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第7話 儀式
 その日の夕暮になって、ゾアンたちは隠れ家にたどり着いた。
 崇拝する獣の神の御子であるシェムルの帰還は、傷つき疲れ果てた同胞たちの顔に数日ぶりの笑みを取り戻した。手や顔に火傷を負い、包帯を巻いた子供たちが、それでも笑顔で自分に抱き着いてくるのをシェムルはひとりひとり強く抱きしめてやった。
 しかし、彼女が人間の子供を連れているのを知ると、やはり大人たちは良い顔はしなかった。特に戦士たちは自分らが同胞を守れなかった悔しさもあり、あからさまな嫌悪感を表に出すものもいる。
 そんな彼らの視線をはねのけるように、シェムルはあえて毅然とした態度を示した。自分に何の負い目もないと誇示することで、蒼馬へ向けられる敵意をそらすためである。
 シェムルは《猛き牙》に声をかけた。
「お(ばば)様は、いらっしゃるか?」
 お婆様とは、シェムルの村で一番の年寄りで、偉大なる動物の神に仕える巫女でもある。また、こうした村では、おうおうにして巫女は部族の歴史を伝える語り部であり、怪我や病気を治す薬草師の役目も兼ねているのだ。
「ああ。滝近くの祈祷所にいらっしゃる。お婆様も心配なされていた。すぐに行ってやると良い」
 シェムルが連れてきた人間の子供に、村の者たちの憎しみが暴発しないうちに遠ざける意図もあり、《猛き牙》はそう答えた。
 シェムルもその意図を理解し、蒼馬を連れたまま祈祷所に向かうことにした。
 シェムルが目指したのは、隠れ家よりさらに山を登ったところにある小さな滝の脇に生えた一本の古木である。樹の根元にはゾアンたちが捧げたと思われる色とりどりの木切れや石が小さな山と積まれていた。シェムルの氏族においては、死ぬと戦士の魂はこの樹に宿り、一族を見守ってくれるという言い伝えがあった。
 かつて平原で暮らしていたときは、祭祀のときにだけこの山に登ったというのに、今ではほんの目と鼻の先に隠れ住んでいる。氏族と古木との物理的な距離が、そのまま氏族すべてが古木に宿るときが間近に迫っていることを暗示しているように思えてならなかった。
 その古木の前に、まるで猿のミイラのような年老いたゾアンがいた。
「おうおう、小便臭い小娘が、生きておったか」
 その年老いたゾアンは、シェムルに気がつくと、ただでさえ細い目を笑みで糸のようにし、彼女を迎えた。
「小便臭いとは、失礼だな、お婆様。これでも花も恥じらう乙女だぞ」
「ひゃっひゃっひゃっ。おぬしの垂れた寝小便で濡れた毛皮を一緒に隠れて干してやったは、ついこの前ではないか」
「そ、それはもう10年も前の話ではないか! まったく、年寄りはいつまでも昔のことを」
 何しろシェムルが生まれたときに、彼女を取り上げたのは目の前のお婆様であり、それ以来お世話になっている相手だ。忘れたい子供の頃の出来事などをすべて握られているため、いまだに頭が上がらない。
「ところで、わしに頼みごとがあるのではないかい? おそらく、その人間の子供のことじゃろう」
「そうだ、お婆様。こいつの様子を見てもらえないか?」
 いまだに意識を失ったままの蒼馬を乗せてきた動物の背中から下ろすと、古木の前に置かれた平たい大きな石の上に寝かせる。
「どれ、どれ……」
 お婆様は寝ている蒼馬の上に手のひらをかざして、しばらくムニャムニャとうなる。
「ほう。こりゃ、驚いた。こやつ、『落とし子』ではないか?」
「『落とし子』?」
 聞きなれない言葉に、シェムルは首を傾げた。
「そうじゃ。まれに精霊どもの悪戯か、神々のご意志かはわからぬが、ここより異なる界より、こちらに落ちてくる者がおるのじゃ。それが『落とし子』よ」
 お婆様は懐から怪しげな粉をひとつまみ取り出すと、それを蒼馬の身体に振りかけた。
「やはり、そうじゃ。この子は、この世界とつながっておらぬわ」
「つながっていないとは?」
「わしらは、生まれ育った界と見えない糸でつながっておるのよ。この『落とし子』は、こちらの界とつながっておらんゆえ、そう長くは持つまいのぉ」
「お婆様! それはどういうことだ?!」
「わしらは食い物のみで生きるのではない。界とのつながりを通して、食い物や水や空気と言う形で生きる力を得ておる。こやつにはそのつながりがない。そのため、いくら食べても飲んでもこの界の力を吸収することができん。呼吸によって界の力を取り入れても、それを身体が受けつけぬ」
