10月28日北京の天安門に車が突入、炎上した事件で、ウイグル族に対する政策の問題が背景にあると指摘する海外メディアの報道を支那政府が強く批判した。外務省・洪磊副報道局長は「(暴力テロを)中国の民族政策と結びつけ、中傷するのは、テロ主義者を放任するようなものだ。我々は強い不満を表す」、と声明を発した。また中国外務省は、「国民の宗教信仰の自由は保障されている」と強調。事件を巡っては、アメリカのCNNテレビがウイグル族への差別が背景にあると指摘したことに対し、中国の国営テレビがインターネット上の中国人の反発の声を伝えて批判している。
新疆ウイグル・東トルキスタンに対する侵略は対岸の火事ではない。
我国に対する軍事的侵略も絵空事ではないのだ。
国内に増殖する不逞支那人を野放しにしてはいけない。
10月6日(水曜日)、支那侵略主義糾弾行動
正午〜
場所:港区六本木ヒルズ前,六本木通り側歩道(港区六本木6-10-1)
にて街頭宣伝活動
地下鉄大江戸線・日比谷線の六本木駅から徒歩5分
12時30分頃から、支那(中華人民共和国)大使館へ移動し、
抗議文朗読と手渡しの予定
中華思想による覇権主義反対
東トルキスタン・新疆ウイグル・チベット侵略をやめろ
尖閣諸島を護れ
領海侵犯・領空侵犯を止めろ
漁民への妨害・脅迫をやめろ
東シナ海の天然資源盗掘を許さない
犯罪者の輸出をやめろ
靖国神社参拝にに口出しするな
反日・侮日の敵対教育をやめろ
在日シナ人は日本のルールを守れ
行動する保守Vs行動右翼! 行動する保守運動の矜持とは何なのか?
当日の模様を公式動画でアップしました。(速報版は前回弊ブログで公開済みです)
part2
part3
読者の声を聞くと意外と在特会等の行動する保守運動を支持する声が多いことに驚かされる。
既存の右翼運動に対する責任を問う声もある。愛国とか維新を声高に訴えながら、なんら世の中の変革に寄与できないままに、
体制側の補完勢力に墜落していった面を批判されれば、それは甘受しなければならないだろう。
で、在特会が日本を変革する原動力になるかと言えば、それはありえないだろう。
自身が述べているように、目的は入管特例法の廃止であり、これが達成されれば解散もあり得る。
あくまでもその名の通り、市民運動として目先の目的の為に邁進していることになる。
運動の根底には国家・国民という概念は見えてこない。
であるから、「覚悟」や「責任」と言った自らを追い込むような責務を負う必用がない。
「韓国人を殺せ」コールにしても、将来的に自らが政権の座に着くことを考慮すれば、軽々に発することはできない。
党首討論になって野党党首から攻め込まれた時には、国民をも納得させる言論を以って太刀打ちしなければならない。
世間に対するインパクト・朝鮮人トラウマを植えつけるための戦略で、納得を得られることはない。
一方、政治運動であれば、目的は「政権奪取」しかない。可能であるかどうかは別にして、自らが理想とする政治体制を構築することを
目指さないのであれば、運動を継続する意味は無い。
個人的な権力欲ではない。我々の中からそれに相応しい人物を排出して首班指名が成し遂げられればよい。
その点では、行動する保守とは捉えかたが根本から異なる。これは政治運動だから市民運動を見下しているとか「上から目線」だとか言う事柄はない。
その性格・成り立ちの相違に他ならない。
以前5月に弊ブログにおいて記述したとおり、彼等の運動を肯定するるものではないが、全面的否定ではない。常に是々非々で論じているつもりだ。
その点で、かれらの責任放棄、他人事体質については全くの理解不能である。
シンポでも指摘したように、京都裁判の証人として出廷しておきながら、長時間の尋問において「虚弱体質だから、終わりにしてほしい」、と泣き言を述べた在特会会長の桜井(高田)誠。これを醜態と言わず何と言う。
しかも前日は夜更けまで痛飲しての結果と聞いている。
朝鮮人の横暴に対する国民の怒り声を代弁しょうと決行されたのが勧進橋児童公園奪還闘争。
この正義の雄叫びが朝鮮人によって犯罪であると糾弾されている。
現行の歪曲された司法制度の下で、正論は封殺されようとも反日裁判官・朝鮮人御用弁護団に対し徹底抗戦。
裁判長が止めるのも構わず持論を開陳。言論戦では圧倒的勝利を見せ付けなければならない。
それを自ら戦線離脱したのである。
彼の指導者としての手腕・叡智に惹かれて戦線に参画した会員等がいれば、さぞかし落胆したのではないか。この醜態を糾弾しなければならない。
行動する保守運動のリーダーとしての覚悟を問う声が上がらなければならないはずだ。
しかし、支持者・賛同者からはそのような批判めいた声は聞かれなかった。
それは、周りにいる活動家・支持者さえも同じ目線で物事を見ている。誰も責任の所在を負うといった意識さえ持っていないからだろう。
また、運動における師が存在すれば、大一番に臨む前の助言や、事後の戒めを受ける機会もあったろうが、パソコンは何も教えてはくれない。
一方の当事者である西村修平氏は、証人尋問で傍聴席の朝鮮人に向かい深々と一礼、謝罪をした。
どちらも賛同者・支持者に対する裏切りである事には変わりないのだが、確信犯としての西村氏の方が寧ろ潔く見えるほどだ。
確かに現在の彼等の活動は注目を浴びている。右と言われる陣営の中においても、一定の動員数がある。
しかし、責任の所在も理論的裏づけも無い中で、それ以上の伸びを見せるとは思えない。また彼等自身からの将来的展望も示されてこない。
学校・教育現場ではイジメ問題が取りざたされている。人権という問題が注目を集める世情にある。
子供達がゲーム感覚で安易に「殺す」「死ね」を連発している。子供の親として「ヤッツケル・タオスは良いが、殺す・死ねはダメ」、と諭している。
新大久保デモに集う30代・40代の参加者達。その多くは乳幼児から義務教育を受ける子供達の親であるはずだ。
自分達が大衆の面前で殺せコールを発したり、容認している中で家庭で我が子の「コロセー」を聞いて何と言うのだろうか。
一定の仲間内で評価されていることが、世間一般大衆の意識と乖離しいることを理解できなければ、運動は一過性のものに終わる。
新しい勢力からは老害・老醜と言われる既存の右翼活動家。もう彼等の出る幕ではない、との批判は真摯に受け止める点もあろう。
で、これからの未来。何十年か先、現在の行動する保守運動のリーダーが継続して運動を牽引してくれる、まはた次世代のリーダーを育ててくれるのか。
その覚悟と責任を自覚しているのだろうか。
その覚悟と責任を自覚しているのだろうか。