井上源吉『戦地憲兵−中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)−その24
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〈楽昌を占領した独立混成大隊の落伍者への自決について(1945年1月8日)〉
この視察の途中、町の南部の丘のふもとにある警備隊司令部へ挨拶のため立ち寄った。ここの警備隊司令官は意外にもかつて北京の第二中隊で私たち初年兵の教育にあたっていた池尻良雄中尉で、今は少佐に進級し、独立混成大隊長としてこの地の警備についていた。池尻少佐の話によれば、この方面の攻略作戦は前代未聞の奇襲作戦で、部隊全員が軍服の上に中国服をまとい、衡陽を出発以来、連日山また山の道なき山中を踏破して急襲したのだという。この山中強行突破の行軍には多くの悲惨なできごとがあった。夜に日をついでの強行軍であり、昼間の行軍でさえどこを歩いているのかわからない状態なので、夜間行軍中には部隊からはぐれた行方不明者が続出した。彼らをはじめ落伍者たちを収容するいとまもない部隊は、涙をのんで彼らを捨てた。落伍者たちの兵器弾薬が敵の手に渡り、あるいは彼らが捕虜となってわが軍の企図がばれることを恐れた各部隊長は、彼らから兵器弾薬を取りあげたうえ、手榴弾一個を与え、部隊の通り過ぎるのを待って強制的に自決させたのだという。(239頁)
〈徴発について(1945年1月13日)〉
楽昌についた復興隊は四、五日のうちに深刻な食糧難におちいった。警備隊には、私たちに分ける余分の食糧はなかった。やむを得ず私たちは、町の西方山麓の部落へ食糧調達に出かけた。二キロあまり離れた山麓の部落へ近づくと突然、部落裏手の小高い山頂から散発的な小銃射撃をうけた。彼らの兵力が少ないところをみると、この部落民の組織する民兵かと思われた。私たちがしばらくこれに応射すると彼らは山向うへ逃げ去った。部落へはいって家々を捜したが、結局たいした収穫はなかった。住民の逃げ去った無人の部落では代金の支払いもできないので、後日復興
隊まで受け取りに来るようにと書いた紙を門扉に貼って引きあげたが、実際のところは徴発という名の、態のよい掠奪であった。(239頁) |
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