第四十三話

 レイチェルが回復し、あと少しで家族との面会も可能になろうか、と思われたその日に突然バルドは発症した。
 知識ではわかっていたとはいえ、猛烈な激痛と全く抵抗する余地のない下痢は鍛え抜かれたバルドの肉体をもってしても耐えられるものではなかった。
 治療の方法はすでに治療士たちに教えてあったため、バルドを含む三人の発症者は経口補水液を投与されレイチェルと同様に脱水症状を緩和する措置がとられたが、不幸なことにバルドの症状はほかの誰よりも重かった。
 発症から1日にして、バルドは意識障害をきたして今や生死の淵を彷徨っていたのである。

 コレラ菌は胃酸でその大半が死滅し、わずかな生き残りが小腸で爆発的に繁殖するのが一般的である。
 しかし胃酸の出が少ない人や、なんらかの理由でコレラ菌が胃の中であまり死ななかったような場合には症状が格段に重くなることがある。
 腹痛や下痢にとどまらず、痙攣や意識障害を生じる重度の患者は大抵の場合そうしたコレラ菌量の異常が見られるという。
 問題なのは、そうした重度患者の死亡率は、他の一般的な症状の患者に比べ非常に高いものであるということであった。


 (身体が重い…………)
 バルドは自分の身体がまるで自分の身体でなくなってしまったかのように思う。
 重力が倍になったような重い倦怠感があり、水分を求めて喉がひりつくように痛むが、しわがれ声ひとつ出せない。
 
 (これはやばいかもしれないな………)

 昨日から何度も意識が飛んでいることを考えても、自分の症状がかなり重いことは理解していた。
 気力までもが底をついたのか、魔法による身体強化ですら行うことができない。
 指ひとつ満足に動かせないまま、わずか11歳で人生を終わるというのはさすがのバルドも不本意である。
 とはいえ、こうも手も足も出ない状態になると絶対に死にたくないという気力が手のひらからこぼれる水のように失われていくのをバルドは自覚した。

 (いかん、本気でやばいかも………)

 人間は気力を失ったらまず助からない。
 逆に言えば気力が続くうちは人間はそうは死なない生き物である。
 刀で腹を切り裂かれ、腸が腹圧で飛び出しても、死なないものは死なない。
 逆に生きる気力のないものは、畳の上で穏やかに過ごしていても燃え尽きた蝋燭のように死ぬ。
 まるで暗黒の地下から、体力や気力や、生きるために必要な源を奪うために見えない腕で引っ張られているような――――どこまでも落ちていく落下の浮遊感のようなものを感じてバルドはどうやら最後の時が訪れたと思う。
 もう抵抗する気も立ち上がる気もおきない。
 このままどこまでも落ちていく流れに身を任せようと全身の力を抜いた瞬間だった。

 ふわり、と重力から解放され身体が浮き上がるような感触。
 懐かしいような温かいような………不思議なまるで天井へと救い上げる揺り籠のようなものが自分を守っているかのようだ。
 そしてバルドを包むその温かさのなかに、バルドは誰よりもよく知っている甘く鼻をくすぐる心地よい香りが漂っていることに気づいた。

 (この香りは………セイ姉?)

 幼いころから常に傍らにあり、いつも振りかえればそこにいた姉代わり。
 その慣れ親しんだ体臭を自覚した瞬間、バルドは虚空に溶けかけていた意識と気力を取り戻した。
 自分にはセイルーンやセリーナが帰りを待ちわびていてくれているのだ。
 むざむざとこのまま病魔などに負けていられるはずがなかった。
 同時に、ようやく鮮明になってきた意識の中でバルドはあるひとつの危機感を覚えずにはいられなかった。
 それはすなわち、セイルーンが体臭を感じさせるほど近くにいるということではないのか?
 後頭部から疼痛が全身に広がっていくような感覚とともに、バルドの意識はゆっくりと覚醒していった。



 「気がつかれましたか?坊っちゃま!」

 目を見開いたバルドの視界に、瞳を潤ませてのぞきこむセイルーンの見慣れた、それでいて息を呑むほどに美しい顔がいっぱいに広がった。
 
 「………セイ………姉………」

 大声で叫びたいが、バルドの唇からはしわがれたかすれた声が漏れるだけだ。
 どうしてこんなところにセイ姉が!自分のまわりには治療士以外近づけてはいけないのに!
 「口を開けて、これを飲んでください。さっきからずっとすぐに吐き出してしまって坊っちゃまは水分をとっていないんです」
 
 どうやら意識のない間にバルドはかなり危険な状態であったらしかった。
 あの夢の中でも、一度は死ぬことを覚悟しただけに、バルドはいったん追求をあきらめておとなしく差し出された経口補水液を口に含む。
 甘い味が舌から喉を通って身体を内から潤していくのがよくわかった。

 「うっ……うっ………ぐすっ」

 コクコクと水を飲みほしていくバルドを見て気が抜けたのか、セイルーンはすすり泣きを始めた。
 よく見れば瞳は泣き腫らして腫れぼったく、おそらくは寝ていないためか髪は乱れて肌の色も艶を失っている。
 きっとバルドが意識を失っている間もずっと泣いていたのだろう。
 あのバルドが生を諦めた瞬間、感じたセイルーンのぬくもりを思い出してバルドは自分を助けてくれたのがセイルーンの献身であることを確信した。

