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SmaSTATION-5特別企画「美輪明宏が語る天才作家・三島由紀夫」
昭和45年11月25日、いまから35年前のきのう、高度成長期の繁栄に沸いていた日本人を震撼させる事件が起きました。作家・三島由紀夫の割腹自殺です。この日、三島は仲間の学生4人と共に、東京・市ヶ谷の陸上自衛隊駐屯地で、総監を人質にとり、立てこもったのです。要求は、「自衛隊員の前での演説」。三島は800人の自衛隊員の前で演説をぶちあげると、自ら腹を斬り、命を絶ちました。この事件直前までは、戦後を代表する大人気作家であり、当時の若者を惹きつけてやまない存在だった三島由紀夫。三島がまだ駆け出しの新進作家だったころから交友があり、芸術家として互いに深く尊敬し合っていたという美輪明宏さんが、文豪三島由紀夫の波乱に満ちた生涯を語ってくれました。
三島由紀夫――本名・平岡公威(きみたけ)が生まれたのは大正14年1月14日。父は農商務省の高級官僚、母は有名漢学者の娘という、まさに非の打ち所のない「エリート家庭」の出身でした。中でも祖母・夏子の過保護ぶりがすさまじく、「2階で子供を育てるのは危ない」と1階の自分の部屋に引き取り、実の父母にも授乳の時以外会わせなかったといわれています。外で遊ばせることは一切なく、遊びといえばままごとや折り紙をするだけ。いつしか三島は女言葉を使うようになっていきました。その反動から、荒っぽいもの、男らしいものに強い憧れをもつようになったということです。

昭和6年、6歳になった三島は、当時、上流家庭の子女のみに入学が許されていた学習院初等科に入学しました。しかし女の子の遊びしか知らず、小柄で病弱、顔色もわるかったため、いじめの対象となりました。付けられたあだ名は、「アオジロ」。こうして三島は自分の容姿に強いコンプレックスを持っていくようになりました。が、その一方で、三島の文学の才能は急速に花開いていったのです。祖母のもとでひたすら本を読みふけり、歌舞伎など舞台にも早くから親しんでいた三島は、わずか6歳にして俳句を詠み、詩を書きました。学習院の中等科にあがるころには詩のあまりの完成度の高さから、「盗作ではないのか」と教師の間で話題になるほどだったのです。この頃のようすを三島は短編小説「詩を書く少年」にこう記しています。

「詩はまったく楽に、次から次へ、すらすらと出来た。学習院の校名入りの三十ページの雑記帳はすぐ尽きた。どうして詩がこんなに日に二つも三つもできるのだろうと少年は訝った」

早熟だった三島が16歳の時に書き上げた小説が、いまも三島の代表作のひとつとして人気の高い「花ざかりの森」。誰もが心の奥底に抱きながらも、言葉として捕らえどころが無い「永遠の憧れ」を観念的に描いた作品で、文芸界でも高い評価を受けました。そして、ここで初めて「三島由紀夫」というペンネームが使われました。作家・三島由紀夫の誕生した瞬間でした。

学習院高等科を首席で卒業した三島は、推薦で現在の東京大学、東京帝国大学法学部法律学科に入学しました。卒業後一度は大蔵省に務めたものの、作家に専念するため、半年あまりで辞職。こうして書き上げたのが、初の長編書き下ろし小説「仮面の告白」です。


「私は近江に恋した。(略)私は夏を、せめて初夏を待ちこがれた。彼の裸体を見る機会を、その季節がもたらすように思われた」
「更に私は、もっと面伏せな欲求を奥深く抱いていた。それは彼のあの「大きなもの」を見たいという欲求だった」


病弱な祖母の溺愛のもと育ったという、歪んだ生いたちと男色への傾倒。そして破れた初恋…と三島の経歴とも重なる内容を赤裸々に綴ったこの小説は、衝撃と大絶賛で受け入れられました。こうして三島は新進作家として世間に認められ、ベストセラーを連発するようになりました。このとき三島24歳。美輪さんが三島に初めて出会ったのがこのころ。銀座の喫茶店で美輪がウェイターをしている時のことでした。

