第9話 不穏
「待たせたな、《猛き牙》」
ガラムと落ち合ったのは、山の中にわずかに開けた小さな広場である。そこはガラムとシェムルが幼い頃に一緒に遊んだ遊び場だ。広場の脇に立つ木の幹に刻まれた、背丈比べの傷痕が懐かしい。
「シェムル。ここにいるときぐらいは、そう堅苦しくすることもないだろう」
「そうはいきません。村の最高の戦士である《猛き牙》ファグル・ガルグズ・ガラム殿は、今や族長でもあらせられる。いかに、この身は御子とは言え、〈牙の氏族〉の血を引く者として、あたらおろそかにはできません」
真面目ぶって言うシェムルに、ガラムは情けない顔をした。
「そういじめるな、妹よ……」
「冗談ですよ、兄さん」
ようやくシェムルは表情を崩した。
「それで、兄さん。まさか、こんなときに兄妹の親交を深めるためでもないでしょう。いったいどうしたというのですか?」
「うむ……。それより先に、おまえが連れて来た人間の子供のことだが」
「彼は、私の客人として遇します。彼が何かしでかした場合は、私が責めを負いましょう」
ガラムに何か言われる前に、シェムルは先手を打って言った。
「むぅ……まあ、その、なんだ。それだけの覚悟があるのならば、俺も言うことはないが」
「が、なんですか?」
「うむ。それなのだが……」
よほど言いにくいことなのか、ガラムは口をモゴモゴとするだけで一向に話そうとしない。
「兄さん、はっきり言ってもらえますか?」
「わ、わかった!」
そう言いながら、ガラムは顔を横に背ける。
「実はだな。同胞たちの間で、おまえが人間の子供を連れて来たのは……その……そいつに惚れただのという、口さがない噂が出てきてな」
「はぁ?」
シェムルの口から、素っ頓狂な声が出た。そして、次の瞬間、烈火のごとく怒った。
「そんな根も葉もない噂を流しているのは、またプシュカですか?! それとも、クラガッカですか?!」
村でも噂話好きで知られたふたりの名前をあげながら、今にも殴り飛ばしに行きそうな妹をガラムは手で落ち着くように示す
「落ち着け! すでに俺が殴っておいたから……」
「まったく。兄さんは、そんな噂を信じたわけじゃないでしょうね?」
「馬鹿言うな。俺がそんな噂を信じるわけがなかろう!」
「そうだと良いんですけど……」
「しかし、な。おまえにも責任はあるのだぞ?」
自分も飢えと疲労でふらふらとなりながら、憎むべきはずの人間の子供をあれほど甲斐甲斐しく世話をするのを見れば、誰だって何かあったと勘ぐってしまう。
「おまえたちを砦から助け出したとき、おまえの人間の子供への執着は異常だったぞ。それに、これまで浮いた話ひとつなかったおまえが、自分のテントで人間とはいえ男と一緒に暮らすというのだから……」
「すでに説明したでしょ! 彼は、私が捕らわれていた時に自分のわずかな食べ物を私に分け与えたんだと! 兄さんは、私が『飢えたときにもらった一羽の兎の恩』を返さない奴になれとでもいうのですかっ?!」
「しかし、だな。おまえも、年頃の娘で……」
さらに言いつのろうとするガラムに、シェムルが切れた。
「いい加減にしてください! もう、これでこの話は終わりにします! 他に話すことがなければ、私はこれで帰りますよっ!」
妹の剣幕に、ガラムも白旗を上げるしかなかった。
それに、あくまでこれから話すことが本題なのだ。ガラムが真剣な表情になったのに、シェムルもただ事ではないと緩んだ気を引き締める。
「おまえが囚われていた砦へ物見に出していた同胞が戻った。昨日、新たな人間の軍勢が砦に入って行ったそうだ」
「軍勢が?!」
「そうだ。その数は、おおよそ八百前後。その大半が武装を整えた兵士だそうだ。兵士どもは砦に入りきらず、その周りに野営をしているそうだ」
「兵士が八百もっ?!」
このあたりで、あの砦にいる人間と敵対しているのは、自分たちゾアンだけだ。新たにやってきた兵士というのは、まず間違いなく自分たちを掃討するために派兵された者たちだろう。
