─── 起訴されたのは30人位で、1945年8月下旬から9月にかけて執行猶予付きの有罪になる。その1ヶ月後(10月15日)に、検挙・起訴のもととなった治安維持法が廃止になります。 それで、有罪という判決は残るものの、牢屋に入れられるという状態ではなくなる。
戦後はね。そこで、事実無根だっていうことで更に突っぱねるかっていう相談をしてるんですけども、戦後になって自由になっているのに、頑張って何の得があるのかっていう議論をしたらしいんですよ。みんな、共産党員も牢屋から出て来て、仕事し始めているわけですから。俺たちも仕事しようよということになっちゃうわけ。
その後、何人かの人が拷問した特高刑事を訴える(註16)ということがあって、裁判で有罪を勝ち取るんですけど、判決が出たとたんに(サンフランシスコ講和条約の)恩赦で、彼らは一日も服役しないですんだと、これはあとからわかったんですけど。
そして何年か経ってから「俺たち有罪判決受けてんだよ、前科がついてるらしいよ。これ何とかしなきゃ」って言うんで再審請求になるんですよ。1986年になってからね、突然のように木村さんから電話がかかって来て「お父さんにも会いたいんだよ」という話になって(註17)。僕は木村さんに会って、再審請求運動の最初の頃、一緒に泊温泉に行ったり、いろいろ手伝いましたけどね。
─── そこからもまだ長いんですよね?
長いんです。
─── 1986年に、第一次の再審請求をして、結局、最高裁に行くのが2008年でしたね。
86年から2010年までかかるんですね(註18)。24年かかって、第一次(再審請求)から四次まで、三次と四次は並行してましたが。一次と二次はほとんど門前払い(再審の棄却)だったんですね。三次で一応、再審が受理(開始)されたんですけれども、免訴になっちゃったんですね。「有罪判決を下した裁判は、なかったこととする」という不思議な判決になるわけですよ。で、こりゃおかしいぞ、ということで、その後、第四次で「事件の内部に踏み込んで審議し、その虚構を解明し、横浜事件は特高警察と当局によって捏造された権力犯罪であったこと」がやっと明らかにされるわけです。それが2010年の2月。刑事補償請求の訴えに対して法律上、満額の決定を得た。だからそれは無罪であるということとイコールであるんですね。
─── でも微妙な判決ですよね。はっきり無罪だと言うわけではない。
それまでの先輩たちの顔を潰さないような判決をうまく考えたんですよね。
─── 先輩っていうのは、地裁、高裁、最高裁とそれまでの判断をしてきたところですよね。
そうそう。
─── でも訴えた方たちは、冤罪で捕まって無罪だっていうことを言って欲しいし、何でそんな事件が起きたのか、二度と同じような冤罪事件が起きないために事実関係をはっきりして、責任もはっきりして欲しいと主張されたわけでしょう?
やっとそれはね、法廷でそういうことが話し合われるという状況に、第四次ではなるんですよ。
─── 結局、特高は思い込みの捜査をした、拷問で自白を強要した、捕まった人達は何も悪いことをしていない、(泊会議の)嫌疑は事実無根だったということで「実質的に被告を無罪」「事実上冤罪」という、日本的な不思議な決着の仕方ですよね。
賠償請求には応じるから、応じる根拠を(無罪だとはっきり)言わないけれども、そういうこと(無罪)であるっていう話ですよ。
日本の捜査の自白主義の問題
投獄とは言わないですね、拘置されていたんですね。警察に留置されてから、拘置所で拘置されていたんです。その間、警察にいる前半は拷問、拘置所に行ってからは「手記を書け」って、毎日責め立てられているという状態。
─── 拷問の期間っていうのは何日間位なんですか?
