第四十二話

 ウィリアムには二人の姉がいる。
 一人が二つ上のマーガレットであり、もう一人が三つ上のレイチェルである。
 二人とも幸いにして父親に似ず、母親譲りの美しい少女に成長した。
 マーガレットは活発でくるくるした大きな瞳が印象的な小動物系の美少女であり、レイチェルは顔立ちこそ愛くるしいものの、温厚で人を安心させるような包容力に満ちた女性であった。
 王族である彼女たちが年頃になれば、その結婚相手が検討されるのは当然のことである。
 そして国王ウェルキンはもうじき16歳になる長女レイチェルを、サンファン王国王太子アブレーゴと娶せることに決定したのがつい先日のことであった。
 婚約の儀を果たすためにサンファン王国へ赴いたレイチェルは、初めて見る亜熱帯の南国に、瞳を輝かせて王子とともに海を散策したりと楽しい時を過ごしたはずであった。
 ところが帰国から2日後の昨日、事態は一変する。
 楽しそうにサンファン王国での思い出話を語っていたレイチェルが、にわかに猛烈な腹痛とともに倒れたのである。

 「そのとき話を聞いていたのはちょうど俺でな。結婚相手を自分では選べないのが俺たち王族だが、どうやらアブレーゴ王子は姉上の好みの男性だったらしい。本当にうれしくてたまらない様子だったのに――――――」

 唇を噛みしめてウィリアムは俯く。
 末っ子のウィリアムは家族全員に可愛がられたが、なかでも包容力のあるレイチェルには特別に懐いていた。
 父に叱責されても反抗していたウィリアムが、姉のレイチェルの言うことには素直に従ったものである。本当はレイチェルの輿入れにも面白くない思いがあり、それが騎士学校入学の遠因にもなったものなのだが。

 
 いかにバルドが前世の記憶を持つとはいえ、厨二病を患っていた雅春の知識は基本的に広く浅くというものだ。
 どれだけ知識が役立つかは全くの未知数である。
 
 (セイ姉に怒られそうだな………いや、泣かれるかも)

 ウィリアムの背中にしがみついて馬の揺られつつバルドは今も騎士学校でバルドの帰りを待ちわびているであろうセイルーンを思った。
 もし本当に王女が伝染病であったとすれば、バルドは潜伏期間が経過するまでセイルーンたちに会うことはできない。その期間は一週間を降るまい。
 バルドだけでなく王女と接触したすべての人間は身分を問わず隔離して外界との接触を断つ必要があるであろう。
 
 ポツリ

 頬にかかる冷たい水がかかるのを感じてバルドは空を見上げた。
 いつの間にか夕暮れに暗くなりかけた空が、西のほうから急速に黒い雨雲を招き入れようとしていた。
 まるでセイルーンとセリーナが泣いて怒っている気がして、バルドは心の中で頭を下げた。
 それでも戦いに背を向けるつもりは毛頭なかった。



 

 「―――――卿がイグニスの息子か」

 レイチェルの私室へ向かう前に近衛騎士によってバルドが通されたのは玉座であった。
 傍目にも憔悴した様子の玉座の主に、バルドは無言で膝をつく。
 いかにウィリアムが王子であると言えども、王女であるレイチェルを素人の子供に診察させるというのは常識ではありえない。
 事前の詰問の受けるのは当然であろう。
 固い表情のまま睨みつけるウェルキンの姿に、苛立ったようにウィリアムは父に向かって噛みついた。

 「こんな悠長なことしてる暇ないんだよ!早くバルドに姉上を診せてやってくれ!」
 「………包み隠さず申せ。娘の……レイチェルの病をなんと見る?」

 ウェルキンはバルドという少年が自分たちの常識の外側から世界を見ていると言ったウィリアムの言葉を覚えていた。
 そうであるならば――――せめてその片鱗だけでも信じさせてくれるのならば………。

 「殿下から聞いた症状………猛烈な腹痛と下痢を伴うと聞き及びますが……発熱のほうはいかがでございましょうか」
 「不思議なことだがこれほどの苦痛を与えながら熱はむしろ低くなっておる………普通ならばありえん」

 基本的に発熱とは体内で毒素に対抗するための肉体の本能的な防御手段である。
 すなわち、病の毒と戦うのに発熱があがらないというのは身体が回復を拒否しているか、あるいは対抗する機能自体が働かないかのいずれかであろう。

