その先入観が自民党を潰してきた
保守とは何か。保守派とは如何なる人達であろうか。
保守派を自認する人達の間でも、それぞれで定義が異なる。
従って、細かい詮議立てをした所で、得るところは少ない。
革新に対する「反革新」程度に留めておいた方が無難であろう。
しかし、これを許さず、これを認めず、微に入り細に穿って論じないと、気が済まない人も多いようだ。そして、その定義をそのまま現実の政治、生身の政治家に持ち込もうとする。単なる「反革新」なら大同団結出来るものを、あれは保守だ、あれは保守ではない、と始めると、忽ち人は立ち去ってしまうのである。
これもまた「保守」という言葉に対する先入観の強さがもたらした悪弊であろう。「保守かくあるべし」では分類には便利であっても、現実の政治に対する有効な言葉は生み出せない。単に味方の足を引っ張るだけに終わってしまう。
評論家では櫻井よしこ、政治家では平沼赳夫に、この傾向が強い。こうした思い込みの強い人物の「政治評論」は、的確・適切であることが少ない。政治家としては、政局に弱く、規模の大きな組織は仕切れない。要するに、その志に相反して、野党気質に堕してしまうのである。
政治の世界では、自らの信念は懐に入れて、滅多に出さない程度がよいのである。政治は妥協と、前言修正を繰り返すことで、初めて最大多数の幸福への道が見出せるものである。信念に殉じたければ、政治に関わることを止めて、学者になる方が適当であろう。
勿論、これも程度問題であり、「前言を修正する」ことは適切であっても、民主党のように毎日毎日「前言を撤回」し、出来ないことを約束し、嘘を吐き、言い訳を繰り返して、時間さえ稼げれば後は何とかなるだろう、というようなデタラメを擁護する意味で書いているのではない。
★ ★ ★ ★ ★
さて、こうした「保守派」の人達に不人気なのが自民党谷垣総裁である。覇気がないだの、リーダーシップに欠けるだの、誠に言いたい放題であり、他党支持者ならともかく、自民党支持者にまで、こう酷評ばかりされては、御本人も遣り切れないだろう。
谷垣禎一は自民党の歴史に残る総裁である。
これは厳然たる事実である。
先ず、久々の三年任期満了の総裁である。
そして、先日の自民党内からの生放送で、自ら自嘲気味に語られたように、「自民党総裁室に最も長く居る総裁」である。政権与党となれば、当然「総理執務室」に居る時間の方が遙かに長くなるわけであるから、「これまでの自民党総裁は、総理であったがために余り総裁室には居なかった」ということを冗談めかして語られたのである。
しかし、これはウケを狙って話されたのではない。
むしろ、この言葉に男としての誇りを読み取るべきなのだ。
三年前、自民党は野党に転落した。
その時、「野党自民党総裁」となることを躊躇う有力議員が多い中、敢然と手を挙げられた「総裁選経験者」は、谷垣総裁ただ一人であった。このことだけを取り上げても、谷垣氏に文句を言える自民党議員は少ないはずである。あの時、あの状況で、如何なる裏事情があろうとも、自らが総裁選に出なかった段階で、「谷垣降ろし」を画策する資格は無いのである。
そして谷垣自民党は、極めて舵取りの難しい政治状況の中で、日々得点を重ねてきた。歩みは遅く見えても、確実に相手を捉えて、見失うことなく追い詰めてきた。重要な選挙はことごとく勝ってきた。
そして何より、自民党から落伍者を出さず、反総裁グループを作らせず、少しずつ自民党本来の主張である「自主独立の路線」へと移行させてきた。唯の一回も大声を出さず、見苦しい振る舞いをせず、現状で唯一「政権交代が可能な野党」を、見事に取り仕切ってきたのである。
しかし、「保守」という括りに拘る人達には、この現実が見えないようである。そこには、やはりマスコミの煽りが利いていると思われる。他の問題なら一言でマスコミを否定する人達も、谷垣氏の見た目の優しさに焦り、苛立ちをおぼえ、マスコミの思う壺に嵌ってしまうのである。自らの我慢の無さが、自らの信条すら裏切ってしまうのである。
これまで、どれほどマスコミが作り上げた先入観に乗って、自民党の雄偉の人材を潰してきたか。他党支持者ではない、自民党支持者が自ら「次代のホープ」にドロを塗ってきたか、そのことを考えて頂きたい。
