「本当にすまなかった。心から感謝している」
結局バルドが完全に回復するのには半月近い時間を要した。
幸いコレラによるパンデミックは起こらず、王女の他バルドたち3人と、王女の側近から2人が感染したところで拡大は収束している。
これは迅速な病原の隔離と公衆衛生の確保が行われたためであると言っても過言ではない。
国王ウィリアムは煮沸消毒や手洗いの励行を騎士団を動員してまで、王都の国民に強制させている。
すでにサンファン王国で発生したコレラのパンデミックの報告を受けているウェルキンは正しくそう確信していた。
「――――サンファン王国にはこちらの独断で治療と予防方法を知らせておきました。しかしいささか困ったことが起きまして」
苦々しい顔で宰相のハロルドが言葉を引き継ぐ。
一流の外交官であるハロルドがここまで感情をあらわにすることは珍しい。
どうやらよほど厄介な事態になっているらしいと、バルドは他人事ながら気が気ではなかった。
なぜならこうした厄介ごとは高確率で自分が巻き込まれるものと相場が決まっているからである。
「実はレイチェル王女に感染させた犯人はアブレーゴ王子だったのです」
「はあ?」
感染源が王子とか想像の斜め上すぎる。
基本的にコレラという病気は不衛生な調理室やゴミ捨て場などで繁殖することが多いのだ。
ほとんどの場合は貧民層でまず広がることが多く、身分の高い上級層まで広がるのはすでにパンデミックの末期であるケースが多い。
「何と言いますか――――王子は王国でも多情で有名で、街の娼館に何人か愛人を囲っておりまして……その一人が感染源であったようです」
「あの男はまだ結婚もしていないレイチェルの唇を奪いおったのだ!」
いやいや、婚約しに行ったのだからそれは許容範囲ではないのか、という突っ込みをバルドはかろうじて飲み込む。
こうした感情というものは理性ではなく感情によるもので、本人にも制御不能なのだ。
これまで幾たびもその犠牲にされてきたバルドだからこそ理解しうる真実であった。
「レイチェル王女と別れた翌日にはアブレーゴ王子は発症していたようです。残念ながら治療の甲斐なく亡くなったようですがね。もっとも王子の放蕩ぶりも、その死因も隠していたことはサンファン王国の重大な過失と言わざるを得ないでしょうね」
おそらく死人に口なし、というか娼婦に病気をうつされて死にました、とか体面上言いたくなかったんだろうな。
レイチェルが感染しなければそれでもよかったんだろうが。
まさかいくら手の速い王子でも、他国の王女に手は出さないとでも思ったのだろうか。
その手の男は自重しないという法則を知らんのか。
「それで連中はなんと厚顔にも第二王子のフランコとマーガレットの婚約を要求してきおった」
「―――――マーガレット殿下を、ですか?」
バルドの問いに憤懣やる方ない、という様子で太いため息とともにウェルキンは鍛えられた広い肩をいからせた。
「あの病にかかった女性を妻にするのは出来ない、という不文律があるそうで」
ハロルドもこの対応には不機嫌さを禁じ得ないようだ。
レニチェルと身近に接したバルドとしても、この話は決して心地よいものではなかった。
「そんなわけでサンファン王国には第二王子との婚姻は拒否する意向を伝えてある。だからといってサンファン王国と敵対関係に陥るのは国益を損なうからな………」
「アブレーゴ王子の失態はサンファン王国に対する大きな貸しとなります。しかし信頼のおける同盟国としてかの国を繋ぎ止めるためにはここでひとつ恩を売っておくことが必要と考えたわけです」
「はあ…………」
それがさっき言ったコレラの治療法と予防法の開示ではないのか?とバルドは思ったが、下手に追求すれば藪蛇となりそうな気がして曖昧に頷くのみにとどめた。
そんなバルドをいやらしそうな満面の笑顔でウェルキンは見つめた。
まるでいたずら小僧が仲間の少年を罠にはめようとしているような稚気溢れる表情だった。
「業腹ではあるが今はサンファンの連中を引きとめて置かざるを得ん。娘を出す気は失せたがな。なぜかわかるか?」
「―――――トリストヴィー公国に問題でも?」
「思った通り食えない小僧だ」
バルドが正解の答えを出したことにウェルキンは満足そうに頷いた。
サンファン王国はロベリア半島の南端に位置する国であり、西部と北部を領有するのがトリストヴィー公国である。
シルクを抱えるマウリシア王国としてはサンファン王国と来たるべき戦争に備えて同盟しておきたいというのが本音だ。
そしてマウリシアの主導でトリストヴィー公国の内乱を収束させることができれば、ハウレリア王国も簡単には手出しができないはずであった。
最悪の場合サンファン王国とトリストヴィー公国の計三カ国を一国で引き受けなければならないからである。
とはいえこうして婚姻政策を検討しなければならないほどサンファン王国との関係を重視しなくてはらならないのには、きっとトリストヴィー公国に何らかの動きがあったはずであるとバルドは考えていた。