人によってまちまちみたいですよ。「わかりました、吐きます」って言っちまったら(拷問は)すぐ終わるし。(自白したら)有罪になるから、拘置は続いて裁判になるまで引っ張られちゃうでしょうけれども。
─── 今でも自白を強要するっていうのは日本の捜査・司法の一番の問題で(註19)、他に証拠がなくても自白で通す。それから自白したら楽になるからっていう形で冤罪事件が起こる。全く同じ構図が今でも続いていますね。
告げ口したら許してやるっていうことをね、散々言われるもんですから。「誰それは、お前がやったと言っているぞ」っていう、これは切り札になるわけですね。そうすると、本当はそうじゃないと思いつつも、そうかもしれないと思い始めるんですよ。これが、僕ね、一番(問題が)大きいと思うの。戦後、(拘置所から)出て来た連中がね、友達づき合いしなくなっちゃうんです、みんな。戦争中はあんなに一生懸命一緒に仕事してた連中が、お互いに不信感を持ってるんです。木村さんがね、戦後、(拘置所から)帰って来てすぐにね、うちへ来たんですよ。その時も「誰それが白状した」「誰それがなんとかした」っていうようなことをね、愚痴って帰って行った。
で、うちの父親も散々それは警察に言われたと。だからみんな疑心暗鬼になっちゃって。誰も信用できない。
相互不信をテーマに戯曲を書いた
どこまで信じられるのかっていうね。最後の最後まで行くと、もう信じられない。ぶどうの会に書いた『ニコライ堂裏』(1962年)っていう芝居もそうです。その不信感をテーマに書いたんです。
誰かを傷つけたかもしれないという思いに捕らわれている「一出版人」が、戦後の経済的に相当しんどい時期に、中小出版社があぶくのように消えてなくなるという状況の中でね、お金を借りて歩いたりしているんですが、そのお金を貸さないということの中に、実は「横浜事件」が絡んでいて。つまり「あんたに一生を駄目にされたということがあるから、今、あんたを助けることはできないんだ」みたいな、そういうどうしようもないところに話が行ってしまう人間関係を描いたんです。
─── それは、実話ですか?
似たような話があって。
─── お父様の?
いや、親父だけじゃないですけどね。親父も、戦後、出版社をやっていましたし、当時の中央公論の仲間たちもそれぞれ色んな出版社をやってたんですね。そういうところがくっついてみたり、離れてみたり、裏切られてみたり。
─── モデルは何人かいらっしゃるんですね。
うん、いろいろいる中で。僕が書けば親父の話だろうと思われちゃうけど(笑)。親父が(芝居を)見て、「俺、あんなことしねえよ」なんて言って(笑)。
─── お褒めの言葉はなかったんですか?
「よくやってるよな」って言ってましたけどね。
それから民衆舞台に書いた『日本の言論1961』(1967年)。これは中央公論の例の『風流夢譚』事件(註20)、あれにぶつかった連中がみんな「横浜事件」のことを思い出したって聞いたんですよ。中央公論は即座に退くんですね、あのような目に遭いたくないって。
─── 記憶として残ってたっていうことですよね。
そうそう、残ってたんですね。そういう波紋の部分を書きたくってね、『日本の言論1961』っていう芝居を書きました。
あの場合は、嶋中さんの奥さんが刺されるっていう事件に発展しちゃったものだから、尚更、怯えちゃって、そのことについては社内では喋らんっていう感じになっちゃったみたいですね。あの時、相当頑張っていた京谷さんという編集者が、その後、辞めてテレビの方に行ってから僕はつき合いがあって、いろいろな話を聞いたんだけれども。本当にすごい怯え方で。
─── 身の危険という?
身の危険というか、会社がなくなっちゃうっていう。ああいう問題が起こると広告を引きあげられちゃうだろうし、やっぱりね、新聞社・出版社は広告で息の根が止められますからね、簡単に。
─── 右翼に脅迫されるとか、右翼に刺されるとかじゃなくて。
そこまで行かなくても、広告主が怯えちゃったらそれっきりですからね。それとやっぱりね、中で「闘うべきだ!」って言う人間がいたりすると、それが火元になって、内部抗争が起きて来てね、結構、大変だったみたいね。そんな話を聞いて、そこはちょっと伏せておいて、フィクションとして「何かが起きた時に、昔の事件が影を差してきて、言うべきことも言わずに終わってしまう、これで言論人たちなのか?」っていうような芝居を書いたんですよ。
─── お父様は何か言ってらっしゃいましたか、『風流夢譚』事件や中央公論社に対して。
一貫して、「だらしねえ」とか言ってました。
それから『村井家の人々』 (1994年)はもっと後になって、息子の世代が、テレビのディレクターになってまして。
─── それはご自分と重ね合わせて?
