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【小山評定の群像(22)】真田信之 大局観持った「信濃の獅子」
前回「おやま開運まつり」を紹介したため間が空いたが、真田編の完結は真田信之でなければなるまい。現在最も人気がある戦国武将、幸村の兄で、その陰に隠れがちだが、名将であり名君だった。徳川家に忠誠を尽くす一方、徳川家が最も憎む幸村の兄という微妙な立場。隙があれば、すぐに取りつぶされたはずで、難局を乗り越えてきた政治手腕は高いし、1585年の上田合戦では戦闘能力の高さも証明している。
関ケ原の戦い前夜、父・昌幸は西軍に付くことを決め、信之は単身、小山評定に列席する。叫ぶように徳川支持を宣言し、高揚する武将らを尻目に、父を敵として戦うことを考えると気が重く、諸将に続く気にはなれない。小山到着後すぐ、父の離反や、どこまでも徳川の一員として行動する自らの態度は家康に伝えてある。そこはぬかりなかったが…。
親子が敵味方に分かれることは、この時代、珍しくもないが、信之としては本意ではなかった。小勢力といえども戦術に優れ、父の野心と能力であれば、天下の趨勢(すうせい)を決める大戦で勝敗さえ左右する働きができるとは思う。だが、天下を治めるわけではない。長い戦乱はいよいよ終わらせるときで、家康が倒れれば、新たなリーダーの成長を待たねばならない。父と決別したのは、結局、大局観の違いだった。
幸村死後も43年生きた。晩年は戦国を知る最後の大名であり、老いてなお「信濃の獅子」と一目置かれた。隠居後のお家騒動では幕府との際どい駆け引きを乗り切って収拾。その年に93歳の長寿を終えた。
■真田信之(さなだ・のぶゆき)1566~1658年。真田昌幸の長男。当初、「信幸」と名乗っていたが、関ケ原の戦い後に改名。上州・沼田城主から昌幸の旧領も引き継ぎ信州・上田9万5千石を治める。1622年、松代13万石に国替え。
■小山評定 1600(慶長5)年7月、下野国小山(現在の栃木県小山市)で開かれた軍議。豊臣政権の大老・徳川家康が諸大名を率いて上杉景勝を討伐する目的で会津に向かっていたが、石田三成挙兵の知らせが入る。小山で諸将が集まり、軍勢に西に返して三成を討つことを決め、この軍勢が関ケ原での東軍となる。
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