「わかっているとは思うがトリストヴィーは基本的には商業が中心に国だ。その発展に国王が貢献し、貴族が商人を弾圧したわけだからあの国の商人は国王派を支援してきた。しかし神輿であった王女が亡くなり、忘れ形見の少女は幼く神輿として仰ぐには不安がある。そこで商人としては貴族との妥協を考え始めたわけだ。将来的な不安は残るが金で貴族を黙らせることができるならそれでいいのではないか、とな」
すでにその動きは内乱の初期から始まっている。
曲がりなりにもトリストヴィー公国での流通が維持され、大規模な商家が生き残っているのがその証拠であった。
彼らとしては利益と継続が見込めるのならば、何も国の主が国王である必要はない。
ただ税制や商業上の利権を前国王が尊重してくれていたために、貴族による窮屈な支配よりも商売がやりやすいと考えていただけの話なのだ。
「もちろんそんな商人の都合でトリストヴィーが統一されるのは我が国にとっても望むとろこではない。王位継承者を擁立しうる隣国など仮想敵国にしかならんからな。そんなことになればハウレリアの野蛮人どもが大喜びだろう」
下手をすればトリストヴィー公国とハウレリア王国で挟み撃ちにすることも可能な事態など、マウリシア王国にとっては悪夢でしかない。
「まあ、そんなわけで、だ。お前に親善大使としてサンファン王国に赴いてもらいたい」
「どうしてそういう結論になるんですか!?」
いたずらがうまくいった子供のような顔でウェルキンはくつくつと笑う。
「サンファン王国に支援したコレラの治療法、さらに供給予定の手押しポンプ。これを説明するのにお前以上の人材はおらんだろう?何せ作った本人なのだからな」
「私はまだ見習いの学生にすぎませんよ?」
「そのことだがな…」
ウェルキンはおもむろにバルドに向かって剣を差し出した。
それが何を意味するものか、貴族のはしくれとして当然バルドも承知していた。
「バルド・コルネリアス、貴殿をセヴァーン男爵に任じる。謹んでこれを受けよ」
「臣バルド・コルネリアス、獅子の紋章と剣に誓いこの身死すまで王国に忠誠を」
ゆっくりと肩に剣の平があてられ、バルドは膝をついて剣に唇を捧げる。
ここに王国男爵バルド・セヴァーン・コルネリアスは誕生した。
「…………いささか酔狂が過ぎませんか?」
「レイチェルと国民を救ってくれた功績に報いるには足りないほどだと思うがな。これで大使の格にも問題はあるまいよ」
現役の当主としては王国で最も若い爵位持ちとなったバルドは困ったように肩を竦める。
あまりの展開の速さに理解が追いついていないと言うのが正しかった。
「――――正直なところお前には期待している。感謝もしている。だから俺は余計なことは聞かん。どうやってあの知識を仕入れたのか、ほかにどんな情報をもっているのか………。そのかわり相談には乗ってもらうし、出来れば手柄もあげてくれ。ハロルドの奴が暴走する前にな」
「私は今でも反対なのですがね。バルド卿の知識は王国で厳重に管理する価値があるものですから」
万が一ではあるがバルドに亡命されたり暗殺されたりすれば、バルドがどれだけ有用な知識を蓄えていたとしても王国には何の益ももらたらさずに終わる。
普通に考えれば手押しポンプの構造を考案し、コレラの治療法まで知っていたバルドがほかに情報を知らないはずがない。
もしもバルドが貴族の、コルネリアス家の嫡男でなければ拷問してでも全てを聞き出そうとしたかもしれなかった。
それを何も聞かない、というのは国王ウェルキンの強い信頼の証というほかないだろう。
腹黒いと評されがちなウェルキンだが、信用する家臣には寛容で器の大きな主君なのである。
ハロルド自身もウェルキンの強い後ろ盾がなければ、とうに宰相の地位を追われていたはずであった。
「自分の手に余ると思ったらいつでも相談に来い。お前ならそう判断を誤ることはあるまいが、どうしても経験が必要なものはあるからな」
「お言葉かたじけなく」
「サンファンの連中も、少し驚かせてやってくれ。手段は任せる」
「御意」
まったく役者が及ばないな――――――。
最初から最後まで国王に手玉に取られた気がする。
断れないように誘導することも、こうして忠誠心を抱かせてしまうことも、もし計算してやっているとすればもはや腹黒いどころではない。
この国王の存在自体が性質の悪い魔法だ。
しかしさしあたってサンファン王国に出発する前に、バルドにはまず説得しなくてはならない女性たちがいた。
それも恐ろしく手ごわく、愛しくも大切な女性である。
その困難さを創造してげんなりと落ち込んだまま退出したバルドは、幸か不幸かウェルキンの小さな呟きを聞くことはなかった。
「…………レイチェルを任せてもいいか、まずこの程度の試しはこなしてもらわんとな」
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