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1ドル70円台の日本経済

《『Voice』 2009年3月号より》

超円高で経済破綻?

「79円50銭です! 79円50銭を付けました。史上最高値が、ついに更新されました!……繰り返します。ロンドン市場で、円が1ドル79円50銭まで買い進められ、1995年に付けた円の最高値79円75銭を上回りました。95年以来、じつに14年ぶりに円相場が最高値を更新したのです! 昨年から予想されていたように、超円高時代の到来です!」

 雨はいまも降りつづいている。

 7月に入ったにもかかわらず、長梅雨は一向に終わる気配を見せない。

 最近の新聞やテレビでは、契約を打ち切られた派遣社員の話題で持ち切りである。明日はわが身だ。中堅クラスの商社に勤めて、はや30年になろうとする自分だ。この年で解雇などされると、さすがに再就職もままならないだろう。

 梅雨が重い。湿気を帯びた空気が全身に纏わり付いてくる感触に、山本は2度、3度、何かを振り払う動作を見せた。

「ただいま……」

 口元から漏れ出た声があまりにもうつろに響き、山本はわが事ながら思わず皮肉な笑みを浮かべたものである。それほどの疲労は感じないのだが、声色はごまかせない。

 玄関脇の傘立てに重さを増した傘を突っ込み、顔を上げると、リビングの扉から薄明かりが漏れ出ているのが見えた。

(……帰っていたのか)

 山本は口元に歪んだ笑みを張り付かせたまま、リビングルームへと足を向けた。

「あ、父さん。お帰り!」

 50インチを優に超える大画面液晶テレビから目を離さずに、息子の和仁が声だけで出迎えてくれた。その口調は若者特有の快活さに満ちていて、山本の眉間に微妙に皺が寄った。

 大学に入学したばかりの息子は、いつも陽気な態度を崩さない。むろん陰鬱な顔ばかり見せられるよりはマシだが、日々の仕事で気が休まる暇がない身としては、いささか忌々しく感じるのも確かだ。

 5年ほど前に妻に先立たれ、いまは息子と2人暮らしの父子家庭だ。山本はソファに乱暴にビジネスバッグを放り出すと、何げなくテレビに目を向けた。

 瞬間、山本は背筋が凍りつく思いを味わったのである。画面の上部に「79円50銭!」と極太のテロップが浮かび上がり、中年の脂顔の男がヒステリックな口調で繰り返している。

「79円50銭です! 史上最高値が更新されました!」

 この脂顔のアナウンサーの名前は、たしか古林といったか。悲観的なニュースを嬉しそうに語るそのスタイルが、山本は個人的に大嫌いだった。

「超円高時代到来か……」

 山本は搾り出すように呟き、続けようとした。これで日本経済はおしまいだ、と。

 ところが山本の台詞は、妙に明るい口調の息子に遮られてしまったのである。

「良かったね、父さん」

「な……」

 唖然とする父親に向き直り、和仁は目を輝かせながら続ける。心の底から嬉しがっている表情である。

「通学にバイクを使っていると、やっぱりガソリン代がきついんだよねぇ。これだけ円高になれば、ガソリンの値段もそうとう下がるはずだよね」

「あのな、和仁……」

 山本は声音が荒々しさを帯びないように、注意深く語り掛けた。未成年とはいえ、自分の息子がここまで世間知らずだと、さすがに腹立たしい。

「円高の意味を分かっているのか? 日本経済が、これまで以上に大変になるということだぞ。下手をすると、経済破綻だ。いや、この調子で円が上がっていけば、間違いなく破綻するな」

「どうして? これまでの歴史上、通貨高で経済破綻した国は、1つもないよ。その逆、つまり通貨暴落で経済破綻した国は山ほどあるらしいけど」

 息子の淡々とした口ぶりに、山本はかなり面食らった。いきなり「歴史上」などという返し方をされるとは予想していなかった。山本はネクタイをわずかに緩め、疲れた素振りで椅子に腰を下ろした。

「歴史上の話はそうかもしれないが、なにしろ日本は世界最大の外需依存国だ。このまま円高が続くと、輸出が不可能になってしまう。外需に頼る日本経済は輸出ができなければ、破綻するに決まっているだろう」

「外需依存国?」

 息子の目が面白そうな光を帯びた。山本は何となく不穏な気配を覚えたものだ。

「何、それ? 日本が外需依存国って?」

 山本は大きく溜め息をつく。こんな基本からいちいち説明しなければならないとは、わが息子ながら呆れたものだ。自分の会社の若手社員もそうだが、若い奴らはどうしてこう、常識というものを知らないのだろうか。

