第四十一話

 十大貴族に準じる大貴族にまで及んだ追求は王室の対応の厳しさを何よりも雄弁に物語っていた。
 擁護しようにも捕まった男爵の自白や王子の証言など状況があまりにも悪すぎる。
 下手に庇い建てしようものなら自分が失脚する可能性すらある以上、危険を押してまで庇うものなどいるはずがなかったのである。
 それでも組織の利権だけは守り抜こうと気炎をあげる人間はいたが、本腰を上げて追及された場合叩けば埃の出る人間はかつてのように反抗を続けるだけの気力は持ちえないようであった。
 今回の陰謀劇の概要は、政治感覚に多少なりとも通じているものなら容易に理解できるものである。
 すなわち、国王の構造改革に反対する人間には容赦しないぞ、という国王からの無言のメッセージだ。
 その気になれば芋づる式に財務官僚の首を斬れるはずなのに、明らかに見せしめの人間しか粛清されていないのがその証拠であった。
 不法な行為を慎み、多少利権が減っても国王に表だって反抗しなければすわり心地の良い椅子は保障してやる。
 そう言外に言われてなお反国王の立場を貫ける人間は少なかった。
 中にはクーデターまで画策する真性の馬鹿もいるが、そうした人間はおそらくまともに処罰されることすらなく、事故死や行方不明になる可能性が高いことを自分たちも同じことをしていただけに彼らは容易に想像することが出来たのだった。
 結局財務省の反国王派は勢力を大幅に減じて、改革派が中心勢力として台頭した。
 そのほぼ半数以上が反国王派からの鞍替えではあるが、以前から真摯に国家経済と向き合ってきた人間が主流派のトップにたったという事実は大きい。
 すでにある程度の軍事予算が認められ、久々の軍事費増額に軍務省では予算の使い道で激論が戦わせられている。
 予算が無限ではない以上、これまでたまりにたまっていた軍事計画にも優先順位をつけることは絶対に必要であったからだ。
 さらに抜け目のない国王はそればかりでなく、バルドの持ち込んだ手押し式ポンプを国内に普及する前提として取水税を新設した。
 代わりに手押し式ポンプの設置とメンテナンスは王国が全面的に面倒を見る。
 最初は税金が増えることに難色を示していた国民も、手押し式ポンプを見た瞬間に手のひらを返し、今では早く設置してくれと王都から遠く離れた村までもが陳情に訪れる状態で、ポンプの供給元となったダウディング商会とサバラン商会は殺人的なスケジュールに忙殺されていた。
 ―――――当然のことながら税の新設と予算の増額は財務省の影響力と利権の拡大でもある。
 予算が大きく、そして仕組みが複雑になるほどに行政機関の権力は増す。
 もはや国王と宰相に刃向う輩は、ごくわずかな抵抗勢力と呼んで差し支えはなかった。
 とある政治の格言として、優れた政治家は官僚をうまく使い、愚かな政治家は官僚と対決するという言葉がある。
 完成した官僚機構というものは停滞を許されない。その官僚と敵対する政治家は結果として国民生活に支障をきたすことになる。
 そうした意味でウェルキンは間違いなく優秀な政治家に分類されるに違いなかった。

 「ぐははははっはははっ!計画通り!」

 その後国王ウェルキンは高笑いのしすぎで喉を傷め、呆れたハロルドにきつい叱責を受けたと伝えられる。




 「なのに僕はどうしてこんなところで書類を手伝っているのでしょうか?」

 山積みされた大量の書類に囲まれて遠い目をして呟くバルドがいた。
 おかしい。今日は8日に一度の休日で、命の洗濯にみんなで街に繰り出す計画であったはずなのに………。

 「自業自得や。うちにこんな厄介なもんつかませといて自分だけ遊ぼうとか許さへん!」
 「だったら後にすればいいのに……」
 「こないな便利なもん、いつやるの?今でしょ!」
 「セリーナ、口調変わってるよ……」


