辻記者
「こちらに掲げられているのは、パレスチナのアラファト前議長の写真。
そして、その奥には、パレスチナの旗が掲げられています。
しかし、ここはパレスチナではなく、レバノン国内にある難民キャンプです。」
レバノンの首都・ベイルートにある、パレスチナ人の難民キャンプ。
あちこちに見られるのは、パレスチナ暫定自治政府のアラファト前議長や、アッバス議長の似顔絵です。
かつてはテントの集まりに過ぎませんでしたが、今は、故郷に戻れない人たちが建てた住宅がひしめくように並んでいます。
電線が無秩序に張られ、すでに飽和状態にあるキャンプに、シリアからの二重難民が次々と押し寄せるようになりました。
その数、およそ5万人に上ります。
ヤシン・ハリルさんです。
半年前、シリアの首都・ダマスカスからレバノンに避難してきました。
パレスチナ難民のハリルさん。
その苦難の道のりは、65年前に始まりました。
1948年、イスラエルが建国を宣言。
「この国家は“イスラエル”と呼ばれる!」
これに反発した周辺のアラブ諸国とイスラエルとの間で、“第一次中東戦争”が勃発。
ハリルさんは故郷を追われ、難民となりました。
ヤシン・ハリルさん
「パレスチナでは、父や祖父が耕した土地で作物を育てて暮らしていた。
ほかの国に住む必要なんてなかったのに、こんな目に遭うなんて思ってもみなかった。」
半世紀以上、故郷に戻る日を待ちながら、シリアで暮らしてきたハリルさん。
しかし、2年以上続く内戦で、シリアでの生活まで奪われることになったのです。
「二重難民」となった今、ふるさと・パレスチナへの思いが、ますます強くなりました。
ヤシン・ハリルさん
「振り返って“あの時は大変だった”と言えるように。
故郷のパレスチナに帰りたい。」
日々の暮らしをどうするのかは、喫緊の課題です。
ハリルさんは、一緒に避難してきた家族や、親戚8人と身を寄せ合って暮らしています。
シリアでは、仕立て屋として一家の暮らしを支えていた息子のナーセルさん。
ナーセル・ハリルさん
「これは私が仕立てたズボンです。」
今は、仕事がありません。
レバノン政府は、定住することを恐れて、二重難民の人たちの就労をほとんど許していないからです。
一家は国連から「食料費」として、不定期に支給される、およそ3万円で生活をしのぐしかありません。
ナーセル・ハリルさん
「レバノンでの生活はとても厳しいです。
他の難民と対等に扱ってもらえません。」
さらに、二重難民は、事実上の国外退去を命じられることもあります。
匿名でインタビューに応じた、この男性。
男性
「これがレバノン政府から、国境で発給された入国許可証です。」
入国許可証に押してあるスタンプを見ると、滞在が許可されたのは2日間。
それを過ぎた今は、不法滞在の状態です。
当局に見つかれば、シリアに戻される可能性もあります。
レバノン当局は、二重難民の人たちは、すでにシリアでパレスチナ難民との認定を受けているとして、シリア人の難民とは異なる対応をとっているのです。
男性
「恐ろしい状況が続くシリアに戻るなんて、怖くてたまりません。
シリアでは毎日、数百人が殺され、誘拐されているんです。」
こうした二重難民の存在は、国連も見過ごせない問題だと指摘しています。
国連パレスチナ難民救済事業機関 アン・ディスモア レバノン事務所長
「二重難民は社会から置き去りにされ、特に弱い立場にいます。
だからこそ、彼らが見捨てられないよう、努力していく必要があるのです。」
移り住んだ先での過酷な境遇に若者の間では、パレスチナ人としてのアイデンティティを見つめ直す動きが出ています。
難民キャンプの一角で、パレスチナの伝統舞踊、“ダブカ”を練習している若者たち。
今年(2013年)1月にレバノンに逃れてきた、二重難民のユーセフ・ハムダンさん。
学校に通うこともできず、ダブカを通じて、同じ境遇の多くのパレスチナ難民の仲間に出会いました。
行ったことすらない、パレスチナの地。
ハムダンさんは、パレスチナ人としてのアイデンティティを強く意識するとともに、そこで暮らすことを夢見るようになりました。
ユーセフ・ハムダンさん
「パレスチナの伝統を失ってしまえば、死んだも同然です。
伝統を受け継ぐことで、いつかパレスチナに戻れると信じています。」
イスラエルとの紛争、そして、シリアの内戦に翻弄されるパレスチナの難民たち。
二重難民の存在は、中東地域が抱える問題の根深さを浮き彫りにしています。