2013年08月23日
宗教に無知な日本人
日本人の宗教観は実に幼稚だ。
しかし、私だって威張れない。なぜなら、こうした知識を学ばせて頂いたのは、創価学会にいたからであり、もしそうでなかったらなら、私も宗教に無知な人間だったことであろう。
ゆえに、私はその恩に報いるためにも、創価の正義を証明していかねばならないのである。だから、語りに語るのだ。悪口罵詈はもとより承知のうえだ。
簡単に言えばすべての宗教は南無妙法蓮華経に含まれる。これが大前提。
キリスト教やイスラム教や、ヒンズー教、そして日本にある仏教各宗派もすべて南無妙法蓮華経に含まれるということ。
キリスト教の原典はユダヤ教である。実はイスラム教の原典もユダヤ教に見られる。
そんな点から、おそらく宗教の原初はひとつであったことがわかる。ようは、それが広がっていくことで、流布した先々の環境や様々な要因を受けて、教義が変化したものと考えればいい。
宗教のない太古には神話があった。これを学ぶとそういうことがハッキリ見えてくる。
宇宙がどう出来てきたか、人類がどう生まれたか、これは、それこそ無数にあるのだが、これ、分類することで5つくらいの種類にまとまるのだ。つまり、どんだけ多数の人が思索し思考したとしても、出てくる答えは似通ってくるということ。
そんな年月が長いこと続き、やがて様々な神話・宗教が成立してきた。
10人いれば、10人とも思考が違うのであるから、10通りの神話・宗教が生まれた。100人いれば、100通り、1000人いれば1000通り……といったようにどんどん宗教は増えていった。
しかし、そうなってみると、まったく違う時代や会ったこともない人種間でまったく同じ思考に辿りついている、ということに気づきはじめる人がいたのだ。これは交通手段の発達や、生活のための物々交換という、今でいう経済活動の発展によって起こった。
ともあれ、こういうことで、これまで世界中にあった神話・宗教の教義書などを、一か所に集めて思索した人がいたのだ。
そして――
「おい、なんで時代も人種も違うのに、こんなに同じところがあるんだ?」と気づいた人が、
「おい、この宇宙には、何かしら共通する法則があり、普遍的で永続性のある法則があるんじゃね?」、とそう考えたわけだ。
そういう人たちは考えた。ひたすら考えた。でもってさらに考えに考えた。寝食を忘れてもうガリガリに痩せちゃうくらい必死に考えた。でもこれ、いわゆる断食という名の肉体的苦行じゃないんですよ。本当のところ、断食してると生命力が衰えていき、煩悩(雑念)が自然に減って行き、思索の集中力がアップするからやってたんですね。そうして死の一歩手前までいって、釈尊も宇宙の法則を心で感得したのでしょうね。でも、この娑婆世界じゃー食わなきゃに死ぬ、それは生きるための法を説くことに適っていない、そんで釈尊、覚ったあとは苦行はやめたわけです。
死ぬー、死んじゃうよー。そんな時に乳かゆを布施したのが、スープのメーカー名で有名な、スジャータさんですね。つまり、この挿話は、究極の思索も大切だが、まずもって人間には食べて肉体を維持することが大切であるということを教える比喩とも言えるだろう(事実ではなく、のちの世代が伝えた話ですからね、こういうのは)。
余談だが、こうしたことから「布施」という言葉の意味は、生きていく為に最低限必要のものを自然界から貰い受けるというのが本当の意味なことがわかる。仏教徒がお椀をもって、食べ物を請う行為もこれと同じだ。出家者は服も何も必要最低限であったから、法を説いて回り、そのお礼として生きるために食物をお礼にもらっていた、そういうことです。托鉢ってやつですね。生きるために法を説いてたのであってね、別に仏教徒は乞食でもなんでもないんですわ。そこ、勘違いしないようにですよ。