「俺たちを狩り出すつもりだとは思っていたが、奴らの本気を甘く見ていたようだ」
「今、戦える同胞はどれぐらいいますか?」
「戦える同胞は五〇名もいない」
これはガラムの失態でもあった。
村を焼かれたとき、蓄えてあった冬越しの食料を失ってしまっていたのだ。これから冬が深まっていけば、さらに食料を手に入れることは難しくなる。このままではひと月も経たずに隠れ家近辺の食べられるものを食べつくし、あとは氏族すべてが飢えか寒さで死んでしまうのを待つだけになる。
そう判断したガラムは、氏族の中でまだ若い連中をいくつかの集団にわけて、それぞれが冬を越せる場所を探しにいかせたのだ。
そして、残された長旅に耐えられないと思われた老人や子供やそうした者を抱える家族は、そのまま今の隠れ家とその周辺で取れる食料で食いつないで行く。それでも足りない分を補うため、隠れ家を守る最低限の戦士だけを残して食料調達に向かわせた。食料調達に出た戦士たちが、順次持ち帰ってくる食料で食いつなぎ、春まで持ちこたえようとしたのである。
だが、まさかゾアンでも厳しい山の冬だというのに、人間がこれだけの軍勢を送り込んでくるとは思わなかった。人間のゾアン根絶にかける執念を見誤っていたと、ガラムは悔やんだが後の祭りである。
今さら同胞に召集をかけても間に合わないだろう。食料調達する場所が重ならないように、かなり広範囲に散らばってしまっているはずだ。
「たった五〇名の同胞たちで、八百もの人間の軍勢を相手にするのか……」
言葉にすると、改めて絶望的な状況を思い知らされ、シェムルは天を仰いだ。
「兄さん、逃げるわけにはいかないか?」
「どこに逃げるというのだ?」
「どこでもいい。私たち戦士が死ぬのはかまわない。だが、老人や子供たちだけでも……」
「食べるものがなくては、どこにも逃げられん」
もともと村に残された者たちは、長旅に耐えられない判断された者たちなのだ。
仮に逃げたとしても、老人や子供たちの足ではどこまで逃げられるか。満足な食糧もない冬山の逃避行など、自殺行為でしかない。
「せめて、老人や子供だけでも他の氏族に受け入れてもらえないだろうか?」
自分でそう言いながら、シェムルもそれは望めないということはわかっていた。どの氏族も人間に追われ、自分らの世話だけで精一杯だ。そこに他の氏族を受け入れる余裕はないだろう。
「〈爪の氏族〉と〈たてがみの氏族〉に打診はしてみる。が、期待はできん」
かつてはゾアン12氏族において〈爪の氏族〉と並び、もっとも強大な氏族と呼ばれた〈牙の氏族〉が、この有様かと思うと、シェムルは先祖に申し訳がなかった。失われた父祖の土地を取り戻すどころか、もはや氏族の命運は風前の灯である。
「そこで、おまえに頼みたいことがある」
「なんですか、兄さん?」
「おまえに、〈爪の氏族〉への使者になってもらいたい」
「兄さんっ!!」
シェムルは激昂した。兄の意図は読めている。使者とは名ばかりで、シェムルを逃がすつもりなのだ。シェムルは偉大なる獣の神の御子である。どこの氏族だろうと、もろ手をあげて歓迎するだろう。
「お断りです! 私は残って、みんなとともに戦う!」
「ダメだ。これは族長として命令だ!」
「お断りだ! 私は御子だ! 御子には、いかな族長といえども無理やり命令を聞かせることはできない!」
頑として聞き入れようとしないシェムルに、ガラムはほとほと困り果てた顔をする。
「頼む。聞いてくれ、シェムル。何も兄妹の情だけで言っているのではない。おまえは御子なのだ。いつしかゾアンの同胞たちが反旗を翻すとき、異なる氏族を束ね、その旗頭となることができるのは、御子であるおまえしかいないのだ」
