谷垣以外に大義無し
前回、谷垣総理、麻生財務、安倍外務の三頭政治で、我が国の危機を乗り切るべしと書いた。事実上「三人の首相」を立て、内外の重大課題に果敢に取り組む「攻めの政治」を期待するものである。もし、この体制が実現すれば、ただそれだけで極東情勢は、現状より遙かに安定するだろう。政治工作を仕掛け、内政を混乱させて外交に隙を作る、あるいは外交上の問題をでっち上げ、内政を手薄にするという典型的な手法が取れないからである。下劣な周辺国は沈黙せざるを得まい。
そして、ここで最も重要な点は、政治家が最も嫌い、最も恐れる「権力中心の複数化」を受け入れて、なおそれを力に変えられる者は、谷垣以外に居ないことである。また谷垣政権は長期にはならない、竹下登の自虐「総理二年の使い捨て」に殉じる内閣である。複雑な「時限爆弾」を仕掛けながら、数々の難題に斬り込み、そして自爆する運命にある。民主党の負の遺産は、内閣の一つや二つ潰したぐらいでは、なかなか抹消出来るレベルのものではないからである。
それは安倍外相も同様である。外国勢力に乗っ取られたマスコミを相手に大立ち回りを演じる以上、無傷では済まない。とりわけ、領土問題を仕掛けてくる相手を潰すには、捨て身の戦法を採るしかない。我が身かわいさが少しでも出れば、付け込まれるのである。従って、安倍外相は大きな成果を残す代わりに、辞任に追い込まれるだろう。しかし、これは外交上の駆け引きによる辞任劇であって、自らの評価を下げる政治的な汚点にはならない。むしろ益々「次期総理待望論」が出て来るだろう。
竹下の「使い捨て論」には、きちんとした計算があった。即ち、何がその内閣の最重要課題であるかを見極め、その成就と引き替えに自らは身を引く。逆に見れば、僅か二年で成果を出し、それ以上の高望みをすることで政治を停滞させずに、潔く身を引くという戦略を、自虐ネタとして披露したものである。
谷垣は、融通が利かないという「官僚の短所」を、「政治家の長所」としている人物である。融通が利かないということは、動き出したら止まらないということである。合議の上で決めたことは、何が何でもやり通すということである。その実行力に疑問を持つ方が多いようであるが、決まったことは愚直にやり通すのが谷垣流であり、そこに揺らぎはない。それは過去三年の総裁としての実績が見事に示している。
よって、谷垣内閣は当初のプラン通り、三つの重要課題にしっかりとした道筋をつけ、残る問題には何れ時が来れば点火する「時限爆弾」を据えて、比較的短期にその使命を果たすだろう。勿論、政治の世界は一寸先が闇であり、何がどうなるか、誰にも分からない。しかし、我々国民は「一番可能性の高い計画」に賭けるしかない。これは「一か八か」の賭ではない、冷静に理性でしっかりと判断した上での「決断」である。
★ ★ ★ ★ ★
そもそも今回の総裁選には、谷垣以外の議員に出馬する大義は無い。それは三年前の総裁選の時に既に決まっていたことである。流布しやすいようにまとめておく。
総裁選 谷垣以外 大義無し
である。三年前、自民党は長年の悪癖が見事に露出して、麻生の首を切った。忘れている人も多いかと思うが、谷垣の前の総裁は麻生ではない、そこには十日余りの空白がある。形式的な党のリーダーとして若林を選び、首相指名選挙では若林に投票している。谷垣が選ばれたのは、その後である。
その時の総裁選で立候補しなかった者に、今回立つ資格は無い。何しろ、早期解散を拒否した麻生を詰るばかりで、目の前の総裁選までの僅か十日すら我慢出来なかった議員達である。確かに、それぞれにそれぞれの理由はあるだろう。石破は麻生内閣の閣僚であり、連帯責任を負う意味から出馬出来なかったということであろう。しかし石破は、麻生内閣末期に与謝野と組んで、麻生退陣を迫った人物であり、「連帯責任論で立候補を見送った」というのでは、話の辻褄が合わなくなる。
安倍は、参議院選挙で負け、現在に至る負の流れを作った責任と、体力の回復に自信が持てなかったこともあったろう。あの段階で立候補出来なかったことは、今なお残る党内の反発を考えても当然のことである。しかし、この三年間で立候補の大義が出来たとは考えられない。本来、今回の選挙は「中川昭一のための総裁選」のはずであった。もし中川ありせば、安倍の一回先送りは当然のことであり、本人にも異論は無かったであろう。
