ワールドカップ レジェンドインタビュー

 

今年は4年に一度行われる“バレーの祭典”ワールドカップイヤー。フジテレビのワールドカップ宣伝ポスターに登場していただいた伝説の選手たちに、自身が出場した大会の思い出を振り返っていただきます。第2回は、1981年大会の爽やかなプレーぶりで絶大な人気を誇り、銀メダルに貢献したセンタープレーヤー、三屋裕子さんです。

ワールドカップレジェンドインタビュー第二回:三屋裕子さん

三屋裕子(みつやゆうこ):
1958年7月29日生まれ、福井県勝山市出身。八王子実践高から筑波大に進み、1979年に当時としては珍しい、大学在学中での全日本入り。1981年に日立へ入社後に迎えたその年のワールドカップでは、スピードと高さを活かした攻撃でチームを引っ張るセンタープレーヤーとして活躍、その笑顔とケガを押してプレーする姿が人気を呼び、一大バレーブームを巻き起こした。84年ロサンゼルス五輪で銅メダル獲得後に現役を引退。教職、大学講師、上場会社社長などを歴任し、現在は筑波スポーツ科学研究所副所長、日本バレーボール協会理事を務める傍ら、スポーツコメンテーターとして、メディアで活躍している。

日本で2回目となった81年ワールドカップ。その大会で全日本スタメンデビューを果たすと、瞬く間に人気爆発。まさにシンデレラガールとして階段を駆け上ったのが三屋さんでした。

日本vsアメリカ

写真提供:月刊バレーボール

――81年のワールドカップから今年でちょうど30年の節目の年です。前回大会で優勝したチームに入り、プレーすることになりました。

三屋「おっ、30年ですか(笑)。あっという間ですね。今でもよく思い出します。77年のときは1つ年上の江上(由美)さんがデビューして、賞(サーブ賞)も獲って。すごいなーと思って観ていましたね。日本が圧倒的に強く、勝つ様子が日本で観られて自分のモチベーションも上がったのを覚えています。まさか4年後に自分が出るとは思っていませんでしたね」

――そして、この大会で全日本スタメンデビュー。いきなり背番号1番を背負いました。

三屋「本来背番号は年齢順だったのに、(横山)樹理さんが嫌だと言って(笑)。選手紹介でも次(2番)の樹理さんはものすごい歓声なのに、私の拍手はパラパラ。『三屋って誰?』って感じでした(笑)」

――いきなりの背番号1番もそうですが、77年大会からの連覇や、80年のモスクワ五輪ボイコットでの不出場もありました。この大会に入るにあたってプレッシャーはなかったですか?

三屋「感じる余裕がなかったですね。実は、スタメンになったのは大会の3日前だったんです。スタメンの佐藤裕子 (東洋紡)さんが、大会の1週間くらい前にヒザの治療でチームを離れて、3日前に小島(孝治)先生に『三屋で行く』と。だからプレッシャーというより、掴んだチャンスをモノにしたいという思いのほうが強かったですね。自分のことで精一杯でした。でも、偉大な先輩方によくしてもらい、ノビノビやらせていただいた。楽しかったですね」

――そこで三屋さん自身もスタメンを勝ち取って、いよいよ大会へということですが、当時のライバル国と言えばどこでしたか?

三屋「やっぱり中国とアメリカでしたね。中国は79年のアジア選手権を制し、アメリカはロス五輪(84年)に向けてチームを強化していました。あとはキューバが強くなってきて、韓国はやりにくいな、という印象でした。ちなみにキューバはサーブが速かったので、サーブレシーブを徹底しました。2段トスになるとブロックに捕まりやすいので、センター線を使えればと。攻撃では横への一人時間差を多用するとブロックも割れたので、対策はしやすかったですね。韓国は日本と同じく粘るチームで連続ポイントも取りづらかった。根負けしないように我慢、我慢といきました」

――そのアメリカ、中国とは予想通り上位争いでした。当然、対策は立てられたと思います。アメリカにはハイマン、クロケット、中国には郎平と張蓉芳、という強力な攻撃陣もいましたね。

三屋「中国は高さも技術も揃っていて、一番対策が取りづらかったですね。アメリカは案外諦めもよかったので先手必勝でいこうと(笑)。(両チームエースの)郎平とハイマンの対策としては、大学生男子に打ってもらい、ブロックでどう跳ぶかを練習しました。張蓉芳はうまい選手だったので、ブロックというより、守備でどう拾うかを徹底しました」


