2013年10月14日
本当のアサーション
自信を持つためには「怒りを感じる」こと
「怒り」とは「自分を守るための大切な手段」
アサーションする目的はここにある。
ネットごときの情報で学ぶのではなくて、きちんと信頼のおける書籍でも読んで学ぶべきですよ。
お勧めは石原加受子『「しつこい怒り」が消えてなくなる本』
釈尊の言う、「怒らない」というのは、動画で言っている「未然に防ぐ」ということだ。
例えば、ネットのような場所で、友人だと思っている人のブログを見たとき、
いきなり自分への批判や非難があったとしよう。
どうですか? 未然に防げるのですか? ふつうに考えて無理です。
ですから、私はそういうことをするな、と言ってきたのです。
じゃあメールではどうか?
ある意味では同じです。
ですから、怒りを伝える前に、これから怒りますよということが、伝わる前置きを必ず作り、
必要であれば、相手に「未然に防いでくださいね」と呼びかければ、そこそこ問題はないのです。
無論、ネットブログでもそうした方法は有効ですが、やはり衆人環視、公の場所で晒し者にされて批判や避難を受けて良い気分でいられる人など、少ないことでしょう。
部長室に呼ばれて、一対一で注意を受けた。
大勢の人がいる前で叱りつけられた。
そういう違いがあることを考慮すべきだと、私は言ってきたのです。
また、釈尊の言う、「執着しない」「棄てる」という言葉の意味は、本質的には、
「未然に防ぐ」という意味であり、怒りという「感情」を棄てろとは言っていないのです。
当然です。一念三千全てがあってパーフェクトなわけですから、怒りの感情を棄てることは間違いなのです。
必要な時に必要な場所で必要なだけ、「怒り」の「感情」を伝えていく。
これが釈尊のいう本来の「棄てる」という意味です。
動画にある「自己中心」というのは、いわゆるただの自己チューのことではない。
それは動画を見てもらえれば、わかることだろう。
つまり、同じ「怒り」であっても、そこには――
「外道」の怒り方と、
「内道」の怒り方がある、という事だ。
無論、怒りと言う感情はなかなか制御しずらいもので、
普段、徹底して内道を維持していても、激怒するような感情が湧くと、
どうしても、外道になり、他者に原因を求め、他者を責めるという行動に陥ることが多い。
(くだんの方など、その典型である)
様々な感情の中でも、とくに「怒り」は、人をして外道視線に向かわせる、王者のようなものだ。
私はこういうことを、思索を尽くして知ってきたつもりだ。
だが、知ってきたからと言って、実践できるとは限らないわけだ。
当然ですよね、相手によってアサーションの表現法は千差万別だからです。
TPOです。すべてはTPOにあると言いつ続けてきた意味は、こういうところにあります。
余談だが、上述したことから、常に外道になっている人には、
何を言っても無駄ということもハッキリとわかるということだ。
ともあれ、怒りの「感情」を表現するという行為は、
まず「自分の感情に気づく」という、自分と向き合う行動からはじまるわけです。
しかし、外道の視点に陥っている人というものは、
普段から自分と向き合っておらず、他者を見て、自分の感情の原因を探している癖がついているわけです。
ゆえに、怒ると、その人が内道であるか外道であるかは、一目瞭然なのです。
相手のせいにして怒る=外道。
相手のせいと、自分のせいを折半して怒る=内道。
そういうことです。
相手が100%悪い、こういう言い草をつけてくるのが外道です。
貴方も悪いが私も悪い。責任は双方にある。そして、このことは、こうすれば改善できる。
と提案まで出来ればベストでしょう。これが内道です。
実際そうしましたでしょ、私は、陰でコソコソ言わないで、直接向き合ってきなさい。
今はその時ではない、わざわざタイムラグを作って、ダラダラするのではなく、
その時がきたらズバっと言って来てください。
怒りながらも、そういうことを伝えたはずです。
で、相手はどうだったのか?
終始私への無認識な分析と評価、そして何の提案もなく、自分はこうするぞという決意表明だったはずですよ。
どこにアサーションがあったのでしょうか?
