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第2話 御子
 蒼馬は、ガタゴトと音を立てて伝わる振動に目を覚ました。
 いまだに身体中に倦怠感と酩酊感が残り、意識が朦朧とする。それでも、何とかうっすらと目を開く。
 まず、目に飛び込んできたのは土で汚れた板だった。どうやら自分は何かの荷台のような場所に寝かされているようだ。少し目をあげれば、そこは寒風が吹きすさぶ、枯れた草で黄土色に染まった草原であった。
「ル=バナ! ル=バナ! ポムス イシェタルー キムイハ!」
 どこからか、聞いたこともない外国語の叫びが聞こえる。
「あ……ああ……うぅ」
 何とか声を出そうとしたが、焼けつくように乾いた咽喉からは、わずかにうめき声しか出ない。吐き気がこみあげるが、空っぽの胃袋には吐けるものはなく、ただえずくだけであった。
「スガブラムッ! スガブラムッ!」
 近くで男が叫んでいるのが聞こえた。
「ソマルア オック フーノイハ!」
 何を言っているのか、わからない。少なくとも日本語や英語ではなさそうだ。
 しばらくすると、映画で聞いたことのある馬蹄のような音が聞こえた。
「オウ。ディ=オック フーノイハ?」
 その声とともに、蒼馬の顔に影がかかった。身体にしみこむようにして残る倦怠感に首を動かすことすらできない蒼馬は、それでも目だけを動かし、陽を遮ったものを見る。
(……なんだ、これは夢なんだ)
 わずかに開いた視界の中に飛び込んできたのは、トカゲのような顔である。ただし、その大きさは馬の頭ほどもあり、普通はトカゲにはない茶色の毛に覆われていた。そのトカゲは、先が二つに割れた舌をチロチロと動かし、蒼馬を見下ろしていた。
 こんな生き物が現実にいるわけがない。
 蒼馬は、そう思った。
「ディハ ノイハ? ディズ ミグー ノイハ?」
 上から声が降ってくるが、やはり蒼馬には理解できない言葉だった。
「……こ…ここは、どこ……?」
 必死に声を絞り出したが、それは吐息に紛れるような小さい声にしかならなかった。そして、それだけで気力を使い果たした蒼馬の意識は、また闇に飲まれていった。

            ◆◇◆◇◆

 冬将軍の到来を告げる、冷たい北風が枯れた草原の上を吹き抜けていった。
 ほんの少し前までは、季節は燃え盛る(ツァオ)だった。しかし、短い(ナグート)が瞬く間に過ぎ去り、今では(ネロ)の季節となっている。
 身を切り刻むような寒風に、小隊長のセティウスは顔をしかめた。
 最近、近隣を騒がせていた邪教徒討伐は、予想に反してあっけなく片付いた。わざわざ王都からきたという神官が大仰に「これが神のご意志である」とのたまい、邪教徒の討伐を指示してきたというので、どれほど恐ろしい奴らかと案じていた。
 だが、ふたを開けてみれば邪教徒どもはみんな素人同然の集まりで、吟遊詩人どもが謳う物語のような怪しげな魔法も恐ろしい怪物も出てこなかった。
 これでは、討伐より砦からの行軍の方がはるかに大変だったぐらいだ。
「急げ! 急げ! 太陽が西に沈むぞ!」
 分隊長のひとりが部下たちを叱咤しているのが聞こえた。
 何とか夕暮れまでには、この先にある大岩のところまでは行きたいものだ。こんな吹きさらしの平原で野宿をすれば、一晩中北風に悩まされ、おちおち休めはしない。
「小隊長! 小隊長!」
 それは行軍する部隊の中ほどにいた分隊長の声だった。
「小僧が目を覚ましたようですぜ!」
 現在、この部隊の中で「小僧」と言えば、それは邪教徒どもの巣窟で見つけた『御子』と思われる少年のことだ。
セティウスは手綱を引き、騎竜の首を返した。
 セティウスが乗る騎竜は、名前に竜とはついていても、ドラゴンとはとても呼べないトカゲの一種だ。大地を蹴るのは太くたくましい二本の後ろ脚で、前足は逆に細く短い。地に伏せるとき腕立ての要領で立ち上がるときや食らいついた獲物を押さえるために使う程度のものである。騎竜の全身は青黒い鱗とその隙間から生える茶色の毛に覆われていて、下手なナイフ程度の刃物なら歯が立たない。やや寒さに弱いという欠点はあるが、はるか南方の草原にいるという馬よりも世話がかからず、臆病でもないため戦士が好んで乗騎する生き物だ。