「自分の氏族を捨てて逃げた者が、旗頭に? 笑わせないでください。旗頭ならば、私の死で十分! 偉大なる獣の神の御子はわずか五〇名の同胞たちとともに、八百もの人間どもの兵士を相手に臆することなく戦い、見事に散ったと。それを聞けば、他の氏族も奮い立つでしょう!」
さすがのガラムも説得することはあきらめた。子供の頃から、一度こうと決めたことは頑として譲らない妹だ。
「ならば、もう何も言うまい。おまえは誰よりも誇り高き《気高き牙》だったな」
「わがままを言ってすみません、兄さん」
「戦うとなれば、おまえだろうと容赦なく使いつぶすぞ、《気高き牙》」
「望むところです、《猛き牙》」
お互いに不敵な笑みを交わすと、ガラムはきびすを返して歩き出した。
「まだ人間どもは砦に入ったばかりだ。数日は動くまい」
人間どもが山に攻め入ってくるとしても、まずは兵士たちを休ませ、疲れを取ってからだ。
「だが、それほど余裕もない。今夜、氏族の同胞たちを集めて、今後のことを協議する。おまえも出ろ」
◆◇◆◇◆
「今すぐ奪われた村を取り返すのだ!」
そう叫んだのは、血気盛んな若いゾアンだった。
隠れ家にあるテントの中でも一番大きな族長用のテントの中である。テントと言っても、その大きさはけた違いだ。族長が生活するためだけではない。氏族の集会の場として、また祭祀の場としても使用するため、テントというよりも大きなドームといったものだ。
ドームの中は布でいくつかの部屋に仕切られているが、その中でも一番大きな部屋の中で、大きなたき火を囲むようにして、氏族の主だった者たちが集まっていた。
「あそこには、我が氏族の者たちの亡骸が今も放置されている! もはや、一日たりともそのままにしてはおけない! 村を取り返すとともに、その者たちを弔い、彼らの霊魂とともに砦の兵士どもを迎え撃つのだ!」
そのゾアンの言葉に、多くの同胞たちが同意の声を上げる。いずれも、まだ若いゾアンである。本来ならば、まだこの場に出ることは許されない若者たちだったが、多くの大人の戦士たちを失ったため、彼らも集会に顔を出すようになったのだ。
「ガジェタよ、村を取り戻すのはいい。だが、どうやって取り戻すのだ?」
やや歳を取ったゾアンが、そう言った。鍛え上げられた肉体といい、使い込まれた武具といい、いかにも練達の戦士と言った風情のゾアンだ。
それに村を取り戻すことを提唱していたガジェタと呼ばれた若いゾアンは、力強く握った拳を突き上げる。
「この血と肉と刃によってだ!」
若いゾアンたちを中心として、ガジェタのその意気に感嘆の声が上がる。だが、それとは対照的に、場数を踏んだ大人の戦士ほど冷めた反応を示した。
「それができれば、苦労はせんわ」
「奴らは村の周囲に強固な柵をめぐらし、カメのようにこもっておる。これまで何度となくわしらが攻めても、奴らは出てこようとはせず、矢を雨のようにふらしてくるばかりだ」
そう言ったゾアンは肩に巻かれた血のにじむ包帯を手で押さえた。よく見れば、その場にいる大人の戦士たちはすべて、多かれ少なかれどこかに傷を負っている。
しかし、そんな同胞たちをガジェタは臆病風に吹かれたものと思い、侮蔑の表情を作る。
「偉大な真のゾアンの戦士は、人間の矢など恐れぬ! 地獄で糞尿をあさる怪物のような人間どもの、ひょろひょろの矢など刃で切り払えばいい! 柵など踏みつぶせばいい! 木の家に立てこもる人間どもをひとり残らず引きずり出し、我らの土地を侵した報いを与えるのだ! 奴らを地獄の糞尿の沼に叩き返してやろう!」
それに若い同胞たちから、喝采があがる。
逆に大人の戦士たちの中には、歯ぎしりする者までいた。
「《猛き牙》ファグル・ガルグズ・ガラムよ。おまえの存念をうかがいたい」
もはや族長の強権を持ってしか若い者を抑えきれないと思った年寄りが、ガラムに水を向ける。その場に集っていたすべてのゾアンの視線が、いっせいにガラムに向けられた。
それまで目をつむって腕を組み、黙って氏族の者たちの議論を聞いていたガラムは、ゆっくりとその目を開いた。
