経済成長が困難な
「儒教の国、日本」
筆者紹介
儒教と日本国民
日本人は今なお儒教 (じゅきょう)
に支配されている。…と言うと、「そんなことはない」
と反論する人が多いだろうか。若い人からは、「『儒教』
って何ですか?」
と尋ねられそうな気もする。「儒教って何?」
と思った人のために筆者が簡単に説明すると、次のようになる。
儒教とは古代中国の思想家の孔子や孟子によって生まれた思想である。ただし、日本の儒教は本家中国のものを作り替えて、より封建的傾向の強いものにされている。孔子は
「仁
(自己本来の心に忠実であると同時に他人への思いやりを持つこと)」
を強調したが、日本ではこの点は軽視されている。また、孔子の言う
「忠」 とは 「自己本来の心に従うこと」
であったのに、日本では 「忠」 といえば
「君主への絶対服従」
とされている。また、日本や韓国の儒教では、年長者
(先輩)
は権力者ということになっており、先輩は敬わなければならず、先輩の言うことに反論することはよくないとされている。
確かに孔子の教えには、先人の教えは尊重すべきであるとする理念はあるが、孔子の教えが書かれている
「論語」 には、「後生可畏」 (こうせいおそるべし)
という言葉も出てくる。これは、「若い人は恐るべき存在だ」
という意味で、若い人々の中に、自分を追い越す人など出てこないとどうして言えようかと孔子は述べている。儒教の創始者の孔子でさえ、年長者が必ずしも有能ではないことを認めているのだ。少なくとも儒教は、本来、経営学でもなければ、学校の運動部の部員を管理するためのものでもなかったことは確かである。つまるところ、日本の儒教は
「権力者には逆らうな」
という思想であり、また、「権力者に逆らわず服従することが辛くても耐えろ」
という教えでもある。
日本では、封建制の時代に、権力者がその支配カを強めるために
「儒教」 を利用した。封建制とは、主君 ――
家来、あるいは地主 ――
小作人の間の厳しい関係である。江戸時代には
「朱子学」 が幕府の官学となったが、中国の思想家 ・
朱熹(しゅき) [ 「朱子」 は尊称 ]
によって完成された中国儒教の集大成だったこの学問も、江戸幕府によって封建制維持のために利用された。
明治以降においても、「教育勅語」
によって儒教的教化が引き続き行われた。国民に対しては、学校の
「修身」 の時間に 「忠」 ・ 「孝」 あるいは 「忍耐」
の重要性が教育された。大正10年には、国家には服従しなければならないことを教育するのをねらいとして、無実にもかかわらず自ら毒杯を飲んだソクラテスを英雄視する話が修身の教科書に掲載されている。
明治 ・
大正時代には企業が従業員を解雇する率は欧米よりも高く、
また、当時の日本の労働者が頻繁に勤め先を変えていたのであるが、昭和に入ると、一生一つの企業に忠節を尽くすことの重要性や、組織の中では
「先輩」
が偉いのだといった日本儒教的な精神が民間企業にも取り入れられた。軍部が企業に
「終身雇用」 や 「年功序列」
を奨励したと指摘されている。
…以上が日本の儒教についての筆者の説明であるが、この説明を読んで、「そんな古臭い考え方に自分は支配されていない」
と思った人は、次の質問にお答えいただきたい。
Q1 アメリカには 「先輩」 ・ 「後輩」
という概念はありません。したがって、「先輩」
の言うことには反論すべきでないという文化もありません。しかし、日本人のあなたは、ご自分の学校や職場にご自分より先に入学
/入社 した人を 「先輩」 と考え、「先輩」
に対しては敬語を使って話し、礼儀正しくするようにしているのではありませんか? また、「先輩」
に反論することは失礼だという気持ちが ――
少なくとも心のどこかに ――
ありませんか? それはなぜですか?
Q2 日本語にも韓国語にも敬語があります。日本語では、「行く」
という動詞を年長者や目上の人に対しては
「いらっしゃる」 (尊敬語)
という別の動詞に置き換え、自分に対しては
「参る」 (謙譲語)
という別の動詞を使います。英語には丁寧な表現というのはあっても
“go”
という動詞が行為者によって別の動詞に変わるということはありません。主語が年長者であれ、先生であれ、自分であれ、“go”
は常に “go”
です。なぜ、日本語と韓国語で敬語が発達したのだと思いますか?