 「熱が下がっているということであれば――――おそらくはコレラの可能性が高いかと」
 「コレラ――――とは?」

 ウェルキンは聞きなれぬ病名に首をかしげた。
 コレラとはあくまでも現代日本の病名であって、このマウリシア王国で流通する名ではないのだから当然ではあった。

 「強力な伝染病で猛烈な下痢のために脱水症状を起こして死に至ることが多い病です。水分が急激に失われるため、若い人間が老人のように干からびて皺くちゃになることでも知られています」
 「やはりそうか」

 ウェルキンは天を仰いで瞑目する。
 もしかして違うのではないかと儚い期待を抱いていたが………。

 「それで姉上は助かるのか?バルド!」
 「コレラにはいくつかの型があって、ここのコレラがどれに該当するかわからない――――それでも助かる可能性は決して低くはないはずだ」

 コレラの死亡率は良くても50%、悪くすると90%に達するが、逆に言えば自然回復でも10%以上は助かる病気でもある。
 しかし感染性が強いために隔離されたコレラ患者は、衛生状態の悪い場所に置かれることが多く、発展途上国では国ごと滅亡するほどのパンデミックが発生したことさえあった。
 はたしてマウリシア王国が今後どう転ぶか、さすがのバルドにも見当もつかない。

 「陛下」
 「うむ」
 「王女殿下に接触した人間を大至急集めてください。それから以後決して生水と生ものを口になさらないように」

 むしろ問題なのは、王女の発病から1日が経過してしまった現状で感染の拡大を防ぐほうであった。



 「姉上………なんて姿に………」

 絶え間なく漏れ出す下痢によって水分が枯渇したレイチェルは、たった一日で老婆のように皮膚が垂れ下がり深い皺を刻んでいた。
 桶に溜められた下痢は米を水で砥いだかのような白い砥汁状になっている。
 間違いなく雅春の知識にあるコレラの典型的な症状だった。
 
 「見な………いで………おね………がい」

 花も恥じらう乙女にとって、これほど屈辱的な姿があるだろうか。
 老婆のように醜くなった肌、はしたなく肛門から噴水のように下り続ける下痢。
 レイチェルはあまりの羞恥に叶うことなら、今すぐ自殺してしまいたい思いにかられる。
 まして今目の前にはあったことのない弟と同じ年頃の少年がいるのだ。
 半ばあきらめの表情の治療士を部屋の隅に追いやってバルドはレイチェルの手を握った。
 患者の前で医者が諦めた様子を見せてよいはずがなかった。

 「大至急水に塩と砂糖を溶いてもってきてください。出来ればリンゴのしぼり汁も!いくらあっても困りませんからどんどん持ってきて!」

 大量の下痢を発症するコレラは、自分の体重以上の水分が排出されるのは決して珍しくない。50kgの体重の人間が100ℓもの大量の下痢をするのがこのコレラという病であった。
 コレラの死亡原因のほとんどは、大量の下痢と嘔吐で体内の水分と電解質が失われることにより引き起こされる脱水症状である。
 そのため医療知識のない地域では患者に水を飲ませようとするわけであるが、弱った大腸は水分を吸収することができないために、せっかく水を飲ませても垂れ流しになるだけで結局患者は脱水症状で死亡してしまうことが多い。
 しかし小腸が塩分とブドウ糖を吸収する際、水分もいっしょに吸収してくれることを利用して、衰弱した患者のために供給されるようになったのが経口補水液である。
 コレラの下痢ではナトリウムと同時にカリウムも大量に失われるため、その補給にはリンゴやバナナが効果的であった。
 
 (思ったより体力の消耗が激しい………あと半日知らせが早ければ……!)

 やむを得ないこととはいえバルドは予想以上に萎れ、衰弱したレイチェルの姿に思わず唇を噛む。
 それでもペストや天然痘でなくて救われたのも確かであった。
 日本の法定伝染病で最も悪質な第一類に分類されているペストと天然痘の治療には、抗生物質の登場を待たなくてはならず現状のバルドでは打つ手がない。
 コレラの治療も、設備があれば点滴による血管への直接投与が望ましいのだが、ないものは致し方なかった。

 「大丈夫、殿下は治ります。すぐに美しい姿に戻りますから気をしっかり持ってください!」
 「あ……な……たは?」
 「バルド・コルネリアス、ウィリアム殿下の友人です」

 この子があの――――、とレイチェルは重たくなった目を見張った。
 見事な銀髪に童顔の人形のような綺麗な顔立ち。
 さぞや女の子を泣かせていることだろうとレイチェルは思う。
 こんな女の子のような子があのウィリアムをおとなしくさせているなんて………。