うん、重ねてはいるんですね。90年代のマスコミで、(横浜事件のようなことが)全部過去のこととして片付けられているというような状況の中で、その問題をもう一回、描いてみようということで、青年劇場が上演した芝居です。
「かつて横浜事件という事件があった」というドキュメントをやろうということになって、主人公が担当させられて、いい機会だと父親が張り切って、昔のことを一生懸命喋り始める。で、カメラ回してるわけですけども、得体の知れないところから「あの番組なくなったから」という話になる。「今、そんなことやったって意味がない」というふうに押し切られてしまう。
─── ちょうど、再審裁判をされている時期ですよね?
そうそう。再審を話題にしたんです。再審されているっていうことが、新聞報道なんかでも扱いが悪いでしょ? 小さいんですよ、記事が。テレビなんかでも、当然、追っかけていいのに、追っかけないみたいなことがあって、その苛立ちで書いたんだと思います。
それ以外にNHKで『父の記念日』(1959年)っていう作品を作って、これは『ニコライ堂裏』とほとんど同時期で、内容的にも一緒です。あとラジオドラマを一本作っています。
それから再審請求を応援しようというんで、『証言・言論弾圧横浜事件』(1990年)っていう映画を作っているんです。僕の本で橘祐典さんが監督したんですけど。どうやって、でっち上げが行われたか、どういう拷問を受けて、結局「うん」って言わされちゃったかっていう話を1人1人掘り起こして行った、まだ皆さん生きていましたからね。
─── ドキュメンタリーなんですか?
ドキュメンタリーです。
あと、最初の憲法劇の中にも書きました。一番最初の憲法劇は僕が作ったんです。『今日私はりんごの木を植える』(1983年)。名古屋(愛知憲法会議5.3集会)で作ったんですが。その時、横浜事件のようなことが起きたらどうなるか、という話をエピソードとして、結構大きく扱いました。
─── 権力からの弾圧があって、人間不信を増幅させるようなことを仕掛けて来る。
仕掛けて来るわけですね。そうするとやっぱり「みんなと一緒だ」っていうんじゃなくて、「俺は1人だ」になってくるわけですよ。その時の心細さというか。「人間ってつくづく弱いものだ」と思ったって、父親がよく言ってましたけどね。
父親もたぶん、拇印を押させられたところでね、誰かを名指しでやったと言っちゃってるんですよね。そういう人に対しては戦後、顔向けできないから。それから自分のことを名指した人間とも、もう口をきかないという関係になっているわけで。
─── 交流が残った方もいらっしゃいましたか? 例えばその木村さんとかとは?
まあ若干ありましたね。でもまあね、木村さんの方は来づらかっただろうね。「藤田さんを捕まえるきっかけは自分が作っちゃった」と思ってるから。でもそういう気持ちを超えて、戦後もつき合いがありましたしね。
事前検閲と、事後検閲
文化評論社っていうんですよ。後に「文化評論」っていう同名の雑誌を共産党系の出版社が出していますけど、あれとは無関係で。「文化評論」っていう雑誌を戦後、何年間か続けるんですけれども。
日本の昔の、戦中の検閲は、事前検閲なんですよ。これを出してもいいかどうかっていうところで検閲するわけですよ。だから印刷しないうちに、なくなることもあるわけですよ。発禁(発売禁止)は別ですよ。発禁は、発売されてからですから、もう印刷されている。
戦後になったら、日本を占領しているアメリカは「なんでも自由に作っていいよ」って言って、作ったものに対して検閲するわけですよ。全部、事後検閲なんです。で、昭和20年代のほとんどの雑誌が、これでやられてるんですよ。倉庫いっぱい、印刷されたものができちゃってから、廃棄処分しろって言われる。占領軍の命令ですから、なんとも致し方ない。
父のところも、雑誌が、次々と事後検閲でやられて、結局続かなくなっちゃったんですよ。
─── 何が駄目だったんですか?
やっぱり、明らかに共産党っていう。例えば高倉輝(註21)なんかの論文を載っけるわけですよ。あれなんかはやられたんだと思うね、やっぱり。
─── 戦争中も戦後も共産党は駄目ってことでは一貫してるんですね。
そうです。戦後はアメリカにとっては、米ソ対立の(地理的な)最先端ですから、日本は。
─── 裁判の過程で明らかになって行った事実というのはあるんですか?
