ひとつは1941年に治安維持法が全面改訂されて、それまで共産主義弾圧だけだったのが、宗教団体も右翼団体も自由主義も、とにかく政府を批判するものは全部対象になる。あそこは明らかに(ひどくなる)きっかけですよね。その次の年からですからね、神奈川県特高の一連の検挙活動が始まるのは。
─── その前も、「新聞紙条例」が更に「新聞紙法」に改悪され、「出版法」も、戦争が悪化するごとに締め付けが厳しくなって行きました(註22)。
今、日本政府が出している「特定秘密保護法案」というのが、戦中の「軍機保護法」にそっくりだと言われています(註23)。秘密かどうかは取り締まる側にしかわからなくて、捕まった人は捕まった理由すらわからない。裁判も秘密だから、裁判に異論を差し挟むこともできない。そういう懸念が指摘されています。
こうした流れは、アメリカの「テロとの戦い」と関連しているようで、自衛隊法改訂(註24)の中で「特定秘密」が指定されたのは2002年です。2003年の「個人情報保護法」や「有事関連3法」などでも(註25)、報道の自由や表現の自由に関わる懸念が出されました。その後、自衛隊の「情報保全隊」(註26)の市民監視も、イラク戦争の中で明るみに出ました。
そして、「盗聴法」(註27)や、「共謀罪新設」(註28)と「特定秘密保護法」を連動させれば、治安維持法より厳しい監視国家になるのではないかと危惧され、これらは、今後の改憲問題にも重なって来るのではないかと言われています。
重なるね、絶対重なるね。当時は憲兵隊があったでしょ。憲兵隊が、警察は何もたもたしてるんだと言って、民間の人まで検挙し始めるでしょ(註29)。特高はもちろんあるんですよ。特高の巡査が張り付いて歩き、尾行するというような状況が大正時代にはあったわけですから。そういう流れの中で、警察と憲兵隊が競争で検挙率を上げて行くみたいなね状況があったと思うんですよ。やり過ぎて大杉栄や伊藤野枝を殺しちゃったりいろいろするわけですけど(註30)。
─── 怖いのは、「治安を維持する」とか「軍事機密を保護する」とか、「テロリストに対抗するために」(註31)作られた筈なのに、どんどん一般市民を対象に広がる点です。
当時はいつくらいから不自由な感じがあったんでしょうか。まだお小さかったと思いますが。
小学生でしたからね。中野正剛が死んだ時に(註32)、父親が僕の小学校の先生のところに遊びに行ったんです。すると先生がいろいろと聞きたがって。出版の人に会えるのが嬉しくていろいろと聞くんです。中野正剛が死んだのはなぜだろうなんて話題を語っていたことを思い出すんですね。いろいろ知る立場にはいたんですよ。
岸田(國士)さんが大政翼賛会の文化部長になった時(註33)、今、いろいろ資料を読んでみると、みんな期待しているんですね。岸田さんが防波堤になってくれると思って期待して送り出したんですよ。
─── 岸田さん自身もそういうふうにおっしゃっていますよね。
そういうつもりはあったんですよ。だけど、そんな甘い話じゃなかったってことになるわけだけど。
この間、森本薫の『怒濤』(註34)を演出するんで読み直してみたら、結構ね、森本薫なりに闘ってるのね。昭和19年の上演ですからね。空襲の中で上演してるんですよね。で、『桃太郎』の絵本を読むシーンが出て来るんですよ。そのシーンの最後に日清戦争が起こる。そこがね見事に一幕の中で繋がっているんですよ。資料を見たらね、日清戦争の起こった後になって『桃太郎』は発表されるんです。でも、そこへ持って来てるんですね。やってるんだよ、結構、森本さんは。
─── 直接的には言わないけれど、「鬼退治」ってことですよね?
そう。「鬼退治が、日清戦争の火付けになったんじゃありませんか?」っていう小さい炎をあげているんですね。
─── でも、そこが日本の言論・表現の限界なのでは?
限界だよ、実際には役に立ちゃしない(笑)。
─── 陰ながら小さな抵抗はしても、それが大同団結して抵抗するとかにならない。例えば、ナチスに対する戦後のユダヤ人の団結力。徹底的に許さない、責任は絶対負わせる。そういうことが、ない(笑)。
ないね、ないよ。ほんとに(笑)。
「泊会議」なき、「泊事件」
─── 神奈川県の特高にしても薄々、これはでっち上げで、あまり意味がないことだとわかっていたんじゃないかと思えるんですが(註35)。
もちろん、わかっていたでしょ。
─── だから罪滅ぼし的に看守が「秘密レポ」を回したりしたんじゃないでしょうか。
もちろん、もちろん。だから看守にさえ同情されるような存在だったってことですよね。
それでね、「泊事件」は裁判に持ち込むと、メンバーが起訴される時には、もう「泊会議」が消えちゃってるんですよ。
─── えっ、どういうことですか?
「泊事件」はなくて、違う罪名になってるんですよ。わけわかんない。
─── そんな裁判が許されるんですか?