どこに内道の信心の片りんがあったのでしょうか?
そもそも、自信も持ち、自尊心を守るためにアサーションを駆使して記事を書いたと言うのであれば、
相手が読んだと判断したあと、消す必要性など、どこにもないのです。
ですから実際、きちんとアサーションのできた反撃記事は、私は残してるんですよ。
なぜか? 当然ですよ、我が振るまいの中にしか、この信心を正しさを伝える術はないからですよ。
つまり、削除した一連の記事の場合、状況が少々違うということでもあります。
批判されたことに対して、反撃して、その用件が済んだので、
本来、私のブログの運営方針にはない、他者批判の記事だから、消しているわけです。
相当に感情的に過ぎて、読んだ人が不愉快になると判断した部分もありましたがね。
どちらにしても、ネットの薄い情報ではなく、しっかりした本でも一冊読まれるといいですよ。
私はちゃんとそういうことを実践してます。
「一応説明しておきますね」という記事を書く前にも、
私は先に上げた、石原加受子さんの本『もう邪悪な人に振り回されない!』という本を読み、
自分の考え方が間違いでないことを、しっかり確認したのです。
何度も申し上げてきたように、文証、あるいは傍証なくしての言論は、
ただの我見であり、自己中心的理論でしかありません。
そうならないために、文証や理証は必要なのです。
現証が第一、そうは大聖人は仰せですが、文証と理証は不必要だとは仰せではありません。
そもそも、大聖人でさえ法華経や天台・伝行・その他の文証、理証を提示して御書を書かれているわけです。
いわんや、我々ごときの凡夫が、たかだが自分の体験(現証)だけで仏法を語るなど、
我見でしかなく、下手をしたら邪見でしかないのです。
先生でさえ、様々な一流著名人を引かれてご指導されているではありませんか。
ご自分を思索したことを、あくまでもみなさんの思索の糧にでもと、はっきり名言されているんですよ。
そこまで謙虚であるべきなのが、創価の道を歩むものの取るべき行動です。
つまり、最終的には「盲信」するのではなく、「自分の頭で考えなさい」と、そう仰っているということですよ。
ですから、文証なき我見の羅列には何の意味もないのです。
ゆえに、文証の引用は重要になってくるのです。
あとは捉え方の問題です。
相手を慮るというのであれば、むしろ私見が間違っていても、御書や先生の指導を引用しておけば、
それを基準に、ものごとが判断できるということです。
これを利用と呼ぶ精神はいかなるものであろうか?
私などはそう思うのです。
ですから、何の文証も提示せず、自分の言葉で語り、
我見に満ち満ちたことを、いかにも正しそうに書き綴ることの方が、危険極まりなく、
それをして人を惑わせるということですよ。
自分の言葉で語るという意味は、
文証、理証を自分の立場ではこう読みました、そう表現することになるのだ。
人それぞれ、立場も違い環境も違う、ゆえに文証の提示は重要なのだ。
ともかくも、しっかり学ばれたほうが身のためですよ。
人を批判するために文証を提示するのは利用です。
しかし、自分はこう感じた、こう思った、自分の体験は、この文証ではないかと思った、
思索の果てに、この文証は、私の立場にあってはこうだと感じた。
そうした、思索の進め(つまり、みなさんも自分の体験や感情と向き合ってみてはどうですか?)
という表現においては、利用でも何でもないのだ。
言ってみれば、「学びの奨励」なのである。
しょせん、自分に自信のない人は、何でも利用していると感じるものだから仕方ないとも言えるのでしょうけどね。
自己正当化に使っている、そう目に映るのは、そういう捉え方しかできない境涯の問題だと言うことです。
御書や先生のご指導に、常に触れていけば、
どういう風に記事を書けばいいかなど、自然に身についてくるものだ。
そうできない理由を、私はあえて言葉にしない。
それは、自覚によってしか気づけないことだからである。
まだ怒ってますよ(笑)
だから『火星』でも聴きますよ。
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
けど、冗談言えるレベルでもある。そういうことです。ヾ(´ω`=´ω`)ノバイナラ☆
「怒り」とは「自分を守るための大切な手段」
アサーションする目的はここにある。
ネットごときの情報で学ぶのではなくて、きちんと信頼のおける書籍でも読んで学ぶべきですよ。
お勧めは石原加受子『「しつこい怒り」が消えてなくなる本』
釈尊の言う、「怒らない」というのは、動画で言っている「未然に防ぐ」ということだ。
例えば、ネットのような場所で、友人だと思っている人のブログを見たとき、
いきなり自分への批判や非難があったとしよう。
どうですか? 未然に防げるのですか? ふつうに考えて無理です。
ですから、私はそういうことをするな、と言ってきたのです。
じゃあメールではどうか?