しかし、現実はそうならなかった。安倍は「この現実の意味」を今一度よく考えて自重すべきではないか。何しろ、今自身の支持を打ち出している議員の多くが、中川が立ち上げた勉強会のメンバーであり、それを中川直々の依頼で引き継いだ経緯があるのだから。中川昭一の遺志を継ぐとは、今この段階で「中川の代わりとして総裁選に打って出る」ことではない、と信じる。
石原は、「野党自民党」の幹事長である。野党である自民党の総裁を「総理」に、野党を与党に戻すことを使命として選任された人物である。その役回りを引き受けた人間が、総裁を総理にする道を自ら妨害するとは、全く理解出来ない行動である。もし、仮に自らの行動に大義があるなら、林議員のように早くから総裁選を意識した発言をし、幹事長職を降りて戦う姿勢を見せるべきであった。しかし、総裁が立候補を明言した後ですら、自身の身の振り方を明確に示さず、支援者の動向に引き摺られた対応に終始しているようでは、「総裁候補の資格すら無い」と言えよう。
また、石原、町村は、三年前の総裁選に出馬しなかったことも致命的である。両名は出馬しようと思えば出来たはずである。野党総裁という「貧乏くじ」を引かずに、党内での自身のプレゼンスのみを高めようと画策した結果、今に至っているのである。この両名は谷垣が営々と築いてきた現状、即ち「政権交代近し」の状況において出馬をするという、実に見事な「他人の業績の掠め取り行為」を行っているのであり、余程「現総裁が不適格者」でなければ、許されない裏切りである。石原は執行部を分裂させ、安倍・町村は派を分裂させている。ここに大義など微塵も無い。
以上、簡単に見てきたように、谷垣以外のどの候補にも出馬の大義は無い。猛火の家の中に飛び込んで逃げ遅れた人や仲間を助け、自らも多くの傷を負ってようやく表に出て来た救命隊員から、負傷者を横取りして、恰も自分が助けてきたかの如くインタビューに答えるような真似は慎むべきである。国民は自民党の「絆」が絵空事ではなく、自党にも適用されることを心から信じている。それは谷垣総理総裁においてのみ可能であると考えるものである。
そして、ここで最も重要な点は、政治家が最も嫌い、最も恐れる「権力中心の複数化」を受け入れて、なおそれを力に変えられる者は、谷垣以外に居ないことである。また谷垣政権は長期にはならない、竹下登の自虐「総理二年の使い捨て」に殉じる内閣である。複雑な「時限爆弾」を仕掛けながら、数々の難題に斬り込み、そして自爆する運命にある。民主党の負の遺産は、内閣の一つや二つ潰したぐらいでは、なかなか抹消出来るレベルのものではないからである。
それは安倍外相も同様である。外国勢力に乗っ取られたマスコミを相手に大立ち回りを演じる以上、無傷では済まない。とりわけ、領土問題を仕掛けてくる相手を潰すには、捨て身の戦法を採るしかない。我が身かわいさが少しでも出れば、付け込まれるのである。従って、安倍外相は大きな成果を残す代わりに、辞任に追い込まれるだろう。しかし、これは外交上の駆け引きによる辞任劇であって、自らの評価を下げる政治的な汚点にはならない。むしろ益々「次期総理待望論」が出て来るだろう。
竹下の「使い捨て論」には、きちんとした計算があった。即ち、何がその内閣の最重要課題であるかを見極め、その成就と引き替えに自らは身を引く。逆に見れば、僅か二年で成果を出し、それ以上の高望みをすることで政治を停滞させずに、潔く身を引くという戦略を、自虐ネタとして披露したものである。
谷垣は、融通が利かないという「官僚の短所」を、「政治家の長所」としている人物である。融通が利かないということは、動き出したら止まらないということである。合議の上で決めたことは、何が何でもやり通すということである。その実行力に疑問を持つ方が多いようであるが、決まったことは愚直にやり通すのが谷垣流であり、そこに揺らぎはない。それは過去三年の総裁としての実績が見事に示している。
