戦国武将のなかでも、真田幸村(信繁)をはじめ、その父・昌幸の真田親子は特に高い人気を誇っている。勝ち組とはいえないが、幸村の兄・信之を含め、武略と知謀を駆使して戦国史における抜群の存在感を発揮しているのが真田一族。そんな真田家の歴史は幸隆(ゆきたか)こそが、ルーツといえる。
真田家はもともと信州の小豪族、海野氏の家系にあたり、海野家の娘婿が真田荘に居を構えて真田姓を名乗るようになったといわれる。海野一族は武田信虎(のぶとら)らの侵攻によって海野平合戦に敗れ、信州の地を追われて上野に逃れた。この頃、甲斐では武田晴信(信玄)が父の信虎を国外に追放し、家督を継いでいた。
幸隆は関東管領の上杉憲政に仕えていたが、晴信の将来性を見込んで名門の上杉家をあえて見限る。真田家の家紋として有名な六文銭は、三途の川の渡り賃を意味するものだが、主君を変えるという一大決心を、三途の川を渡ることに見立てたことに由来するともいわれている。
勢いのあるエリート企業である武田家への転職を果たした幸隆は、これ以降、水を得た魚のように活躍していく。幸隆の得意分野は「調略」(政治的工作)で、特に信濃侵攻中に信玄を大いに苦しめた村上義清(よしきよ)軍の攻略にあたっては、敵方の清野氏や寺尾氏などを調略によって切り崩して内部崩壊させている。
難航していた戸石城攻めも、幸隆の調略が成功したことにより、わずか1日で攻略。こうして、幸隆はついに旧領の地を回復することができたのだ。このとき越後に逃れた義清が長尾景虎(上杉謙信)を頼ったことから、川中島の戦いへと発展。その謙信も幸隆を高く評価し、「私が弓を取って戦えば真田に負けることはないが、知謀は遠く及ばぬ。真田がいる限り、信濃を奪うことは難しい」といわしめた。
中途採用された外様でありながら、古くから武田家に仕えていた譜代の家臣と同等の高待遇を得ていたのは、やはりその実力を認められていたからだろう。
病気を患って家督を嫡男の信綱に譲り、晩年は北信濃や上州方面の抑えとしてにらみをきかせ、62歳で没した。嫡男の信綱は長篠の戦いで戦死したが、その弟の昌幸が父譲りの調略を発揮、この後も真田家は戦国の世で大いに名をはせていく。
親から引き継いだ会社を倒産させたものの、急成長の新興企業を見極めてその一員となったことで、幸隆は見事に復活を遂げた。幸隆が武田に転職しなければ、後世の昌幸や幸村の活躍も生まれなかった可能性が高い。息子や孫に比べて現代での知名度は今ひとつだが、幸隆の功績はもっと評価されてもいいのではないだろうか。(渡辺敏樹/原案・エクスナレッジ)