「おい! 少年が目を覚ましたのか?」
 セティウスの問いかけに分隊長はうなずいて答えると、その脇にある兵糧や武具が積まれた荷馬車の荷台の上を指し示した。
 そこには、荷物と荷物との間に作られたわずかな隙間に、あの邪教徒の巣窟で見つけた少年がボロ布のような毛布を乱雑にかけられて寝かされていた。
 セティウスは騎竜を荷馬車のそばに寄せ、走る速度を合わせると、少年の顔を覗き込んだ。
 少年は病にでもかかっているのか、顔色は蒼白で、苦しげにうめき声をもらしている。
もし疫病の類だとしたら、厄介なことになるな、と思ったが、かといって放り出すわけにもいかない。できるだけ、この少年に接触する人間を制限する程度の対処しかできないだろう。
 少年を観察すると、かすかに目を開いているが、その焦点は合ってはいないようだ。
 これではまともな返答は期待できないが、それでも一応は問いかけてみた。
「君は、何者だ? 君は『御子』なのか?」
 しかし、やはり返事はない。
 無駄だったかと思ったセティウスの耳に、その時かすかに少年の声が届いた。
「……ko…kokoha、doko……?」
 それはセティウスが聞いたこともない響きの言葉だった。
 このあたりの公用語であるデアス語でも、神官たちの使う神聖語のようでもない。かといって、エルフやドワーフなどの亜人間どもの言葉とも違うようだ。
 身なりからして、少年ははるか遠い異国の人間のようだが、彼をはじめ小隊の誰もそこがどこかはわからなかった。酒場で旅の商人や吟遊詩人たちが面白おかしく語る話の中に、はるか東方の神秘の島に住む黒髪の人間のことを聞いたことがあるが、この少年はそこから来たのであろうか?
「君は、どこから来た? 君は何者なんだ?」
 しかし、また意識を失った少年から返事を聞くことはできなかった。
 セティウスが困ったようにため息をつくと、その成り行きを見守っていた分隊長が恐る恐る声をかけてきた。
「小隊長、このガキはどうしましょうか?」
「放り出すわけにもいかん。死なないように世話をしてやれ」
 それに分隊長は、すぐに了解の声をあげずに、頬を引きつらせて愛想笑いを浮かべるだけであった。
「どうした、分隊長? 何か、不満でもあるのか?」
 自分の命令に不服とも取れる態度を示す分隊長に、叱責の意味も込めて問い詰めた。
 分隊長は首をすくめると、上目づかいに言った。
「小隊長。こいつは、その、『御子』なんでしょ?」
 それに、セティウスは納得した。
 セティウスたちが務める砦にあって、少し前に起きた事件のせいで『御子』とはまさに禁忌の存在であるのだ。
「下手にかかわって、呪い殺されはしませんかね? それに、こいつ病気みたいですし」
 この分隊長の気持ちもわからないわけではない。セティウスも小隊長としての責務さえなければ、こんな少年は平原に放り捨ててしまいたいぐらいだ。
 やむなくセティウスは、騎竜から身を乗り出すようにして手を伸ばすと、少年の身体に触れる。
「見ろ。触った程度で、呪われるようなことはない。だいたい、あの事件は砦主が、その、なんだ。困った性癖のせいであって、『御子』だからと言って普通は呪われることなどない」
 そう言いながらセティウスの内心では、触った途端に呪い殺されるのではないかと、びくびくしていた。しかし、そんな態度を見せるわけにもいかず、虚勢を張って分隊長に言う。
「『御子』の呪いが怖いというなら、このまま平野に放り捨てたり、飢えて死なせたりする方が、もっと恨まれて呪われるぞ」
 そう言われた分隊長は身体をひとつ大きく震わせると、
「わかりましたよ、小隊長! その代り、砦に帰ったら酒の1つでも配給してくださいよ」
 分隊長に「わかった」と告げると、セティウスは騎竜に一鞭くれて小隊の前方に走らせる。
 その時、ひと際強い北風が吹き抜ける。空を見上げると、今にも雪が降りそうな黒々とした雲が天を覆っていた。
「くそっ……なんだか不吉な空模様じゃないか」

            ◆◇◆◇◆

 ソルビアント平原と呼ばれる一帯は、かつて亜人類のひとつゾアンの勢力圏であった。
 しかし、そこに接していたホルメア国が穀倉地帯の拡大を求めて、しだいに平原に勢力を伸ばすようになったのは、30年ほど前のことである。
