第1話 召喚
『……ーマ……ソーマ……』
誰? 僕を呼んでいるのは誰?
『……ソーマ……いらっ……召喚……ソーマ……』
誰? 誰なんだ?
誰かに名前を呼ばれた気がし、木崎蒼馬は目を覚ました。
そこは自分の部屋である。
今日は高校が休みであったため、昼過ぎにコンビニで買ってきた週刊誌をベッドに寝転がりながら読んでいたら、そのまま眠ってしまっていたらしい。脱ぎ散らかした衣服や漫画が散らばっている部屋は、いつの間にか西の空に傾いた夕日に照らされて茜色に染まっていた。
大きくあくびをしながら、蒼馬は階段を下りる。
「母さーん! 呼んだぁ?!」
「起きたの、蒼馬? 母さんは呼んでないわよ」
キッチンの方から、揚げ物をあげる油がはじける音とともに母親の声が聞こえた。
やっぱり空耳だったのかと、蒼馬は思った。
「ちょうどよかったわ、蒼馬。お豆腐と油揚げが切れちゃってたの。母さんは、天ぷらを揚げていて手が離せないから、悪いんだけどお買い物に行ってくれる?」
「うん。いいよ」
蒼馬は玄関で靴を履くと、下駄箱の横に張り付けられたキーフックにかけられていた家族共用の自転車の鍵を手に取った。
そして、ドアを開けようと手を伸ばしたときである。
いきなり、ぐらりと視界が傾いた。
寝起きでまだ頭がボケているのかと思った蒼馬だったが、どんどんとめまいはひどくなってくる。ついには立っていることができず、その場に座り込んでしまうが、それでもめまいはおさまらない。
身体が浮き上がるような浮遊感と、押し付けられるような重圧が交互に訪れ、蒼馬をもてあそぶ。
「蒼馬ぁ、お財布を忘れているわよー」
母親の声に答えようとしたが、胃袋から突き上げるような吐き気に声を詰まらせる。母親のところまで行って助けを求めるため、ドアノブに掴まって立ち上がろうと手を伸ばした。
『……ソーマ……いらっしゃい、ソーマ……』
再び訪れた幻聴を聞きながら、蒼馬の手はドアノブをつかむことなく宙を切った。
「蒼馬、お財布を忘れて……蒼馬?」
財布をもって母親が来たときには、鍵がかけられたままのドアとその手前に落ちている自転車の鍵だけが残され、蒼馬の姿はどこにもなかった。
◆◇◆◇◆
ドンという音とともに、背中に強い衝撃が走った。
「あ…あう……あああ」
蒼馬の口から悲鳴とも嗚咽ともつかない声が漏れた。
何かに背中を強く打ちつけたらしく、背中全体にじくじくとした痛みが広がる。しかし、そんな痛みよりも、全身に広がる酩酊感と倦怠感、そして吐き気に蒼馬はもだえ苦しんだ。
そのとき、周囲から人のざわめきが聞こえてきた。
苦しさに固く閉じていた目を薄く開くと、いつの間に陽が落ちていたのか、あたりは薄暗くなっていた。視界のすみでチラチラと瞬いて見えるのは、何だ?
苦しみにのたうちまわりながら、必死に周囲を見渡すと、そこは見たこともない鍾乳洞の中だった。柱のように立ち並ぶ鍾乳石は、しみ出す地下水で濡れ、そこに光源となる蝋燭の灯が揺らめきながら映っていた。
家が一軒丸々おさまってしまいそうな広い鍾乳洞の中には、そろいの黒いローブを頭からかぶった数十人の男女が、両膝を地につけた姿勢のまま茫然とした顔つきで蒼馬を見つめていた。
「……ここは……どこ?」
蒼馬の弱々しい声をきっかけに、集団の最前列にいた老人が口を開いた。
「オワ! オワ!」
老人の口から飛び出したのは、蒼馬が聞いたこともないイントネーションの言葉だった。
「ディハ ノイハ? フェロ ラン ディラーン ノイハ!?」
この人は何を言っているんだ?
僕はいったい、どこにいるんだ?
ここはいったい、どこなんだ?