「丸ごと支持、何もかも支持!」と断言出来ない心の弱さが、ピンチの時に現れるのである。「百%何でも支持」なら、宗教と同じでそれは真の支持者ではない等と、如何にもマスコミの受け売りのようなことを言って、自分だけは理性的な、知的な支持者であろうとカッコを付ける。その弱みに付け込まれるのである。
中川昭一の、あの一件の時の「反応」を思い出して頂きたい。自民党は支持するし、中川も支持するが、「今回のことだけはダメだ」と、「真実を調べようともせず」、自分だけは高みに登って、マスコミに同調した人達がどれほど居たか。事の真偽を確かめる前に、マスコミ報道に踊らされ、先入観を植え付けられて、自民党潰しに加担してきた人が実に多かった。泣きたい位に多かったのである。
自民党は昔から「人材の宝庫」と呼ばれてきた。しかし、国民挙げてその人材を潰してきたのである。幾ら宝庫だとは言っても、それには限りがある。野党とマスコミの共闘により、自民党の総裁は短期に使い捨てられてきた。そして遂に世代間ギャップが目立つところまで追い込まれてきた。ここで下らぬ横槍を入れて、谷垣総裁まで使い捨てるようなことがあっては、益々人材が涸渇するようになる。
嘘も偽りも、誇張も要らない。冷静に、谷垣総裁のこの三年を調べれば、「よくぞ、この時期に総裁職を引き受けて貰えたものだ」との思いを持たれるはずである。来る総選挙、政権奪還の闘いに勝利する。その為には、現体制がベストである。間違っても「選挙向けの顔」などを模索することがないように、御願いしたいものである。
闘志と信念を腹の中に収め、ひたすらジェントルに振る舞われる谷垣氏は、実にマスコミが批判し難い相手なのだ。そのことを誰よりも知っているのが、谷垣氏である。それを単なる弱気としか読めない人は、政局を語る資格が無い。今は沈黙に徹し、焦らず、慌てず、大局を見て頂きたい、と切に願うものである。
「保守」であるという政治信条よりも、さらに大切なものがある。
それは国家である。日本である。
日本を護るため、現政府を倒すためなら、保守であろうと何であろうと捨てる。それこそが、実は保守そのもの、保守派の気概というものではないか。
保守派を自認する人達の間でも、それぞれで定義が異なる。
従って、細かい詮議立てをした所で、得るところは少ない。
革新に対する「反革新」程度に留めておいた方が無難であろう。
しかし、これを許さず、これを認めず、微に入り細に穿って論じないと、気が済まない人も多いようだ。そして、その定義をそのまま現実の政治、生身の政治家に持ち込もうとする。単なる「反革新」なら大同団結出来るものを、あれは保守だ、あれは保守ではない、と始めると、忽ち人は立ち去ってしまうのである。
これもまた「保守」という言葉に対する先入観の強さがもたらした悪弊であろう。「保守かくあるべし」では分類には便利であっても、現実の政治に対する有効な言葉は生み出せない。単に味方の足を引っ張るだけに終わってしまう。
評論家では櫻井よしこ、政治家では平沼赳夫に、この傾向が強い。こうした思い込みの強い人物の「政治評論」は、的確・適切であることが少ない。政治家としては、政局に弱く、規模の大きな組織は仕切れない。要するに、その志に相反して、野党気質に堕してしまうのである。
政治の世界では、自らの信念は懐に入れて、滅多に出さない程度がよいのである。政治は妥協と、前言修正を繰り返すことで、初めて最大多数の幸福への道が見出せるものである。信念に殉じたければ、政治に関わることを止めて、学者になる方が適当であろう。
勿論、これも程度問題であり、「前言を修正する」ことは適切であっても、民主党のように毎日毎日「前言を撤回」し、出来ないことを約束し、嘘を吐き、言い訳を繰り返して、時間さえ稼げれば後は何とかなるだろう、というようなデタラメを擁護する意味で書いているのではない。
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さて、こうした「保守派」の人達に不人気なのが自民党谷垣総裁である。覇気がないだの、リーダーシップに欠けるだの、誠に言いたい放題であり、他党支持者ならともかく、自民党支持者にまで、こう酷評ばかりされては、御本人も遣り切れないだろう。
谷垣禎一は自民党の歴史に残る総裁である。
