ブリコラージュ@川内川前叢茅辺 <書 抜き書きメモ14>

マックス・ウェーバー
『職業としての政治/職業としての学問』
中山元訳、日経BP社、2009年

職業としての政治

現代の国家を社会学的に定義しようとするならば[その活動の内容ではなく]、すべての政治団体が所有しているある特殊な手段によるしかないのです。その特殊な手段とは、物理的な暴力なのです。かつてトロツキーはブレストリトスフクにおいて、「すべての国家は暴力を根拠としている」と喝破したのですが、これは名言です。もしも暴力を手段として利用することがまったく知られていない社会が形成されていたら、その場合にはこれを「国家」という概念で呼ぶことはできません。その場合には国家という名称の代わりに、特殊な意味で無政府状態(アナーキー)という概念を使うべきでしょう。(p.10)

……人間の共同体のうちで、ある特定の領域において……正当な物理的な暴力の行使を独占することを要求し、それに成功している唯一の共同体が国家だと言わざるをえないのです。(p. 10)

すべての支配体制は、継続的な運営を必要とするものであるかぎりは、二つのものを必要とします。一つは、正当な暴力を行使する権利があることを主張しているようにみえる〈支配者〉にたいして、人々が従順な姿勢を示すことです。もう一つは、人々のこのような服従に基づいて、物理的な暴力の行使に必要となるような物質的な〈財〉を[支配者]が利用できるということです。こうした〈財〉としては、人的な行政スタッフと、物質的な行政手段があります。 (p. 18)

現代の政治は何よりも、公開の場において、語られた言葉や書き記された言葉を手段として行われるものだからです。この言葉の持つ効果を計算することこそ、弁護士のほんらいの仕事の一つなのです。これは民衆政治家(デマゴーグ)ではない役人には向かない仕事なのです。役人のはたすべき目的から考えるならば、役人はデマゴーグであってはならないのであり、もしもデマゴーグになろうとしたら、非常に劣悪なデマゴーグになるに決まっているのです。(p. 58)

政治家は、指導者であってもその配下であっても、つねに闘うのであり、闘わざるをえないものですが、この闘うということを、まさに官僚はしてはならないのです。というのは、党派性、闘争、情熱、つまり怒り(イラ)と偏見(ストゥディウム)は、政治に不可欠な要素だからです。とくに政治的な指導者に不可欠な要素なのです。しかし官僚は、まったくの別の原則、しかもこれとは正反対の官僚の責任という原則にしたがって行動しなければならないのです。
自分が所属する官庁が、まったく間違っていると思える命令を出した場合にも、自分の意見を具申した上で、その命令があたかも自分の信念に一致したものであるかのように、命令する者の責任において、その命令を良心的かつ厳格に遂行しうることは、官僚にとって名誉ある行為なのです。このような最高の意味での倫理的な規律と自己否定の精神がなければ、すべての[官僚]機構が崩壊してしまうことでしょう。(p. 59)

これにたいして政治家が、すなわち国政を指導する政治家が名誉とするところは、みずからの行為の責任をただ一人で負おうとすることであり、政治家はこれを拒むことも、他人に押しつけることもできませんし、またそうしてはならないのです。倫理的には最高の官僚の特性も、[政治家としては]劣悪なものであり、とくに政治的な責任という概念にそぐわないものなのです。その意味では[倫理的に最高の官僚は]倫理的に最低の政治家になるのです。残念ながらわが国の指導的な地位に立つ人物は、このような人物[すなわち倫理的に最低な政治家]であるのがつねだったのですが。これが「官僚制の支配」と呼ばれるものです。 (p. 60)

民衆政治家は、[第一の大罪である]仕事に献身しない姿勢のために、ほんものの権力ではなく、権力の輝かしい〈見掛け〉だけを追い求めるようになりがちです。また[第二の大罪である]無責任性のために、権力の内容となる目的を考えることなく、権力のための権力を享受するようになりがちです。権力が〈避けられない手段〉であり、権力の追求がすべての政治の原動力であるにもかかわらず(あるいはそうであるだけに)、自分の権力をこれ見よがしに誇示する成り上がり者、自分のもつ権力に陶酔してしまう人、権力を権力として崇拝する人ほど、政治的な力を堕落させ、弱めるものはないのです。(p. 118)

戦争に勝った側は、自分が正しかったから勝利したのだと、品位のない独善的な言葉を吐くことがあるのです。あるいは反対に、戦争の恐ろしさに耐えられず精神的に崩壊した人が、そのことをきちんと認めるのでなく、倫理的に悪しき目的のために闘うことには耐えられなかったと主張するのも同じことで、これは自分が精神的に崩壊したことを正当化することを目的としているのです。 (p. 122)