お正月に親戚たちに面白半分に勧められたウイスキーをガブ飲みしたときのように、全身が熱く、ズキズキとした頭痛とともに心臓が頭蓋骨の中に移動したように激しい鼓動が頭に響く。吐き気にもだえ、その場であおむけに転がった蒼馬は、自分を見下ろしている女性に気づき、小さく悲鳴を上げた。
いや、それは生きた女性ではない。
それは鍾乳石から削りだされた、女性の像であった。
唇から鋭い牙を覗かせ、まるで蒼馬を抱きしめようとするかのように伸ばされた両手の指には、鋭くとがった鉤爪が生えている。それは女性というより、女性に姿を偽った悪魔の像にも見えた。
不意に、蒼馬の額に誰かが手を触れた。
いつの間にか、先程の老人がそばに膝をついて、蒼馬を見下ろしていたのだった。老人は、震える手で蒼馬の額にかかった前髪を払うと、深いしわが刻みこまれた顔の中で、そこだけギラギラと輝く両目を限界まで見開いた。
「ウズ ヤクハ キハ! ウズ ミグー セイハ!」
興奮に口から唾を飛ばしながら、老人は叫んだ。
「ウズ ミグー! ウズ ミグー アウラノス!」
老人は集団に振り返ると、両手を高々と広げ、歓喜の声をあげた。それに集団からも歓喜の声があがる。
「「マグルナ=アウラ! マグルナ=アウラ! マグルナ=ミグー!」」
狭い鍾乳洞の中で耳を聾するほどの大音声となってこだまする歓喜の声を全身で聞きながら、蒼馬の意識はぷっつりと闇へと落ちて行った。
◆◇◆◇◆
老人は、敗者であった。
かつて老人は、この地上でもっとも高貴で美しい場所で、巨大な権力を握っていた。しかし、姑息な連中の罠にかかり、その手にしていた栄誉も富貴もすべて失ってしまった。
それまでこびへつらってきた者たちは手のひらを返し、石を持って老人を都から追い払った。老人がゴミ虫のように見下していた下賎の連中に悪しざまにののしられ、わずかな一族の者たち率いて、このような辺境にまで落ち延びなくてはならなかったのだ。
この怒りを! 憎しみを! 屈辱を! いかにして晴らせばいいか!
彼がすがったのは、かつて都の大図書館で見つけた、ある文献の記述であった。そこに書かれていた、この世で最も力強く、偉大なる存在。
老人と一族は、自分らを追い払った者たちを蹴落とし、再び一族の栄華を取り戻すために、その存在にすがりついたのだった。
下賎な農民の娘をかどわかし、その温かい血潮にあふれた心臓をささげ、ひたすら祈る。
永遠と続くかのような祈りと怨嗟の果てに、ついに変化が訪れた。
一族以外の者はいないはずの神殿の中に、突如として見たこともない少年が降って湧いたのだった。
「おおぉ! おおぉ!」
老人は驚きに、言葉にならない声をあげるだけしかできなかった。
神殿となる鍾乳洞の入り口には見張りが立ち、彼らに見つからずに侵入することは不可能に近い。それに、ここには隠し通路のようなものは存在しない。
目の前で苦しそうにもだえる少年は、いったいどこから入ってきたのだ?
「おまえは、誰だ? おまえはどこからきた?」
噂に聞く、遠い辺境の島国に住む蛮族のような黒い髪に、見たこともないおかしな服。博識を自負する老人の知識を持ってすら、この少年の正体はわからなかった。
苦しげにもだえていた少年が仰向けに転がった時、老人の目にあるものが飛び込んできた。
恐る恐る手を伸ばし、うめき声をあげる少年の前髪を払い、額を露出させる。
その額には、老人の見間違えなどではなく、予想通り。いや、期待していたものが、そこにはあった。
「これは、刻印だ! この方は、御子だ!」
少年の額には、8と∞を合わせたような図形が、淡く輝いていた。それは蝋燭の揺らめく灯を受け、まるで2匹の蛇が身体を絡ませ、互いの尻尾に食らいつき、のたうつようにも見える、不気味な刻印であった。
「御子だ! アウラの御子だっ!!」
歓喜と興奮に身を震わせた老人は、一族に振り返り、大声で叫んだ。
それまで息を殺して成り行きを見守っていた一族の者たちは、老人の言葉にたちまち歓声を上げる。
「「偉大なるアウラ! 大いなるアウラ! 偉大なる御子!」」
誰もが歓喜に涙し、咽喉を嗄らして歓声を上げる。
ついに一族の願いをアウラは聞き届けてくれたのだ。ついに一族の大望が叶うときがやってきたのだ。
これまでの苦難が大きければ大きいほど、その反動によって歓喜も大きかった。
「ははは…うははははーっ!!」
そして、誰よりも老人は狂喜に顔を醜くゆがめ、哄笑を放っていた。
「滅びよっ! 我を陥れ、蔑み、追いやった者どもめっ! 貴様らすべて滅んでしまうがいいっ! うははははははっ!!」
そのため、洞窟の入り口から響く激しい物音に気付くことはなかった。
「撃てーっ!」
その号令とともに、狭い洞窟内に無数の矢が一斉に放たれた。そのうちの一本を胸に受けた老人は、焼けつくような痛みに我に返った。
「!? な、何が!?」
洞窟内は阿鼻叫喚の渦となっていた。
入り口から完全武装の兵士たちがなだれ込み、手にした剣や槍で老人の一族を次々と殺していく。もともと武器を持って戦うすべがなかったからこそアウラにすがるしかなかった一族の者たちは、兵士たちになすすべもなく倒されていく。
「邪教徒どもを殲滅しろっ! ひとりとして逃がすなっ!」
「この邪教徒どもめ!」
「殺せっ! 逃がすなぁー!」
