宇和島徳洲会病院(愛媛県)の万波誠医師(66)らによる病気腎移植問題。4件の病気腎を提供した香川労災病院(丸亀市)の西光雄泌尿器科部長(58)らは「瀬戸内グループ」として普段から手術などで協力し合い、「生体腎、死体腎移植に次ぐ第三の道」と主張する。論争渦巻く中、四国新聞社のインタビューに応じた西医師の肉声から問題の本質を探った。

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病気腎移植の経過
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記者会見で質問に答える西医師。時折、顔をこわばらせる場面も見られた |
<え、僕らそんなに悪いことしてますか。最初、万波先生から聞いたとき、『そんなことできるのか』と思ったけどな。正常な腎臓と言うけれど、パーフェクトな腎臓なんてない。脳死や心停止後の摘出となると、もっと条件が悪いんだ。めちゃくちゃなものもある。一種の病気腎や>
がんに罹患(りかん)した腎臓と聞けば、誰だって怖い。本当に病気腎は使えるのか。こんな疑問に西医師は、あっけらかんと言い放つ。香川大医学部の筧善行教授(泌尿器科学)も「誰の腎臓も加齢などに伴う機能低下はある」と話すが、再発の危険性のある病気腎の移植は否定する。
<がんに対し、僕らはファイトがわく。でも、生体腎移植に僕は消極的だし、勧めない。健康な人から腎臓を摘出するのは大きなプレッシャーだ。いい結果が得られなければ、せっかくの厚意も無駄になる。一方、病気の腎臓を摘出すること自体は治療行為。(結果的にドナーとなる)患者さんに不利益を与えることはない。同意書もちゃんととっている。僕のメリット? それは一切ない。目の前の患者さんを助けるのが、僕の仕事。技術がないから、病気腎移植はできない>
腎移植に対する西医師の考えだ。二〇〇〇年から〇五年までに手掛けた腎がん手術は計百三十三件。うち、二十四件は部分切除で、「どんなケースでも全摘出を行っている訳ではない」と強調。体力がある六十歳以下の人には部分切除を勧めるが、ややこしい手術は嫌だと、全摘出を選ぶ患者が多いという。
<元に戻せるのなら戻せと言うが、そんなに簡単じゃない。(自分の腎臓を戻す)自家腎移植は、外に出して治療して別の所に移植する。二カ所(腹を)切るから七、八時間に及ぶ大手術になるんだ。七十代の女性は体力的に持たないし、五十代男性は脳梗塞(こうそく)でそちらの処置を優先した。家族が望まれた>
今年、万波医師の元へ搬送された二件の病気腎は、こんな理由で提供された。「きちんとがんを切除すれば、再発しない確率は高いと思う。だが、再発するかしないは一種の賭(か)け」と話すのは、日本の腎移植の草分けである太田和夫・東京女子医大名誉教授。
「善意の贈り物」「中古車だが一度出して、きれいに洗って、また使うルールがあってもいい」と記者会見で言い切った西医師。だが、病気腎が本当に大丈夫なのか、その根拠は「万波先生にしか分からない」と語る。

<万波先生はピュアな人。地位や名誉なんて、とんでもない。目の前の患者さんがすべてだ。手術の腕も圧倒的だな。自分でニワトリを飼ったり、畑で野菜を作って食っている。昼飯はとらない主義。芋を生でかじっているような人や>
万波医師と知り合ったのは二十五年ほど前。西医師が県立中央病院に勤務していたとき、腎移植の研修で宇和島へ行ったのがきっかけだ。
県内の開業医の一人も「まるで修行者。最高の手術で一人でも多くの患者を救うことだけを考えている人」と証言する。
<人工透析していると、食事や水分制限が必要。万波先生は患者の生活の悲惨な状況をなんとかしたいと思っていたのかな。『腎臓を捨てるのはもったいない』『何とかしたいから、協力してくれ』と声を掛けられた。不安だったが、四十年くらい前に論文で見ていたし、先生の腕なら大丈夫だと協力を考えた。変な腎臓なんか植えられない>
西医師が協力を決めたのは十年ほど前のこと。「ノーコメント」「人づてに…」。県内の泌尿器科医の間では、病気腎移植のうわさがしばらくしてから流れていたが、表に出ることはなかった。
<術前の万波先生の説明は見ていてこっけい。通り一辺倒で古典的。でもそれが先生のスタイル。あまり説明しないのは、よほど自信があるんだろう。常に現場の最先端を走っている。代理出産もそうだが、現実がまずあって、ルールが後からついてくる。倫理というけれど一人ひとり、価値観は違う。まずは患者さんのニーズを優先する>
西医師も、異端扱いされる万波医師を師と仰ぐ。県内の泌尿器科医は「自分の患者の手術を確実に成功させたいときは、万波先生の力が必要。香川でも万波先生の影響力は大きい」。

