フットボールはどこまで売れるのか、スポンサービジネスの最新事情に迫る
文=アンドリュー・マレー Text by Andrew MURRAY
翻訳=岡村光子 Translation by Mitsuko OKAMURA
写真=足立雅史、ゲッティ イメージズ Photo by Masashi ADACHI, Getty Images
ポテトチップス、ビール、タイヤ、スクーター、クレジットカード……。現代のクラブはただのフットボールチームではなく、一種のブランドと化している。巨大化するコマーシャルビジネスの背景に、英国の専門誌『FourFourTwo』が迫る。
次々と増え続ける公式スポンサー
その週は、難敵との激しい打ち合いに始まり、クラブの公式サイトでひっそりと発表されたプレスリリースで終わった。1月13日からの慌ただしい5日間で、マンチェスター・ユナイテッドはリヴァプールを2-1で倒し、ウェストハムを下してFAカップ4回戦に勝ち進み、ピッチの外では100万ポンド(約1億5000万円)以上のグローバルパートナーシップを発表した。中国のクレジットカード会社と飲料メーカー、そして日本最大手の塗料メーカー、関西ペイントというオフィシャルペイントパートナーまで獲得した。
それから3カ月のうちに、ユナイテッドはチャンピオンズリーグとFAカップで敗退したが、代わりにデンマークのクレジットカード会社にコマーシャルライセンスを売った。4試合を残してプレミアリーグ優勝を決めた4月下旬の時点で、公式サイトには33ものオフィシャルパートナーが並んでいる。
市販のトレーニングビブスから、インスタントヌードルやタイヤまで、ユナイテッドのエンブレムはありとあらゆるものに貼りつけられている。これは、このクラブが収入面でイングランドのライバルたちを圧倒し、20億ポンド(約3000億円)を超える資産価値を認められている理由の一つだ。
しかし、スポンサービジネスはいつの間にこれほど巨大なものになったのだろう? そして、フットボールクラブはどこまで売り物にしても許されるのだろうか?
それを知るためにはまず、フットボール界におけるスポンサーシップの歴史をひも解く必要がありそうだ。
90年代に加速した商業化の流れ
イングランドのフットボール界は、コマーシャルビジネスの可能性に敏感だったわけではない。FA(イングランドサッカー協会)のルールに縛られていたイングランドのクラブが、シャツ・スポンサーの流れに加わるのは比較的遅かった。主要なクラブでは1979年7月、リヴァプールが日本の電機メーカー、日立にユニフォームの胸部分を売り渡したのが最初だ。その金額はたったの5万ポンド(当時のレートで約2700万円)で、当時でも冷笑されるほどの安値だった。広告企業の幹部を務めるピーター・ワースは言う。「リヴァプールはクラブの価値を過小評価していた。20万ポンド(約1億1000万円)の契約でもおかしくなかったのに」。いや、200万ポンド(11億円)でも高くなかったと言う者もいる。
もっとも、当時のシャツ・スポンサーはさほど価値があると思われていなかった。スポンサー名を最も影響力のあるメディア、すなわちテレビに映すことがFAに禁じられていたからだ。このルールは83-84シーズンまで続いた。
だが92年、プレミアリーグの出現によって、フットボールにおけるマーケティングは大きく様変わりする。何と言っても、この新設されたリーグは発足2年目から、リーグ名そのものにスポンサーがついていた(最初は「カーリング・プレミアシップ」、今は「バークレイズ・プレミアリーグ」が正式名称だ)。それから10年で、スタジアムの命名権、スポンサーロゴの入ったボードを背にした記者会見、新たな財源になりつつあるアジアでの大人気、といった光景はすっかり見慣れたものになった。
2002年には中国の携帯電話会社、科建(ケジャン)がエヴァートンのスポンサーとなり、欧州のクラブと契約した最初の中国企業となった。今シーズンはマレーシア、タイ、キプロスなどの企業が、アストン・ヴィラやQPR、フルアムのユニフォームの胸を飾っている。「アジアでマーケティングを行いながらパートナー企業に支援してもらうのは、これ以上ないもうけ話だよ」。クラブと外国企業の契約交渉に関わってきたある関係者は言う。「資金を手に入れながら、露出を増やし、新しいファンを獲得できるんだからね。うまくやれば、無限の可能性がある」