Q3 バラク
・ オバマは40代で大統領になりました。ビル ・
クリントンもジョン ・
ケネディーも40代で大統領になりました。なぜ日本からは40代の首相が誕生しないのでしょうか?
筆者は、日本人の大部分が今なお儒教のイデオロギーににコントロールされていると考える。また、それが日本の成長の妨げになっていると考える。
日本人は、子どもの頃から年長者の言うことには従うべきだと思い込まされて育っている。そして中学
・ 高校 ・ 大学で、特に運動部に入ったりすると、先輩 ―
後輩の厳しいタテの関係の中に身を置かねばならない。また、企業社会においても、先輩
―
後輩のタテ社会の考え方に忠実であることが求められる。筆者は、年長者を敬うこと自体、あるいは敬語を使うこと自体が悪いと主張しているのではない。問題にしているのは、「年長者
(権力者) に反論してはいけない」
という考え方である。国民の大部分が 「先輩」
の考え方に常に従っているような国に、今後の成長は期待できるのか。SONYの創業者だった盛田昭夫氏は次のように述べている。
……私は先輩とか後輩という言葉が非常にきらいだ。
……(中略)…… みんながもしも先輩と同じことをやっていたとしたら、われわれはいまだに神武天皇と同じ生活をしなければならないのではないか。今やジェット機に乗り、特急に乗り、自動車に乗ることができるのは、後輩が先輩を追い抜いてきたからである。先輩のやってきたことは大いに尊重し、利用したけれども、それ以上のことをやったからこそ、世の中が進んできたのである。
( 『 学歴無用論 』 )
日本の儒教は、権力者には逆らうなという封建的な思想である。このイデオロギーにマインド・コントロールされてしまった人は、年長者
・
権力者に対して反論できなくなる。また、社会科の授業で
「日本は国民主権の国です」
といくら教わっても自分たちが最高権力者であるということが理解できず、政治は政治家や官僚に任せておくべきものという考えに陥る。そして、選挙の際には誰に投票していいのか判断できず、棄権する人間になってしてしまう。あるいは、候補者の後援会からかかってきた電話や、地域の会合で有力者から言われるままに投票態度を決めてしまう。また、権力者から不当な扱いを受けるなどの不利益を被っても泣き寝入りをする人間になってしまう。日本にはまだまだこんな人が多い。
また、儒教のイデオロギーにコントロールされている人が年月の経過とともに年長者になり、
“先輩”
になったらどうなるか? 封建的色彩の濃いこの思想に支配されている人が一たび
“先輩” になると、この人たちは、当然、自分たちを “支配階級”
であると見なし、若い人を見下すようになる。有能な若い人が周囲にいてもその才能を認めようとせず
(認めることができず)
優秀な若い人材を組織の中で埋もれさせてしまう。こんな状態で国の経済が成長するのか?