(本を読み上げる)「敗戦の年、45年9月15日、泊事件の被告6人の一括裁判が行われた。「泊会議」についてはあれだけ問題にして容疑者たちを責め立てておきながら、判決書からは跡形もなく消し去られていた。「泊会議」なき泊事件判決である。敗戦で周章狼狽、戦犯追及を恐れた裁判所が、関係資料・記録を焼却しつつ、8月22日から27日の間に予審終結決定書から最大の虚構を削除して、あとはそのまま判決としたのであった。」
このいい加減さね。だから、でっち上げの証拠を消しちゃったんでしょう。それで今度、これを理由にして、証拠がないからっていうんで、再審請求を却下するわけですから。
─── 抵抗のしようはなかったんでしょうか? 現在進行形の問題として考えた場合、こういう事態を起こさないようにしたいと。
ですよね。
─── 何で捕まったかわからない。
けど、捕まった。
─── 証拠がない。
敵の作文にハンコつかない限り、殺されるかもしれないという恐怖の中で、ハンコをつかざるを得なくなっちゃう。事実殺されてしまったのも、父の部下でいたんですから。みんな朦朧とした中で拇印ついてるわけね。抵抗のしようがないね、これ。
そういうことを可能にする、法律の段階で、枠組みを許しちゃいかんってことだよね。
─── そうですよね。令状がなくても、証拠がなくても、捕まえられるっていう特権を特高は持ってる、憲兵隊は持ってる、軍部も持ってる。そういう特権をまず与えちゃいけないってことですよね、絶対に。
戦後の自由は、本当に自由?
いや〜、「本当に自由かな?」っていうね。自由なつもりでいるんだけど、自分で自由じゃなくしているところが、どっかあるじゃないですか。例えばこの「お題」は触れない方がいいと思ったりするってことがあるじゃないですか。
─── 戦争が終わってすぐの時からそう思われてました?
いや、あの時はね、やっぱり『赤いりんご』(註36)ですよ(笑)。やっぱり。りんごの歌がシンボルね。青空と赤いりんごがシンボルでね。
─── でも「黙って見ている」、「何にも言わない」(笑)。表現しない。
ほんとだね(笑)。やっぱり、なんだろうね、触れちゃいけないものがありますものね。父親なんて生きている時、たぶんあったと思うのね。「お互いに傷つけ合ったっていう過去は触れないように」みたいなことはあったと思うんですよ。
─── 日本だけじゃなく、軍や秘密警察の弾圧のあった国、現在でもある国では同じですよね。戦後になって「ああ良かった」みたいな感じはあまりなかったのでしょうか?
僕、ずっと放送作家やってたから、そうするとね、やっぱりNHKの考査室は何遍もお世話になってますから(笑)。
─── そうか、検閲はあったわけですね(笑)。
検閲はあるんだよ(笑)、やっぱり、自主規制と言う「検閲」がね、今だって。何本も「ちょっとこれ預からせてくれませんか」っていうのがあったよね。日の目をみないテレビドラマとかありますよ。で、それを芝居でやったっていうことはありますけどね。芝居は自由ですよ。赤字さえ覚悟すれば(笑)。
─── 例えば、何が放送できなかったんですか?
日韓条約の締結(註37)が問題になっていた時に、NHKで『風雪』(註38)(というドラマ)をやった時かな。中山晋平をテーマにして、関東大震災の避難先の場面を設定して、『枯れすすき』が大流行するんですよ。その背景にあった事件として「朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだ」というデマで、朝鮮人が殺されるという背景を、伝聞としてちょっと語ったんですよ。そしたら「これはカットしてくれ」って言ってきてね。
朝鮮人暴動(註39)の話のところが問題になった。「これ、事実だったんですから」「証拠があるんですから」って言っても、「それはわかってるけども、今、政治状況、そうじゃないんだ」って言われて。だからしょうがなくてね、カットせざるを得なかった。
それからね、沖縄の返還(註40)の頃に、沖縄出身の兵隊が復員して来ないという話があって。熊本の連隊に入ったんですね。この兵隊はどこに行ったんだって家族が探しているっていう記事を熊本日々新聞で読んで、それを材料にして『翔びたてば鳥小(トゥイガー)』(註41)を書いた。還って来ない沖縄の兵隊が戦争中をどう生きてきて、戦後をどう生きて、最終的には死んでしまうんだけど、それを新聞記者の眼で追いつめて行くっていう作品を書いたんです。その中では朝鮮人の慰安婦が殺される事件とかも書いてあるし(註42)、沖縄の戦前の政治的な位置と戦後の位置みたいなところまで書き込んであるわけ。そしたらNHKは青くなって「これ放送したら、ちょっと問題になりますから」って言ってね。
─── 全然変わんないですね(笑)。
全然変わんないですよ。
─── 今とも変わらないし(註43)、戦前と戦中とも変わらない。
全部、繋がってるんですよ。要するに自主規制するわけね。何故、自主規制するかっていうと、やっぱりそれは、放送免許の根っこを政府に握られているじゃないですか。予算があるじゃないですか。そういうものを握られてるからNHKはすぐビビるんですよ。
その他にも作品の中で「ピカドン」という言葉を使ったら、すっ飛んで来られたりしたしね。「ピカドンっていう言葉を使わないで下さい」って。
─── 今は(「ピカドン」は)大丈夫ですよね、たぶん。
そういうようなことが戦後になってもありましたから。何かっていうと権力に対してひれ伏してしまう体質っていうのが、色んなところに残ってるんじゃないですかね。まあ、それらは全部、芝居ではやりましたから。芝居は自由ですよ。だけども、その自由は限定付きでね。その芝居、中継(放送)してくれるかって言ったら、してくれないでしょう、きっと。
「検閲何してるんだ」と軍部が言い始めた
通ってるんですよ。そうすると「検閲何してるんだ、こんなもん通しやがって」って軍部が言い始めたから、やられちゃったんですよ。
─── 軍部が言い始めた理由っていうのは何だったんですか?
