井上源吉『戦地憲兵−中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)−その26
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〈宜章で見た友軍航空隊員の様子(1945年2月)〉
私が楽昌にいたころにはときどき数機編隊の友軍機が粤漢線伝いに飛来し、南の空へ飛び去っていったが、今ではそうした友軍機の姿さえ見られなくなった。二月下旬のことだった。数十名の航空隊員が広東から徒歩で引き揚げてきたのでその理由をたずねると、彼らははきすてるようにいった。
「航空隊が陸上を歩くようになっては、もうおしまいですよ。俺たちは飛行整備兵はじめほとんどが地上勤務兵なんですが、部隊所属の航空機はもちろん、中北支方面の航空隊から補充された航空機は台湾、フィリピン方面への特攻機として全部つかいはたし、今では広東地区には一機の友軍機も残ってはいない。飛行機のない航空隊では軍艦を持たない海軍同様で、岡へあがったカッパだ。飛行機がなくなったのでわれわれはお払い箱になり、これから歩いて上海まで帰るんですよ」
彼らは口をそろえやけくそ半分にこう語っていた。たしかに、私も宜章着任以来一機の友軍機の姿も見たことはなかった。(249頁)
〈1945年1月〜6月くらいまでの状況(1945年6月)〉
湖南の春はいよいよたけなわになったが、われわれ日本軍に春は訪れることなく、入手するニュースは米軍のフィリピン上陸(一月)、沖縄進攻(四月)、をはじめ、ことごとく悲惨な知らせばかりであった。このころになると宜章を通過する友軍の装備はいよいよ低下し、百名に小銃三十挺前後という部隊もあり、銃に見せかけて木銃に墨を塗ったものをかつぎ、軍靴の代用にわらじをはき、中国人の布靴を奪ってはいている兵の姿さえ見られるようになった。またそれら兵たちのほとんどが間に合わせの未教育兵で、例外なく極度の栄養失調になっていた。
六月なかばをすぎると沖縄方面の戦況は日を追って不利を伝えられた。そのうえドイツ軍の全面降服がうわさされるにおよんで軍票(日本軍発行の紙幣)の価値は一挙に下落し、もともと日本軍にあまり好感をもっていないこの町の中国人は軍票で物を売るのを嫌うようになった。こうなると情報に乏しいいなか町にいる私たちにも戦況が容易でないことがひしひしと感しられた。そんなある日、私のところへたずねてきた中村中尉は、
「戦況がだいぶ悪いようですね。万一のときには生きて敗残の恥だけはかきたくありません、おたがいに今から覚悟を決めておきましょう。ご存知でしょうがどうやらその日も遠くないようです、そのときには私は敵陣へ斬りこんで見事に散りますよ」
と問わず語りに話した。
私は、こんないなか町へ派遣されて連日悪戦苦闘し希望の薄い生活を送っている若い兵隊たちの姿を見るにしのびず、彼らを慰めるために小さな慰安所を開かせることを思いたち準備を進めていたが、戦況が不利になるにしたがい慰安婦募集のメドも立たず、ついに志なかばで沙汰やみとなった。(249-250頁)
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