美輪明宏さん
昭和26年くらいですかね、私がちょうど音楽学校に行っていて、アルバイトで銀座の喫茶店…2階がクラブになってる所でね、そこでお会いしました。三島由紀夫といっても全国的にポピュラーでない頃でした。新進作家って呼ばれてた時代ですね。きっかけというのは、私が下の喫茶店でウエイターやっていましたら、私を呼んで来いってマスターにおっしゃったみたいなのね。私、どっちかっていうと反権力ですから、権力をかさにきていろいろ言う人嫌いですから、「ふん、何が三島由紀夫だ」なんてね、新進作家だなんて行く必要ないってね。で6回くらい呼ばれたの。7回目くらいでマスターが、「もうとにかくおこずかいあげるから、お願いだから行ってくれ」って言ってきて、それでいったんです。「まあ、座れ」って言われて座って、「何か飲むか」って言われて、「芸者じゃないから結構です」って言ったんですよ。で、「かわいくないな」って言われて、「ええ綺麗だからかわいくなくていいんです」って言ったんですよ。そしたら「こういうのをね、マスターベーションっていうんだ」ってさんざん毒づかれて、しばらくしてから、「これでよろしいですか?」ってパッて席をたったんですよ。それが逆に、面白いやつだな、ってなったんですよ。


運命とも言える出会いを果たした三島と美輪。後に三島は江戸川乱歩原作「黒蜥蜴」の戯曲を書き上げて美輪をくどきおとし、主役に迎えています。この作品は深作欣二が監督を務めて、映画化もされ、アメリカやフランスなど海外でも高い評価を受けました。
昭和29年、三島29歳のこの年に、誕生した大ベストセラーが「潮騒」です。初江と新治、ふたりの若者を主人公としたこの作品は、吉永小百合、山口百恵...と5度も映画化をされたほどの人気作品。さらにその2年後、三島、最大の代表作が登場します。金閣寺こと京都・鹿苑寺で実際に起きた放火事件を題材とした「金閣寺」。金閣寺の美しさに魅入られ、犯罪者となる以外に道を見つけられなかった若者の苦悩を描ききったこの作品は、昭和31年のベストワンにもあげられ、「戦後文学の金字塔」ともたたえられた最高傑作でした。では、こうした三島文学の魅力とはいったいどこにあるのでしょうか。

美輪明宏さん
日本の美意識でしょうね。日本の美意識のレベルの高さ。三島さんがおっしゃってたことは、あらゆる芸術作品は霊格が高くなければならないとおっしゃってたんですよ。スピリチュアルのね、霊格が高いものでないと本物の芸術とはいえない、と。しかもオリジナリティーですね。たとえばアメリカにも、英国にも、フランスにもイタリアにもドイツにもない、日本だけの文学、そういう美意識。よそとは違う格調の高さとか、ものの見方、表現の仕方。三島さんは古典から出発してますから、歌舞伎や能とかね、そういった、純日本的な美学の基本ができてらしての表現だから…。


三島文学の最大の特徴は、卓越した日本語力といわれています。

「金閣は雨夜の闇におぼめいており、その輪郭は定かでなかった。それは黒々と、まるで夜がそこに結晶しているかのように立っていた。(略)この暗いうずくまった形態のうちに、私が美と考えたものの全貌がひそんでいた」

修飾語を駆使し、美しさを徹底的に描写。誰にも真似できないといわれた、その表現力。実は三島が日本の文豪、と呼ばれる作家の中でも特に優れた日本語力を持つといわれる理由のひとつは、少年時代あるものを徹底的に読んでいたことに関係するといわれています。それは「辞書」。三島少年は祖母の下で過ごした幼い頃から毎日欠かさず辞書を読み、とにかく正しい日本語とたくさんの語彙を手に入れたのです。さらに、三島の文章が「美しい」「品がある」といわれるもうひとつの理由が、彼がこだわった、「大正時代の山の手上流階級の言葉遣い」。

「私がもし急にいなくなってしまったとしたら、清様、どうなさる?」(春の雪〜映画)

彼は生涯を通して、古きよき日本の文化・美しい言葉遣いが失われないようにと、こうした美しい日本語を登場人物に語らせ続けたのです。

そんな三島にも弱点はありました。あれだけ風景描写に優れていながらも、幼い頃、まったく外で遊ばなかったことから、自然に知るはずのものの多くを知らず、大作家となった後、蛙の声を聞いて、「あれはなんの鳴き声だ?」とたずね、周りを驚かせたこともあったといいます。

そして昭和33年、三島33歳の時には見合いで結婚。仲人は川端康成。三島は、ふたりの子供ももうけ、堅実な家庭を築いていきました。しかしそれまで文学一辺倒だった三島は30歳を迎え、新たな趣味に目覚めていきました。それが「ボディビル」です。

「私が人に比べて特徴的であったと思うのは、少年時代からの強烈な肉体的劣等感であって、私は一度も自分の肉体の繊弱を、好ましく思ったこともなければ誇らしく思ったこともなかった」
「私の今日の生活にスポーツを不可欠のものとした原因はただ一つ、この劣等感のおかげであったと思われる。」