 これほどセリーナが興奮するのには訳がある。
 きっかけは手押し式ポンプの発注を受け、在庫管理の手伝いをしていたバルドがふと呟いた一言だった。

 「そういやここって複式簿記は普及してるのかなあ………」
 「なんや?そのフクシキボキっていうんは?」
 「―――――知らないのか?なんて説明したらいいかなあ………」

 どうやら大陸で一般的な帳簿は江戸時代よろしく大福帳であるらしい。
 複式簿記とは、資産、負債、純資産、収益、費用の増減を伴う全ての取引活動を、帳簿の貸方、借方の二つの側面から分解し、可視化したものである。
 現代でも使用される賃借対照表や損益計算書はこの複式簿記の考え方なしには成立しないものであり、書面で表現しづらかった財務統計を誰にでもわかりやすい形で数値化するという革命的なものであった。
 基本的に売掛台帳である大福帳でも資産管理は出来るが、複式簿記のように総合的な財務状況を数値化するには向いておらず、それは長く商人の勘と経験にゆだねられる部分が大きかった。
 簡単な説明をバルドに聞いただけで、その有用性と先進性を理解したセリーナも只者ではなかった。
 サバラン商会が発展途上である今だからこそ、複式簿記を導入するチャンスである、と迷いもなく決断したのである。

 ドイツの文豪ゲーテが「複式簿記は人間が生んだ最高の発明の一つである」といった。
 特に親会社、子会社の存在や企業のグループ化などで財務管理が複雑になっても複式簿記は実に簡単な形でその資産価値を表現する。
 この先ダウディング商会との提携に伴い、国外との取引や支店運営を要求される現状で複式簿記がもたらされたのはまさに天佑としかセリーナには思えなかった。
 決断に速さを求められる企業経営において、この複式簿記の存在はサバラン商会に圧倒的な優位をもたらしてくれるはずであった。

 「こっちは今年の上四半期や。計算があわへん部分のチェック頼むわ」
 「鬼かお前は!ようやく年末分が終わったばかりだってのに………ていうかもう3時間以上も休憩してないぞ!」
 「そんな暇があると思うんか?」
 「それが恩人に対していうことか!」

 じゃれ合う二人を無視してロロナは冷静に書類の山を片づけながら呟いた。

 「実によく出来た計算式です。記入のミスも見つけやすい。もう妾でいいですからうちの会頭をもらってやってください」

 これほどの商人として冥利に尽きる恩恵をもらっておきながら、何も返さないという選択肢はない。
 しかし十分な資産家となったバルドに渡せる贈り物というと、もはやセリーナ自身くらいしか思いつかなかった。本人もそれを望んでいるのだから互いにウィンウィンの良い取引になるはずである。

 「ロロナ!勝手にうちを売らんでくれるか?」
 「会頭が嫌なら私が代わりにバルド様に嫁ぎましょうか?」

 セリーナも際立った美少女ではあるが、女としての成熟した色香においてはロロナには全く敵わない。
 濡れたような大きな瞳に、豊満な胸とくびれたウェスト、ウェーブのかかった美しい髪に大人の女性だけが持つ引力のような妖艶な色気。
 ロロナが女として男を求めるならば、とうの昔に貴族でも大商人でも捕まえることができたであろう。

 「そ、そんなんあかんっっ!」

 慌ててセリーナはバルドににじり寄ろうとするロロナを抱きとめた。
 ロロナは腹心の部下であり、親友でもあるが、好きな男を奪われるのだけは許すわけにはいかなかった。

 「ロ、ロロナに渡すくらいなら………わ、わわわ、わた……わたし………」

 首筋まで真っ赤に染めてセリーナはどもりながらバルドを上目使いに見上げる。
 もとよりたとえ正妻でなくとも、セリーナが夫として男として愛すべき男はバルド以外にありえなかった。
 いつから恋人としてバルドの隣に並ぶ日を夢見ただろうか。
 この日のためにずっと守り通した乙女の操をついに捧げる時が来たのかもしれない。
 そんな暴走気味の(控え目に言っても正しく暴走であったが)覚悟で、セリーナがバルドへの告白を決意しようとしたそのときである。


