サンファン王国の王都であるカディスは天然の良港を抱えた巨大港湾都市であり、トリストヴィー公国の船舶量が激減した今、大陸でも有数の貿易取扱い高を誇る。
実際のところバルドが仕入れた知識のほとんどは、ダウディング商会の取引人脈を辿ったものであった。
国王カルロス5世はサンファン王国を海洋国家として発展させた名君として知られているが、反面戦に弱く、たびたび海戦で敗れたためにサンファン王国では武官の地位が相対的に上昇していた。
しかし軍務卿も務めた宰相のホアンが先ごろのコレラで病死してしまったことで宮廷の空気は変わろうとしている。
戦が遠ざかれば文官が台頭するのは道理であり、生産性のない軍事が平時には削減されるということも歴史の証明するところであるからだ。
彼らは聡明で温厚な第二王子フランコを支持し、サンファン王国内の勢力図を塗り替えようと画策していた。
本来公爵家の母を持ち、宮廷内の勢力で完全に第三王子を引き離しているはずのフランコが決して安閑としていられない理由がここにある。
文官の巻き返しを恐れた軍部が、同じ海軍主流同士で交流のあるマジョルカ王国を後ろ盾に第三王子を推戴することを決めたのである。
―――――そんな渦中に放り込まれることになったバルドはわが身の運命を呪うほかなかった。
「バルド・セヴァーン・コルネリアス男爵であります。マウリシア王国大使として陛下にお目通りを賜りたい」
「………しばしお待ちくださりませ」
門衛の騎士はかろうじてこんな子供が、という言葉を飲み込んだようだった。
両隣に控えているのは間違いなくマウリシアの騎士であるし、またバルド自身にも決して年齢通りとは思えぬ威風と感じ取ったからである。
「――――ご案内を仕る。私は王宮警護隊の騎士セパタ・サルミエントと申す者。どうぞこちらへ」
門衛に代わって現れたのは身長2mを超えようかという巨漢の騎士であった。
巨漢ではあるが引き締まった均整のとれた身体つきで、彼がおそらくはサンファン王国でも有数の騎士であろうことは数々の傑出した戦士と向き合ってきたバルドにとっては明白であった。
南国らしい開放的な回廊を通り抜けると、これまた南国独特の極彩色の彩に満ちた庭園が広がる。
雅春にしても左内にしても見たことのない情景にバルドは軽く目を見張った。
まったく大使などという公務でなければ色々と羽を伸ばして楽しむところなのだが。
「お気に入りくださったようですな」
「はい、マウリシアではなかなか見られぬ見事な庭園で」
バルドの表情の変化に気づいたのかセパタが興味深そうにバルドの目を覗き込む。
どうやら体に似合わず気の付く男であるらしい。物腰態度から察するに貴族の出身であるのかもしれない。
「この庭園に育つ草木は大陸広しと言えどこのサンファンでしか育たぬものばかり。お国自慢ながら滅多にお目にかかれるものではありませぬ」
誇らしげに胸を張るセパタにバルドは好感を持った。
彼がこれほど素直に祖国を誇りに思えるということは、サンファン王国に対する不満が少ないことを意味していた。
「どうぞお進みください。国王陛下がお待ちです」
セパタの身長よりも大きな巨大な扉の前で、セパタはゆっくりと腰を折る。
バルドはセパタに向かって一礼すると、手のひらで扉を押した。
巨大な質量であるはずの扉は、油でもさしたかのようになんの抵抗もなく開いていった。
扉の向こうには意外にもごく少数の人間しかいない。
数百人は軽く収容できるはずの空間に、ほんの十人足らずが並んだ光景はいっそ物悲しいとさえ言えた。
「余がサンファン国王カルロスである。マウリシア国王のご配慮痛み入る」
「お初に御目もじいたしますバルド・セヴァーン・コルネリアス男爵でございます。拝謁のご叡慮を賜り恐悦至極に存じ上げます」
まだ40代の男の盛りであろうにカルロスの様子はまるで50代も後半に差し掛かったような衰え具合である。
目は落ちこぼみ肌の色は浅黒く艶を失って血色の悪さが浮き出ている。
可愛がっていた長男を失ったのだから、あるいは仕方のないことであるのかもしれないが。
「先日教えていただいた疫病治療法には感謝の言葉しかない。おかげでようやく感染も収束し、犠牲者も半数以下にまで減らすことができた。もう少し早く知ることが出来れば……いや、これは言っても詮無い話だな」
適切な治療さえ出来ていればアブレーゴ王子が助かった可能性は高かった。
しかしレイチェルより早く発病していた王子を助けられる可能性など皆無である。
もちろんカルロスもその程度のことは熟知していた。
「図々しい願いだとわかってはいるが、治療法がマウリシアから譲られたということは内密に願いたい。少なくともしばらくの間は」
「―――――もとより公にするつもりはございません」
カルロスは疲れたように太いため息をつく。
大きな身体と広い肩が悄然として、見た目よりはるかに小さく感じられた。
「すまぬ………今王権が揺らぐような事態はあってはならぬのでな」
要するにコレラの感染にアブレーゴが一役買っていたという事実は動かせない。
そのために犠牲になった貴族や国民の間で不満が高まっているのだろう。
もともとは娼館で発生したものでアブレーゴも犠牲者の一人であるのだが、特に宮廷内に感染源を持ち込んだのは間違いなくアブレーゴである。
その不満を落ち着かせ、王室に対する尊崇を維持するために、コレラの治療法は王家が発見したということにしたというわけだ。
さらに手押しポンプも王家の人気取りとして利用するのに違いなかった。
マウリシア王国としてはサンファン王国が政治的に安定してくれることが国益につながる以上、カルロスの求めている情報や手押しポンプの政治的利用はすでに想定の範囲内であった。
「我が陛下におかれては万難を排してカルロス陛下の要望に応えるようにとのこと。お気遣いは無用でございます」
「うむ、この借りは終生忘れぬ」
カルロスの言葉には万金の価値があった。
この言葉が引き出せただけでバルドの目的は半ば以上達せられたと言ってよい。
君主の他国に対する誓約にはそれだけの価値があるのである。
いずれ対トリストヴィーで共闘しようというマウリシア王国の思惑を、カルロスほどの男が見抜いていないはずがなかった。
「バルド男爵に我が息子を紹介しておこう………来なさい、フランコ」
カルロスの言葉で国王の右に控えていた少年が俯かせていた顔をあげた。
その顔を見てバルドは思わず言葉を失う。
バルド自身も女の子と間違えられるような容姿の持ち主ではある。
しかし身体つきはすでに男のそれであり、ここ数年は女性と間違えられたことは一度もない。
フランコの玲瓏な顔立ちはいくら見ても美しい少女以外のものには見えなかった。
燃えるように煌めく赤毛に切れ長の濡れた瞳、整った小さな鼻梁と真っ赤に熟れたような唇は、雅春の記憶のなかの宝塚を思い起こさせる。
女性的な風貌の男性というより、男装の麗人と表現したほうがよほど正確なもののように思われた。
「フランコ・コルドバ・デ・サンファンでございます。どうぞお見知りおきを」
「こちらこそ殿下の知遇を得て恐縮至極」
嫋やかな柳腰を揺らして頭を下げるフランコに慌ててバルドは礼を返す。
そのためかバルドは思わず口をついてこぼれたらしい仲間の言葉を聞きのがした。
「おお…………なんと美しい………」
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