儒教と政治家・官僚
前述のように、日本儒教に支配された国民は、政治は政治家や官僚に任せておくべきものという考えに陥るが、日本儒教のイデオロギーにコントロールされている人が、一たび国政選挙に当選し与党の国会議員になったらどうなるか? 封建的色彩の濃いこの思想に支配されている人が一たび与党の代議士になると、この人たちは自分たちを
“支配階級(特権階級)”
であると見なす。違法な献金を受け取ったり、株の取引で有利な取り計らいを受けたりする代議士は、自分たちは特権階級なのだからそのぐらいのことは許されるはずだと考えてしまうのである。
また、国民の暮らしはどんどん悪化しているのに、日本の国会議員には、与野党を問わず一人当たり年間2000万円以上の給料が支払われている。これはアメリカの上下両院の議員に支払われる額よりも多く、さらに諸手当を含めると日本の国会議員に対する年間の総支給額は4000万円ほどになると言われている。これは、世界でも最高水準である。あの人たちがそれに値する仕事をしているのか? 世界水準で、「政治は三流」
と言われている国の政治家が給料だけは一流なのである。野球選手にたとえるならば、日本のプロ野球で打率一割台の人がメジャーリーグのスーパースター並みの給料をもらっているようなものである。(ちなみに、2011年現在、合衆国大統領の給料が40万ドルである。これは、2011年5月1日現在の円相場の1ドル=81円で換算すると3240万円である。)
日本の政治家が、自分たちが特権階級であるかのような勘違いしていることが給与面でも伺える。日本の有権者は国会議員を甘やかせ過ぎである。日本の国民は国会議員に圧力をかけなければならない。圧力のかけ方はいろいろある。メールに要望を書き、「これを実現させるために行動しなければ、次回の選挙ではあなたに投票しない」
と書いて送る、あるいは手紙を送る、事務所に電話する、議員のいる集会などで発言が許されるのなら発言するなどの手段がある。少数の人しかこれをしない場合は効果がないが、多くの有権者がこれをやれば議員は次の選挙で落選したくないので、無視できなくなる。ネットワークを利用して多くの人に呼びかけて議員にメールを送ってもらったり事務所に電話をかけてもらうのも有効な手段であろう。アメリカの有権者は、地元選出の議員にしばしばこのような働きかけをしている。
さらに、日本の国会議員の数は多すぎる。ご存知の方も多いと思うが、アメリカの下院
(日本の衆議院に相当する) の定数は435で、日本の衆議院
(定数480)
より少ない。また、アメリカの上院
(日本の参議院に相当する)
は、各州から二人ずつの選出で100人しかいないが、日本の参議院議員は242もいる
(数字は2011年現在)。アメリカの人口は日本の3倍ほどで、国土の広さはは25倍ほどもある。そんな国の議会が日本よりも少ない定数で運営されているのだから、日本にそんなに多くの議員が必要なはずがない。衆議院の定数は150程度、参議院は70程度あるいはそれ以下で十分である。日本の納税者は、多くの必要のない国会議員のために莫大な額の給料を負担させられている。日本の国会議員の数が多すぎるという議論は昔からあり、少しずつ削減されてはいるが、まだまだ多すぎる。なかなか削減されない理由は、定数を削減することにより自分が失職することを恐れている議員が多く存在するためである。日本の国会議員の多くは国益を考える能力などなく、自らの利益
(保身) か、せいぜい党益程度しか考えることができないのである。
日本儒教に支配されている人が一たび国家公務員試験に合格し、中央省庁の官僚になった場合も同様で、自分たちは支配階級であるという錯覚に陥り、被支配階級の国民は行政に関わるべきでないと考える。participatory
democracy (参加民主主義 = 国民 ・
市民が積極的に行政に関わること)
という言葉があるが、国民を見下している官僚は、こんな言葉を鼻で笑っている。また、自分たちは天下りぐらいはさせてもらえるのが当然などという考え方も、自分たちが特権階級であるという勘違いから生じていると考えられる。朝日新聞電子版の2010年4月20日3時0分配信の記事によると、ある文部科学省のOBは独立行政法人(当時は特殊法人)から財団法人の理事長に天下り、独法と財団法人で計約5490万円の退職金を受け取ったという。この人は、朝日新聞の取材に対し、「官僚は一流大学を出て国家試験にも受かっている。大手メーカーやメガバンクと比べたら高い所得ではない」
と話したということである。
「官僚は一流大学を出て国家試験にも受かっている」
――
だから何だというのだろう。「一流大学を出て国家試験にも受かっている」
ことで、自分には 「天下り」 をする資格も 「渡り」
をする資格もあるのだと言いたいらしいが、天下りや渡りは国家が制度として官僚に与えた権利ではない。「当時の特殊法人」
というのが具体的にどんな業務をしていたかは書かれていないが、それは本当に公益に寄与する法人だったのか? 退職後の官僚にポストを供給するために用意された受け皿だったのではないのか? こういった官僚OBが本当に国益に寄与したと思っている国民がどれほどいることか? 「官僚は一流大学を出て国家試験にも受かっている」
というのは、つまり自分たちは優秀であると主張したいようだが、そんなに優秀なのなら退職した後は自分で企業を設立して利潤を追求してもらいたい。「天下り」
とか 「渡り」
とかいうのは、無能な人間のすることである。あるいは、自分たちは特権階級だと錯覚している人のすることである。少なくとも、この人は、自分たちが特権階級だと勘違いしている。また、「大手メーカーやメガバンクと比べたら高い所得ではない」
というコメントについてであるが、問題は金額なのか? 大手メーカーやメガバンクが支払う報酬は税金から支払われるものではないが、その人は、国家予算から支出された退職金を受け取ったのではないのか? そこに問題はないのか?