であるから、ご供養の精神もそういうところにある。学会にいて、正しい信心の仕方を教わってきたんだから、そこに感謝の気持ちがあれば、供養するなど、まあ当たり前の話なのだ。まあ、それを捻じ曲げて集金宗教に落ちぶれた宗派もありますが、この話はここまで。
ともあれ、こうして、自分の目に見える人間や自然や動物を観察して、ある程度普遍的な法則を見つけ出したのが、ユダヤ教でありキリスト教であり、様々な宗教だ。
でもこれには、決定的な誤りがあった……。
考えればわかりますよね。
自分を見て探し出した法則ではないから、自分にはあてはまらないという大きな落とし穴があったということ。いと愚か……でも、そうした発見があったから、おれらは覚りを得られた、だからそうした宗教も認めるという寛容さが本当の仏法思考ってことなのだが、
しかし、自分の外側に原因と結果(因果の法則)に求めた、こうした宗教は、仏法では思想的には外道だと判じたということだ。
つまり、仏法は自分自身の心身を観察して、また、他者を見てそれを自分の身に引き当てて説かれた内道であることが、これで理解できる。
釈尊、恐ろしいほどの感受性と思考力を持っていたんでしょうね。もちろん大聖人もね。きっとウルトラ・エンパスだったんですよ(笑)
であるから、仏法にも当然、内道の部分を説いた経典もあれば、外道の部分を説いた経典もあるのだ。
内道を説いたものは、日蓮仏法では正報と呼ぶし、外道を説いたものは依報と呼んでいいだろう。
しかし、この正報も依報も、どちらも自分が見て聞いて触れて(基本的には五感と意識でだが、釈尊・大聖人レベルは娑婆世界では普通見れない次元、ひも理論では11次元あって、娑婆世界はその中の四次元、三次元と時間しか普通は感じられないと言われているものを)感じたのであるはすだ。
ゆえに、正しい仏法では、全ての物事は自分の内側(心)に原因と結果(因果)があると、説いている、つまり内道だということだ。
ちなみに、娑婆世界で普通感じられない次元は思索によって到達できると思われ、それを仏教一般では覚りといいます。悟り、これは部分的なさとり、覚り、これは全部をさとったさとり、そういう分類もちゃんとあります。
日蓮仏法では、学会指導ではこれを「内外相対」と呼び、正しい宗教(ようは思想法)を選ぶまず初めの段階として説いている。
これのどこがおかしいですか? 異論・反論はバンバン受け付けますが、何一つ間違ってませんよ。
智者に我が儀破られるば、用いじ云々。開目抄にあるとおり、大聖人の思索は覚りであって、知識では絶対に敗れません。それをご存じのうえで、完璧な確信を持ちながら、大聖人はあえて謙譲の美でそういう言葉遣いをされているのだ。だから、破れるはずがない。理論的破たんはありえないのですよーだ。
礼儀とかさ、謙譲も、現代は廃れてきてますね。人に礼儀ってなんだ? とか聞いてくるとか、どんだけ? とか思いますよ。アハハ、悪口いっちゃった! テヘ^^; お口腐っちゃうぅー(笑)
あとでお題目で罪障消滅しなきゃですよ。
ともあれ、こうして一旦は完璧な宗教が現れたのです。それが釈尊の説いた仏法です。
が、問題はここから、難しくなるのはここからだ。
そう、娑婆世界には時間と空間が存在し、エントロピー増大の法則があるからだ。
つまり、時代が進むにつれて、人間の心は汚れてゆき、やがて釈尊の説いた教経が効用を失っていったということ。
もちろん釈尊は完璧主義な人だったので、そんなことは知り尽くしていた。なにしろ死の一歩手前までガリガリになった人ですからねぇ。当然、大聖人もそういう体験をしている。虚空像菩薩に願をかけて血吐いて倒れたという話もあれば、何度も何度も難にあわれ、殺されそうになり、極寒の佐渡にも流罪されていますからね。けどこれはまた別の意味もあるのですが、ここではお話しません。
とまれ、そうして釈尊が残していったのが、法華経なのである。