「何とかならぬか、お婆様?!」
「まあ、なんとかならんでもないが……」
 シェムルに詰め寄られ、さてどうしたものかとお婆様は蒼馬の身体を調べ始めた。脈を取り、胸に耳を当てて心臓の鼓動を聞き取り、怪しげな粉を振りかけたりする。
 そのうち額に手を当てて熱を測ろうとして、お婆様は驚いた。
「ほわわわわっ!!」
「どうした、お婆様?」
「こ、こやつはアウラの御子ではないか?!」
 お婆様が前髪を払いのけたことで、その額の刻印があらわになった。
 それは同じ御子であるシェムルにとっても初めて見る刻印だ。
「これは……?」
「アウラの刻印じゃ。わしも初めて見たわ」
 お婆様もまた、先代の語り部から知識として伝えられてはいたが、実物を目にするのは初めてだった。
「アウラ? 聞いたことがない名前だが、神なのか?」
「神なのか、ではないわ! 獣の神を含めた7柱の神よりも古い大神じゃ」
「そんな神がいるとは聞いたことはないが」
「そうじゃろう。アウラは死と破壊を司る女神じゃ。めったにその名を口にすることは禁じられておる」
「邪悪な神なのか?」
「いや。アウラがおったからこそ、7柱の神が生まれた。死と破壊があるからこそ、生と創造がある。アウラは偉大なる創造神の片割れとも言うべき大神なのじゃよ」
 じゃが、とお婆様は小さく首を振る。
「やはり死と破壊は厭われるもの。こやつを生かしておけば、災いを招くやもしれん」
 特に今は時期が悪い。
 人間によって村を追われ、いつまた襲撃を受けるやもしれないこの状況において、死と破壊を司る御子がいることは、同胞たちの不安をいたずらにあおることにもなりかねない。
「《気高き牙》よ、それでもこやつを生かすつもりか?」
 お婆様の言葉は、重いものであった。
 この人間を助けるということは、同時にこの人間の今後すべてを背負い込むことに等しい。ただでさえ敵対している人間だというのに、その上この人間の子供は死と破壊の女神の御子なのだ。自分のみならず、同胞たちにどのような災いをもたらすやもしれない。
 そうなったとき、そのすべての罪を背負えるかのか?
 そうお婆様は問いかけているのだ。
「ああ。頼む、お婆様。私はこいつに返さねばならない恩があるのだ」
 シェムルは決意を持って答えた。
 ゾアンの格言に、こういうものがある。
『飢えたときにもらった一羽の兎の恩は、死んでも返さなくてはならない』
 ましてや、この人間の子供は自らも飢えながら、そのわずかな食べ物をシェムルに分け与えたのだ。それほど恩を受けながら、ひとつとして返さぬまま死なせるわけにはいかない。
「ひょっひょっひょっ。そうまで言われれば、この婆も骨身を惜しむわけにはいかんて」
「助かる、お婆様。しかし、お婆様はいいのか?」
 シェムルの不安は、この人間の子供を助けたことが後でお婆様にも迷惑が掛からないかと言うことだった。
「かまわんて。こやつを生かすにしろ、殺すにしろ、わしらは人間どもによって遠くない日に滅ぼされるのは目に見えておる。それが多少早まったところで、大差ないわ」
 お婆様は、ニカッと笑ってから大きな笑い声をあげた。

            ◆◇◆◇◆

 月が中天に輝く頃、祈祷所に赤々とした火が燃えていた。
 山のように積まれた薪が火の粉を舞い上げ、激しく燃えている。
 古木の前に置かれた平たい岩の上には、服を脱がされ、全裸にされた蒼馬が寝かされていた。炎の熱気にあぶられ、全身から玉のような汗をかきながら、苦しげにうめいている。
 燃え盛る炎の前に座ったお婆様は、目の前に置いた数個の壺の中から粉のようなものを掴みとると、バッと火にくべる。すると、薬のような臭いがする白い煙を上げながら、火はさらに激しさを増し燃え上がった。さらに、次々と他の壺からも粉を掴みとると、火にくべる。それを幾度となく繰り返すと、いくつもの匂いが混じった独特の臭気となって、辺りに一帯に漂う。
 お婆様は天空の月に向かって、咽喉をそらして遠吠えを上げた。ときには激しく、ときには哀切を込め、その遠吠えは夜の大気を震わせる。
その独特の抑揚のついた遠吠えに乗って、シェムルが躍り出た。
 身体中を水でといた色土でペイントし、極彩色の鳥の羽をまるでタテガミのように飾り付け、首には動物の歯や翡翠や瑪瑙などの宝石に糸を通した首飾りをかけ、手首と足首には鈴がついた金の輪がはめられている。