また、このイデオロギーにコントロールされている人が中央省庁の官僚になると、国民だけではなく、地方公務員も被支配階級であると見なす。したがって、このような官僚には地方自治の価値が理解できない。「地方自治は民主主義の学校」
というトックヴィル (フランスの思想家)
の言葉を思い出すまでもなく、地方分権というのは民主政治の基本的な要素であるが、封建的な儒教思想に毒されている人には民主主義の価値など理解できない。かくして、日本には 「3割自治」
という言葉がある。行政権の7割は霞ヶ関の中央省庁に集中しているのである。
さらに、このイデオロギーにコントロールされている人が中央省庁の官僚になると、過失があっても絶対にそれを認めない。自分たちは支配階級であると考え、国民を見下している人々は、自分たちに誤謬
(ごびゅう) は無いのだと言い張る
(無謬性の主張)。メディアを通じて失態が全国民に知れ渡っていても、国民の前でそれを認めるなどということは絶対に出来ず、「その問題は現在調査中です」
などと言ってはぐらかす。いよいよ認めなければならなくなっても、他の部署や他の省庁と責任のなすり合いをし、責任の所在を曖昧にし、うやむやにし、メディアや国民が忘れるのを待つ
(すぐ忘れる国民も国民だが…)。
失政を隠蔽するするだけではない、国民を見下している官僚は、情報も独占し国民に真実を知らせる必要などないと考える。戦時中の軍官僚などはこの極端な例であろう。太平洋戦争中、日本の軍部はミッドウェー海戦での日本軍の惨敗やガダルカナル攻防戦での敗北を隠し、ガダルカナルでの敗北以降は日本は敗走一方だったのに国民に対しては、
「退却」 とは言わず 「転進」
という言い方で真実を隠し続けた。しかし、サイパンの攻防戦で敗れた時点で、もはや隠し切れなくなった。サイパンからは、米軍の爆撃機B29が直接日本本土に飛来できるようになり、本土空襲が始まったからである。この時点で、国民は自分たちがそれまで騙され続けていたことを悟った。
現在の日本政府はどうなのか。例えば、経済情報について日本政府は国民に真実を伝えていると言えるのか。日本は長期のデフレが続き、戦後の混乱期を上回る数の人が生活保護を受給している
(2011年秋現在)
というのに、政府は日本経済について、「一部に持ち直しの動きが見られる」
・ 「概ね横ばい」 ・ 「足踏み状態」 ・ 「踊り場」
・ 「弱含んでいる」
などといった言い方をし続け、「悪化している」
とは決して言わない。これは、「退却」 を 「転進」
と言い続けた大本営発表とさして変わらないのではないか。国民は、大学生の就職内定率が過去最低を記録した
(2010年)
ことや生活保護の受給者が増大していることなど、多くの情報を知っている。「横ばい」
だの 「足踏み状態」
だのという報告を信じている人は少ないだろう。経済の
“本土空襲” は既に始まっているのだ。
*
日本政府の隠蔽体質は、東日本大震災の際の福島第一原発の炉心溶融の件を見ても明白である。
儒教と教育
儒教の本家、中国では、かつて官吏任用に当たり
「科挙」
という厳しい試験が行われ、古典などの知識の量が試された。科挙は高麗
・
李朝時代の朝鮮でも行われ、朝鮮においては科挙の合格者が本当に特権階級を構成してしまった。それは、厳しい身分社会が形成される要因となり、また、この身分社会の形成にも儒教が大きく関わっていたとされている。
現在の日本も、儒教の国であるゆえ、先人の行ったことをよく記憶している人が優秀とされ、入試では知識の量が試される。つまり、教科書に書いてある答を丸暗記する能力に長けた人が優秀とされ、教科書に答の書いてない問題に対し、ゼロから全く新しい発想による解決策を考案するような創造力は評価されない。筆者は長年に亘って学習塾の講師をし、指導した塾生の中からは東大
・
京大に合格した人もいたが、偏差値の高い人というのは、十人が十人、間違いなく記憶力に優れている人たちである。偏差値は記憶力を示すバロメーターと言っていい。日本では、抜群の記憶力を持った人が超一流と言われる大学に入る。そして、官僚の多くはそういった大学の出身者である。記憶力に優れた人は、当然のことながら、就職してからも記憶力を武器に戦おうとする。すなわち、先人のやったことをよく記憶して踏襲するのだ。これは