けどこれ、経文にそのまま文字にしてしまうことにも問題があった。
なぜなら、まだ綺麗な生命(心)を維持できる時代にこれを文字にすることは、大混乱のもとになるからだ。
ゆえに、釈尊は末の世代(末法)のために、法華経の文底にその深甚の教えを秘しておいたということだ。
というより、釈尊自身はすべて口伝で法を説き、のちの世代が経典にまとめたので、釈尊が法華経を書いたわけじゃないですけどね。そういう意味では、あらゆる言語で書かれた法華経を目にして、見事に文底を失わずに翻訳した、鳩摩羅什(くまらじゅう)こそ凄い人ともいえる。この人、間違いなく、文底読んでたでしょ。で、それを今説くとかえって害になることを内心では知ってたんでしょうね。なので、私などは鳩摩羅什は天台、伝教にも並ぶ人だと思ってますよ。牢屋とかにも入れられて酷い難にも遭ってますからね、羅什さんはね。
一応、聖徳太子が法華経を解釈するために読んだ経典も鳩摩羅什の訳だということは知っておいて損はないでしょうね。ビバ鳩摩羅什! 鳩摩羅什万歳です(笑)
御書にもあります、羅什さん、正直だったから、火葬しても舌が焼けなくて、金キラ金だったとね。
つまり、嘘つきは舌の病気になるということですよ! おー恐っ。
ともあれ、時代は過ぎ、やがて鎌倉時代に入る。そう、この頃にはもう釈尊が文字にして説いた教経は効用を失っていた。だから人が人を疑い、身内でさえ殺し合いをする時代は近づいていた。
そんな時代にあらわれた宗教家たちが、平和に暮らす方法はないのか!? と悩み考え、思索しながら、様々な教典を学んだわけだ。当時の宗教家というのは、今でいう、理論物理学者であり、経済学者であり、歴史家だったから、凄い膨大な知識をもっていたので、国主なんかも、政治を治めるにあたって、お知恵拝借なんていう具合に、尊敬され、とても頼られていた存在でもあったんですけどね。
けど、多くの人は、釈尊が法華経の文底に沈めた究極に正しい法が読み取れなかったのだ。
で、究極でもなんでもない、阿弥陀教(浄土三部経)やら、阿含経やら華厳経(釈尊が法華経以前に説いた教え)に宇宙の法則の真実があるんだ! とか誤解したわけです。
だけならまだしも、いいや釈尊の教えは間違っているとか言いだして、本尊に大日如来を立ててしまう真言宗という大馬鹿な輩まで現れ、果ては文字には真実はない! とかいって「文字不立」とか叫んでだるまだ座禅だとか言いだす始末。その禅宗の馬鹿どもは、「文字不立」とか言いながら、その典拠は文字で書かれた経文という大馬鹿矛盾野郎じゃないか。まあ文字の底にって意味ではこの理論はあってるんだけど、その文字がなければ、真実は知れなかったんだから、文字は真実の一部であり、真実へと到達する扉だってことです。その文字を否定してるお馬鹿さんが禅宗ですよ。否定からは何も生まれないということです。
つまり、間違ったものはこうして正していかないと、それを信じた人が不幸になるから、日蓮大聖人は「四箇の格言(念仏無間・真言亡国・禅天魔・律国賊)」を叫ばれたのだ。
別に相手が憎くて叫んだのでも何でもない。間違った信仰をすると不幸に陥ると熟知していただけのことなのだ。慈悲ゆえなのだ。
じゃ、その日蓮大聖人は何を根拠にそういうのだ? というのだろう。
もちろん、釈迦の説いた究極の法である法華経(もちろん鳩摩羅什訳ですよ)の文底に沈められた妙法(正式には妙法蓮華経)という教であり、その文底にある法則に則りなさいという南無(帰依=帰命)妙法蓮華経であるということだ。なんてシンプルなんでしょう。大切なことは実にシンプル。これも宇宙の道理なんですけどね。好きは好き、嫌いは嫌いでしょ。どっちでもいいなんてないんですよ(笑)
簡単にいえば、全体観と部分観の問題なのだ。
大聖人は宇宙の全ての法則に人間も従うべきだ、そう見た。