蝋燭の揺らめく灯を受けて、洞窟の壁には無数の人影が踊るように揺らめく。その中で老人の一族が次々と殺されていくのを老人はただ茫然と見るしかなかった。
その老人の前に、兵士たちの中でもひと際目立つ兜に赤い房をつけた隊長が躍り出た。その右手には、一族の血で真っ赤に染まった剣が握られている。
「貴様が、ここの首領だなっ! その首、もらったぁ!」
その声とともに振るわれた剣によって、驚愕に目を見開いたまま老人の首が血しぶきをあげながら宙高く舞う。隊長は足元に転がった老人の首をその白髪を鷲づかみにして高々と掲げた。
「首領を討ち取ったぞ!」
洞窟内に、兵士たちの歓声が沸く。
兵士たちはまだかすかに息が残る者を見つけてはとどめを刺していく。とどめを刺された者の低いうめき声と、槍が肉をえぐる湿った音が洞窟内に響き渡る。
その作業を見守っていた隊長の後ろで、小さなうめき声が聞こえた。
「あう…うう……」
まだ邪教徒の生き残りがいたのかと、剣の鞘を払うと、慎重に周囲をうかがう。
すると、おぞましい邪神の像の足元に、仰向けになって、苦しげにうめいているのひとりの少年を見つけた。
やはり生き残りがいたか、と剣を振り上げた隊長だったが、その手を止めた。
その少年は、この辺りでは見たこともない黒い髪と奇妙な服装をしていた。邪教徒の仲間とは思えないが、さりとて近くの村々からさらわれた子供のようにも見えない。
どうしたものかと判断に迷った隊長の目が、少年の額にかかる前髪の向こうに、わずかにきらめく何かをとらえた。油断なく隊長は、剣の先で少年の前髪を払う。そして、絶句した。
「……?!」
何度目を瞬かせても、少年の額にあるものは消えない。
「これは…刻印かっ?! この子は、御子なのか?!」
隊長はおののきに目を見開き、思わず後ずさった。
このときのことは、この隊長が提出した報告書の中に、こう書かれている。
『この日、かねてより周辺の村々から若い娘や子供たちをさらい、むごたらしく殺してきた邪教徒たちの根城をついに発見する。
我が率いたる24名の兵士たちとともに、まず洞窟の入り口に立つ2名の見張りを射殺し、洞窟内部に突入する。
洞窟内部では怪しげな香がたかれ、多数の邪教徒たちが奇怪な儀式を執り行っている最中であった
兵士たちとともにその場に斬り込み、邪教徒の首領と思われる老人を含めた邪教徒42名を掃討する。
その際、彼らの信仰対象と思われる邪悪な像の足元に、ひとりの少年の姿を見つける。
黒い髪に異国風の奇妙な衣装の少年の額には、見たこともない刻印あり。いかなる御子ともしれず、判断を仰ぐために砦に曳き立てるものとする』
その後に彼がなしえたことを考えれば、何とも短い記述であるが、これがソーマ・キサキについて最初に書かれた公式文書である。
◆◇◆◇◆
セルデアス大陸の長い歴史には、あまたの英雄や賢者がその名を刻んできた。
そうした歴史に名を刻む者たちの中には、暴君や虐殺者などの、いわゆる悪しき英雄ともいうべき者たちも多く含まれている。
あまりに無謀な改革を推し進めた挙句に自国民数万を餓死に追いやった『愚断帝カシュナル』。
自らの贅沢な生活のために、夫や愛人や親族など数十名を毒殺した『猛毒の貴婦人マリー・セレナール』。
敵国の捕虜すべてを斬首し、その首をもって防壁を築き上げ、敵国軍を恐怖で壊走させた『斬首公バガヤーン』。
これ以外にも、多くの悪しき英雄たちの名前が知られている。
しかし、そうした者たちよりも、この世界の歴史に深く刻み込まれた男の名前がある。
それは、今なお恐怖と憎悪と嫌悪を持って讃えられ、その名を口にすれば誰もが毒を口にしたように口をゆがめ、その名を聞けば誰もが嫌悪に頬を引きつらせる。
彼によってもたらされた混乱によって死んだ者は数百万にのぼり、また彼の死後もその影響によって数えきれないほどの人間が、今このときもなお死んでいるのだ。
自分に反抗する臣下や領民、敵対する国々のすべてを滅ぼし、虐殺の限りを尽くした『暴虐帝グーラ・グメシス』は、その傲岸不遜な言動でも知られているが、その彼ですら「私のなした虐殺など、あの男が殺した人の数に比ぶれば、いかほどのことがあろうや」と言わしめさせた男。
開発した新型爆弾により、数々の都市を地上から消滅させ、また捕虜に対して悪夢の人体実験を繰り返した、帝国将軍にして狂気の天才科学者『死神オットー・ザイデンベッヒャー』に、「私は人や都市を破壊したが、彼は世界を破壊したのだ」と讃えさせた男。
彼はある日突然、このセルデアス大陸に現れた。
そして、瞬く間に大陸中にその影響力を広げると、当時大陸を支配していた帝国に対して反抗し、ついには基盤を打ち崩し、その後数百年に及び続くことになる乱世を招いた。
人々は彼のことを憎悪と嫌悪と恐怖と畏怖を持って、こう呼ぶ。
『破壊の御子ソーマ・キサキ』と――。
小説家になろう 勝手にランキング
+注意+
・特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
・特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)
・作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。