井上源吉『戦地憲兵−中国派遣憲兵の10年間』(図書出版 1980年11月20日)−その21
〈九江からの帰還途中での配給統制について(1942年12月)〉
列車が山海関駅へついたときには、短かい冬の日はすでにとっぶり暮れていた。列車は静かに停まった。ここから先は日本国内なみで軍票(軍の発行している日本円代用の紙幣)は通用しない。私たちは列車から降り、通貨交換所の窓口で所持する軍票を日本円に替えた。
山海関までは私たち軍人、軍属にかぎり列車も汽船もすべて無料であったが、これから先は一般乗客なみにキップを買わなければならない。私は山海関−東京間の二等乗車券と急行券をもとめた。代金は六十八円であった。軍人、軍属はすべて半額割引料金になっていたのである。ふたたび乗車すると、満州国の税関吏が乗りこんできて、簡単な所持品検査が行なわれた。私たち軍人、軍属はその検査を免除された。
この駅で二時間ほど停車した列車は、駅長の吹く笛の音を合図に静かにホームを離れた。夜は長く列車のなかではすることもない。退屈なので、私は一人暇つぶしに食堂車へ出かけていった。驚いたことに、同じ列車食堂なのに満州国へ入ったとたんに酒類は制限され、「お一人さま酒は銚子一本かビールー本にかぎられています」という。
「どうなっているんだ。ついさっきまでは無制限に飲ませたのに」
「ここはもう満州国です。満州国では日本の内地同様、すべての物資が配給制になっているんです」
私の問いかけにこんな返事がかえってきた。(186頁)
〈著者が見た銃後の姿(1943年1月2日)〉
東京駅へ降りたったのは、年は明けて昭和十八年の一月二日だった。こうして九江出発以来九泊十日の長旅を終えた。
東京では防空演習と称してバケツリレーや竹槍の刺突訓練に明け暮れていた。縄て作ったはたきの親方のようなもので焼夷弾を消すのだというが、子供の兵隊ごっこではあるまいに、本気で火を消すっもりなのだろうか。また、砂を入れたみかんの空箱をならべ、これに古畳を乗せて防空壕がわりにするというのだから、まことにもって恐れいってしまった。私が爆弾の破壊力を説明してやっても、頭のかたい連中にはすっきりとは信じられないらしい。
「こんなバカバカしいことで、爆撃がふせげるものじゃない。とくに用のない女子供は一日も早くいなかへ疎開し、町の民家を間引いて延焼を防ぐことを考えろ」
といったら、警防団長とやらがとんで来で、憲兵みずから国民の士気を阻喪するようなことをいってもらっては困る、と抗議を申し込んできた。中国はじめ太平洋各地の戦場で彼我ともにすでに何回となく爆撃戦が行なわれ、爆弾の威力はいやというほど知らされているはずなのに、陸海軍首脳をはじめ政府役人など、指導的立場にある連中はいったい何を考えているのだろう。長年戦地で暮らしてきた私には、こうした銃後の姿がバカバカしく滑稽にさえ見えた。
また町の人々から、「この戦争は勝てるでしょうか」という質問をしばしば受けた。中国戦線では、勝った勝ったと宣伝してやたらと地図を赤くぬりかえてはいるものの、事実は主だった都市を占領し、この都市と都市とをつなぐ鉄道や道路をかろうじて持ちこたえている、いわゆる点と線を保持するだけで汲々としている日本軍の実情を知りすぎるほど知っているし、隊長の植木中佐から連合国の実力を知らされている私には″勝てる"という自信はまったくなかった。敗けてなるか、石にかじりついても勝たぬばならぬとは思いながらも、自信をもって勝てるとはいいきれず、かといって憲兵の口から悲観的なこともいえず、自分をいつわって「勝てる」といわねばならないので、人知れず苦しんだものだった。(189-190頁)
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