ある意味では同じです。
ですから、怒りを伝える前に、これから怒りますよということが、伝わる前置きを必ず作り、
必要であれば、相手に「未然に防いでくださいね」と呼びかければ、そこそこ問題はないのです。
無論、ネットブログでもそうした方法は有効ですが、やはり衆人環視、公の場所で晒し者にされて批判や避難を受けて良い気分でいられる人など、少ないことでしょう。
部長室に呼ばれて、一対一で注意を受けた。
大勢の人がいる前で叱りつけられた。
そういう違いがあることを考慮すべきだと、私は言ってきたのです。
また、釈尊の言う、「執着しない」「棄てる」という言葉の意味は、本質的には、
「未然に防ぐ」という意味であり、怒りという「感情」を棄てろとは言っていないのです。
当然です。一念三千全てがあってパーフェクトなわけですから、怒りの感情を棄てることは間違いなのです。
必要な時に必要な場所で必要なだけ、「怒り」の「感情」を伝えていく。
これが釈尊のいう本来の「棄てる」という意味です。
動画にある「自己中心」というのは、いわゆるただの自己チューのことではない。
それは動画を見てもらえれば、わかることだろう。
つまり、同じ「怒り」であっても、そこには――
「外道」の怒り方と、
「内道」の怒り方がある、という事だ。
無論、怒りと言う感情はなかなか制御しずらいもので、
普段、徹底して内道を維持していても、激怒するような感情が湧くと、
どうしても、外道になり、他者に原因を求め、他者を責めるという行動に陥ることが多い。
(くだんの方など、その典型である)
様々な感情の中でも、とくに「怒り」は、人をして外道視線に向かわせる、王者のようなものだ。
私はこういうことを、思索を尽くして知ってきたつもりだ。
だが、知ってきたからと言って、実践できるとは限らないわけだ。
当然ですよね、相手によってアサーションの表現法は千差万別だからです。
TPOです。すべてはTPOにあると言いつ続けてきた意味は、こういうところにあります。
余談だが、上述したことから、常に外道になっている人には、
何を言っても無駄ということもハッキリとわかるということだ。
ともあれ、怒りの「感情」を表現するという行為は、
まず「自分の感情に気づく」という、自分と向き合う行動からはじまるわけです。
しかし、外道の視点に陥っている人というものは、
普段から自分と向き合っておらず、他者を見て、自分の感情の原因を探している癖がついているわけです。
ゆえに、怒ると、その人が内道であるか外道であるかは、一目瞭然なのです。
相手のせいにして怒る=外道。
相手のせいと、自分のせいを折半して怒る=内道。
そういうことです。
相手が100%悪い、こういう言い草をつけてくるのが外道です。
貴方も悪いが私も悪い。責任は双方にある。そして、このことは、こうすれば改善できる。
と提案まで出来ればベストでしょう。これが内道です。
実際そうしましたでしょ、私は、陰でコソコソ言わないで、直接向き合ってきなさい。
今はその時ではない、わざわざタイムラグを作って、ダラダラするのではなく、
その時がきたらズバっと言って来てください。
怒りながらも、そういうことを伝えたはずです。
で、相手はどうだったのか?
終始私への無認識な分析と評価、そして何の提案もなく、自分はこうするぞという決意表明だったはずですよ。
どこにアサーションがあったのでしょうか?
どこに内道の信心の片りんがあったのでしょうか?