しかし、他宗の宗教家は地球だけみて、これが宇宙の法則だとか言ったり、火星だけみてこれが宇宙だとか、ありもしない星をみて、これこそ! とか妄想しまくって暴言吐いたということ。
わたしらは、宇宙の法則で考えれば宇宙人でしょ。でもそういう大きな視線でものを見ないと、俺は地球人だ! なにか間違ってるか!? あたしは金星人よ、なにが悪いの! あたい、アンドロメダ星人よ! なにか間違ってて! とかなっちゃうんです。おかしいでしょ、そんなこと。
人間が生きていくためには心臓こそ大切だ、だから心臓にだけ栄養を送れば生きていける! 阿呆か。
つまりこれが部分観。
人間が生きていくには、まず全宇宙の働きが必要であり、そこにある惑星や小惑星や星間物質が必要であり、水や大地や穀物や陸棲動物や魚が必要であり、人間であれば約60兆の細胞が見事な動的平衡を保っていてはじめて、人間は正しく生きられる、とそう見たのが日蓮大聖人なのだ。
そして本来、その宇宙の法則は「慈悲」の働きである、そう見抜いてしまったのが大聖人だ。
この辺はまだ学会の教学では初級です。しかも途中。
でももう話すの疲れてきました(笑)
ともあれ、すべての宗教は、南無妙法蓮華経に含まれる、それが真実なのです。
数あるほかの宗教は全て南無妙法蓮華経の部分部分しか説いていない、そういうことです。
信じられないんでしょ? でもちゃんと考えれば、これはもう納得するしかない完璧さなのですよ。
しょせん、われわれは宇宙人なんだからさぁ、宇宙の法に則らないと正しく生きれないんですよ。
俺は地球人だ! とか強盛言いはってるだけのことでしょ。
ゆえに、「正しい宇宙の法則が間違っている!」とか言って、正しいものを誹謗中傷すると、大変なことになるのです。
口から離れた言葉が虚空に消えてゆく。それで済むと思わないほうがよろしい。
その口に繋がっている部分が全部腐りますからね。考えてごらんなさいよ、口から続いている臓器は最後は肛門に至ってるんですよ。内臓は全部外気に触れていると考えておかしくないのです。だから口が悪い人ははらわたが腐るんです。おわかりですか?
よって、人の悪口言うと、喉、胃などなど、最終的には、はらわた全部腐ります。おー恐っ。でもこれ真実だからさ、不幸になりそうなことしてる人を見たら、言っとかないとでしょ。そういうことなんですよ。それが慈悲だからですよ。
もっともね、口から出ることばの大元は心にあるんです。なので、口から汚いことを吐くと、
最後は心の病気になって狂い死にしますよ。おー恐っ。
私がうつ病になったのも、一時期間違った思考をして、世間や他人に怒りを吐き散らしたからですよ。
私はそれを身をもって知っているそういうことです。このブログの過去記事をご覧になればよい。
もうそれは、眼を蔽いたくなるような世間や他人への罵詈雑言だらけだ……お目目腐るくらいの勢いだったんですよ。
ふふ、お口腐っちゃうー(笑) くらいで済むユーモア感覚は大切ですけど、人を見下したり、なんでもかんでも嫌だと感じることを世間や人のせいして喚き散らすと、精神の病気になるんですよ。必ずそうなるんです。間違いなくそうなるんです。
ということで、心もはらわたも全部腐るのが嫌なら、信仰を持たずとも、謙虚で誠実に、いつも物事に感謝して生きて行けばいいんですよ。しかし、人生に信仰を持ち込めば、そういうことに一々意識を持っていかなくても、無意識に全宇宙に感謝できる人間になれるという寸法。
結局のところ、宗教の究極は感謝の気持ちなのですよ、賛嘆の気持ちなのですよ。南無妙法蓮華経って唱えることにはそういう意味がありますからね。
だから、人を見下し馬鹿にし、暴言を吐き、批判し、誹謗中傷し、難癖をつけ悪ふざけをすれば、悲惨なことになる、そういうことです。塵もつもれば山、須弥山(しゅみせん=仏教上、世界の中心にある山)になるんですよ。おー恐っ!
