第三十六話

 砂糖、金メッキ、マヨネーズ、そして洗髪料、それらが生み出す莫大な利益とランドルフ侯爵家や王家にまで浸透したパイプ。
 コルネリアス領の片隅で、隠れるようにして細々と砂糖を生産していた、いつ貴族の食い物にされてもおかしくない脆弱なころとは違う、莫大な資産と信用、そして後ろ盾を得たバルドはもはや自重しなかった。

 「金とはこういう時に使うためにあるのだ」

 農場の拡張と生産工場の新設、さらに区画整理事業と四輪作普及のための財政支援を推し進めるためバルドは貯めこんだ資産を惜しみなく注ぎ込んでいる。
 四輪作の効果が出てくるのはしばらく先であろうが、すでに家畜も調達して繁殖にも着手しているだけに農家の余力と生産性はすぐにも多少の向上が見られるだろう。
 いささか懐は涼しくなったが、いずれ何倍にもなって帰ってくるのだから何も問題はない。
 利殖家である左内は、より多くの金を手にするためには、まず与えることが必要であるということを熟知していた。
 コルネリアス領は時ならぬ好景気に沸き、流入するよそ者から治安を守るため、ジルコを中心に傭兵たちによる自警団が組織されているそうだ。
 戦の少なくなった大陸で仕事にあぶれた連中としては実にありがたい仕事であろう。
 さらにその一部はサバラン商会の私兵団として護衛の任務を与えられている。
 有事には戦力に早変わりする彼らの存在と、コルネリアス領の経済的復興はセルヴィー家の人間には頭の痛い問題であるに違いない。
 おそらくは戦力が低下しているうちに攻めこみたかったというのが彼らの本音であったに違いないのである。
 今頃は歯噛みして次の機会を狙っているだろうか。
 さすがに無謀に勝算の低い賭けに打って出る余裕はないはずだが。
 いくらなんでも今度勝手な真似をして敗北するようなことがあればセルヴィー侯爵家は断絶を免れまい。


 「ふふふ………まだだ。私はこんなところで満足してはいられないのだよ」
 
 厨二病全開で独演を続けるバルドをセイルーンは冷ややかな目で見守っていた。
 
 「そろそろ正気に戻りませんか?坊っちゃま」
 「そこは空気読もうよ、セイ姉」

 2回生に進級したバルドは先日11歳の誕生日を迎えていた。
 久しぶりにコルネリアスに戻って開かれたパーティーは盛大で、これまで出席したこともないような大貴族が参加してくれたことは記憶に新しい。
 あんな辺境に十大貴族の一角たるランドルフ侯爵家がわざわざやってきてくれたことの影響は大きかった。
 もはやコルネリアス家は少なくとも表向きは貴族の間の鼻つまみものではなくなったと言っていいだろう。
 もともと戦役の英雄として、軍部での評価は高かっただけに、中央貴族での評判を取り戻したコルネリアス家は経済力さえ回復すれば王国でも有数の大貴族の仲間入りをする可能性すらあったのである。
 もちろん、そうした空気に敏感な貴族たちの間ではバルドは非常に魅力的な婚姻相手と映っているのは間違いなかった。
 事実マゴットは相手にもしないが、遠回しな縁談の要請はすでにコルネリアスには数件打診されていたのだ。

 (――――――そういえばテレサの奴が何か言っていたな………。)

 久しぶりに会ったテレサは前に戦った時からさらに腕をあげていた。
 それでも結局はバルドに負けてしまったことがよほど悔しいらしく、しばらくセイルーンに抱き着いて離れようとしなかったが。
 セイ姉には悪いことをしてしまった。

 (確か面白いものを送るとかなんとか………)

 そんなとりとめのないことを考えているうちに教室についたバルドは、すでに到着していたブルックスとシルクに声をかける。

 「おはよう二人とも」
 「おはよう」
 「おはよう、バルド」
 
 このところぐっと綺麗になったシルクが華やいだように微笑んだ。
 先日のパーティーでも何やら母と話していたようだが、はて、いったいどこが母のお気に召したものやら。幸いシルクもいやがってはいないらしい。

 「なんでも1回生に転入生がいるらしいぜ。随分と転入生の多い年じゃねえか」

 耳の速いブルックスが、今日仕入れてきたばかりの情報を披露する。
 通常転入生は数年に一人程度であり、そもそも軍事教育施設である騎士学校に途中編入するということは秩序の維持的には非常に問題のあることなのだ。
 よほどの才能を見せなければ認められるものではない。
 転入してきたという1回生もよほどの実力の持ち主であるに違いなかった。
 
 (―――――なんだろう……嫌な予感がする)

