時にそう簡単に退職出来なくなります。一生自衛隊暮らしをする考えは毛頭無かったからです。さて自衛隊の必要性については当然の事ですが国家の独立と平和を守るため。自衛隊に関する法律では自衛隊の設立目的について、自衛隊法第3条に自衛隊の任務について、次の通り定めています。"自衛隊は、わが国の平和と独立を守り、国の安全を保つため、直接侵略及び間接侵略に対し、わが国を防衛する事を主たる任務とし、必要に応じ、公共の秩序の維持に当たるものとする。"とあります。
世間には膨大な税金を使って軍備をしている事に強く反対している人達が沢山存在している事は事実ですが、国家の独立と平和は軍備無しで守れるものではありません。私達個人間においても、例えば相手が空手五段とか柔道五段とか備えのある人であれば、誰も喧嘩を売ったりはしないでしょう。つまりこれが、抑止力ということなんです。独立国として優れた軍備があれば、相手国もそう簡単に戦争を仕掛けたり、侮ったりする事は出来ないでしょう。其処に自衛隊の存在価値があると思うのです。旧日本軍部が満州事変、日中戦争と暴走し太平洋戦争でついには敗戦という悲惨な結末になったのも、軍部の暴走を抑える事が出来なかったからです。つまり軍部を統制する政治上文民統制のシステムが、完璧になっていなかったのが原因だったと思います。今日の自衛隊を見てみるとシビリアンコントロール、すなわち文民統制のシステムが、完璧に構築されていると思います。自衛隊法を熟読すればその事がきっと理解出来ます。少しお話が難しくなってしまいましたが、お話を元に戻しましょう。
さてお姉ちゃんから貰ったお土産退治ですが、性病を貰ってくるとこれは大変です。皆に分からないようにこっそりと、さりげない顔をして、街の病院に行くのですが厄介な事に、自衛官の場合隊内に病院や医務室がありますので、診てもらえず、結局は所属する部隊に通報され、バレバレになってしまいます。上官や医官にとことん絞られるのですから、堪りません。一度そのような恥ずかしい経験をすれば、もう二度とはかかりませんね。それこそ完全武装で防衛しますから・・・・・私と同期で特に仲の良かった隊友の○○君がやられ。往生したのをいまだに笑い種で、彼とは年賀状のやり取りがいまだに続いて年1回の交流があります。私も千歳の特飲店のお姉ちゃんには、随分お世話になりましたが幸いな事に、いっぺんもお土産はいただきませんでした。さてもう一つのお土産話の毛虱退治ですが、これもなかなか厄介なもので絶対内緒にして、まず薬局で水銀軟膏という薬を買って来ます。そして入浴30分前にそれを陰毛に念入りにベタベタ塗りたくります。すると毛虱ちゃんは呼吸が出来ないので陰毛の先っぽへ這い上がってくるのです。それを見計らい、入浴場に行き徹底的に洗い流すんです。これを一週間の間に三回ぐらい繰り返せば、目出度し目出度しとなるわけですが、これは他の隊員に見つかると袋たたきに遇いますので絶対機密が必要です。(笑)洗い流した毛虱ちゃんはどうなるんでしょうか?次のスポンサーを見つけるためそこらじゅうはい回し、たまたまその場所で腰掛けた人が新たな災難に見舞われるという結果を生む事になるんでしょうね。でも私たちの駐屯地の入浴場は、一箇所で大きな浴槽が五つもあり、そのような入浴場が、駐屯地内には何箇所もありました。洗い場だって何十とありましたから、そんな不幸な目にあうということも余り無かったように思います。
「謹んで申告いたします、一等陸士、固有認識番号288075、松本 勉は昭和32年12月26日をもって、本官を免ぜられました」「よ〜〜し、娑婆に帰ったら自衛隊精神を忘れず、元気でがんばれい〜・・・」中隊長から最後の訓示を頂き、昭和32年12月27日。てんやわんやの自衛隊生活にピリオドを打ち30000円の退職金を頂き懐かしい米子に帰るべく青函連絡船に乗船しました。さらば北海道よ、わが青春の一ページを飾った北海道よさようなら・さようなら・次ページへ