写真提供:月刊バレーボール

――そして、大会が始まりました。まず、三屋さんを語る上で忘れてならないのが、韓国と戦った2戦目(東京)です。

三屋「血染めのユニフォームですね(笑)。それまでのレシーブ練習で、右ヒジに擦り傷ができて、かさぶたになっていたんですが、それが取れて見る見るうちに血が出て。白いユニフォームだったので結構目立ってしまったんですが、そんなに騒がれるとは(笑)。それと、初戦のソ連戦ではサイド攻撃が多かったんですが、この試合ではセンターを多く使ってもらいました。そういうこともあり、多くの人に認識していただいた試合だったと思います」

――次にやはりアメリカ戦(仙台)が挙げられます。第3セットでスパイクへいこうとした際に足を滑らせて腰から落下する大アクシデントがありました。

三屋「広瀬のナイスレシーブを受けて私が打とうと思い切って踏み切ったら、汗で滑ってドーンといっちゃって。『ヤバイ、息ができない』って思ったら、江上さんに手を引っ張られて無理やり起こされました(笑)。右足にマヒもきてしまい、しばらく立てない状態だったんですけど、そこで三屋コールが起こって、『これは立たないといけない』と。そこでそのときにあの有名な「ニッポン、チャチャチャ」というコールが、バレー会場ではじめて起こったらしいですね」 

――実際、その応援は耳に入りましたか?

三屋「耳に入りましたね。それまでバレーの応援で、観客が声を合わせるというのはサーブのときの『ソーレ!』くらいだったんですけど、その応援で会場に一体感が生まれたというか、本当に心強かったですね。今思うと、応援の心強さというものを初めて感じたのがこの大会でした。あ、初めてと言えば、「ニッポン、チャチャチャ」もそうなんですが、バレーボールシューズのハイカットモデルを履いたのもこの大会の私がはじめて。80年3月のキューバ遠征で足首を脱臼してからずっと不安を抱えてプレーをしていたので、メーカーさんに特別に作っていただいて。何気に“はじめてのもの”が多い大会だったんです(笑)」

――そして5勝1敗で迎えた最終戦は中国との試合でした。5戦目で転倒した影響もあった影響もあったと思いますが、どのようなモチベーションだったのですか?

「前のブラジル戦を欠場しても右足のシビレは残っていましたね。でも、優勝の可能性も残っていたので、そんなことは言っていられませんでした。コートに立つのが精一杯でしたが、何とか最後まで立って、ただ勝つしかないと。この痛みを忘れられたらいいのにな、と思いながら戦いましたね。結果的には2セットを先取されたところで優勝はなくなりましたが、確か試合時間は3時間以上。頑張ったと思います。でも、本当にたくさんの声援をいただいて。改めて、応援の力強さを感じさせてもらいました」

多くのアクシデントを乗り越える姿、そして、爽やかなプレーが“三屋人気”火をつけました。まさにワールドカップは「人生を変えてくれる大会」。三屋さんは身を持って体験しました。

日本vsアメリカ

写真提供:月刊バレーボール

――一躍スターダムにのし上がったこの「ワールドカップ」。改めてどんな大会でしたか?

三屋「本当に人生を変えてくれた大会でした。3日前にスタメンにならなければ、もっと違ったバレー人生にもなっていたでしょう。最初名前が呼ばれて出たときはパラパラの拍手だったのに、最後はものすごい歓声。10日間くらいで、何があったの、という感じで変わって。そして世界で戦えるという自信を持つことができた大会でした。中学2年の時から持っていたオリンピックに出るという夢の実現に近づいている、と初めて実感できたのもこの大会。いろんな意味のある大会でした」

――そして、三屋さんの人生を変えてくれたワールドカップという大会に、今年も後輩たちが出場します。選手たちにエールをお願いします。

三屋「今年はサッカーW杯で優勝した『なでしこJAPAN』というお手本がありますよね。小さくてもパワーがなくても、やるべきことをきちんと構築して練習すれば、世界一になれるということを見せてくれました。自分たちのバレーというものを一人ひとりが持っていれば勝てると思います。そして諦めないところを見せてもらいたいですね。世界ランクは3位ですが、まだまだ挑戦者。日本バレーがNo.1だったプライドを取り戻せるような戦いをしてもらいたいと思います」

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