村でもっとも強く勇敢な戦士として、人間との戦いでは常に先陣を切り、《猛き牙》の字を持つガラムはこれまでガジェタに近い姿勢を示していた。そのため、ガジェタを中心とする若い同胞たちは、期待で目を輝かせてガラムの言葉を待った。
「……今は、まだ待つ」
しかし、ガラムの口から出たのは、彼らの期待する言葉ではなかった。失望にうめく若者たちの中から、ガジェタが立ち上がった。
「《猛き牙》よ、いったい何を待つというのだっ?!」
「〈爪の氏族〉と〈たてがみの氏族〉に送った使者の帰りをだ」
それにガジェタは激昂した。
「ガラム! きさまは、〈牙の氏族〉の誇りを捨てたかっ?! 他の氏族に助けを求めるなど、臆病者のやることだ!」
少し前まで彼ら若者に近い立場だったとはいえ、今ではガラムは族長だ。そのガラムを呼び捨てにしたことに大人の戦士たちが激怒する。
「ガジェタ! きさま、族長をないがしろにするつもりか?!」
「若造が、図に乗るなっ!」
それにガジェタの取り巻きの若者たちが反抗し、その場のゾアンは真っ二つに割れてにらみ合った。互いに牙をむき出しにして威嚇し合う、一触即発の険悪な雰囲気である。
そこに突然、凄まじい咆哮があがった。
まるで、目の前に落雷でも落ちたかのような咆哮に、その場にいたすべてのゾアンが度肝を抜かれる。
強い北風にも耐えられるように強固に組み合わされたドームの骨組みが、しばらく余韻だけでビリビリと震えるほどの咆哮を発したのは、ガラムであった。
「同胞たちよ! 貴様らの敵は、人間か?! ゾアンか?! 同胞に刃を抜こうという者がいるならば、この《猛き牙》ファグル・ガルグズ・ガラムがまとめて相手になるぞっ!!」
このガラムの一喝に、にらみ合っていたゾアンたちは矛を収めて腰を下ろした。しかし、誰もが大人と若者の間に、深い亀裂が入ったことを感じた。
ガラムは諭すように言う。
「ガジェタよ。〈爪の氏族〉と〈たてがみの氏族〉へ使者を送ったのは加勢を頼むのではなく、戦えぬ老人や子供を受け入れてもらうためだ」
「だが、《猛き牙》よ。いかな返事がこようとも、村を取り戻すことに変わりはない。人間を攻めるのに、使者を待つ必要はないのではないか? 俺には、我らの口から頼まずとも、苦境を知らされた他の氏族が情けで加勢を送ってくれるのを待っているとしか思えぬ!」
さすがに、ガジェタも今度は呼び捨てにはしなかった。だが、その言葉には隠す気すらない不満が込められていた。
「必ず村を取り戻せるというのならば、この《猛き牙》は迷うことなく、今この瞬間に鬨の声をあげ、自ら先陣を切って攻め込もう。だが、もし我らで村が取り戻せなかった場合は、どうする? 多くの戦士を失っている上に、さらに戦士を失えば、もはや老人や子供たちを守ることすらできぬ」
「はっ! 戦う前から負けることを考えるとは、《猛き牙》の名が泣くぞ。臆病風に吹かれたのか?!」
先程のこともあり、ガラムの手前我慢していた大人の戦士たちが、再び腰を上げようとしたのをガラムは腕で制した。
「ああ、俺は臆病になったとも」
ガラムの率直な言葉に、ガジェタのみならず大人のゾアンたちも驚きに目を見張った。
「少し前までは、何も考えず、人間どもに斬りかかっていけばよかった。ただ、ひたすら刀を振り回していればよかった。
だが、いまや俺は族長だ。俺の判断ひとつに、氏族すべての者の命がかかっているのだ。これが怖くなくて、何が怖いというのだ?」
ガラムの言葉に、その場は水を打ったような静けさに包まれた。
それを頃合いと見た年寄りのゾアンが、パンッと手をひとつ打った。
「皆の衆。ここは族長のご意志に従うのが良いと思うのだが、いかがじゃ?」
今度は、誰も異議は唱えなかった。
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