 けたたましい馬蹄の音と、荒々しい馬のいななきがサバラン商会の窓口から響いた。
 先日のように、おつむの足りない連中が襲撃にでも来たのか、とバルドの顔が一瞬にして戦士の顔に変わる。
 セリーナを背中に庇うようにして立ち上がるとバルドの前に現れたのは意外にもウィリアムであった。
 傲岸不遜にして自由闊達がトレードマークのはずのウィリアムがまるで死人のように顔を真っ青にしていることにバルドはよほどの事態が起きたらしいことを確信した。

 「…………何があった?」
 「すまん――――今すぐ俺と来てくれ」

 ウィリアムの声は震え、今にも泣きだしそうな迷い子のような空気がある。
 こんな弱りきったウィリアムを短い付き合いとはいえ、バルドは一度も見たことがない。

 「悪いが連れて行けるのはバルド一人だ――――――危険なんだ」
 「なんやて?」

 口を挟もうとしたセリーナの機先を制するように紡がれたウィリアムの言葉にセリーナの美しい眉がピクンと吊り上る。
 みすみすウィリアムがバルドを危険に巻き込もうとしてるならば、セリーナはそれを断じて容認するわけにはいかなかった。
 自分でも無茶な要求をしている自覚があったのだろう。
 自嘲するように唇を歪めてウィリアムは力なく頭を下げる。
 もしも自分の命が必要なのだとすれば、微塵の躊躇もなくウィリアムは命を捨てたろう。
 しかしこの事態に関してウィリアムは全くの無力であった。
 だからといってバルドが何とかしてくれるというのはあまりにも虫のよすぎる希望なのだ、と理性では理解している。しているのだが――――――。


 「サンファン王国から帰国した姉上が今朝方突然倒れた。侍医は悪質な伝染病で助けるのは奇跡を待つようなものだと言っている。病を広げぬために―――――苦しまぬよう姉上を楽にして………焼いてしまうべきだ、とも」

 まるで自分が焼かれるような苦しみに満ちたウィリアムの顔を見てバルドは覚悟を決める。
 まさにバルドがそう決意したことを理解したセリーナは、涙ながらに悲鳴をあげてバルドの裾を掴んだ。

 「あかん!だめや!バルド!行ったらあかん!」
 「俺にも無理を言っているのはわかっている………でもいくら考えても俺に頼れるのはバルドしかいないんだ―――――俺たちとは違った世界が見えているものにしか姉上はもう………」

 魔法が中途半端に発展したため、この世界の医療技術は決して高いものではない。
 まして伝染病のようなウィルス性の病原体に関する研究は皆無と言っても良いほどだ。
 セリーナは伝染病に関わった場合の致死率の高さを行商をしていた父から嫌というほど耳にしていた。

 「どうしてバルドが行かなあかんねん!ただの学生で位階もない子供のバルドが!」

 セリーナの言葉は完全に正しい。
 まだ貴族としての義務を果たすべき年齢に達していないバルドにはウィリアムの命令に従わなければならない法的理由は何もないのである。
 しかし、もしも閉じられた王女の運命の扉を開く者があるとすれば、それは自分しかいないであろうこともバルドは承知していた。
 素人知識でも、バルドには各種の法定伝染病の知識がある。

 ―――――――行かなければならない。仲間の危険を前にして後ろを見せるわけにはいかない。

 「シルクとセイルーンに伝えてくれ。絶対に追いかけてくるなと」
 「どうしても行くんか?うちがこれだけお願いしても聞いてくれへんのか?」

 ボロボロと慟哭するセリーナを抱きしめるとバルドは桃色に色づく小ぶりの唇に自らのそれを重ねた。


 『死人を殺せるのは――――死神だけや』


 決然として戦場に赴く覚悟を決めたバルドの姿は、まさに死人のそれであった。



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