人並みはずれた優秀な頭脳には恵まれたものの、幼い頃から「アオジロ」といじめられ、貧弱な体に激しいコンプレックスを抱いていた三島。彼はあるものを目にし、ボディビルを始めました。それは、週刊誌にあったグラビアページの「誰でもこんな体になれる」というたった1行のコピーでした。実際に会ったボディビルのコーチが胸の筋肉を動かして見せたのに感動し、さらに「あなたもいつかはこうなる」という言葉に心動かされたのです。突然始めたボディビル。実はこの頃から三島は、自らの死に際を探しているようだったともいいます。

美輪明宏さん
その前から、死は計算済みでしたから。だから、いつ始めるかということのきっかけになっただけですよ。きっかけなだけで、それまでセバスチャンの絵じゃありませんけども、死ぬ時に立派な体じゃないとみっともないじゃないですか。だから、いつそういう体を作ろうかということで、精進はしてらしたのね。ただ、そのきっかけがなかなかなかっただけで、たまたま私がクラブでダンスをしたときに、冗談をいったんですよ。あのころ、肩パットが入ってる背広が流行してまして、ふたりで踊っていて「あらパット、パットパット、三島さん行方不明だわ、どこいったの?」っていったんですよ。


踊っていた美輪さんが冗談で発したこの言葉。三島の貧弱な体をからかったのです。普段なら笑って返す三島もこの言葉には異様な反応を示し、そのまま帰ってしまったのです。

美輪明宏さん
「俺は不愉快だ、帰る」って真っ直ぐにお帰りになったの。それっきり音信が途絶えてたんですよね、で、ある日電話がかかって来て「出て来い」って。「どこにいらっしゃるんですか?」っていったら、後楽園にいるっていって、後楽園でボディビルをやってらして…。あのかたは、こうと思ったら絶対なさる方だから。


この後ボディビルだけでなく、剣道、ボクシング、居合など、スポーツや武道に異常なまでにのめりこみ、三島は163センチと小柄ながらも見違えるように筋骨隆々とした体を手に入れたのです。こうしてコンプレックスを自信に変えた三島は、肉体改造にますます深入りすると共に、今度はその肉体を晒すことに興味を覚えていきます。昭和35年、35歳の三島はなんと俳優として大映と契約し、映画スターとしてデビュー。大映映画「からっ風野郎」にヤクザの2代目として主演、さらにその主題歌まで歌ったのです。

美輪明宏さん
ひどい音痴でいらしたの、でも一週間で直っちゃいましたよ、音痴が。集中力の凄さったらないですよ。一度いわれたことは絶対忘れない。物凄い記憶力と集中力。


さらに、38歳の時には細江英公による写真集、「薔薇刑」を発表。薔薇をもって罪をあがなう――そんなストーリーを描いたこの写真集では、「わが肉体は美の神殿」と、ヌードまで披露したのです。昭和36年、三島36歳。三島は映画監督まで務めました。「私のすべてがこめられている」と語った短編「憂国」。
2・26事件の外伝を描いたこの作品は、自らが監督・脚本、そして主演を努める形で映画化されました。

美輪明宏さん
あれはね、憑依霊が書かせてる物なの。だから、いろんな不思議なことがありましてね。私がお正月に皆さんが集まる時にいってて、盾の会の人とかローマ劇場の人とか大勢いるところにいきまして、私が霊視したときに憲兵が見えたんですね。2・26事件の時の将校で…「『憂国』を書いてる時に、自分であって自分でないようなおかしなことはありません?」って聞いたら、「ある」っておっしゃって…。眠くなっても筆だけ闊達に動いてるんですって。で、どうしてもやめられない。終わった後読み返して、文に不満があるんだけど、書き直そうとしても何かが書き直させない力が働いて、あれは不思議だったっておっしゃった。あの「憂国」というのは、純粋に三島さんではないと思っています、半分ね。


自衛隊への体験入隊にも参加した三島。ロープ1本で谷をわたり、11メートルの鉄塔からのダイブ。厳しい訓練に魅入られたかのように、自衛隊にはまり、やがて有る構想が三島の頭の中に出来上がっていきました。当時フランスが構想を発表していた、民兵方式による国土防衛組織の構築です。こうして昭和43年10月5日、三島43歳の時、学生らを集めて発足したのが「盾の会」です。盾の会とは武器は持たないものの、自衛隊への1ヵ月の体験入隊を義務とし、心と体を鍛え、祖国を守る、という三島の哲学に従う若者を集めたもの。
会員数は100人にも上り、三島はメンバー全員に制服を支給、あらゆる費用もすべて負担しました。自決の2年前のことです。
こうした三島の活動に、昭和45年8月、アメリカ・ニューヨークタイムズマガジンが三島の大特集を組みました。三島作品を紹介すると共に、三島を日本のルネッサンス・マン――武士道など日本の伝統を復活させた人物と表現し、戦後、西洋の文化を余りにも急速に取り入れることによって、日本の心が失われていくことを危惧している、と紹介したのです。