(本を読み上げる)「情報局の検閲を通過した細川論文(「世界史の動向と日本」)前半部分を掲載した「改造」八月号は、7月25日に発売された。すると、狂信的右翼・箕田胸喜(原理日本社・日本精神文化研究所)一派の田所広泰が細川論文誹謗の怪文書をばらまき始めた。後半部分掲載の九月号は、これももちろん情報局の検閲をパスして8月25日に発売された。ところが9月7日、陸軍報道部主催の「六日会」(毎月定例の総合雑誌批評会(註44))で平櫛孝少佐が細川論文を激しく非難した」
平櫛さんが広げたんですよね、陸軍報道部で。
(本を読み上げる)「同論文は世界史の発展過程を考察し、その流れからみて、日本はアジア諸民族に対し欧米帝国主義の亜流になってはならず、その自主・自立を尊重せよと述べ、ソ連の民族政策の成功等が例示されていた」
「これに対し平櫛少佐は“日本の南方民族政策において、ソ連の民族政策に学び、原住民と平等の立場で提携せよ、というのは民族自決主義で敗戦主義だ。日本の指導的立場を否定する反戦主義で、戦時下、巧妙な共産主義の宣伝である”と論難した」
「ついで谷萩那華雄陸軍報道部長が「日本読書新聞」の談話で、同趣旨の非難をし、このような共産主義宣伝論文の「改造」掲載が許されたのは“検閲の手ぬかり”とのべた」
「あわてた警視庁は「改造」を発売禁止、細川を治安維持法違反容疑で検挙した」
─── うーん。
これはちょうどアメリカ帰りの川田夫妻の検挙の三日後なんですけれど、全く無関係なんです、実は。後になって繋がってくるんですけど、ここでは無関係で、別の事件なんですね。
─── これ、客観的に観て、例えば現在から「世界史の動向と日本」の論文を観た時に、「共産主義的」であるのか。どうなんですか?
全然、そうじゃないんです。全然そうじゃないってことは再審裁判の中で認められました(註45)。何を考えていたんでしょうね、っていう話だよね。何でもいいんですよ、結局、理由がありさえすれば。「あの面倒な奴を黙らせろ」っていう話ですよ。
頭のおかしいのが陸軍報道部のトップにいれば、世の中がそっちに流れて行くんですよ。一握りの人間が動かしていたんだからね。
僕ですら、谷萩(陸軍報道部長)っていう名前を覚えてますよ、小学生でしたが。それは父親を通じて聞いてますものね。だって総合雑誌の編集者なんて、彼らと年中、飲んでなきゃいけないんですよ。飯食ってるんです(註46)。彼らと仲良くしなきゃいけないんです。何を言われるかわかんないんです、ちょっと足が遠のくと。だから全部、取り巻きになっているわけですよ、総合雑誌の編集者たちが。
家で「今日は谷萩がなんとか言ってね、」みたいな話をして。僕が名前を記憶しているくらいですから。だから、陸軍報道部とのつき合いが、かなり日常生活になっていたんじゃないですか。
─── 私はそこに至る過程を知りたいんですよね。お小さくて覚えていらっしゃらないかもしれませんが。
それは僕が生まれていない頃からの過程ですよ、そりゃ。「大逆事件」(1911年・明治44年)から何からずっと含めて、もう「オッペケペ」(1989年・明治22年)(註47)以来のことじゃないですか?
ちょっとめぼしいやつはみんな尾行がついてましたからね。今日から練習なんだけど『ブルーストッキングの女たち』(註48)を名古屋でやるんですよ。読み返してみるとやたらに尾行が出て来るのね。事実そうだったらしいね。資料を見るとやっぱり出て来るんですよ。尾行をいかにまくか。あれじゃね、おちおち喋れませんよね。何喋ったって、全部通報されちゃうんだから。
─── 隣組はどうでしたか?