 もちろん先住者であるゾアンたちはそれに抵抗し、幾度となく平原で血と刃を交えた衝突を繰り返すことなった。
 個人としては人間より肉体的にまさるゾアンたちであったが、統率された人間の軍隊の前には個人の武勇は意味もなく、多くの犠牲を出しながら、住み慣れた土地から逃走を余儀なくされた。
 今ではゾアンたちは平原の北にあるドーナス山脈から連なる丘陵に追いやられ、そこで隠れるように暮らしているのだった。
 しかし、今でも自分らの土地を取り戻そうと、時折平原に降りてくるため、それらから開拓農民を守るために、丘陵地帯の手前にひとつの砦を築かれていた。
 その砦にセティウスが率いる小隊がたどり着いたのは、邪教徒討伐より3日後のことである。
 砦の門をくぐり、ほっと息をついて気を緩める部下たちを叱咤し、帰還後の片づけや報告を指示していたセティウスは、マルクロニス中隊長補佐がやってきたのに気づくと、音を立ててかかとを打ち合わせると敬礼する。
「セティウス小隊、ただ今帰還いたしました!」
「ご苦労だった、セティウス」
 マルクロニスはすでに初老の域に入っている男性である。その戦歴を物語るように顔にはいくつもの刀創が刻み込まれていた。
「開拓民の村から若い娘たちをさらっていた邪教徒どもは、すべて討伐いたしました。我が隊の損害は皆無であります!」
 邪教徒を討伐したことよりも小隊に被害がなかったことに満足げに笑みを浮かべたマルクロニスだったが、その背後から騒がしい声が聞こえてきたのに、渋面を作る。
「この間抜けなクソ虫がっ! 早く歩かんかっ! 早く、早くっ!」
 そう叫んでいるのは、でっぷりと肥え太った男だった。白と藍色の二色で染められた神官服を着ているが、とうてい聖職者には見えない。神の愛を語るより、食い物か金儲けの話を口にしている方が似合いそうな風体だ。
 その神官は、半裸になった男ふたりが担ぐ輿に乗り、甲高い声を上げながら、手にした乗馬鞭を振り回している。
「これは、これは、ミルダス神官殿。わざわざ、このような場においでなさるとは、いったいどうされました?」
 渋面を隠したマルクロニスが、大仰な物言いでその神官を迎えた。
 砦中の兵隊から、「豚」や「イボガエル」と呼ばれているミルダス神官だが、これでも正式な従軍神官である。聖教の権力が強い大陸においては、中隊補佐どころかたとえ将軍であろうとも、おろそかにはできない相手なのだ。
「いやいや、マルクロニス殿。ことは、聖教にあだなす邪教徒の討伐ですぞ。この敬虔な神の僕たるミルダスにとっては、一大事。いてもたってもいられず、こうしてまかり越した次第ですわ」
 そういうと、ミルダスは脂肪で垂れた咽喉を震わせて笑って見せた。
「それで、忌まわしき邪教徒どもは、いかがなりましたかな?」
 セティウスは部下に命じると、小脇に抱えるぐらいの壺と小さな麻の袋をひとつ持ってこさせた。
 まず、セティウスは袋を縛っていた縄をほどき、口を開いて中身を見せる。
 そこには、切り取られた大量の人間の耳が詰められていた。
「邪教徒どもを討伐した証に、右耳だけ持ってまいりました」
 邪教徒すべての首を持ってくるのは手間なので、代わりに右耳だけを削いできたのだ。
 次にセティウスは地面に置いた壺のふたを取ると、中から塩漬けになった首を取り出す。
「そして、ご命令通り邪教徒どもの首領は、こうして塩漬けに」
 ミルダス神官は腰を担いでいた男を手にした鞭で叩く。
「早く、輿を下ろせ。このグズがっ!」
 男はくぐもった苦鳴をもらしながら、膝をついて輿を下げる。ミルダスはその男の頭を踏み台にして輿から飛び降りると、セティウスの手から生首を奪って、それをまじまじと見つめる。
 セティウスは頭を踏み台にされ、顔から地面に倒れた男に憐みの視線を落とす。破れてボロボロになった衣服を申し訳程度に身に着けた男の身体には、鞭で打たれた生傷が無数に刻まれ、そのいくつかからは赤い血が滴り落ちている。
 いくら奴隷とはいえ、ひどい扱いをするものだと思っていたが、よく見れば男たちは人間ではなかった。背丈は人間の子供ほどだが、がっしりとした肉体に顔を覆う濃いヒゲ。彼らは、ドワーフと呼ばれる亜人類の一種だった。
 それならば神官の彼らの扱い方にも納得できる。