 マゴットが来たときのような生命にかかわるような深刻な危機感とは違う、はた迷惑な厄介事に巻き込まれるような不思議な感覚だった。
 そしてその感覚は、わずか数時間ほどで現実のものとなる。



 「バルド・コルネリアス――――今すぐ俺と来てくれ」

 馬術の訓練を終わり厩舎から戻ったバルドを待ちかねたように講師のランバルドが、廊下で腕組みをして待ち構えていた。
 竹を割ったようなさっぱりした性格で、勇猛だが普段は温厚な紳士であるランバルドがこのように苦虫を噛み潰したような表情をしていることは珍しい。
 
 「何かあったんですか?先生」

 仮になんらかの問題が起こったにしても、それでバルドの力が必要になる事態が思いつかない。それでなくともランバルドは大人の責務として生徒の力を借りることをよしとしない男である。

 「今日転入してきた1回生だがな。いきなり進級試験を受けさせろと言ってきやがった。本来ならこんなバカな要求が通るはずはないのだが――――やんごとない事情で断るわけにもいかんのだ。構わんからぐうの音もでないほど叩きのめしてやってくれ」
 「――――あまり深い事情を詮索しないほうがよさそうですね……承知しました」

 ランバルドがこれほど激昂しながらも従わなくてはならない相手というと、よほど立場の高い人間ということになる。
 とはいえ軍事組織である騎士学校にも超えてはならない一線がある。
 権威にものを言わせて試験を受けることができたとしても、こと試験に関しては完全に実力主義が認められており、これには国王といえども口を挟むことは許されない不文律になっている。
 バルドが少々思い上がったドラ息子に鉄槌を下したとしても、それを咎めることは誰にもできないのだ。
 まあ、場合によっては裏稼業から暗殺者を回される危険性もあるが、ことバルドにかぎってはその心配はない。

 「先生!俺もついていって構いませんか?」
 「私も!お邪魔はしませんから私も連れていってください!!」
 「心配しなくともお前たちにも来てもらうつもりだ」

 (さて、いったいどんな若様がいらっしゃってるのか――――楽しみだな)

 願わくばせめて強敵であって欲しいものだ。
 生意気なだけの見かけ倒しには興味がないのだから。



 「やあ、バルドじゃないか。約束通りやってきたよ」
 「何やってんだよテレサ!!」

 目の覚めるような見事な赤毛を肩口のあたりで切りそろえた、美しい幼馴染の姿がそこにあった。
 ていうか何が約束通りだ!

 「面白いものってお前自身かよ!」 
 「驚いたろう?」
 「お前の思考回路が驚きだよ!」

 突っ込みすぎて疲れるわ!

 「転入生って……テレサさんだったの?」
 「おおっ!シルク殿、パーティー以来だな。相変わらずお美しい」

 本当にブレないな、テレサ。
 お前パーティーじゃセイルーン一筋とか言ってなかったか?まあセイルーンはむしろシルクに興味が移ってくれたほうが喜ぶだろうけど。

 「……………それじゃ僕がこの馬鹿を相手にすればいいんですか?先生」

 まるで漫才のような掛け合いを呆然と眺めていたランバルドは正気を取り戻したかのように、ゴホンと咳払いをすると苦々しい顔のまま首を振った。

 「ブラッドフォード嬢が知り合いとは知らなかったが、そちらはブルックスかシルクに任せる。バルドに相手をして欲しいのはもう一人のほうだ」

 ランバルドの視線の先を見ると、そこには腹を抱えて苦しそうに笑っている一人の少年がいた。
 笑い声を必死に押し殺してくつくつと息を引きつらせるようにして笑うその少年を、バルドは初めて会うが、それが誰であるのかはすぐに想像がついた。
 明るい蜂蜜色の髪に鳶色の瞳、長身で運動能力の高そうな体躯、父親譲りの甘いマスクと生まれ持った天性のカリスマ。
 後ろでシルクがハッと息を呑んでいるが、十大貴族である彼女は何度か直接会ったことがあるのだろう。
 智勇に優れ将来を楽しみにされているが、噂にもやんちゃでいたずら好きであると聞いた気がする。
 末っ子の気安さなのか、あるいは兄を凌ぐ才能を持て余しているのか、奇矯な行動を好み、身分を気にせず城を抜け出しては平民と泥だらけになって遊ぶこともあったという。
 なるほど彼であればやりかねないし、学校側も彼の要求を拒むことは難しいだろう。


 「お初にお目にかかります。イグニス・コルネリアスが一子バルド・コルネリアスでございます。殿下の相手を務めさせていただくこと、まこと我が悦びといたすところでございますが…………」

 一度言葉を切って息を整えると、意地悪そうにバルドは口元を歪めた。


 「いささか酔狂が過ぎるのではありませんか?ウィリアム王子」



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