「前例主義」
と呼ばれ、日本の官僚の多くが患っている病気である。日本の国力の低下の原因の一つにこの問題がある。官僚であれ国会議員であれ、指導的立場に立つ人に必要な能力は時代を切り開いていく能力であり、それは創造力であって記憶力ではない。日本の衰退を食い止めるためには、記憶力ではなく創造力を働かせて、前例や成功体験にとらわれず全く新しい発想による解決策を考案できる人が中央省庁に採用されなければならないはずだが、このままでは衰退が続くであろう。2010年の東京大学の入学式で、浜田学長は新入生に対し、時代は変動期にあるとして、「従来のやり方を踏襲するのではなく、新しい課題に挑戦し、自分自身でしっかり考えて方向を見定めてほしい」
と呼びかけている (読売新聞電子版による)
が、これは東大出身者には 「従来のやり方を踏襲」
したがる人が多いことを念頭においての発言と考えられる。
現在のアメリカでは大学受験の際に、志願者は願書と共に次のものを送付する。1)SAT(日本のセンター試験に相当する。ただし、受験科目数は日本より少ない)
のスコア; 2)志望動機を書いた小論文;
3) 高校での成績; 4)
高校の先生(複数)の推薦状。…大学によっていろいろ違いはあるが、概ね以上のものを送付するだけで、送付した後は入学審査の結果を待つだけである。また、SATについては、志願者が望めば一年に数回以上でも受験できる。筆者が日本語を教えている学生の一人に、「アメリカの高校生は、何回ぐらいSATを受験するんですか」
と尋ねると、「3回程度です。もっと受験できますが、それ以上受けると大学側の印象が悪くなるんです。志願者としては、自分のベスト・スコアだけを送りたいんですが、受験したテストの結果は全て志望校に伝わる仕組みになっているんです。大学側はベスト・スコアを見てくれているとは思いますが…」
と答えた。また、大学側は、SATのスコアの上位者から順番に入学許可を与えているのではなく、上記の
2)、3)、4)
の項目も十分考慮している。しかし、どの項目がどれほどの重みをもつかは、それぞれの大学の入学審査員の合議次第で、外部の人間には全く分からず、“ミステリー”
だと言われる。アメリカの大学に身を置いているので、審査員になったことのある教授の二人ほどと話したことがあるが、2)、3)、4)
の項目も重要で、SATのスコアだけで決めるということは決してないとのことだった。
2)、3)、4)
の項目も重視されるというと、日本人にはすぐに次のような批判をする人がいる。「志願者が自宅や学校で書いた志望動機が信用できるのか? そんなものを重視していたら、親や教師に手とり足とりで書き方を教わって志望動機を書いた無能な志願者が合格してしまうではないか?!」
――
こんな批判をする人はアメリカの大学を全く理解していない。志望動機すら自分で書く能力の無い人が、入学許可をもらえる可能性は確かにあるだろうが、そんな人は入学してからアメリカの大学の厳しい授業について行けるわけがなく、結局、中退することになるのである。アメリカの大学に入った人の卒業率が、日本と比べると相当に低いことはご存知であろう。アメリカでは、入学審査をパスしたことを
“合格” とは言わず、“入学許可 (admission)
” と言う。つまり、「とりあえず入学は認めますが、本学の授業について行けない場合は退学してもらいます」
の意味なのだ。よく言われるように、アメリカの大学は入学許可をもらっただけでは意味がなく、卒業しなければ意味が無いのだ。一たび試験に “合格”
して入学すればあまり勉強しなくても卒業できる場合の多い日本の大学とは根本的に違うのだ。
また、4)
の推薦状についても、「そんなものを重視していたら、自分の高校の進学実績を上げるために、虚偽の推薦状を書く教師がいるはずだ」