人間至上を唱える聖教にとっては、亜人類は人間の出来損ないであり、淘汰すべき汚らわしい劣等種なのだ。
 ミルダスは、生首を前にして歓喜の声を上げていた。
「おうおうっ! これは間違いなく、邪教徒どもの首領の首っ! でかした! でかしましたぞっ!」
 大事そうに生首を壺に戻すと、小脇に抱え、締まりのない笑みを浮かべる。
「こ、この首は私が責任を持って、聖都に持っていきますぞ! いや、さすがはマルクロニス殿! お手柄でしたぞ、お手柄っ!」
 ミルダスの態度に、あれはただの邪教徒の首領の首というわけではなさそうだと気づいたが、そんなことはおくびにも出さず、マルクロニスは軽く頭を下げるにとどめた。
 せっかくご機嫌になっているのだから、下手なことをつついて藪から蛇を出す必要はない。せいぜいご機嫌をとって、早いところ砦から退去していただきたいというのが本音であった。
 そして、マルクロニスの推察どおり、この邪教徒の首領と呼ばれていた老人は、ただの老人ではなかった。この老人は数年前まで聖都において聖教を束ねる3人の大神官のひとりとして、また有力な一族の長として権勢を誇っていた老人であった。
 しかし、聖教内の政変に敗れ、ありとあらゆる地位と権利を奪われ、一族ともども邪教徒の汚名を着せられ聖都から逃げ出したのである。
 それがどこをどう流れてきたのか、最近になってこのあたりに逃亡してきたことを知ったミルダスは、これぞ神のおぼしめしとばかりに、砦の兵隊を使って老人を殺害することを思いついたのである。
 あらゆる権力を奪われたとはいえ、かつては聖教の頂点に最も近いところにいた老人である。今の聖教を束ねる大神官たちにとっては、目の上のたんこぶに違いない。その首を持って聖都に上がれば、大神官たちの覚えもめでたく、教区のひとつでも任されるか、うまくすれば聖都に務めることも夢ではない。
 これから得られる栄達を思い描き、ニヤニヤと笑みをこぼすミルダスに、セティウスは声をかけた。
「ミルダス神官殿、ひとつよろしいでしょうか?」
 せっかくの夢想を邪魔されたミルダスは、不機嫌そうに答えた。
「ああ、わかっておりますぞ。そなたの活躍も、しっかり報告しておきます。安心くだされ」
「いえ、そういうわけではなく……」セティウスは声を低くし、「実は、邪教徒どもの巣窟にて、怪しい少年を見つけました」
「怪しい少年とな? 何をくだらないことを。邪教徒どもの巣窟にいたのならば、そやつも邪教徒のひとりでしょう。さっさと首をはねてしまえばいいのです」
 馬鹿にしたように鼻を鳴らして言うミルダスに、セティウスはさらに声を低めて言った。
「それが、その少年は『御子』のようなのです」
 その言葉に、ミルダスのみならず、隣で黙って聞いていたマルクロニスも、ぎょっとした表情になる。
「いったい、それは何の『御子』でした?」
「それが、恥ずかしながら私には、いったい何の『御子』かわからず、ご判断を仰ぐために連れてまいった次第です」
 ミルダスは、「そんな馬鹿な」と嘲笑った。『御子』に選ばれた者は、身体のどこかに刻印が刻まれるのだ。その刻印を見れば、その『御子』を選んだ存在は一目でわかるのである。それがわからないというのは、単に知識不足でしかない。
 この辺境で兵隊をやっている程度の無学な奴に、自分の優れた知識を披露してやるのも悪くないと思ったミルダスは、勿体ぶりながら、その少年のもとに案内させた。
「これが、その少年です」
 セティウスが示したのは、荷台で寝る黒髪の少年だった。
 ミルダスは、眉をひそめる。彼も、このような黒い髪をした人間は初めて見た。それに、この奇妙な服装は、なんなのだ?
「そして、これが『刻印』です」
 そう言ってセティウスは、少年の額にかかった前髪を払った。
あらわになった少年の額には、8と∞を合わせたような図形が淡く輝いていた。
「こ…これは?」
 ミルダスは、困った。偉そうなことを言ってしまったが、少年の額の刻印は彼の知るいかなる刻印とも違っていた。まさか、いまさらわからないとは言えずに、なんと言い逃れようとうなっていたが、改めて刻印を見直してみると、どこか記憶の片隅にひっかかるものがあった。
 はて? この刻印をどこかで見たような……?