「外需依存国ということは、つまり日本経済が輸出に頼っているということだ。GDP、国内総生産に占める輸出の割合が、とても大きいという意味だな。だから円高になれば、日本は経済破綻に追い込まれるわけだ。分かるか?」

「輸出の割合が大きい? 輸出依存度、つまり輸出対GDP比率が高いってこと?」

 山本はギョッとし、思わず異星人でも見るような視線を息子に送った。「輸出対GDP比率」などという、専門的用語が息子の口からすらすら出てくるとは、かなり違和感がある。山本は何となく焦った素振りで、少し早口に言い返した。

「そうだ。輸出対GDP比率が高いということだ。日本は外需依存国だからな」

「日本の輸出依存度って、せいぜい15%だけど、これって高いかな?」

「……高いだろう。15%もあるのだから」

「でも他の国と比較すると、日本の輸出依存度は、主要国のなかではアメリカの次に低いよ。なにしろ製造業が衰退しちゃった、あのイギリスよりも低いんだから」

 一瞬、山本は返す言葉を失った。何と反論してやればいいのだろうか。父親の戸惑いになどまるで気付かぬ様子で、和仁は滑らかな口調で続ける。

「ついでにいうと、主要国で輸出依存度が高いのはドイツや中国、それに韓国ね。なにしろこれらの国の輸出依存度は4割近くにまで達しているから、日本の倍以上だよ。日本が外需依存国というのであれば、ドイツや中国は何と呼べばいいんだろう。超外需依存国でいいのかな?」

「……」

 山本は少し考え込んだ。具体的な数字を出されるのは予想外だったが、自分は筋金入りの商社マンだ。日々、さまざまな客先で、円高に苦しむ輸出製造業のサポートを続けている。彼ら輸出製造業の苦しみを、ダイレクトに肌で感じつづけているのは、息子ではなく自分だ。

「数字上はたしかにそうかもしれないが、実際にこの超円高で、日本の輸出企業はたいへん苦しい思いをしているんだ。このまま円高が続くと、日本の輸出産業は全滅するとさえいわれている。父さんは、毎日毎日お客さまとお会いして、直接お話を聞いているのだから、輸出企業の皆さんの厳しさはよく分かっている」

「父さん。実質実効為替レートって知っている?」

 また知ったかぶりか。山本は、一瞬、激高しかかった自分を必死に抑え込む。まったく聞きかじりの半端な知識で、父親である自分に対抗できるとでも思っているのだろうか。

「当たり前だ。アメリカドルだけではなく、日本と関係がある国や地域の為替レートを貿易量で加重平均して算出した為替レートのことだ。それがどうした?」

「いまの父さんがいった定義で算出されるのは、名目実効為替レートだよ。名目実効為替レートは、関係国の物価水準の変動を加味していないから、輸出の厳しさを正しく測れない。どれだけ名目実効為替レートが高くなっても、相手国の物価がそれ以上に高騰しちゃえば、輸出はかえって楽になるんだから。

 日本の輸出企業が厳しくなるのは、物価変動を加味した実質実効為替レートが上昇したときね。もちろんいまは名目値の円レートが高くなっているから、実質実効為替レートも上昇しているよ。でもいまだに130ポイントにも届いていないんだから、せいぜい2001年レベルでしかないんだよ。なにしろ1995年に1ドル80円を切ったときは、実質実効為替レートが160ポイントを超えたから、あのときに比べれば、いまはまだ円安なんだよ。それで本当に輸出産業が全滅とかいう話になるの? 日本の輸出企業って、そんなに弱いのかなぁ。信じられないよ」

 たしかにそうだ。実質実効為替レートでいえば、いまはまだ2001年ごろの水準にすぎない。仕事柄、山本はもちろん現在の実質実効為替レートの水準を知ってはいたが、日頃の業務のなかで「円高、円高」といわれるので、とくに何の疑問も抱かず、そのまま受け取っていた。しかしあらためて考えてみれば、2001年レベルの為替水準で、日本の輸出産業が全滅などありうるはずがない。

内需は絶望的という大嘘

「しかしだな……」

 山本はもはや必死に頭を振り絞り、息子への反論の糸口を探したものだ。

「実際、マスコミや経済評論家は、日本の内需は絶望的だ。だから日本は輸出で成長していくしかない、と毎日のように繰り返しているじゃないか。内需が成長しないなら、やっぱり輸出で食っていくしかないわけだ。実質実効為替レートの件はともかく、いずれにせよ円高は輸出企業にとっては望ましいことではない。なにしろ日本の内需はまったくダメなわけだから、頼みの輸出を順調に成長させるためにも、円安のほうが良いに決まっている」