という批判が聞こえてきそうだが、これも実行は難しい。ある高校の教師が、勉学の意欲の乏しい生徒について虚偽の推薦状を書いた結果、その生徒がどこかの大学から入学許可をもらったとする。しかし、当然のことながら意欲の無い人は中退することになり、また、大学側は、なぜそんな意欲の無い人を入学させてしまったのかを調べることになる
(アメリカの大学では中退する人が多いだけに、大学側はこの問題については敏感であると思われる)。その学生の出身高校の教師の書いた推薦状などをもう一度読み返すなどの調査をした結果、その高校は信用できないということになる。アメリカでは、おそらく、
それぞれの大学の内部に、「信用できる高校のリスト」
といったものが存在し、その高校はそのリストから除外されることになるのではないか。あるいは、「信用できない高校のリスト」
に載せられるのではないか。したがって、その高校は進学実績が上がるどころか、大学側から信用されず、実績は下がることになるのである。
入学審査の審査員になったことがないので、上記の
“信用できる(できない)高校のリスト”
の実態は知らないが、知っていることが一つある。自分がこれまでに勤めた三つの大学のうちの一つの大学の大学院の内部における通達である。アメリカの大学院に願書を出す際には、GREという学力検査を受けてそのスコアを受験校に伝えなければならない。校名は伏せるが、ある大学のある学科では以下のことが周知されている。某国
(国名は伏せる) からの留学志願者のGREのスコアの平均点が異常に高く、非英語圏の国であるにもかかわらず、英語の平均点がアメリカ人の志願者の平均よりも高いのである。こんなことはあり得ず、その国ではGREの実施に際し不正が行われていることは明白である
(GREはアメリカ国外でも受験できる)。したがって、この国の受験者のGREのスコアを信用しないようにという通達が出されているのである。――
この不正については、その国の留学斡旋業者が絡んでいると推測されるが、いくらこのような不正にせっせと精を出したところで、アメリカの大学側にはとっくに見破られている。この種の不正は必ず発覚するし、少なくともアメリカの大学はこんな不正がまかり通るようなところではない。
日本の入試のやり方がアメリカより公平で優れていると思っている人が日本人には多いが、そうであろうか。2)、3)、4)
の項目も重視して評価するというアメリカの方式は日本人が想像する以上に上手く機能している。もちろん、アメリカのやり方も完璧ではない。だからこそ、とりあえず
“入学許可”
を与えて、入学させてから様子を見るという方式をとっているのだが、入学させてから様子を見て、不適格者は退学処分にするという方式は、日本のやり方よりは遥かに優れている。
筆者の日本語の授業では、日本の入試のやり方を題材にして教えたこともあるが、試験のスコアのみが重視され、上記の2)、3)、4)
の項目はほとんど評価の対象ではないことを知った学生の一人
(アメリカ人)
が、「日本のやり方は、記憶するのが得意な人だけが得をするので不公平だと思います」
と作文の宿題に書いていた。人間には記憶力以外にも、創造力、思考力、判断力、決断力などさまざまな能力がある。筆者は、アメリカのある教師が推薦状を書く際に、その人物の創造力について書いた例を知っているが、アメリカの教師は推薦状に、SATのスコアや学校の成績に現れにくい能力
(創造力による問題解決能力など)
を書いているものと思われる。しかし、日本の大学の合格者の選考に当たっては、知識の量だけが試される。日本には、「記憶力に優れた人が優秀」
という固定観念があり、他の能力についてはあまり評価されない。これが
「公平」
と言えるのか。また、記憶力に優れた人ばかりを入学させた結果、日本は今どんな国になったのか? アメリカよりいい国になったのか? 日本ではこれまで記憶力を鍛える教育が行われてきたが、経済成長が鈍化してしまった以上は変革が必要だ。「創造力を伸ばす教育を」
という声はこれまでにもあったが、掛け声だけで終わっている。文部科学省の官僚を始め、日本の教育の指導的立場にある人々の創造力が試されている。
日本全土から儒教思想の一掃を