うちの場合はね、そこのところは敵に回るようなことはなかったですけれども。普通は大変ですよ、そりゃ。特高が来て、ガサ入れしてったなんていったら、当然、ご近所ではどういう目で見られるかわからないし、回覧板だって、そこの家、飛ばされちゃったりする状況が出て来るでしょう、きっと。あの頃っていうのは、町会の締め付けっていうのが大きいですから。
─── 隣組の仕組みも、共謀罪は似ているんですよね。
そうですね。これはしかし、江戸時代の「五人組」まで溯りますからね(註49)。日本人の体質的部分になっちゃっているからね。
─── 日本人は江戸時代からあまり変わっていないんですよね。「お上」と政府を呼ぶように、国民主権が根付いていない。
変わってない、変わってない。
註22:「新聞紙条例」が更に「新聞紙法」に改悪され、「出版法」も締め付けが厳しくなる
「新聞紙条例」1875年(明治8年)自由民権運動の高揚するなか、新聞・雑誌による反政府的言論活動を封ずるため制定された。1883年(明治16年)に改訂・強化され、1ヶ月以内に47紙が廃刊。前年の355紙が、年末には199紙に激減し、俗に「新聞撲滅法」とも称された。
「新聞紙法」1909年(明治42年)制定。「新聞紙条例」改正案が議会に提出されるが、政府側はこれを逆手に取り、統制を強化する形で「新聞紙条例」を廃止し、「新聞紙法」を制定させた。 「出版法」1893年(明治26年)に制定。検閲などを政府が行えることを定めた。
1925年(大正14年)にはラジオ放送の開始にあわせ、放送禁止事項が制定された。
1938年(昭和13年)には、総力戦遂行のため国家のすべての人的・物的資源を政府が統制運用できる「国家総動員法」が定められ、新聞紙法第27条においては軍事・外交のみならず一般治安や財政金融に関しても統制できるものとした。
1940年(昭和15年)、情報局が設けられ、新聞統制が進められていった。
1949年、「新聞紙法」「出版法」は廃止になる。
註23:「特定秘密保護法案」と戦中の「軍機保護法」の類似
2013年秋の臨時国会に日本政府が提出している「特定秘密保護法案」は行政機関のトップが「特定秘密」を指定するが、その妥当性を審査する仕組みや原則開示の規則もなく、行政機関のトップが永久に延長を行うことが可能で、自衛隊の情報保全隊や公安警察なども関わることが想定され、防衛秘密も「特定秘密」に統合される。
特定秘密の指定事項は4分類。(1)防衛(2)外交(3)特定有害活動の防止(「その他の活動」の言葉もあり、広く市民活動が制限される)(4)テロリズムの防止(「政治上その他の主義主張に基づき、国家もしくは他人にこれを強要」する活動も含まれる)。
秘密漏えいの罰則は懲役10年以下。国会議員も最高5年の処罰規定があり、国会での問題追求も出来なくなる恐れがあり、罰則は情報を知ろうとした市民にも適用され、漏えいの「そそのかし」「あおりたて」「共謀」も最高5年の処罰規定があり、調査活動を行う研究者や作家、市民団体のメンバー、ジャーナリストが罪に問われかねない。
現行の国家公務員法の守秘義務で足りるとの指摘もあり、安倍首相の国会答弁では「「過去15年間で公務員による主要な情報漏えい事件は5件(うち3人は起訴猶予や不起訴処分)」だけと答えている。日弁連、ペンクラブ、報道関係、消費者団体、アムネスティ・インターナショナル日本、多くの憲法学者や刑事法学者が反対し、短期間であったがパブリックコメントの募集には9万件の意見が政府に寄せられ、その8割が反対だった。
日本劇作家協会 「特定秘密保護法案」について
「特定秘密保護法案」に対する、 一般社団法人日本ペンクラブ9月17日付意見書と、日本弁護士連合会 10月3日付会長声明に賛同を表明する。
一般社団法人日本ペンクラブ 意見書「特定秘密保護法案に反対する」(2013年9月17日付)
日本弁護士連合会「特定秘密保護法案に反対する会長声明」(2013年10月3付)
「軍機保護法」は、日清戦争後、1899年に制定される。1941年12月の「宮沢・レーン事件」では、宮沢弘幸氏が、「樺太に旅したときに偶然見かけた根室の海軍飛行場を、友人のレーン夫妻に話した」ことで「軍機保護法」違反で、逮捕され、懲役15年の実刑判決が確定。拷問と過酷な受刑生活で結核になり、敗戦後、釈放されたが、27歳の若さで亡くなった。裁判は秘密保持のため非公開で、判決文は破棄されるか、伏せ字だらけ。詳しい内容が判明したのは一九九〇年代。小樽商科大の荻野富士夫教授が、戦中の内務省の部内冊子「外事月報」に、地裁判決の全文が掲載されているのを見つけてわかった。戦局が厳しくなると「観光でたまたま撮影した風景に軍事施設が写っていた」といったような軽微な理由で、次々と一般市民が逮捕されるようになった。
註24:自衛隊法の「特定秘密」
