サンファン王国はマウリシア王国から南東部に位置する国で、細長く半島の東部に伸びた国家でおよそ国土の南半分は亜熱帯に属している。
水産業と海運業が盛んである反面、農業生産力には乏しく、穀物の大半をマウリシア王国からの輸入に依存している国でもある。
基本的にマウリシア王国との関係は良好であり、逆に同じ半島の隣国であるトリストヴィー公国との関係は悪い。
しかも近年はトリストヴィー公国から政治難民が多数流入して、大きな社会問題になりつつあった。
「もう少し軽装にしておけば良かったかな……」
胸元を手のひらで仰ぐようにしてバルドは呟く。
国境を越えてアバズガン山系を超えたあたりから、蒸し暑さが倍増したような気がする。
基本的に現世も前世も温帯で四季のある国で生活していたバルドにとってはこの不快指数の高さは厳しい。
額の汗をセリーナに贈られた白いハンカチでぬぐったバルドは3日前、涙ながらに王都で見送られた日のことを思い出していた。
まるで今でもセリーナの香りがハンカチから香ってくるようなそんな気がした。
ほとんど家族のように暮らしていた―――あるいは親友のように接してきた―――とはいえ立場が変われば気持ちも変わる。
晴れて恋人同士という関係になった以上、三人はいろいろと変化を許容しないわけにはいかなかった。本当にいろいろと。
「あ、あの………セイルーン、と呼んでいただけますでしょうか?」
「も、もちろんだよセイね……セイルーン」
もじもじと恥ずかしがるように上目使いでおねだりをしてくるセイルーンは誰が責められようか。
「わた、私もだ、旦那様とお呼びしてもよろしいでしょうか………?」
「ホワッツ?」
なんの羞恥プレイだと思いつつ、旦那様という呼び名には何とも言えぬ甘い愉悦の響きを感じることもまた確かであった。
「………セイルーンがそれでいいなら………」
「だ、旦那様!」
「セイルーン………」
「旦那様………」
「自分らええかげんにしいやっ!」
濡れた瞳で見つめ合い、際限なくバカップルぶりを繰り広げるバルドとセイルーンの二人に横合いから鋭い突っ込みが飛んだ。
控えめに見ても今のバルドとセイルーンは人目もはばからずイチャつきあう頭の悪そうなバカップルそのものである。
ここは年長者として、節度ある付き合い方というものを見せてやらなくてはならなかった。
そう、いくら恋人といえど毅然としてこちらからリードしてやらなくては………。
「セイルーンが旦那様ならうちは何て呼べばええやろなあ……?」
そう言いつつセリーナはもたれかかるようにしてバルドの肩に胸を押し付ける。
たわわな果実が肩に押されてぐにゃりと形を変える感覚に、バルドは赤面しセイルーンは不機嫌そうに眉をひそめた。
「…………そういえばセリーナにお願いしたいことがあったんだけど………」
「バルドのお願いか……なんでも言ってや?」
「せっかく恋人同士になったことだし耳だけじゃなく尻尾もモフモフしていいよね?」
「ふにゃっ?!」
自分からリードするという意気もどこへやら、たちまちカチコチに固まってしまったセリーナはおずおずとフサフサな毛並みの尻尾をバルドに向かって差し出した。
「ら、乱暴にしたらあかんで……?」
「万事お任せを」
夢にまで見たセリーナの尻尾に、爛々と目を輝かせてバルドは髪をすくように指を通していく。
こげ茶と白の入り混じったセリーナの尻尾は耳とは違った艶といつまでも触れていたくなるような魅惑的な触感に満ちていた。
「すごい……フワフワだ………」
丁寧に丁寧に撫で続けるバルドの指が、セリーナの敏感な部分に触れたのか、悶えるような声がこぼれるようにあがり、その声の甘さがバルドの加虐心を刺激した。
「んんっ!」
「ひゃうっ!」
「うくううぅ!」
耐えようにも耐えきれぬ色っぽい声が、断続的にセリーナの唇から零れ落ちる。
本人は声を出すまいと口元に手を当てているのだが全く役に立っていない。
そのあまりの悩ましい声にバルドは鼻息も荒く、さらに尻尾をいじめようとするが……。
「…………ええかげんにさらせ!」
「お仕置きです!旦那様!」
結局疲れ果てて眠るまでお説教を食らって別れるはめになったっけ――――。
「鼻の下が伸びてるぞ、バルド」
「せめて思い出に浸る時間くらいくれよ」
ブルックスの容赦のない突っ込みにバルドは不機嫌そうに鼻を鳴らした。
当たり前ではあるが、マウリシア王国を代表する使節はバルドたちばかりではない。
ブルックスとテレサのほかに紅炎騎士団から2名の正騎士と、バルドの補佐として宮廷書記官のオリバーが随行している。
バルドがオリバーから聞いたところでは、予想していた以上にサンファン王国では難しい政治的判断を強いられるようだ。
あの国王でなければ間違ってもバルドのような少年を起用しようなどとは思わなかったに違いない。
一番大きな問題は、何と言っても王位継承権第一位であった第一王子のアブレーゴが死んでしまったことである。
順当にいけば第二王子のフランコが次代の王に就くべきなのだが、フランコは第二王妃との間に生まれた子供であり、第三王子ペードロが第一王妃の子供であることから新たな王太子の地位をめぐって二人の権力闘争が激化しているのだそうだ。
すなわち、バルドの提供する技術を手中に収めたものが、王位に一歩近づくという事態も十分に考えられるのだった。
「やれやれ…………」
おそらくはあの国王最初から知っていやがったな。
嘆息とともにバルドは思う。
サンファン王国に恩を売るのはよい、が、負け組に恩を売ってもそれは骨折り損のくたびれもうけというものだ。
いったい誰に恩を売るべきか、それはバルド自身の安全保障にも大きく影響する問題であった。
恐ろしいことだがあの国王はバルドにサンファン王国に恩を売るばかりでなく、さらに一歩進んで後ろ盾につけることを言外に唆している。
功績と地位に加え、サンファン王国と太いパイプを持つならば、もはや国内の大貴族といえどバルドに直接手出しをすることは不可能となるだろう。
もっともその心配はウェルキンがマゴットの真の恐ろしさを知らないゆえの取りこし苦労にすぎないのだが。
「もうしばらく学生を楽しんでいたかったなあ………」
そして余計なしがらみもなく金を稼いでいたかった。
もう金風呂するのも余裕なほど資金は溜まってるんだけどなあ………。
ようやく見え始めた中継地マルガの街から一筋の砂塵が上がるのが見えた。
数人の騎士らしい男がこちらに向かって近づいてくる。
赤銅色の肌に特徴的な極彩色の兜飾り、間違いなくサンファン王国の正騎士の軍装であった。
「さて、鬼が出るか蛇が出るか………」
バルドは失われた素晴らしき日々への思いを脇へと追いやり、ブルックスに目配せをすると使節の全員を停止させた。
少なくとも友好的な相手であることを祈りながら。
進む
戻る