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病気腎の摘出と移植(画像クリックで拡大) |
<関係した医者や病院がほかにあるかって? 万波先生でないと分からん。知る限りではもうない>
病気腎移植を行っていたのは、万波医師と西医師、呉共済病院(広島県呉市)の光畑直喜医師(58)、万波医師の弟の廉介医師(60)。四人は共同論文を発表するなど密接な関係で、病気腎移植を生体腎、死体腎に次ぐ「第三の道」と主張する。
<『瀬戸内グループ』は病気腎を扱う仲間のように言われるが、違う。移植だけでない、いろんな手術なんかで交流の深い地域医療のネットワークのこと。全部で数十人と報道されたが、まあそれくらいだな>
山口大出身の万波医師を除き、西医師、光畑医師、廉介医師はいずれも岡山大医学部で学んだ。県内のベテラン泌尿器科医は「当時、岡山大の泌尿器科は“切らない”傾向が強かった。投薬中心。オペの技術を高めたかった西さんらは医局の系列を飛び出したんよ」と話す。
学閥が絶大な影響力をもった時代。かつて瀬戸内グループの一員だったという岡山県の医師は「田舎では大学や病院に閉じこもっていては伸びない。『このオペ初めて』なんて患者に言えない。外に出て、押しかけて、技術を盗まないと。グループの中心は万波先生らだが、ほかにも大勢寄ってきて刺激し合う関係だった」と明かす。

<それぞれ三回は説明した。(使い込んだ手術書を出して)ボロボロでしょ。これで説明する。でも一般の人には分からんわな>
患者の同意手続きについて、同意書を得ていない万波医師とは違う、と西医師は強調する。
<部分切除か全摘出か。グレーゾーンはすべて患者のチョイス>
臓器移植は医師に不正がないという前提が要だ。が、提供患者に十分な判断材料を与えたか、全摘出への誘導はなかったか。西医師らの行為はすべて、第三者のいない“密室”で行われた。
移植医で県透析医会長の沼田明・高松赤十字病院第一泌尿器科部長は「患者を誘導しようと思えばどうにでもなるし、提供側には『がんだから摘出しましょう』、移植患者には『大丈夫です』では温度差がありすぎる」と危ぐ。筧・香川大教授も「移植という要素が入ることで、優先すべきがん治療の判断が揺らぐのでは」と懸念する。
<病気腎のルールはないんですわ。ニッチ、未開の世界だから。これを機に使えるルールをつくるべきだ。発端が臓器売買やから色眼鏡でみられる。だから光畑には成績を早く出せと言ってある。>
患者の予後を含むデータの公表を求める声は、専門医からも相次いでいる。前出の沼田医師は「法で裁けない。倫理観も違う。成績をみないと始まらない」と指摘する。輸入腎移植で批判を浴びた経験をもつ太田・東京女子医大名誉教授は「和田移植以降、臓器移植に対する世論は変わってきた。そんな中で多くの問題が起こり得るが、判断するのは世間様。医者でない」と語った。

<問題の根幹はな、地方で腎移植が十分できるかどうかにある。地方では拠点主義で移植ができない。都会のような大きな病院がないからな。医者の個人的なつながりを使うことでしか、地方は全国レベルの医療水準を維持できない。腎移植も増やせないということ。あの、テレビ番組で『踊る大捜査線』っていうのがあったやろ。事件は会議室じゃなく現場で起きている。医療の場合は患者から。世間は倫理倫理と言うけれど、そういう人たちは医療の現場が分かっちゃいない。僕らの仕事は患者から始まるちゅうこと。移植を待つ切実な患者は、いっぱいいる>
提供腎は極めて少ない。日本移植学会などによると、二〇〇五年の国内の腎移植は九百九十四例。このうち、八百三十四例は健康な親族からもらい受ける生体移植だ。待機患者は約一万二千人もいる。県内はどうか。香川いのちのリレー財団によると、十月末の移植件数は二十三件で、百三十人が移植を希望しているという。
<透析困難者を多く診てきたから、彼らの気持ちが分かる。悲惨や。メディアはそんな気持ちが分かっちゃいない。移植して良かったと言う患者はいっぱいいる。宇和島には全国から患者が来ているんや>
透析患者には、食事や水分制限をはじめ、人工透析時の血圧低下などさまざまな苦しみがつきまとう。ベテラン看護師の一人は「移植を受けた患者に体調はいかがですかと聞くと『夜が明けたみたい』と答えたのが印象に残ってます」という。
移植に批判的な患者もいる。尿に多量のタンパク質が出るネフローゼのため二十六年間、週三回の人工透析をしている高松市内の男性(56)は「生体移植でもトラブルがあるのに病気腎の移植など考えられない。移植後にまた、透析に戻った人が大勢いる。慣れれば透析も捨てたものではない」と話す。
それでも切望する人がいる。腎不全のため三十七歳の時に母親(70)からの生体移植を受けたものの、三年後に拒絶反応を起こした丸亀市内の男性(46)は「三年間は体が楽になり夢のような生活だった」と振り返る。
現在は自宅でできる腹膜透析を続けるが「透析で三十年生きるよりも、移植で十年生きる方がいい」と力を込めた。「生体移植は息子を助けたい一心だった」と話す母親は「今回の病気腎移植問題は新しい事が始まる前のあらし。近い将来は定着するのでは」と期待を寄せる。
広瀬大、山下和彦、岡克典、戸城武史が担当しました。
(2006年11月12日四国新聞掲載)
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