「……! あ、あああっ!!」
 突然、叫び出したミルダスに、セティウスとマルクロニスは驚きに目を見張った。
 ミルダスは、どたどたと騒々しい足音を立てながら輿に飛び乗ると、
「マ、マルクロニス殿! その少年を逃がしてはなりませぬぞ! く、詳しい話は、また後程に!」
 そう言うなり、奴隷のドワーフに鞭をくれて大慌てで立ち去ってしまったのだった。
 残されたセティウスとマルクロニスは何事があったのだ、と顔を見合わせた。
 そんな彼らの足元に、邪教徒の首領の首が入った壺が置き忘れられていたのに気づくのは、もう少し後になってからである。

            ◆◇◆◇◆

 ミルダスは自分にあてがわれた部屋に戻ると、本棚に並べられた本をひっくり返し始めた。
「これでもない! この本でもない! どこだ、どこだ?!」
 本棚から投げ捨てられ、部屋中に広がったのは聖職者のものとはとうてい思えない艶本や娯楽本ばかりだ。
「ええいっ! どこにしまったか。――そ、そうだ! まだ荷箱の中にしまったままだ!」
 今度は、部屋の片隅で埃をかぶっていた木箱のふたを開くと、中のものをひっくり返し始めた。ほとんど開かれたことがない新品同然の聖書に、乱雑に荷箱に入れられたため手首がぽっきりと折れてしまった聖像などの下に、探しているその本はあった。
 タイトルは、『アウグストの覚書』。
聖教において、聖教の開祖であり、神の子と讃えられる救世主カリスト。その弟子のひとりであったアウグストが、カリストとの対話を記した書である。
 しかし、カリストの生活や言動をあまりに赤裸々に記してあるため、カリストを神の子や救世主と神格化を行っている聖教には都合が悪く、外典に指定されている書だ。
「た、確か、この中のどこかに……」
 芋虫のような太い指をなめながら、ページを繰って行く。
「……! あった!」
 それは救世主カリストが2か月に及ぶ苦行の末に、ついに人間の神が目の前に現れ、それから3日にわたる神との対話について記された部分である。
 3日間の対話の途中で、何らかの理由から人間の神がその場を離れたときのことだった。どこからか、ひとりの少女がカリストの前に現れたという。
正典などにおいては、人間の神が不在の間にカリストを守りに来た天使とも、神との対話を妨害しに来た悪魔とも書かれているが、『アウグストの覚書』においては『朝もやの中から現れたのは、額に不可思議な刻印を輝かせる少女であった、と師は言われた』と記されている。
 この少女はいくつかの質問をカリストに投げかけるが、そのいずれにおいてもカリストは人間の神の素晴らしさと人間の優秀さ、そして亜人類の醜さをもって答えとした、と覚書にはある。
 そのカリストの答えに、少女は『なんとも面白き人間よ』とだけ言うと、現れたのと同様に朝もやの中に消え去ったという。
 しばらくして人間の神が戻ると、その場に誰かが来ていたのか? とカリストに問うた。偉大なる人間の神が、先程の少女に気づかぬはずはないのにと不思議に思いながらも、正直に少女と会ったと申し上げると、神は大いに驚いたという。
 ミルダスは震える指で文字をなぞりながら、声を出して読んだ。
「師は神に、かの少女は何者でしょうか、とうかがわれた。
 すると、偉大なる人間の神は、こうおっしゃったと言われた。
『そは、我が姉にして母たる女神アウラなり。アウラを讃えてはならぬ。アウラを貶めてはならぬ。アウラを語ってはならぬ。アウラに触れてはならぬ。アウラを知ってはならぬ』」
 ページをめくると、そこにはアウグストがカリストに話を聞きながら描いたという少女の挿絵があった。その挿絵に描かれた少女の額に書かれた刻印は、まさに先程の少年の額に輝いていたものと瓜二つである。
 8と∞を組み合わせたようでもあり、2匹の蛇が互いの尾に食らいつきながら、からみつき、のたうちまわるような不気味な刻印。
「『なぜならば、我が姉にして母たる女神アウラこそ、死と破壊を司る女神なのだから』!」
 ミルダス神官の手から、バサバサと音を立てて書がこぼれ落ちる。驚きに限界まで目を見開きながら、干上がった咽喉から絞り出すような声を洩らした。

「あの少年は、死と破壊の女神アウラの『御子』だ!」
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