井上源吉『戦地憲兵−中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)−その25
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〈食糧不足と徴発を禁止するための宜章での農作地の開拓(1945年3月)〉
長沙作戦当時からわが軍の食料は枯渇状態をつづけていたが、戦線が山間部に及ぶにしたがっていよいよ悪くなっていた。このころになると、戦争は敵を討つというより生き残るための食糧獲得戦争というよよ(管理人注−原文ママ)うな情況になった。ことに来陽以南の奥漢線沿線は山岳地帯であるため食糧不足は言語を絶した。この地方は農地が少なく、もともと住民たちが細々と食っているのがやっとの状態なのに、今度の打通作戦によって農民の過半数が逃避したため田畑は荒れ放昌だった。そのうえ続々とここを通過する日本軍が徴発するのだから、たまったものではなかった。
私は作戦参加以来ずっと、この状態を見て心を痛めていた。今度はしばらくこの町にとどまるようすなので、この際、食糧事情改善のために何とか手を打たなくてはと考えた。農地開拓、灌漑など長期的対策では目前の食糧不足解消には役立たないし、またその資金もない。そこで私はとりあえずこの町周辺の日本軍占領地内における通過部隊の徴発を禁止した。しかし食に飢え疲労困憊した体で西方にそびえる山岳を越え、中国軍の貯蔵米を奪って飢えをしのぐ通過部隊の苦労はひと通りではなかった。
そんなある日、西方山麓に近い部落の住民たちが「私たちの村へ日本軍がきて豚やニワトリを殺し、米を掠奪し、金やお寺の宝物まで持ち去ったので、何とか取り返してくれ」と訴えてきた。占領地区の民心を中国側へ追いやったら治安の維持はおろか、農産物の供給もとめられる。万一そうなったら大変なことだ。これはすててはおけない、と私は数名の部下をひきいて現場へかけつけた。町はずれでこの部隊を見つけた私は、近くの広場へ彼らを整列させ三十名にあまる将校以下全員を裸にさせた。村民たちに将兵の所持品を調べさせたところ、豚や米はともかくも金や宝物などはまったく奪ってはいなかった。私は村民たちの誇大な訴えをいましめ、部隊に対しては近隣の部落で徴発せぬように命じ、米や豚を村民に返させた。そしてこの部隊にはあらためて憲兵隊保有米をわけあたえたが、このような事件が続発するのもみな米の不足が原因だった。
この年、この地に残って田をたがやしていたのは、逃げる金もない貧農たちだけで、富裕な農民はまったく復帰せず、彼らの所有する農地は荒れるにまかせていた。私はこうした農地をうまく活用することを思いたち、特務機関と相談のうえ、治安維持会を通じてつぎのような布告をだした。
一、現に農耕に従事している者には、治安維持会の指示にしたがい不在地主所有の農地を使用することを許可する。
二、不在地主所有の農地は一年間にかぎり無償で使用してよい、なおこの分に対しては徴税を一切免除する。
三、右農地を利用する権利はとりあえず一年間とし、この間に所有者が復帰した場合においても権利期間内にかぎり、ひきつづき利用することを許す。
四、満一年を経過してなお所有者が復帰しないときは、ひきつづき使用することを認め、三年を経過しても所有者が復帰しないときは、所有権を放棄したものと認め、耕作者の所有とする。
五、新たに荒地を開拓する農地についてはすべて開拓者の耕作権を認める。
六、所有者に復帰就農の機会をあたえるため、この制度は布告の日から十日間を経てその効力を発するものとする。
この布告が出されると貧農たちはこおどりして喜び、また、近隣へ避難していた一部の農民はあわてて復帰し、耕作に従事することを申し出た。こうして荒廃するにまかせていた部落が、わずか半月あまりのあいだに見ちがえるような農村に変身した。(244-245頁)
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