2002年、自衛隊法改訂の中で「特定秘密」が指定され、それ以来今まで、公文書館に移されたものは1件もない。2007年から2011年までの5年間で指定された文書は約5万5000件。保存期間を過ぎ廃棄された秘密文書は6割の約3万4000件。廃棄件数を年ごとにみると、2007年は2300件、2008年は3000件、民主党に政権交代後の2009年は9800件、2010年は1万600件、2011年は8600件と3~5倍に増えている。「公文書管理法」が適用されないため、防衛省の課長級以上の担当者の判断で秘密文書を廃棄することが訓令で認められている。一般の行政文書の場合、保存期間(30年未満)終了後か、使われなくなった時点で公文書館に移すか廃棄する。廃棄には首相の同意が必要。防衛秘密漏えいの罰則は現在5年以下の懲役で防衛省職員だけでなく、兵器産業など民間の契約業者にも適用される。
註25:2003年の「個人情報保護法」や有事関連3法など
2003年1月22日に、劇作家協会は「表現の自由に関する緊急アピール」として、「個人情報保護法案」「人権擁護法案」「青少年有害社会環境対策基本法案」と有事関連3法案に反対した。いずれも報道規制に繋がるとマスコミでも大きな反対議論が起こり、「個人情報保護法」と有事関連3法(武力攻撃事態対処関連3法)は法制化されたものの、「人権擁護法案」と「青少年有害社会環境対策基本法案」は廃案になったまま。
日本劇作家協会「表現の自由に関する緊急アピール」
註26:自衛隊の情報保全隊
2003年、防衛省における情報保全能力強化を目的とし、陸上・海上・航空自衛隊に編成された。
2007年、日本共産党が陸自情報保全隊の内部文書を公表し、医療費負担増反対や年金改悪反対の運動、春闘まで監視対象になり、市民団体や労働組合、地方議会、報道機関、高校生のグループまでを監視し、参加者の名前や写真を記録していたことが明らかになり、「プライバシー権侵害」、「肖像権侵害」と批判された。2009年、統合幕僚長直轄の部隊に再編される。
2013年、自衛隊情報保全隊による国民監視の差し止めと損害賠償を求める訴訟の控訴審で、元陸上自衛隊情報保全隊長の鈴木健氏が「一般市民も対象であったこと」「日本中のすべての自衛隊のイラク派遣に反対する運動が対象になりうること」「自衛隊のイラク派兵に反対する署名を市街地で集める活動も自衛隊に対する外部からの働きかけに当たり、監視対象になりうること」「監視対象となる団体・個人をまとめた文書があること」など、広い範囲を監視対象として、それを記録していることを初めて認めた。
註27:盗聴法
1999年「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」(略称:通信傍受法。マスコミなど反対派は盗聴法と呼ぶ)は、憲法の「通信の秘密」を侵害するものとして反対を受けたが成立。廃止を求める国会請願署名は約23万になり、野党の多くが選挙で公約に盗聴法廃止や凍結をかかげ、国会では盗聴法廃止法案が計11回提出された。その結果、盗聴法が2000年に施行されながら、警察は2001年まで盗聴法の適用をせず、2002年に初めて2件、その後は年に2件〜11件で推移。2011年の盗聴捜査報告では、はじめて盗聴令状請求が2件却下され、令状発付件数25件のうち、16件で犯罪関連盗聴が0。そのうち2件は盗聴数が0となり、犯罪無関係盗聴率が91%とはじめて90%をこえた。
註28:共謀罪新設(創設)
2004年、法務省は「犯罪の国際化及び組織化並びに情報処理の高度化に対処するための刑法等の一部を改正する法律案」を国会に提出して、共謀罪の新設を求めた。犯罪の実行や準備すら伴わない(「目くばせ」を含む)「合意(共謀)」に適用され、「行為」に対してではなく、考え・話すという合意で処罰することは「思想」を処罰することに限りなく等しいと批判され、合計で600以上の犯罪について適用されるため、従来の刑事法体系を破壊し、捜査では「人々の会話や電話・メールの内容」が監視され、盗聴の拡大が懸念される。実行前に自首した場合、刑が減免され、悪用されれば、会話の相手による密告やおとり捜査的な方法で、一方のみが処罰されることもありうる。
共謀罪を必要とする国内事情 (立法事実)がないことは法務省も認めており、目的とされる国連越境組織犯罪防止条約も、共謀罪の新設なしに批准が可能と指摘されている。衆院解散で廃案になり、4国会で継続審議となるが、2014年の通常国会に再提出される可能性がある。
また、共謀罪法案の部分を切り離した「コンピュータ監視法」が2011年6月17日に成立。プロバイダ等に対して、裁判所の令状を要することなく、メールの履歴部分(通信記録)の保全を要請することができるようになり、1通の令状で LAN などの電子回線で結ばれている他の全てのコンピュータを捜索出来るようになった。2012年11月に日本はサイバー犯罪条約に正式に加盟したので、今後、加盟国から捜査共助の要請があれば、犯罪の罪種等による限定なく、メールの履歴部分(通信記録)について、裁判所の令状によって、リアルタイムで監視することができるようになる。街中に沢山ある監視カメラに顔の認識システムと高性能マイクを連動させれば、街頭の会話からも共謀罪が立証できるようになり、国民全体を監視する社会になる危険性が指摘され、特定秘密保護法案との連動の危険性も指摘されている。
