但し書き:この記事は、ユニオン3役の同意を得て書かれたものですが、「動労千葉派への誹謗中傷」(誰がどう見ても「事実」に基づく記述ですが)に反対する組合員からの異論が寄せられましたので、組合組織全体としての見解ではないことをおことわりします。
日本語のものとしてはあまり知られていないが、インターナショナルの歌詞には
「我らが自由はいかにあるべきか/神や王や英雄ではなく我われ自身の力によって/永遠なる自由へといざ駆け出そう!」
というくだりがある。
「我われ自身を解放するのは、エライ存在ではなく、我われ自身の団結した力だけである」ということである。
恥ずかしげもなく小泉純一郎と握手して祭り上げる自称「脱原発政党」の社民党―実際にやってきたことは、原発推進派の首長を地方選挙で自民党などといっしょに相乗り推薦である。
「盗人猛々しい」とはこのこと。
社民党は、『はだしのゲン』に出てくる「鮫島町内会長」のようなもの(戦争に反対するゲンの一家をイジメていたのに、敗戦後は、自分が元から戦争に反対していたかのように偽る)。
「脱原発」を口実に「社会問題や歴史認識を棚上げにした連帯」が今の流行だが、それが一時的にであれ有効なものなら、原発事故の情報隠しと切り離せない秘密保全法案なんか浮上するはずもない。
労働者切り捨て、新自由主義の権化である小泉に社民党が同盟を求めること自体が大きな間違いである。
新自由主義の権化である小泉純一郎と仲良く手を握れば、社民党それ自体というよりもー党首である吉田忠智氏の出身母体である自治労(幹部)だけは生き残れるだろうという、とんでもない見通しなのであろう。最後の一線を越えた社民党。
社民党幹部には、「護憲運動を破壊します」という、子息・進次郎の自民党と暗黙の了解があるのだろう―自分たちのメンツを守ってもらうことと引き換えに、「護憲」を完全に棚上げするつもりなのだ―最近は「護憲」を「立憲主義」というように言い換えている。
山本太郎の天皇直訴を支持する元「革命的左翼」の動労千葉派。いずれも、最初から完全に敗北している。口先で言っていることとは裏腹に、心の奥底は「レミング[集団自殺すると言われている動物]」状態なのかもしれない。
左翼総「レミング」状態というべきか?
「国会議員が天皇に直訴するのは、主権在民に対する冒涜である」という方向性・趣旨の批判は(あまり)無いのであろうか?「(殆ど)無い」としたら、ついに日本は完全に終わってしまったということだ。
天皇に直訴することのどこが「労働者の自己解放」なのか!?
そもそも「戦後」憲法のもとで、天皇は主権者ではない。
田中正造の前例(ちなみに、直訴状の原稿を書いたのは無政府主義者の幸徳秋水だった)にならったのかもしれないが、その「政治的効果」は、義人・田中正造が必死で苦闘しても敗北した時代に、日本を逆戻りさせることである。
山本太郎信者になりきった「動労千葉派」はついに「天皇制左派」になってしまった。元「革命的左翼(共産主義者)」である動労千葉派がまるで自らの議員であるかのように今も言う山本太郎が、「天皇制のペテンとウソ」に取込まれた現実を認めようとしない愚かさ。
このことは、山本氏に対する「天皇への不敬」キャンペーン攻撃に反対することとは、あくまでも別次元の問題である。
どこでも、誰にでも反原発を訴える山本議員。 「直訴」問題
都政を革新する会、2013年11月1日
http://www.tokakushin.org/wp/?p=2418
「山本議員の直訴は「田中正造没後100年」をヒントに行われたことかもしれないが、間違いなく象徴天皇制のペテンとウソを暴き出すものとなっている」
特権階級ではない者が天皇を「利用する」事はできないが、「利用される」事はできるのである。 そもそも、安倍晋三や麻生太郎と違って山本氏は天皇を「政治利用」できるような階級ではないので、山本氏の行動に対して「政治利用」云々言う事自体が間違っているわけであるが、愚かにも山本氏は天皇を利用しようとして逆に利用されたのである。
社会問題というものを、「権利―責任の主体」や「階級闘争」が存在する問題として意識する思考回路を予め封じ込めたうえで、鎮魂(調伏)するべきものとして扱うのが、「天皇制」の社会的機能であると思う(つまり、我われ人民大衆は調伏するべき怨霊のような存在と見なされているのである)。
もし仮に、「脱原発しなければいけませんね」という「天皇陛下のお言葉」を引き出したとしても、それが何になるのだろうか?「天皇陛下のご慈悲」によって我われの未来が決められることになり、我われ労働者自身の主権者としての尊厳が無くなってしまう。それどころか、「天皇陛下が有り難い御言葉まで賜ってくれたのだから、お前たち庶民は赤紙(召集令状)に応じて福島事故の処理作業に行け。文句を言うなど、もってのほかだ。」ということになる。