美輪明宏さん
今に日本はとんでもない時代になるよって言ってたんですね。親が子を殺し、子が親を殺し、行きずりの人を刺し殺してみたりとか、そういう時代になるよって、三十数年前に言ってたわけじゃないですか。その通りになりましたよね。


そんな三島が突き当たった問題が「憲法問題」。日本国憲法においては自衛隊とは軍隊ではありません。そのため三島は、この憲法がある限り、国を守るために自衛隊は十分機能しない、と考えるようになったのです。そこで、まずはそのためには自衛隊を動かして国会を占拠、憲法改正の発議をさせよう…そう思い至ったのです。この頃三島が取り組んでいた作品が「豊饒の海」。「春の雪」など4部作からなるこの作品は、「輪廻転生」「青春の絶頂における死」をテーマに、三島が5年という歳月を掛けて書いていたもので、最も長い作品となるものでした。「この作品が完成したら死ぬかもしれない」。当時三島は何度もそう口にしていたそうです。

昭和45年11月24日、自決の前日。ついに「豊饒の海」を書き上げた三島は編集者の小島さんに連絡しました。しかし、翌11月25日、小島さんが三島邸についたときには、すでに出かけていたそうです。
11月25日午前10時。三島はすでに4人の盾の会のメンバーと共に、陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地に向かっていたのです。前もって総監と面会の約束をしていた三島の訪問が疑われることも無く、一行はすんなりと2階の総監室に通されました。そこでメンバーは不意に総監の首をしめ、人質にとったのです。

「真の国軍として我々と共に決起せよ」

「我々は戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失い、自ら魂の空白状態へ落ちこぼれ行くのを見た。国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰しゆくのを、歯噛みしながら見ていなければならなかった」


しかし事件を知った報道機関のヘリコプターが飛来し、マイクをもたない三島の声は完全にかき消されてしまいました。盛んに野次を飛ばす自衛隊員たち。こんな状況に当初は30分を予定していた演説を三島は10分足らずで打ち切ると、失意のうちに総監室に戻ったのです。自衛隊員に全く相手にされなかった三島は迷うことなく、自決の道を選びました。一緒に立てこもったメンバーひとりもその後を追ったのです。

いまから35年前、45歳で自決の道を選んだ三島由紀夫。しかしその作品はいまなお世界中で愛されて続けています。その理由を美輪さんはこう語りました。

美輪明宏さん
なぜ三島さんなのかって、三島さんだけでなくてね、本物を求める時代になったんですよ。終戦後、66箇所も絨毯爆撃でやられて、とにかくみんな着る物も住む所も食べるものもない。そうしたらね、礼節とかね、教養とかね、知性とか、そんなこと言ってられなかった。みんなケダモノだったんですよ。そしてやっと戦後60年になって、やっと気がついてきた。大切なものを忘れてた。

つまり、謙譲の美徳であるとか、礼儀作法とか、しつけとか、ロマンチシズムとか叙情性とか、そういったものがどこにも無かったわけですよ。文学やなにかも思いつきのね、いいかげんな、人を驚かしてやろうって卑しい魂胆で作られた文学、美術、音楽、そういうものばっかりになったでしょ。でも、一般大衆はそうじゃない。そんなものいらない、代用品はいらない。本物が欲しいのよ。で、振り返ってみたら日本に素晴らしいものがあるじゃないですか。「これなんだよ」って言ったら、ボツボツ始まってきたんですね。ですから、私は一生懸命…三島さんはご迷惑かもしれませんけれど…三島由紀夫、三島由紀夫って叫びつづけて参りましたけど、三島さんだけじゃない、寺山修司も…。そういう日本が世界に誇る本物。かつてジャポニズムっていって世界に尊敬されてた時代ですよね。明治・大正・昭和初期までのそれが日本にあるんですよ。それを、大衆のほうが先回りして欲しがってるんですよ。それがとりもなおさず、三島由紀夫であり、寺山修司であり、ずーっとブームになってきているんですよ。


日本だけでなく世界からも愛され続けている稀代の天才作家、三島由紀夫。みなさんも是非一度、三島作品を読んでみませんか?
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