 「あり………がと……セイ…姉……」

 抱きしめたい。抱きしめて頭を撫でて泣かないで、と慰めたい。
 自由にならない身体に歯噛みしつつ、かろうじてバルドは頭を下げた。
 セイルーンはフルフルと頭を振ると、こらえかねたようにバルドの首筋に縋りつく。
 疲れて艶を失ったセイルーンの茶金の髪からは、どこか懐かしいような甘すっぱいセイルーン香りがした。



 もともと体力ではレイチェルを大きく上回るバルドである。
 意識を取り戻して、病状が峠を越えさえすればその後の回復は早かった。
 翌日にはバルドはその気になれば起き上って歩き回れるほどに回復していた。

 「それにしてもどうやってセイ姉は僕のところまでこれたんだ?」

 感染の可能性があるこの場にセイルーンがいること自体バルドは反対であった。
 もし意識があればバルドは何としても阻止したであろう。
 もっともその場合、あのままバルドは命を落とした可能性が高いのだが。
 バルドの言葉に忘れていた怒りを思い出したのだろう。見る見るうちにセイルーンの顔が般若に変わっていくのを見たバルドは特大の自分が地雷を踏んだことに気づいた。

 「―――――ええ、大変でしたよ。セリーナさんは泣いて駆けこんでくるし、慌てて城まで駆けつければ騎士たちは通してくれないし、坊っちゃまの状態がどうであるのかも何一つ教えてはもらえませんでした」

 あのときの焦燥と不安と、勝手な行動をしでかした主に対する怒りを思い出してセイルーンの手が震える。
 
 「ようやく連絡がついたのはレイチェル王女様が気を利かせてくれたからです。自分を治療するために坊っちゃまが倒れてしまったと詫びていました。そのときはセリーナさんもシルクさんも一目坊っちゃまに会おうと王女様に掛け合いましたが、セリーナさんはロロナさんが、シルクさんはランドルフ侯爵様が力づくで抑えこまれましたので、私がみなさんを代表してお世話に上ることになったのです」

 止めるものさえいなければセリーナもシルクも自分の身の安全も考えずバルドのもとに駆けつけただろう。
 しかし強力な伝染病ということもあって王宮のガードは固く、セイルーン自身もウィリアムとレイチェルが口を利いてくれなければいつまでもバルドから隔離されたままであったに違いなかった。
 悔し涙を浮かべてセイルーンの手を握りしめたセリーナの口惜しさを思うと、今でもセイルーンは腸が煮えくり返る思いがする。

 「二人から坊っちゃまに伝言があります」

 決然としてセイルーンはバルドを睨みつける。
 まだ痩せた身体は戻りきってはいないが、バルドの空の強靭さは誰よりもセイルーンがよく知っている。
 ここまで回復した以上手加減する必要などあるはずがなかった。

 「勝手にあんなことしてうちを置いていくなや!」

 パチンと乾いた打撃音がして、セイルーンの小さな手のひらがバルドの頬を撃つ。
 バルドは初めて受けるセイルーンの暴力を黙って受け入れるしかなかった。

 「―――――今のはセリーナさんの分です」

 返す言葉もない。
 セリーナを戸惑わせ、泣かせたであろう自覚があるだけにバルドはがっくりとうなだれる。

 「バルド、貴方は最低です」

 そして間髪おかず再びの打撃。

 「今のはシルクさんの分」

 生真面目なシルクのことだ。
 レイチェル王女を助けるためであると納得しながらも、なんの相談もなく置いて行かれたことに憤りを覚えたに違いない。

 「―――――そして私の分です。目を閉じて歯を食いしばりなさい、坊っちゃま」

 セイルーンの剣幕に素直にバルドは目を閉じた。
 マゴットにしごかれたバルドにすれば、非力なセイルーンにビンタをされる程度何ほどのこともない。
 むしろその程度で許してもらえるなら御の字というものだ。
 しかしいつまで待っても覚悟していたセイルーンの打撃は飛んでこなかった。
 それどころかなにやら逡巡しているような気配を感じたかと思うと、目の前にセイルーンの甘い息遣いを感じる。
 ほとんど反射的に目を見開くと、バルドは今にも唇が触れ合う寸前にまで接近したセイルーンの顔を咄嗟に鷲掴みにして引きはがした。

 「何するんですか!」
 「それはこっちの台詞だ!」

 危うく唇を奪われるところだった。
 それ以上に経口感染するコレラ菌が、キスなどしようものならセイルーンに移してしまう危険性が高かった。

 「セリーナさんだけキスするなんてずるいです!機会均等を要求します!」
 「機会均等って意味が分からないよ?」

 ウィリアムに連れられて別れる瞬間、思わず衝動的にセリーナにキスしてしまったことを思い出してバルドは赤面した。

 「セリーナさんにファーストキスで先を越された私の気持ちがわかりますか?かくなるうえはディープキスは私が先に頂きます」
 「わかるかっ!と、とにかく落ちついて、セイ姉」



 少なくとも感染の恐れが強い一週間から二週間の間は粘膜の接触などはもってもほかである。
 どうにかセイルーンを納得させるために、一時間近い時間と完全に回復次第キスすることを約束させられるバルドであった…………。


 「……………どうしてこうなった」


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