 シェムルのしなやかな手足が躍動するたびに、鈴がシャンシャンと音を立てていた。
 お婆様の遠吠えが、遠くへ、近くへと岸に寄せる波のように響き渡る。
 それに乗って踊るシェムルの動作も激しさを増した。大きく股を割るように右足を踏み出し、地面にこすり付けるようにして上半身を前に伸ばす。次の瞬間には、たんっと音を立てて跳び上がり、宙をくるりと一回転する。着地とともに、全身の鈴がシャンシャンと鳴った。
 お婆様は遠吠えをあげながら、上半身を大きく揺らし始めた。最初は小さかった揺れはしだいに大きくなり、前後に身体を倒すように揺れる。
 シェムルの腕が大きく円を描き、鈴がシャンと鳴る。水面を踊る妖精のような軽やかなステップを踏むたびに、シャンシャンと鈴が鳴る。
 まるで一匹の大蛇のようにシェムルは身体を大きくくねらせたかと思うと、一羽の鳳のように両腕を広げて宙を舞う。トトンッとステップを踏み、くるりとターン。次の瞬間には女豹のように四つ足になると、豊満な胸を誇示するように背筋をそらして天に向かって吼える。
 身体の内から湧く熱気と、燃え盛る炎の熱気にあぶられて、シェムルの身体からは滝のような汗が流れ落ち、肉体の躍動とともにしぶきとなって飛び散った。
 お婆様は小さな壺を小脇に抱え、蒼馬に駆け寄った。そして、高らかに歌いながら壺に突き刺していた棒を引き抜く。その先には、どろりとした緑色の粘液がついていた。
 お婆様は、その棒を器用に動かして蒼馬の身体の上に、複雑な文様を描いていく。
 それを描き終わると、今度はシェムルが踊りながら、古木の前に供えられた水差しを手に取った。そして、蒼馬が寝る平たい岩の周りをまるで獲物を狙う獣のように、身体をかがめてぐるぐると円を描いて回る。しだいにその円が狭まり、水差しを抱えたシェムルの身体が蒼馬の足元から覆いかぶさる。
 手をついて這いつくばったシェムルの身体は、蒼馬の足先から少しずつ上へ上と登っていく。お婆様の遠吠えに合わせて身体を左右に揺らし、じらすように、堪能するように、足首から膝へ、膝から腰へ、輿から胸へと登っていく。
 シェムルの身体から雨のように滴り落ちた汗と、自分自身の汗とが混じり合い、蒼馬の身体はずぶぬれになった。
 ついに頭まで登りつめたシェムルは、身体を起こし、蒼馬の胸に座る。
 そして、手にした水差しの口を蒼馬の口につけると、中に入っていた白濁した液体を蒼馬の口の中に注ぎ込んだ。
 蒼馬は、激しくむせ返った。それでも大半を飲み下した蒼馬の身体が、突然震え出した。
 その脇では、お婆様の遠吠えが最高潮を迎え、ついには絶叫となる。
 胸に乗ったシェムルを振り落とそうとするかのように、蒼馬の身体が弓なりにのけぞった。振り落とされまいと、蒼馬にしがみつくシェムル。
 そして、唐突にお婆様の絶叫がやむのと同時に、蒼馬の身体からも力が抜け、ぐったりと横たわる。
 しばらくの間、3人の激しい息遣いと火がはじける音だけが辺りを支配した。
「やれやれ、老体にはこたえるわい……」
 そうぼやきながらお婆様は、蒼馬の上に手をかざす。
「ほうほう。つながっておるわ、つながっておるわ」
「お婆様、うまくいったのか?」
 この熱気と踊りの疲れで全身が気だるくなりながら、シェムルはお婆様に尋ねた。
「うまくいっとるわ。まあ、これで死んでいなければの話じゃがの」
 お婆様の言葉に、慌ててシェムルは蒼馬の胸に耳を当て、心音を確かめる。すると、幸いなことに心臓は規則正しい鼓動を打っていた。
 安堵にシェムルがもらしたため息が顔にかかったのか、蒼馬のまぶたが小さく痙攣をし、わずかに目を開いた。
「起きたのか? 私の言葉がわかるか?」
 そうシェムルが尋ねたが、意識はもうろうとしているようで、視線が宙をさまよっている。しかし、そのうち視線は目の前にあるシェムルの顔に向けられた。
「どうだ? わかるか?」
 再度シェムルが尋ねると、蒼馬の唇がかすかに開いた。
 何か言おうとしているのに、シェムルは耳を口元に寄せる。
 蒼馬は吐息とともに、かすかに言葉を発した。
「……きれいだ」
 そして、そのまままた意識を失ってしまった。
「なっ!?」
 予想外の言葉に絶句するシェムル。
 動揺するシェムルの姿にお婆様は、楽しそうに笑い声をあげた。
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