お耳もお目目も、お鼻も腐らないうちに、正しい宗教に帰依したほうがいいですよ。
合言葉は、お口腐っちゃうぅー、これです(笑)
もっと言えばね、謙虚で誠実な振りをして、腹の中では他人の不幸を楽しんでいるようなことをすれば、究極の悲惨を自ら招いているということです。あら恐ろしや、あら恐ろしや、だ。十二分にお気をつけになられるといいと思いますよ。
しかし、私だって威張れない。なぜなら、こうした知識を学ばせて頂いたのは、創価学会にいたからであり、もしそうでなかったらなら、私も宗教に無知な人間だったことであろう。
ゆえに、私はその恩に報いるためにも、創価の正義を証明していかねばならないのである。だから、語りに語るのだ。悪口罵詈はもとより承知のうえだ。
簡単に言えばすべての宗教は南無妙法蓮華経に含まれる。これが大前提。
キリスト教やイスラム教や、ヒンズー教、そして日本にある仏教各宗派もすべて南無妙法蓮華経に含まれるということ。
キリスト教の原典はユダヤ教である。実はイスラム教の原典もユダヤ教に見られる。
そんな点から、おそらく宗教の原初はひとつであったことがわかる。ようは、それが広がっていくことで、流布した先々の環境や様々な要因を受けて、教義が変化したものと考えればいい。
宗教のない太古には神話があった。これを学ぶとそういうことがハッキリ見えてくる。
宇宙がどう出来てきたか、人類がどう生まれたか、これは、それこそ無数にあるのだが、これ、分類することで5つくらいの種類にまとまるのだ。つまり、どんだけ多数の人が思索し思考したとしても、出てくる答えは似通ってくるということ。
そんな年月が長いこと続き、やがて様々な神話・宗教が成立してきた。
10人いれば、10人とも思考が違うのであるから、10通りの神話・宗教が生まれた。100人いれば、100通り、1000人いれば1000通り……といったようにどんどん宗教は増えていった。
しかし、そうなってみると、まったく違う時代や会ったこともない人種間でまったく同じ思考に辿りついている、ということに気づきはじめる人がいたのだ。これは交通手段の発達や、生活のための物々交換という、今でいう経済活動の発展によって起こった。
ともあれ、こういうことで、これまで世界中にあった神話・宗教の教義書などを、一か所に集めて思索した人がいたのだ。
そして――
「おい、なんで時代も人種も違うのに、こんなに同じところがあるんだ?」と気づいた人が、
「おい、この宇宙には、何かしら共通する法則があり、普遍的で永続性のある法則があるんじゃね?」、とそう考えたわけだ。
そういう人たちは考えた。ひたすら考えた。でもってさらに考えに考えた。寝食を忘れてもうガリガリに痩せちゃうくらい必死に考えた。でもこれ、いわゆる断食という名の肉体的苦行じゃないんですよ。本当のところ、断食してると生命力が衰えていき、煩悩(雑念)が自然に減って行き、思索の集中力がアップするからやってたんですね。そうして死の一歩手前までいって、釈尊も宇宙の法則を心で感得したのでしょうね。でも、この娑婆世界じゃー食わなきゃに死ぬ、それは生きるための法を説くことに適っていない、そんで釈尊、覚ったあとは苦行はやめたわけです。
死ぬー、死んじゃうよー。そんな時に乳かゆを布施したのが、スープのメーカー名で有名な、スジャータさんですね。つまり、この挿話は、究極の思索も大切だが、まずもって人間には食べて肉体を維持することが大切であるということを教える比喩とも言えるだろう(事実ではなく、のちの世代が伝えた話ですからね、こういうのは)。
余談だが、こうしたことから「布施」という言葉の意味は、生きていく為に最低限必要のものを自然界から貰い受けるというのが本当の意味なことがわかる。仏教徒がお椀をもって、食べ物を請う行為もこれと同じだ。出家者は服も何も必要最低限であったから、法を説いて回り、そのお礼として生きるために食物をお礼にもらっていた、そういうことです。托鉢ってやつですね。生きるために法を説いてたのであってね、別に仏教徒は乞食でもなんでもないんですわ。そこ、勘違いしないようにですよ。