よって、谷垣内閣は当初のプラン通り、三つの重要課題にしっかりとした道筋をつけ、残る問題には何れ時が来れば点火する「時限爆弾」を据えて、比較的短期にその使命を果たすだろう。勿論、政治の世界は一寸先が闇であり、何がどうなるか、誰にも分からない。しかし、我々国民は「一番可能性の高い計画」に賭けるしかない。これは「一か八か」の賭ではない、冷静に理性でしっかりと判断した上での「決断」である。
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そもそも今回の総裁選には、谷垣以外の議員に出馬する大義は無い。それは三年前の総裁選の時に既に決まっていたことである。流布しやすいようにまとめておく。
総裁選 谷垣以外 大義無し
である。三年前、自民党は長年の悪癖が見事に露出して、麻生の首を切った。忘れている人も多いかと思うが、谷垣の前の総裁は麻生ではない、そこには十日余りの空白がある。形式的な党のリーダーとして若林を選び、首相指名選挙では若林に投票している。谷垣が選ばれたのは、その後である。
その時の総裁選で立候補しなかった者に、今回立つ資格は無い。何しろ、早期解散を拒否した麻生を詰るばかりで、目の前の総裁選までの僅か十日すら我慢出来なかった議員達である。確かに、それぞれにそれぞれの理由はあるだろう。石破は麻生内閣の閣僚であり、連帯責任を負う意味から出馬出来なかったということであろう。しかし石破は、麻生内閣末期に与謝野と組んで、麻生退陣を迫った人物であり、「連帯責任論で立候補を見送った」というのでは、話の辻褄が合わなくなる。
安倍は、参議院選挙で負け、現在に至る負の流れを作った責任と、体力の回復に自信が持てなかったこともあったろう。あの段階で立候補出来なかったことは、今なお残る党内の反発を考えても当然のことである。しかし、この三年間で立候補の大義が出来たとは考えられない。本来、今回の選挙は「中川昭一のための総裁選」のはずであった。もし中川ありせば、安倍の一回先送りは当然のことであり、本人にも異論は無かったであろう。
しかし、現実はそうならなかった。安倍は「この現実の意味」を今一度よく考えて自重すべきではないか。何しろ、今自身の支持を打ち出している議員の多くが、中川が立ち上げた勉強会のメンバーであり、それを中川直々の依頼で引き継いだ経緯があるのだから。中川昭一の遺志を継ぐとは、今この段階で「中川の代わりとして総裁選に打って出る」ことではない、と信じる。
石原は、「野党自民党」の幹事長である。野党である自民党の総裁を「総理」に、野党を与党に戻すことを使命として選任された人物である。その役回りを引き受けた人間が、総裁を総理にする道を自ら妨害するとは、全く理解出来ない行動である。もし、仮に自らの行動に大義があるなら、林議員のように早くから総裁選を意識した発言をし、幹事長職を降りて戦う姿勢を見せるべきであった。しかし、総裁が立候補を明言した後ですら、自身の身の振り方を明確に示さず、支援者の動向に引き摺られた対応に終始しているようでは、「総裁候補の資格すら無い」と言えよう。
また、石原、町村は、三年前の総裁選に出馬しなかったことも致命的である。両名は出馬しようと思えば出来たはずである。野党総裁という「貧乏くじ」を引かずに、党内での自身のプレゼンスのみを高めようと画策した結果、今に至っているのである。この両名は谷垣が営々と築いてきた現状、即ち「政権交代近し」の状況において出馬をするという、実に見事な「他人の業績の掠め取り行為」を行っているのであり、余程「現総裁が不適格者」でなければ、許されない裏切りである。石原は執行部を分裂させ、安倍・町村は派を分裂させている。ここに大義など微塵も無い。
以上、簡単に見てきたように、谷垣以外のどの候補にも出馬の大義は無い。猛火の家の中に飛び込んで逃げ遅れた人や仲間を助け、自らも多くの傷を負ってようやく表に出て来た救命隊員から、負傷者を横取りして、恰も自分が助けてきたかの如くインタビューに答えるような真似は慎むべきである。国民は自民党の「絆」が絵空事ではなく、自党にも適用されることを心から信じている。それは谷垣総理総裁においてのみ可能であると考えるものである。