日本劇作家協会 2006.4.24「共謀罪に反対する表現者の緊急アピール」
日本弁護士連合会「日弁連は共謀罪に反対します」
パンフレット「思想を処罰?日弁連は共謀罪に反対します」(PDF)
註29:憲兵隊
憲兵は、1881年(明治14年)、憲兵条例により設置され、大日本帝国陸軍において陸軍大臣の管轄に属し、主として軍事警察を掌り、兼て行政警察、司法警察も受け持つ。
註30:大杉栄や伊藤野枝を殺したり
関東大震災直後の1923年(大正12年)9月16日、アナーキストの大杉栄・伊藤野枝と大杉の甥・橘宗一の3名が憲兵隊に連行・殺害された。主犯は憲兵大尉・甘粕正彦らとされる。
註31:「テロリストに対抗するために」
2001年9月11日のNYでのテロ行為に対して「愛国者法(Patriot Act)」が作られるが、テロリズムの定義を拡大し、法執行機関の権限が適用される行為の範囲は大幅に拡大された。私服の警官が反戦グループや動物愛護・環境保護団体、平和マーチに潜入して、これらの団体に所属する人々や参加者の情報を収集した。米国内には約3千万台の監視カメラが設置され、国民の映像が撮られ、空港のセキュリティは厳しくなり、搭乗拒否リストに1歳半の女の子がテロリストと間違えられて掲載され、航空機から降ろされるという事態も起きている。
オバマ大統領も、2011年、愛国者法の重要な3つの条項、テロ容疑者が移動するのに合わせて令状を取り直さなくても場所を変えて盗聴することを認める条項、連邦裁判所の令状を取った上で捜査に必要と思われるあらゆる記録(帳簿、記録、書類など)を集める権限を米連邦捜査局(FBI)に与える条項、特定の組織に属さない「一匹狼」テロリストと疑われる人物の追跡を当局に認める条項を4年間延長した。
註32:中野正剛が死んだ時
中野正剛(1886年・明治19年〜1943年・昭和18年)大正・昭和期のジャーナリスト、政治家。右翼政党の東方会総裁、衆議院議員。東條英機首相が独裁色を強めるとこれに激しく反発するようになる。中野は東久邇宮稔彦王を首班とする内閣の誕生を画策するが、1943年、中野をはじめとする東方同志会(東方会が改称)他3団体の幹部百数十名が検挙された。中野の逮捕は、中野がある青年に「日本はかならず負ける」といったという風説に基づくものだったが、この中野の逮捕は強引すぎるものとして世評の反発を買った。結局、中野は嫌疑不十分で釈放されるが、その二日後、自宅1階の書斎で割腹自決する。自決の理由はいまだに不明で、一説には、徴兵されていた息子の「安全」との交換条件だったとも言われている。遺書には「俺は日本を見ながら成仏する。悲しんでくださるな」と書き残されていた。
註33:岸田(國士)さんが大政翼賛会の文化部長に
岸田國士(1890年・明治23年〜1954年・昭和29年)日本の劇作家・小説家・評論家・翻訳家・演出家。代表作に、戯曲『牛山ホテル』、『チロルの秋』、小説『暖流』、『双面神』など。
1940年(昭和15年)大政翼賛会文化部長に就任するが、1942年、大政翼賛会の官僚化を不満とし、組織改編を機に、文化部長を辞任する。
大政翼賛会は、1940年から1945年6月13日まで存在していた日本の公事結社(総裁は内閣総理大臣)。すべての政党が自発的に解散し大政翼賛会に合流し、1942年には傘下組織である日本文学報国会が結成。大日本産業報国会・農業報国連盟・商業報国会・日本海運報国団・大日本婦人会・大日本青少年団の6団体を傘下に統合。大日本言論報国会も結成された。
註34:森本薫の『怒濤』
森本薫(1912年・明治45年〜1946年・昭和21年)日本の劇作家・演出家・翻訳家。代表作に『華々しき一族』『女の一生』など。『怒濤』は1944年(昭和19年)初演。細菌学の巨人・北里柴三郎を主人公に、さまざまな苦難に見舞われながらもそれに立ち向かう、怒涛のごとき半生を描いた伝記劇。
日清戦争は、1894年の東学党の乱で、清が朝鮮からの依頼で出兵し、日本も天津条約や日本の公使館を守るという口実で出兵し、内乱終結後も日本と清は共に兵を朝鮮国内に留めていたために、朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる権力争いとして起こる。
註35:でっち上げで、あまり意味がない
「情報局」の検閲を通っていた細川論文を、共産主義を宣伝するものだと批判し、細川氏逮捕のきっかけを作った陸軍報道部員の平櫛孝氏は「大きな眼でみて、それがお国のためにならないことに気づかなかった自らの不明を恥じいるばかりである」「こちらにはそれほどの自覚がなくとも、世間には『はしゃぎすぎ』ということばもある。たしかに、私たちは、はしゃぎすぎていたのだ。しかし、石を投げられた側にとっては、生死にかかわる大事件であったろう。当時の肩いからした軍部と、それに立ち向かう手段を持たなかった民間言論機関との関係はまさにこのようなものであった」と著書に記している。
註36:「赤いりんご」
『リンゴの唄』は、日本で戦後映画の第1号『そよかぜ』(1945年・昭和20年)の挿入歌として発表され、戦後のヒット曲第1号となった。作詞:サトウハチロー、作曲:万城目正。