恒例の年中行事となった日比谷野外音楽堂11月労働者集会の会場でも売られている『前進』という新聞(「機関紙」という演説原稿の束のようなもの)を発行する、知的・政治的センスのない愚劣な、動労千葉派と自認する「革命的共産主義者」は、口先のレトリックでだけは一見「天皇制」に反対しているように書き散らしているが、山本太郎氏の天皇直訴が「労働者階級が天皇制に対してとるべき原則的で路線的な立場」と正反対の行為であることについては一切無視する。「共産主義者」として完全に終わっていることは言うまでもない。頭で昔むかしに覚えたレトリックでは、まだ「天皇制」に「反対」なのかもしれないが、最近は山本太郎信者になりきっていて、道理が見えなくなっているのであろう。
そもそも山本氏は、尼崎市で新自由主義的悪政を強行している緑の党に支持を与えている-「本家」のドイツ緑の党は、ユーゴスラビアやリビアなどへの侵略戦争を、「人道的介入」と称して積極的に支持している極悪なネオコン政党である。連立政権に参加していた時期には、労働者を切り捨てる新自由主義的政策を行った。
つまり、山本氏は主観的な正義感だけあって、政治的センスが無い人物なのである。
山本太郎氏への与野党とマスコミの攻撃粉砕しよう「天皇への手紙」問題の核心は何か
週刊『前進』(2607号8面2)(2013/11/04 )
http://www.zenshin.org/f_zenshin/f_back_no13/f2607sm.htm#a8_2
これ以上多くを語ることはここでは難しいが、自党(自派)の勢力拡大(誇示)に還元しない、普遍的な思考回路につながる、実務的な運動が必要だ。どれだけ人数を集めたかではなく、何を成し遂げられたかという視点での総括が必要だ。
ちなみに2011年東京都知事選挙の時、緑の党(当時は「みどりの未来」という名前)の地方議員は、「ワタミ」=渡邉 美樹に投票した。労働者を踏みつけにするワタミに対して、人間としての怒りを何ひとつ持ち合わせていない新自由主義者なのである。資本主義の最末期、没落の危機に直面して反動的化しつつある、大都市中間層の意識を反映している(小ブル「リベラル」から小ブル反動に)。兵庫県と杉並で、動労千葉派が壊滅したのは、けっして偶然ではない。小ブル「リベラル」の強力な地域だったからである。
日本語のものとしてはあまり知られていないが、インターナショナルの歌詞には
「我らが自由はいかにあるべきか/神や王や英雄ではなく我われ自身の力によって/永遠なる自由へといざ駆け出そう!」
というくだりがある。
「我われ自身を解放するのは、エライ存在ではなく、我われ自身の団結した力だけである」ということである。
恥ずかしげもなく小泉純一郎と握手して祭り上げる自称「脱原発政党」の社民党―実際にやってきたことは、原発推進派の首長を地方選挙で自民党などといっしょに相乗り推薦である。
「盗人猛々しい」とはこのこと。
社民党は、『はだしのゲン』に出てくる「鮫島町内会長」のようなもの(戦争に反対するゲンの一家をイジメていたのに、敗戦後は、自分が元から戦争に反対していたかのように偽る)。
「脱原発」を口実に「社会問題や歴史認識を棚上げにした連帯」が今の流行だが、それが一時的にであれ有効なものなら、原発事故の情報隠しと切り離せない秘密保全法案なんか浮上するはずもない。
労働者切り捨て、新自由主義の権化である小泉に社民党が同盟を求めること自体が大きな間違いである。
新自由主義の権化である小泉純一郎と仲良く手を握れば、社民党それ自体というよりもー党首である吉田忠智氏の出身母体である自治労(幹部)だけは生き残れるだろうという、とんでもない見通しなのであろう。最後の一線を越えた社民党。
社民党幹部には、「護憲運動を破壊します」という、子息・進次郎の自民党と暗黙の了解があるのだろう―自分たちのメンツを守ってもらうことと引き換えに、「護憲」を完全に棚上げするつもりなのだ―最近は「護憲」を「立憲主義」というように言い換えている。
山本太郎の天皇直訴を支持する元「革命的左翼」の動労千葉派。いずれも、最初から完全に敗北している。口先で言っていることとは裏腹に、心の奥底は「レミング[集団自殺すると言われている動物]」状態なのかもしれない。
左翼総「レミング」状態というべきか?
「国会議員が天皇に直訴するのは、主権在民に対する冒涜である」という方向性・趣旨の批判は(あまり)無いのであろうか?「(殆ど)無い」としたら、ついに日本は完全に終わってしまったということだ。
天皇に直訴することのどこが「労働者の自己解放」なのか!?