であるから、ご供養の精神もそういうところにある。学会にいて、正しい信心の仕方を教わってきたんだから、そこに感謝の気持ちがあれば、供養するなど、まあ当たり前の話なのだ。まあ、それを捻じ曲げて集金宗教に落ちぶれた宗派もありますが、この話はここまで。
ともあれ、こうして、自分の目に見える人間や自然や動物を観察して、ある程度普遍的な法則を見つけ出したのが、ユダヤ教でありキリスト教であり、様々な宗教だ。
でもこれには、決定的な誤りがあった……。
考えればわかりますよね。
自分を見て探し出した法則ではないから、自分にはあてはまらないという大きな落とし穴があったということ。いと愚か……でも、そうした発見があったから、おれらは覚りを得られた、だからそうした宗教も認めるという寛容さが本当の仏法思考ってことなのだが、
しかし、自分の外側に原因と結果(因果の法則)に求めた、こうした宗教は、仏法では思想的には外道だと判じたということだ。
つまり、仏法は自分自身の心身を観察して、また、他者を見てそれを自分の身に引き当てて説かれた内道であることが、これで理解できる。
釈尊、恐ろしいほどの感受性と思考力を持っていたんでしょうね。もちろん大聖人もね。きっとウルトラ・エンパスだったんですよ(笑)
であるから、仏法にも当然、内道の部分を説いた経典もあれば、外道の部分を説いた経典もあるのだ。
内道を説いたものは、日蓮仏法では正報と呼ぶし、外道を説いたものは依報と呼んでいいだろう。
しかし、この正報も依報も、どちらも自分が見て聞いて触れて(基本的には五感と意識でだが、釈尊・大聖人レベルは娑婆世界では普通見れない次元、ひも理論では11次元あって、娑婆世界はその中の四次元、三次元と時間しか普通は感じられないと言われているものを)感じたのであるはすだ。
ゆえに、正しい仏法では、全ての物事は自分の内側(心)に原因と結果(因果)があると、説いている、つまり内道だということだ。
ちなみに、娑婆世界で普通感じられない次元は思索によって到達できると思われ、それを仏教一般では覚りといいます。悟り、これは部分的なさとり、覚り、これは全部をさとったさとり、そういう分類もちゃんとあります。
日蓮仏法では、学会指導ではこれを「内外相対」と呼び、正しい宗教(ようは思想法)を選ぶまず初めの段階として説いている。
これのどこがおかしいですか? 異論・反論はバンバン受け付けますが、何一つ間違ってませんよ。
智者に我が儀破られるば、用いじ云々。開目抄にあるとおり、大聖人の思索は覚りであって、知識では絶対に敗れません。それをご存じのうえで、完璧な確信を持ちながら、大聖人はあえて謙譲の美でそういう言葉遣いをされているのだ。だから、破れるはずがない。理論的破たんはありえないのですよーだ。
礼儀とかさ、謙譲も、現代は廃れてきてますね。人に礼儀ってなんだ? とか聞いてくるとか、どんだけ? とか思いますよ。アハハ、悪口いっちゃった! テヘ^^; お口腐っちゃうぅー(笑)
あとでお題目で罪障消滅しなきゃですよ。
ともあれ、こうして一旦は完璧な宗教が現れたのです。それが釈尊の説いた仏法です。
が、問題はここから、難しくなるのはここからだ。
そう、娑婆世界には時間と空間が存在し、エントロピー増大の法則があるからだ。
つまり、時代が進むにつれて、人間の心は汚れてゆき、やがて釈尊の説いた教経が効用を失っていったということ。
もちろん釈尊は完璧主義な人だったので、そんなことは知り尽くしていた。なにしろ死の一歩手前までガリガリになった人ですからねぇ。当然、大聖人もそういう体験をしている。虚空像菩薩に願をかけて血吐いて倒れたという話もあれば、何度も何度も難にあわれ、殺されそうになり、極寒の佐渡にも流罪されていますからね。けどこれはまた別の意味もあるのですが、ここではお話しません。
とまれ、そうして釈尊が残していったのが、法華経なのである。
けどこれ、経文にそのまま文字にしてしまうことにも問題があった。