註37:日韓条約の締結
1965年(昭和40年)日本と大韓民国との間で結ばれた条約。「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」(通称日韓基本条約)。日本の韓国に対する莫大な経済協力、韓国の日本に対する一切の請求権の解決、それらに基づく関係正常化などの取り決めがある。なお竹島(韓国名独島)問題は紛争処理事項として棚上げされた。
註38:『風雪』
1964年からNHKで放映されたオムニバス歴史ドラマの1本(全76回)。幕末から大正時代までの近代化の歴史を虚実とりまぜて描くシリーズ。『枯れすすき 中山晋平』は1965年9月9日放映。脚本はふじた氏、演出は渡辺一男氏。
『船頭小唄(枯れすすき)』は1923年(大正12年)に発表された。作詞:野口雨情、作曲:中山晋平。「おれは河原の枯れすすき おなじお前も枯れすすき どうせ二人はこの世では 花の咲かない枯れすすき」
註39:朝鮮人暴動
1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災では、報道機関が機能不全に陥り、混乱に乗じて朝鮮人(「不逞鮮人」)による暴動が発生したなどの不確かな情報から自警団によって、朝鮮人虐殺事件が関東各地で発生し、被害者には日本人もいた。亀戸事件、甘粕事件、朴烈事件の遠因ともなる。
9月2日午後8時には海軍無線送信所から「付近鮮人不穏の噂」の打電があり、9月3日午前8時以降には内務省警保局長から「朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内において、爆弾を所持し、石油を注ぎて、放火するものあり、すでに東京府下には、一部戒厳令を施行したるが故に、各地において、充分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」と電文が打たれた。
内務省出身で朝日新聞の営業局長だった石井光次郎氏(後の吉田内閣の運輸大臣)は1日の夜のことを著書に「正力君(警視庁官房主事だった正力松太郎氏(後の読売新聞社主)から、『朝鮮人がむほんを起こしているといううわさがあるから、各自、気をつけろということを、君たち記者が回るときに、あっちこっちで触れてくれ』と頼まれたということであった」と記している。
註40:沖縄の返還
1972年(昭和47年)、沖縄(琉球諸島及び大東諸島)の施政権がアメリカ合衆国から日本に返還されたことを指す。1951年に署名されたサンフランシスコ講和条約では、一定の自治を沖縄に認めたが、最終的な意思決定権はアメリカが握ったままで、1950年の朝鮮戦争、1960年のベトナム戦争の中、アメリカは沖縄各地に基地や施設を建設し、爆撃機拠点および後方支援基地とした。
1969年に行われた日米首脳会談で、安保延長と引き換えに沖縄返還を約束したが、非核三原則の拡大解釈や日本国内へのアメリカ軍の各種核兵器の一時的な国内への持ち込みに関する秘密協定など、アメリカの要求を尊重し、米軍基地も県内に維持したままだった。(様々な密約は、1971年の毎日新聞の西山記者のスクープと逮捕・有罪後、表には出なくなるが、2000年以降の米公文書館での秘密指定解除などにより、西山氏の報道が裏付けられることになる。政権交代後、2010年に、外務省も沖縄返還や60年安保関連の外交文書を公開することを決め、公開された文書により「アメリカ政府が負担すべき米軍基地の施設改良費6500万ドルの肩代わり密約」が存在していたことが明らかになり、核持ち込み密約も米公文書や米側の証言、佐藤栄作氏宅で見つかった合意議事録などから広義の密約があったと認めた)
註41:『翔びたてば鳥小(トゥイガー・とぅいぐゎー)』
鳥小(とぅいぐゎー)はウチナーグチ(沖縄方言)で「鳥ちゃん」というような意味。1982年、エルム企画で初演。1983年、戯曲として発表され、1984年、名劇協と名演会館の協同企画で上演される。
註42:朝鮮人の慰安婦
1937年、盧溝橋事件が勃発し、日中全面戦争がはじまり、日本軍は1937年末から大量の軍慰安所を設置し始めた。麻生徹男軍医の回想の中で性病検診の際に「8割朝鮮人、2割日本人」と記述があり、1938〜39年頃、華中81軒の慰安婦の多くが朝鮮人女性であった。1941年、太平洋戦争が勃発すると日本軍は占領した各地に慰安所を造っていく。慰安婦の移送は軍需輸送の一環に組み込まれ、陸軍では人事局恩賞課が窓口となった。慰安所が置かれたのは北は千島列島から南はインドネシアまで西はビルマから東はニューブリテン島まで「戦争のために日本軍が派遣されたところには、慰安所が設置された」ともいわれる。
註43:今とも変わらないし