そもそも「戦後」憲法のもとで、天皇は主権者ではない。
田中正造の前例(ちなみに、直訴状の原稿を書いたのは無政府主義者の幸徳秋水だった)にならったのかもしれないが、その「政治的効果」は、義人・田中正造が必死で苦闘しても敗北した時代に、日本を逆戻りさせることである。
山本太郎信者になりきった「動労千葉派」はついに「天皇制左派」になってしまった。元「革命的左翼(共産主義者)」である動労千葉派がまるで自らの議員であるかのように今も言う山本太郎が、「天皇制のペテンとウソ」に取込まれた現実を認めようとしない愚かさ。
このことは、山本氏に対する「天皇への不敬」キャンペーン攻撃に反対することとは、あくまでも別次元の問題である。
どこでも、誰にでも反原発を訴える山本議員。 「直訴」問題
都政を革新する会、2013年11月1日
http://www.tokakushin.org/wp/?p=2418
「山本議員の直訴は「田中正造没後100年」をヒントに行われたことかもしれないが、間違いなく象徴天皇制のペテンとウソを暴き出すものとなっている」
特権階級ではない者が天皇を「利用する」事はできないが、「利用される」事はできるのである。 そもそも、安倍晋三や麻生太郎と違って山本氏は天皇を「政治利用」できるような階級ではないので、山本氏の行動に対して「政治利用」云々言う事自体が間違っているわけであるが、愚かにも山本氏は天皇を利用しようとして逆に利用されたのである。
社会問題というものを、「権利―責任の主体」や「階級闘争」が存在する問題として意識する思考回路を予め封じ込めたうえで、鎮魂(調伏)するべきものとして扱うのが、「天皇制」の社会的機能であると思う(つまり、我われ人民大衆は調伏するべき怨霊のような存在と見なされているのである)。
もし仮に、「脱原発しなければいけませんね」という「天皇陛下のお言葉」を引き出したとしても、それが何になるのだろうか?「天皇陛下のご慈悲」によって我われの未来が決められることになり、我われ労働者自身の主権者としての尊厳が無くなってしまう。それどころか、「天皇陛下が有り難い御言葉まで賜ってくれたのだから、お前たち庶民は赤紙(召集令状)に応じて福島事故の処理作業に行け。文句を言うなど、もってのほかだ。」ということになる。
恒例の年中行事となった日比谷野外音楽堂11月労働者集会の会場でも売られている『前進』という新聞(「機関紙」という演説原稿の束のようなもの)を発行する、知的・政治的センスのない愚劣な、動労千葉派と自認する「革命的共産主義者」は、口先のレトリックでだけは一見「天皇制」に反対しているように書き散らしているが、山本太郎氏の天皇直訴が「労働者階級が天皇制に対してとるべき原則的で路線的な立場」と正反対の行為であることについては一切無視する。「共産主義者」として完全に終わっていることは言うまでもない。頭で昔むかしに覚えたレトリックでは、まだ「天皇制」に「反対」なのかもしれないが、最近は山本太郎信者になりきっていて、道理が見えなくなっているのであろう。
そもそも山本氏は、尼崎市で新自由主義的悪政を強行している緑の党に支持を与えている-「本家」のドイツ緑の党は、ユーゴスラビアやリビアなどへの侵略戦争を、「人道的介入」と称して積極的に支持している極悪なネオコン政党である。連立政権に参加していた時期には、労働者を切り捨てる新自由主義的政策を行った。
つまり、山本氏は主観的な正義感だけあって、政治的センスが無い人物なのである。
山本太郎氏への与野党とマスコミの攻撃粉砕しよう「天皇への手紙」問題の核心は何か
週刊『前進』(2607号8面2)(2013/11/04 )
http://www.zenshin.org/f_zenshin/f_back_no13/f2607sm.htm#a8_2
これ以上多くを語ることはここでは難しいが、自党(自派)の勢力拡大(誇示)に還元しない、普遍的な思考回路につながる、実務的な運動が必要だ。どれだけ人数を集めたかではなく、何を成し遂げられたかという視点での総括が必要だ。
ちなみに2011年東京都知事選挙の時、緑の党(当時は「みどりの未来」という名前)の地方議員は、「ワタミ」=渡邉 美樹に投票した。労働者を踏みつけにするワタミに対して、人間としての怒りを何ひとつ持ち合わせていない新自由主義者なのである。資本主義の最末期、没落の危機に直面して反動的化しつつある、大都市中間層の意識を反映している(小ブル「リベラル」から小ブル反動に)。兵庫県と杉並で、動労千葉派が壊滅したのは、けっして偶然ではない。小ブル「リベラル」の強力な地域だったからである。