なぜなら、まだ綺麗な生命(心)を維持できる時代にこれを文字にすることは、大混乱のもとになるからだ。
ゆえに、釈尊は末の世代(末法)のために、法華経の文底にその深甚の教えを秘しておいたということだ。
というより、釈尊自身はすべて口伝で法を説き、のちの世代が経典にまとめたので、釈尊が法華経を書いたわけじゃないですけどね。そういう意味では、あらゆる言語で書かれた法華経を目にして、見事に文底を失わずに翻訳した、鳩摩羅什(くまらじゅう)こそ凄い人ともいえる。この人、間違いなく、文底読んでたでしょ。で、それを今説くとかえって害になることを内心では知ってたんでしょうね。なので、私などは鳩摩羅什は天台、伝教にも並ぶ人だと思ってますよ。牢屋とかにも入れられて酷い難にも遭ってますからね、羅什さんはね。
一応、聖徳太子が法華経を解釈するために読んだ経典も鳩摩羅什の訳だということは知っておいて損はないでしょうね。ビバ鳩摩羅什! 鳩摩羅什万歳です(笑)
御書にもあります、羅什さん、正直だったから、火葬しても舌が焼けなくて、金キラ金だったとね。
つまり、嘘つきは舌の病気になるということですよ! おー恐っ。
ともあれ、時代は過ぎ、やがて鎌倉時代に入る。そう、この頃にはもう釈尊が文字にして説いた教経は効用を失っていた。だから人が人を疑い、身内でさえ殺し合いをする時代は近づいていた。
そんな時代にあらわれた宗教家たちが、平和に暮らす方法はないのか!? と悩み考え、思索しながら、様々な教典を学んだわけだ。当時の宗教家というのは、今でいう、理論物理学者であり、経済学者であり、歴史家だったから、凄い膨大な知識をもっていたので、国主なんかも、政治を治めるにあたって、お知恵拝借なんていう具合に、尊敬され、とても頼られていた存在でもあったんですけどね。
けど、多くの人は、釈尊が法華経の文底に沈めた究極に正しい法が読み取れなかったのだ。
で、究極でもなんでもない、阿弥陀教(浄土三部経)やら、阿含経やら華厳経(釈尊が法華経以前に説いた教え)に宇宙の法則の真実があるんだ! とか誤解したわけです。
だけならまだしも、いいや釈尊の教えは間違っているとか言いだして、本尊に大日如来を立ててしまう真言宗という大馬鹿な輩まで現れ、果ては文字には真実はない! とかいって「文字不立」とか叫んでだるまだ座禅だとか言いだす始末。その禅宗の馬鹿どもは、「文字不立」とか言いながら、その典拠は文字で書かれた経文という大馬鹿矛盾野郎じゃないか。まあ文字の底にって意味ではこの理論はあってるんだけど、その文字がなければ、真実は知れなかったんだから、文字は真実の一部であり、真実へと到達する扉だってことです。その文字を否定してるお馬鹿さんが禅宗ですよ。否定からは何も生まれないということです。
つまり、間違ったものはこうして正していかないと、それを信じた人が不幸になるから、日蓮大聖人は「四箇の格言(念仏無間・真言亡国・禅天魔・律国賊)」を叫ばれたのだ。
別に相手が憎くて叫んだのでも何でもない。間違った信仰をすると不幸に陥ると熟知していただけのことなのだ。慈悲ゆえなのだ。
じゃ、その日蓮大聖人は何を根拠にそういうのだ? というのだろう。
もちろん、釈迦の説いた究極の法である法華経(もちろん鳩摩羅什訳ですよ)の文底に沈められた妙法(正式には妙法蓮華経)という教であり、その文底にある法則に則りなさいという南無(帰依=帰命)妙法蓮華経であるということだ。なんてシンプルなんでしょう。大切なことは実にシンプル。これも宇宙の道理なんですけどね。好きは好き、嫌いは嫌いでしょ。どっちでもいいなんてないんですよ(笑)
簡単にいえば、全体観と部分観の問題なのだ。
大聖人は宇宙の全ての法則に人間も従うべきだ、そう見た。
しかし、他宗の宗教家は地球だけみて、これが宇宙の法則だとか言ったり、火星だけみてこれが宇宙だとか、ありもしない星をみて、これこそ! とか妄想しまくって暴言吐いたということ。