「マスコミや評論家って、それって『〇経新聞』のこと?」

 息子は笑いをこらえるふうに、肩を震わせている。何がそんなにおかしいのだ。父親に対してこんな態度をとるなんて、最近の若者ときたら……。いや、自分が和仁の年齢のころも似たようなものだった気もする。どうだっただろうか? 山本は不意に、自分の年齢を強烈に意識した。

「まあそのマスコミが何新聞でもいいけど、いまの話って、因果関係が逆だよ」

「因果関係?」

「そう。だって、内需がダメだから輸出で成長していく、つまり円安のほうが望ましいというけど、内需の成長が抑え込まれているのは、そもそも円安だったからだよ。円が安くなっているときは、日本人の購買力がどんどん削られていっているわけだよね。輸入価格が上昇するわけだから。日本人の購買力が小さくなれば、国内を主な市場としている中小企業だって、それはやっぱり経営的に厳しくなるでしょう。外国への輸出で稼いでいる大企業はともかく、円安になれば中小企業の収益力が落ちて、内需の成長率が低下して当然だよ。

 内需を成長させたいなら、方法は単純だと思うけど。円高にすればいいんだ」

「円高にすればいいって……簡単にいうな。そもそも日本の内需、とくに個人消費は規模が大きくないのだから、円高で個人の購買力を強くしても、高が知れているだろう」

 息子は何か言いかけたが、すぐに口を閉じた。ようやく言いくるめることができたわけだ。山本が取り戻した父親の威厳に、ホッと息をついたところ、

「父さん、それは本気でいっているの? 日本の個人消費の規模が小さいって……」

 再び、何となく嫌な予感が込み上げてきたため、山本は押し黙った。父親の沈黙を受けて、和仁は寂しそうな視線を送ってきた。その眼差しには明らかに哀れみの情が浮かんでおり、山本の不愉快度は急角度で上昇した。

「本気だとも。経済新聞だけではない。テレビでも経済評論家がいつもいっているじゃないか。日本の個人消費は絶望的だ。だから、これから伸びることが明らかな新興経済諸国、たとえば中国などの市場に注力しなければならないんだってな」

「個人消費は日本のGDPの56%を占めるよ。日本のGDPは、半分以上が個人消費なんだ。それはもちろん、個人消費が7割近いアメリカには負けるけど、個人消費がGDPの3割程度しかない中国なんかとは、比較にならないほど大きいんだよ。しかも中国の個人消費はGDPに占める割合が年々減りつづけているけど、日本のほうは逆に増えているよ。昨年にしても、あれだけ不景気だ、不況だってマスコミが悲観論をばらまいたのに、日本の個人消費はそれなりに成長していたんだよ。もちろん円が高くなって日本人の購買力が高まったのが原因だと思うけど」

「……」

「だいたい、父さん。マスコミや評論家が何かいうときに、数字を使って説明するのを聞いたことがないでしょう。数字を出すと嘘がばれちゃうから、みんな『日本は外需依存国』とか『日本の内需は絶望的』みたいな、印象論だけを何度も繰り返してミスリードしているんだよ。なにしろ、世界に外需がゼロの国はないから『日本は外需依存国』だってけっして嘘ではないし、円安のせいで日本の内需の成長率が輸出に負けていたのは確かだから、『日本の内需は絶望的』も嘘とは断言できないからね。かなり、ぎりぎりだと思うけど」

「……」

「ついでにいうと、超が付く外需依存国である中国の純輸出(輸出-輸入)、つまり外需ね。外需がGDPに占める割合は10%近いんだよ。純輸出がGDPの1割近いって、ここまで外需に頼りきっている国はほかにはないんじゃないかな。

 逆に日本の外需、つまり純輸出がGDPに占める割合は、2%未満だよ。つまり日本のGDPは、じつは98%以上が内需なんだよ」

「しかし、日本は少子化で人口が減っているんだ。人口が減っているのだから、内需がこれから伸びるわけがないだろう」

「人口が減っているって……」

 和仁は呆れたふうに、1つ大きく溜め息をついた。

「たとえば、昨年は日本の人口が5万人ぐらい減ったみたいだけど、それって日本の人口の0.04%にも満たない人数だよ。誤差レベルにも達しない人口が減って、内需がそんなに影響を受けるはずがないでしょう。

 日本のGDPの半分以上が個人消費だから、日本に住む人が1年間に2%だけ消費を増やせば、それだけでGDPが1%増えるんだよ。どう考えても、人口よりも個人の消費の影響のほうが大きいでしょう」

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