 「ゆっくりと飲んでください。吐いても構いません。少しずつ口に含むようにして飲みこんでいってください」

 バルドは用意された経口補水液をレイチェルの唇にあてがった。
 疲れて乾いた喉に、甘い味が沁みていくような気がした。
 自分の肩を抱き寄せるバルドの腕の感触に、レイチェルは絶望に冷え切った心が解きほぐされていくのを感じた。
 
 ―――――もしかしたら助かるのかもしれない。

 汚物に塗れ、醜く萎びて死ぬことを覚悟した………否、せざるをえなかったレイチェルはようやく訪れた希望と安堵に一筋の涙を零した。

 ジョッキで3杯ほども経口補水液を飲んだレイチェルが、つかの間の眠りに落ちたことを確認したバルドは心配そうに傍らで祈り続けているウィリアムに頷いて見せる。

 「思ったより体力が残ってる。もう峠は越えたよ」
 「ありがとう!この恩は忘れん!」

 適切な水分補給さえ行えれば、あとは体力が消耗に負けない限り最悪の事態はない。
 先ほどのレイチェルとの会話に、生きることへの強い意志と気力を見たバルドは彼女が回復するであろうことを確信していた。

 「目が覚めたら続けて水分補給を行う。今のうちにシーツを新しいものに変えてくれ。それとシーツは洗わずにそのまま一か所にまとめて焼却するように」

 問題はレイチェルの命だけではない。
 どういう経路かわからないが、国内にコレラが持ち込まれてしまった以上、その感染拡大のためにしなければならないことはそれこそ無数にあるのだった。

 「陛下と王妃殿下たちはレイチェル殿下が落ち着いても一週間は面会を禁止してください。今後しばらく王宮では生水と生ものの飲食を禁止すること。それとレイチェル殿下と接触した侍女も治療士も全て王宮の一室に集めて外に出さないこと」

 19世紀の半ばにはインドからアフリカまで感染が広く拡大し、数十万人の命を奪った感染力の強い病気である。
 適切な処置を施せば死亡率はそれほど高くはならないが、それでも経口補水液の間接的な治療のみでは助からない人間も多く出るだろう。
 治療士がレイチェルの身体を焼き捨てようと提案したことも、そうした感染拡大の危険と無縁ではない。

 「もし腹痛を訴える人が出てきたら殿下と同じように、塩と砂糖とリンゴのしぼり汁を合わせた水を飲ませ続けてください。それから部屋に出入りするたびに手洗いを忘れずにすること。溜まった下痢は適当に捨てずに一か所に集めて桶ごと燃やすこと」

 もはやバルドの言葉を疑うものも逆らう人間もいなかった。
 従うのが当然であるかのように、キビキビと侍女や治療士が動いていく。
 死を待つばかりと思われた死病が克服される瞬間の目撃者になったことへの高揚が、彼らに使命感や充実感を与えていたのだった。

 
 「――――サンファン王国との国境も警戒しなくてはなりません。体調の悪そうな旅人を入国させぬよう関所に通達を。王都でも同様に腹痛を訴える者がいたら速やかに無料で治療するから名乗り出るよう布告してください」




 国王と宰相が最速でこれらを実行に移したために、マウリシア王国でのコレラの流行という最悪の事態は避けられた。
 サンファン王国では数千単位で犠牲者のでるパンデミックが発生しているらしく、国境を越えようとする流民との間で小競り合いとなる一幕もあったという。
 レイチェルは二日後にはベッドで起き上れるほどに回復し、ウィリアムをはじめとする王家の家族たちの胸を撫で下ろさせた。

 「バルド様にはお礼の言葉もありませんわ」

 笑顔を取り戻したレイチェルが輝くような笑顔でバルドに頭を下げる。
 恥ずかしい姿をバルドに視られていたことを自覚してか、頬が赤いところが初々しかった。

 「ウィリアムの泣きそうな顔が見られただけで十分ですよ」
 「バルド…………覚えておけよ!」

 大好きな姉の前で暴れるわけにもいかず、きまり悪そうに睨んでくるウィリアムにバルドは生暖かい視線を向ける。
 どうやらウィリアムは無頼をきどる部分もあるが、本質的には心を許した人間には甘えたがる傾向があるらしい。
 
 「私たちはいつまでここにいればいいのかしら?」
 「最低でも一週間、安全を期すならば二週間でしょうね。その間発病する人間がいなければ終息とみてよいでしょう」

 迅速な処置のため、最終的な感染者は3名にとどまった。
 コレラは飛沫感染や空気感染ではなく、経口感染であるため運が悪くなければ感染する確率は低かった。
 


 ―――――三日後、手洗いや煮沸消毒を気にかけていたにもかかわらず、発病した3人のなかにはバルド・コルネリアスの名が含まれていた。




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