わたしらは、宇宙の法則で考えれば宇宙人でしょ。でもそういう大きな視線でものを見ないと、俺は地球人だ! なにか間違ってるか!? あたしは金星人よ、なにが悪いの! あたい、アンドロメダ星人よ! なにか間違ってて! とかなっちゃうんです。おかしいでしょ、そんなこと。
人間が生きていくためには心臓こそ大切だ、だから心臓にだけ栄養を送れば生きていける! 阿呆か。
つまりこれが部分観。
人間が生きていくには、まず全宇宙の働きが必要であり、そこにある惑星や小惑星や星間物質が必要であり、水や大地や穀物や陸棲動物や魚が必要であり、人間であれば約60兆の細胞が見事な動的平衡を保っていてはじめて、人間は正しく生きられる、とそう見たのが日蓮大聖人なのだ。
そして本来、その宇宙の法則は「慈悲」の働きである、そう見抜いてしまったのが大聖人だ。
この辺はまだ学会の教学では初級です。しかも途中。
でももう話すの疲れてきました(笑)
ともあれ、すべての宗教は、南無妙法蓮華経に含まれる、それが真実なのです。
数あるほかの宗教は全て南無妙法蓮華経の部分部分しか説いていない、そういうことです。
信じられないんでしょ? でもちゃんと考えれば、これはもう納得するしかない完璧さなのですよ。
しょせん、われわれは宇宙人なんだからさぁ、宇宙の法に則らないと正しく生きれないんですよ。
俺は地球人だ! とか強盛言いはってるだけのことでしょ。
ゆえに、「正しい宇宙の法則が間違っている!」とか言って、正しいものを誹謗中傷すると、大変なことになるのです。
口から離れた言葉が虚空に消えてゆく。それで済むと思わないほうがよろしい。
その口に繋がっている部分が全部腐りますからね。考えてごらんなさいよ、口から続いている臓器は最後は肛門に至ってるんですよ。内臓は全部外気に触れていると考えておかしくないのです。だから口が悪い人ははらわたが腐るんです。おわかりですか?
よって、人の悪口言うと、喉、胃などなど、最終的には、はらわた全部腐ります。おー恐っ。でもこれ真実だからさ、不幸になりそうなことしてる人を見たら、言っとかないとでしょ。そういうことなんですよ。それが慈悲だからですよ。
もっともね、口から出ることばの大元は心にあるんです。なので、口から汚いことを吐くと、
最後は心の病気になって狂い死にしますよ。おー恐っ。
私がうつ病になったのも、一時期間違った思考をして、世間や他人に怒りを吐き散らしたからですよ。
私はそれを身をもって知っているそういうことです。このブログの過去記事をご覧になればよい。
もうそれは、眼を蔽いたくなるような世間や他人への罵詈雑言だらけだ……お目目腐るくらいの勢いだったんですよ。
ふふ、お口腐っちゃうー(笑) くらいで済むユーモア感覚は大切ですけど、人を見下したり、なんでもかんでも嫌だと感じることを世間や人のせいして喚き散らすと、精神の病気になるんですよ。必ずそうなるんです。間違いなくそうなるんです。
ということで、心もはらわたも全部腐るのが嫌なら、信仰を持たずとも、謙虚で誠実に、いつも物事に感謝して生きて行けばいいんですよ。しかし、人生に信仰を持ち込めば、そういうことに一々意識を持っていかなくても、無意識に全宇宙に感謝できる人間になれるという寸法。
結局のところ、宗教の究極は感謝の気持ちなのですよ、賛嘆の気持ちなのですよ。南無妙法蓮華経って唱えることにはそういう意味がありますからね。
だから、人を見下し馬鹿にし、暴言を吐き、批判し、誹謗中傷し、難癖をつけ悪ふざけをすれば、悲惨なことになる、そういうことです。塵もつもれば山、須弥山(しゅみせん=仏教上、世界の中心にある山)になるんですよ。おー恐っ!
お耳もお目目も、お鼻も腐らないうちに、正しい宗教に帰依したほうがいいですよ。
合言葉は、お口腐っちゃうぅー、これです(笑)
もっと言えばね、謙虚で誠実な振りをして、腹の中では他人の不幸を楽しんでいるようなことをすれば、究極の悲惨を自ら招いているということです。あら恐ろしや、あら恐ろしや、だ。十二分にお気をつけになられるといいと思いますよ。