では、どうすればいいのか? 日本全土から日本儒教思想を一掃しなければならないのは当然である(「日本儒教思想」と書いたが本来の儒教に戻せと主張するものではない。要するに、儒教は日本に利をもたらさない)。しかし、これには気の遠くなるような歳月と労力が必要であろう。先ず、国民には
「年長者(先輩)に反論することはよくない」
という考えが間違っていることを子供の頃から教育しなければならない。また、学校の部活動などにおける
「先輩 ― 後輩」
の関係も止めさせなければならない。そして、国政は政治家や官僚だけが行うものではなく、国民全体で行うものであることも教育の場で叩き込まなければならない。また、自分たちが特権階級であるかのような錯覚をしている政治家や官僚に対しては、それが誤りであることを悟らせなければならない。また、大学等の入学審査の方式においても、記憶力を偏重する現在のやり方を改めるべく、抜本的な改革が必要だ。全てアメリカと同じやり方をするべきだと主張するつもりはないが、アメリカ方式は大いに参考にすべきモデルの一つであろう。
では、これらの改革を如何にして行うか? …筆者のような無能力者が一人で考えても効果的な解決策は出てこない。国民的議論が必要だ。解決策は一つだけではなく、様々なものを組み合わせることになるであろう。筆者には一つ提案がある。それはこのウェブサイトの中で何度もしつこく主張していることであるが、企業
・
官庁が新人採用時の年齢差別を撤廃することである。日本の企業
・
官庁は新人の採用時に新卒およびそれに準ずる若い層のみを採用する。採用された人々は、年齢を重ねるに従って再就職は難しくなるので、定年まで同じところに勤務する場合が多い。この結果、新しく採用された若い人が職場で周囲を見渡せば、そこにいるのは、学校を出てからずっとその職場で長年勤めている人々、あるいは少なくとも自分よりは先に採用になってずっとそこにいる人々である。つまり、周囲にいるのは、その職場での業務上の知識が自分よりは多い人ばかりである。新しく採用になった若い人は、周囲の
「先輩」
に比べ、自分がその職場での業務上の知識の少ない
「後輩」 であることを認めざるを得ず、これが
「知識の多い先輩に反論することはよくない」
という日本儒教の温床になっている。
企業 ・
官庁が採用時の年齢差別を止めたらどうなるか。職場には30代、40代あるいはもっと高齢の人材が、異業種からどんどん転職してくることになる。この人々は、新しい職場に必要な知識が十分でないため、自分たちよりも遥かに若い人の指示に従わなければならないことも多いだろう。したがって、年長者が若い人を従わせるべきであるという日本儒教の理念は意味がなくなる。また逆に、転職組は他の業種で培った斬新なアイディアを上司
(先輩)
に提案することが出来る。有効なアイディアが提案できる人は、「先輩」
に反論することが許されるどころか、場合によっては
「先輩」
の方から、「そのやり方をもっと詳しく教えてくれ」
と頼まれることもあるだろう。こうなってくると、もはや
「先輩 ・ 後輩」
という概念に意味はなくなり、従業員は年齢を気にすることなく、様々な提案を行えるようになる。日本全国の企業
・
官庁のそれぞれが、異業種からの斬新な手法を取り入れれば、多くの職場に風穴が開き、そこから吹き込んでくる新風が現在の日本の行き詰まりを打開する糸口を提供することになるのではないか。
盛田昭夫氏が主張していた(前述)ように、会社の成長とは先輩がやったことを後輩が超えることである。「成長」とは、そういうことだ。先輩がやったこと以上のことをやらなければ会社は成長しないどころか、他国の企業に負けてしまう。今の日本の衰退は、日本人が、「先輩がやったことを踏襲していれば食いっ逸れることはないだろう」と考える人ばかりになってしまった結果である。企業だけではない。国家も同様である。国の成長とは、国会議員や官僚が、先人の成し遂げたことを超えることである。いったい、現在の日本の政治家や官僚の中に、先人を超えようと奮闘している人がどれほど存在していることか。
2010年12月
加筆・修正 2011年12月
2012年11月