2001年、NHKの「戦争をどう裁くか・問われる戦時性暴力」で、慰安婦問題などを扱う民衆法廷が取り上げられた。放送前に、維新政党・新風などがNHKに放送中止を求め、街宣車などによる抗議行動が行われ、番組は4分カットされた40分が放映された。放送後、自民党の故・中川昭一氏が伊藤律子・番組制作局長に会い「実は内部で色々と番組を今検討している最中です」との報告を受ける。また「「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク」は「主催団体名や肝心の判決内容が一切紹介されなかったばかりか、法廷に対する不正確な誹謗や批判が一方的に放送された」と公開質問状をNHKに渡した。
2009年、放送倫理・番組向上機構(BPO)の放送倫理検証委員会は、「改変経過がNHKの自立性に疑問を持たせ、放送倫理上問題があるという認識で一致した」として「審議」入りを決定し、「NHKの予算等について日常的に政治家と接している部門の職員が、とりわけそれら政治家が関心を抱いているテーマの番組の制作に関与すべきではない」との意見書を発表。
註44:「六日会」(毎月定例の総合雑誌批評会)
「六日会」は「情報局」との懇談会が発展し、改造、中央公論、日本評論、文牽春秋など六社で構成された。
情報局のメディア統制は太平洋戦争初期の「言論の統制」から「言論の構成」へ質的に転換していった。禁止・示達という一方的、強制的な言論統制から、情報局が「懇談・依頼・説明・内面指導」とさまざまな形で新聞社に働きかけて、両者が協働、一体化してよりソフトに、より高度な方法での言論指導にあたるのが「言論の構成」である。「内面指導」とは情報局、陸海軍報道部などが新聞社幹部といろいろな問題について懇談し新聞社側の態度を決定させ、これを取り締まりの基準とするもの。具体的な方法としては、当時の代表的な新聞-東京朝日、東京日日、読売、都、報知、中外、国民、同盟通信の八社に対して、編集局長会議、政治、経済、社会部長会議を開催し、情勢や政策を説明し記事取材の内面指導を行っていた。これは法的な措置ではないが、これに反した場合は発禁や注意を受けたため、報道の手足を別の形でしばった。また一歩進んだ「直接指導」では、軍による命令があり、それに反した場合は威嚇、脅迫、暴力的な恫喝が容赦なく加えられた。
註45:「世界史の動向と日本」の論文は「共産主義的」でなかった
第二次再審裁判の際に、細川論文が共産主義的啓蒙論文ではないことを論証した二つの鑑定書が証拠として提出された。また、註35の平櫛氏の著述も第四次再審裁判の際に証拠として提出された。
註46:飯食ってるんです
現在でも首相とマスコミの懇談会(会食)は頻繁に開かれている。また、日本の特殊性として「記者クラブ」制度があり、政府・官僚の流す情報をマスコミがそのまま横並びで記事として、批評や解説なしに通信社的な「ストレートニュース」を流す。記者クラブでは、加盟社以外の記者会見参加を認めないケースがみられるなど、記者クラブ以外のジャーナリストによる取材活動が差別されており、OECDやEU議会などから記者クラブの改善勧告を受けている。また、ほとんどの記者クラブは専用の記者室を取材対象側から無償もしくは低額で割り当てられ、情報提供などを独占的に受けている。光熱費などの運営費も負担しないケースも多い。福島第一原発事故後に、電力会社とマスコミの食事会や旅行などが問題になったが、批判・検証の対象から、マスコミが利便を受けている状況で、国民の側に立った報道が可能なのかという問題が指摘されている。
註47:「オッペケペ」
1889年(明治22年)川上音二郎が寄席で歌い、1891年以降、全国的に流行。「権利幸福嫌いな人に自由湯(自由党・じゆうとう)をば飲ませたい。オッペケペ、オッペケペ、オッペケペッポ、ペッポッポー」などの歌詞が人気を博した。
註48:『ブルーストッキングの女たち』
1983年に初演された宮本研の大正モダニズムの時代精神を描いた代表作のひとつ。平塚らいてうらが日本初の女権宣言を行った、婦人文芸雑誌「青鞜」からタイトルがとられた。平塚らいてう、神近市子、伊藤野枝、尾竹紅吉、松井須磨子などが実名で登場、彼女らと関わった大杉栄、辻潤、島村抱月、荒畑寒村、甘粕憲兵大尉らの男たちとの人間模様が描かれる。
註49:江戸時代の「五人組」まで溯ります
「隣組」は、1935年(昭和10年)に整備。兵士の壮行行事、遺族・留守家族への救援活動などを通して、町内会・隣組の組織と機能が強められた。1938年「交隣相助、共同防衛」の目的をもった隣組制度が制定され、1940年強化され、5軒から10軒の世帯を一組とし、団結や地方自治の進行を促し、戦争での住民の動員や物資の供出、統制物の配給、空襲での防空活動などを行った。また、思想統制や住民同士の相互監視の役目も担っていた。1947年、GHQにより解体された。
「五人組」は1597年(慶長2年)豊臣秀吉が治安維持のため、下級武士に五人組・庶民に十人組を組織させたのが始まり。江戸幕府もキリシタン禁制や浪人取締りのために制度を継承し、さらに一般的な統治の末端組織として運用した。近代的自治法の整備とともに五人組は法制的には消滅したが、第二次世界大戦中の隣組にその性格は受け継がれた。
◆Index 戦後の「冤罪究明・無罪獲得」のための再審裁判← →「横浜事件」もアメリカの公文書館の資料を証拠にした