これは厳然たる事実である。
先ず、久々の三年任期満了の総裁である。
そして、先日の自民党内からの生放送で、自ら自嘲気味に語られたように、「自民党総裁室に最も長く居る総裁」である。政権与党となれば、当然「総理執務室」に居る時間の方が遙かに長くなるわけであるから、「これまでの自民党総裁は、総理であったがために余り総裁室には居なかった」ということを冗談めかして語られたのである。
しかし、これはウケを狙って話されたのではない。
むしろ、この言葉に男としての誇りを読み取るべきなのだ。
三年前、自民党は野党に転落した。
その時、「野党自民党総裁」となることを躊躇う有力議員が多い中、敢然と手を挙げられた「総裁選経験者」は、谷垣総裁ただ一人であった。このことだけを取り上げても、谷垣氏に文句を言える自民党議員は少ないはずである。あの時、あの状況で、如何なる裏事情があろうとも、自らが総裁選に出なかった段階で、「谷垣降ろし」を画策する資格は無いのである。
そして谷垣自民党は、極めて舵取りの難しい政治状況の中で、日々得点を重ねてきた。歩みは遅く見えても、確実に相手を捉えて、見失うことなく追い詰めてきた。重要な選挙はことごとく勝ってきた。
そして何より、自民党から落伍者を出さず、反総裁グループを作らせず、少しずつ自民党本来の主張である「自主独立の路線」へと移行させてきた。唯の一回も大声を出さず、見苦しい振る舞いをせず、現状で唯一「政権交代が可能な野党」を、見事に取り仕切ってきたのである。
しかし、「保守」という括りに拘る人達には、この現実が見えないようである。そこには、やはりマスコミの煽りが利いていると思われる。他の問題なら一言でマスコミを否定する人達も、谷垣氏の見た目の優しさに焦り、苛立ちをおぼえ、マスコミの思う壺に嵌ってしまうのである。自らの我慢の無さが、自らの信条すら裏切ってしまうのである。
これまで、どれほどマスコミが作り上げた先入観に乗って、自民党の雄偉の人材を潰してきたか。他党支持者ではない、自民党支持者が自ら「次代のホープ」にドロを塗ってきたか、そのことを考えて頂きたい。
「丸ごと支持、何もかも支持!」と断言出来ない心の弱さが、ピンチの時に現れるのである。「百%何でも支持」なら、宗教と同じでそれは真の支持者ではない等と、如何にもマスコミの受け売りのようなことを言って、自分だけは理性的な、知的な支持者であろうとカッコを付ける。その弱みに付け込まれるのである。
中川昭一の、あの一件の時の「反応」を思い出して頂きたい。自民党は支持するし、中川も支持するが、「今回のことだけはダメだ」と、「真実を調べようともせず」、自分だけは高みに登って、マスコミに同調した人達がどれほど居たか。事の真偽を確かめる前に、マスコミ報道に踊らされ、先入観を植え付けられて、自民党潰しに加担してきた人が実に多かった。泣きたい位に多かったのである。
自民党は昔から「人材の宝庫」と呼ばれてきた。しかし、国民挙げてその人材を潰してきたのである。幾ら宝庫だとは言っても、それには限りがある。野党とマスコミの共闘により、自民党の総裁は短期に使い捨てられてきた。そして遂に世代間ギャップが目立つところまで追い込まれてきた。ここで下らぬ横槍を入れて、谷垣総裁まで使い捨てるようなことがあっては、益々人材が涸渇するようになる。
嘘も偽りも、誇張も要らない。冷静に、谷垣総裁のこの三年を調べれば、「よくぞ、この時期に総裁職を引き受けて貰えたものだ」との思いを持たれるはずである。来る総選挙、政権奪還の闘いに勝利する。その為には、現体制がベストである。間違っても「選挙向けの顔」などを模索することがないように、御願いしたいものである。
闘志と信念を腹の中に収め、ひたすらジェントルに振る舞われる谷垣氏は、実にマスコミが批判し難い相手なのだ。そのことを誰よりも知っているのが、谷垣氏である。それを単なる弱気としか読めない人は、政局を語る資格が無い。今は沈黙に徹し、焦らず、慌てず、大局を見て頂きたい、と切に願うものである。
「保守」であるという政治信条よりも、さらに大切なものがある。
それは国家である。日本である。
日本を護るため、現政府を倒すためなら、保守であろうと何であろうと捨てる。それこそが、実は保守そのもの、保守派の気概というものではないか。