……すべての倫理的な行動は、二つの根本的に異なり、たがいに両立することのできない原則に基づいているということです。倫理的な行動は「信条倫理的な」行動であるか、「責任倫理的な」行動であるかのどちらかなのです。……信条倫理的な原則にしたがって行動するか(宗教的に表現すれば、キリスト教徒として正しく行動することだけを考え、その結果は神に委ねるということです)、それとも責任倫理的に行動して、自分の行動に(予測される)結果の責任を負うかどうかは、深淵に隔てられているほどの対立した姿勢なのです。(p. 131)

信条に基づいてとられた行動の結果が悪しきものだったとしても、その責任は行為したものにあるのではなく、世界が、人間の愚かしさが、愚かな人間を創造した神が、その責任を負うべきだということになるのです。
これにたいして責任倫理的な人々は、普通の人間にそなわっている欠陥を考慮に入れて行動します。フィヒテがいみじくも語ったように、人間の善性や完全性を前提とする権利はないのです。責任倫理に基づいて行動する人は、自分の行為の結果があらかじめ予測できたのであれば、その責任を他人に転嫁することはできないと感じるものです。そしてこのような結果が生じたのは自分の行為に責任があると認めることでしょう。(p. 132)

信条倫理の人と責任倫理の人を調和させることはできないのです。また目的が手段を正当化することを原理として認めたとしても、どの目的であればどの手段を正当化することができるのかを、倫理的に決定することはできないのです。(p. 136)

古代のキリスト教徒たちもすでに、世界が悪魔によって支配されていること、政治に携わる者、すなわち権力と暴力を手段として使う者は、悪の権力と手を結ぶ者であること、政治家の行動については、「善から善だけが生まれる」というのは正しくなく、その反対に「善からは悪が生まれる」ことのほうが多いことを熟知していたのです。これを知らない人は、政治の世界では幼児のようなものなのです。 (p. 139)

現在では故郷や「祖国」は、もはや明確な価値のあるものではなくなっているかもしれません。しかしその代わりに「社会主義の将来」や「国際平和」を唱えようとしたところで、やはり同じような問題に直面することになるのです。というのは、政治的な行動によって、すなわち暴力という手段を行使して、責任倫理という道を通って実現されるすべてのことは、「魂の救済」を危うくするものだからです。しかし純粋な信条倫理にしたがって、信念の闘いのうちで「魂の救済」を求めようとしても、結果にたいして責任を負おうとする姿勢にかけているために、多数の世代においてこの魂の救済が傷つけられ、信用を落とすことになりかねません。 (p. 150)


職業としての学問

学者が、後々まで残る仕事を成し遂げたというおそらく生涯に一度だけ、二度とは味わうことのできない深い喜びを感じることができるとすれば、それは自分のごく狭い専門の領域に閉じこもることによってなのです。現在ではほんとうの意味で貴重で、決定的な業績というものは、つねに専門家の行った業績なのです。ですから[競走馬が脇見をしないようにつける]目隠しをみずから身につけて、自分の魂が救われるかどうかはこの写本のこの箇所の解釈が正しいかどうかにかかっていると思い込むことのできない人は、学問とは縁遠い人なのです。そのような人は、最近よく言われる学問という「経験」をすることができない人なのである。 (p. 177)
実際にすばらしい思いつきというものは、……まったく期待もしていないときに、突然のように現れるのであって、デスクに向かって詳しく調べたり、探し求めたりしているときには、現れないものなのです。しかしもちろんのことですが、このように詳しく調べたり、探し求めたりしていない人には、そして情熱をもって探求していない人には、この思いつきというものは訪れないのです。(p. 180)

……科学によって記述されるこの世界が、存在する価値のあるものかどうか、「意味」のあるものなのかどうか、この世界に生きるということが意味のあるものなのかどうかという問いも、きちんと証明することのできない問いなのです。自然科学はそもそもこのような問いを投げかけないのです。(p. 206)

すべての自然科学は、わたしたちが人生を技術的に支配したいとすればどうすればよいかという問いには答えてくれます。しかし人生を技術的に制御すべきなのかどうか、わたしたちは人生を技術的に制御することを望んでいるのかどうか、さらには人生にはそもそも意味があるのかどうかという問いには、自然科学は答えを与えません。 むしろそのこと[すなわち人生は技術的に制御すべきであり、人生は意味のあるものであること]を科学の目的として、前提としているのです。(p. 207)

美学は、芸術作品が存在するという事実を前提とする学問です。そしてどのような条件のもとで、このような芸術作品が生まれるのかを解明しようとするのです。…… 美学は、芸術作品が存在すべきであるかどうかは、問うことをしないのです。 (p. 208)

またあるものは、善ではないが美しいものでありうるだけでなく、むしろそれが善でないがために美しいということがありうるのです。これはニーチェがすでに指摘していただけでなく、ボードレールが『悪の華』と名づけた詩集において、すでに語っていたことでもあります。さらにあるものは美しくなく、神聖でもなく、善でもないにもかかわらず、真でありうることは、ごく日常的な智恵とされています。(p. 219)

                                                                             (2011/7/5)