そもそも、自信も持ち、自尊心を守るためにアサーションを駆使して記事を書いたと言うのであれば、
相手が読んだと判断したあと、消す必要性など、どこにもないのです。
ですから実際、きちんとアサーションのできた反撃記事は、私は残してるんですよ。
なぜか? 当然ですよ、我が振るまいの中にしか、この信心を正しさを伝える術はないからですよ。
つまり、削除した一連の記事の場合、状況が少々違うということでもあります。
批判されたことに対して、反撃して、その用件が済んだので、
本来、私のブログの運営方針にはない、他者批判の記事だから、消しているわけです。
相当に感情的に過ぎて、読んだ人が不愉快になると判断した部分もありましたがね。
どちらにしても、ネットの薄い情報ではなく、しっかりした本でも一冊読まれるといいですよ。
私はちゃんとそういうことを実践してます。
「一応説明しておきますね」という記事を書く前にも、
私は先に上げた、石原加受子さんの本『もう邪悪な人に振り回されない!』という本を読み、
自分の考え方が間違いでないことを、しっかり確認したのです。
何度も申し上げてきたように、文証、あるいは傍証なくしての言論は、
ただの我見であり、自己中心的理論でしかありません。
そうならないために、文証や理証は必要なのです。
現証が第一、そうは大聖人は仰せですが、文証と理証は不必要だとは仰せではありません。
そもそも、大聖人でさえ法華経や天台・伝行・その他の文証、理証を提示して御書を書かれているわけです。
いわんや、我々ごときの凡夫が、たかだが自分の体験(現証)だけで仏法を語るなど、
我見でしかなく、下手をしたら邪見でしかないのです。
先生でさえ、様々な一流著名人を引かれてご指導されているではありませんか。
ご自分を思索したことを、あくまでもみなさんの思索の糧にでもと、はっきり名言されているんですよ。
そこまで謙虚であるべきなのが、創価の道を歩むものの取るべき行動です。
つまり、最終的には「盲信」するのではなく、「自分の頭で考えなさい」と、そう仰っているということですよ。
ですから、文証なき我見の羅列には何の意味もないのです。
ゆえに、文証の引用は重要になってくるのです。
あとは捉え方の問題です。
相手を慮るというのであれば、むしろ私見が間違っていても、御書や先生の指導を引用しておけば、
それを基準に、ものごとが判断できるということです。
これを利用と呼ぶ精神はいかなるものであろうか?
私などはそう思うのです。
ですから、何の文証も提示せず、自分の言葉で語り、
我見に満ち満ちたことを、いかにも正しそうに書き綴ることの方が、危険極まりなく、
それをして人を惑わせるということですよ。
自分の言葉で語るという意味は、
文証、理証を自分の立場ではこう読みました、そう表現することになるのだ。
人それぞれ、立場も違い環境も違う、ゆえに文証の提示は重要なのだ。
ともかくも、しっかり学ばれたほうが身のためですよ。
人を批判するために文証を提示するのは利用です。
しかし、自分はこう感じた、こう思った、自分の体験は、この文証ではないかと思った、
思索の果てに、この文証は、私の立場にあってはこうだと感じた。
そうした、思索の進め(つまり、みなさんも自分の体験や感情と向き合ってみてはどうですか?)
という表現においては、利用でも何でもないのだ。
言ってみれば、「学びの奨励」なのである。
しょせん、自分に自信のない人は、何でも利用していると感じるものだから仕方ないとも言えるのでしょうけどね。
自己正当化に使っている、そう目に映るのは、そういう捉え方しかできない境涯の問題だと言うことです。
御書や先生のご指導に、常に触れていけば、
どういう風に記事を書けばいいかなど、自然に身についてくるものだ。
そうできない理由を、私はあえて言葉にしない。
それは、自覚によってしか気づけないことだからである。
まだ怒ってますよ(笑)
だから『火星』でも聴きますよ。
( ゚∀゚)アハハ八八ノヽノヽノヽノ \ / \/ \
けど、冗談言えるレベルでもある。そういうことです。ヾ(´ω`=´ω`)ノバイナラ☆