全貌は誰にも見えていないんですよ。大体、逮捕者が90人もいたなんて誰も知らなかった。再審裁判の中でカウントしてったら、そこまで増えちゃった。最初は40数名ですよ。それ位だと思い込んでいて。全貌は、たぶん、特高だって分かっていないと思いますよ。ついでにあいつも捕まえて、っていうことで、どんどんどんどん広がって行っちゃったんですから。
註16:拷問した特高刑事を訴える
1947年、細川氏を代表とする33名が、28名の特高を告発した。告訴参加を断った十数名の1人岩波書店の小林勇氏は「拷問は確かにひどかった。けれども彼ら特高などは、拳骨のようなものであって、拷問させたのは誰だ。治安維持法を作ったのは誰だ。その根源を退治しなくては拳骨をなぐり返してみても意味がない。しかも、自分たちをひどい目に合わせた司法の手に、その仲間のことを訴える。それは矛盾ではないか。そして俺は今、一分の時間も惜しんで働かねばならない。こう考えたのだった」と著書で述べている。
実際、被告訴人は特高に限られ、警視正(署長クラス)以上のものは含まれず、司法省の池田克・刑事局長は最高裁判事となり、1963年まで在職。中央公論社、改造社の廃業命令時の唐沢俊樹内務次官は、戦後、衆議院議員となり、岸内閣の法相をつとめた。町村金五警保局長は参議院議員となり、田中内閣の自治相、国家公安委員長、北海道開発長官となった。保安課長、検閲課長であった金井元彦氏は兵庫県知事、のち参議院議員となった。金井氏の後任知事となった坂井時忠氏は、事件当時、検閲課雑誌担当主任であった。有罪判決を準備した石川勲蔵予審判事も、判決に当たった八並達雄判事も、1975年のテレビ番組のインタビューで、公正に審理したと答えた。
註17:木村さんからの電話
改造社の小野康人氏の妻・貞氏は「1986年(昭和61年)早春、木村亨氏から横浜事件の再審裁判についてのお電話をいただきました。木村氏のお話は、そのための資料を集めている、ということでした。(中略)当時、国家秘密法案が、前年の国会でいったん廃案になった後、その修正案が準備されており、いつまた提出されるかわからないという状況にありました。国家秘密法は『スパイ防止のため』と宣伝されていましたが、その本質は戦前の軍機保護法、国防保安法、治安維持法を引き継ぐものにほかなりませんでした」と著書で述べ、中曽根内閣によって出されていた国家秘密法案の阻止も再審請求の動機とされた。
註18:86年から2010年までかかるんですね
1945年10月15日、治安維持法が廃止。1986年、第一次再審請求。1994年、2次再審請求。1998年の第3次再審請求で、横浜地裁は2003年に再審開始を決定。2005年、東京高裁は「拷問の事実、虚偽の自白、自白のみが証拠」を認め、有罪の事実認定が揺らぐ」と認定し、再審開始が確定した。
2006年、一審の横浜地裁は治安維持法失効を理由に「免訴」を言い渡す。(免訴では有罪判決を下さないだけで、無罪とはならない)2007年の東京高裁も2008年の最高裁も「免訴」を理由に棄却。
2008年10月、第4次再審第一審開始が決定。2009年3月30日、横浜地裁も、免訴を言い渡したが、事件の被告が無罪である可能性を示唆した上で、「免訴では、遺族らの意図が十分に達成できないことは明らか。無罪でなければ名誉回復は図れないという遺族らの心情は十分に理解できる」と述べ、刑事補償手続での名誉回復に言及した。原告側は控訴せず、刑事補償手続きに移り、4月6日免訴が確定した。
2010年2月4日、横浜地裁は元被告5人に対し、請求通り約4700万円を交付する決定を行った。特高警察による拷問を認定し、共産党再建準備とされた会合は「証拠が存在せず、事実と認定できない」とした。その上で確定有罪判決が「特高警察による思い込みや暴力的捜査から始まり、司法関係者による事件の追認によって完結した」と認定し、「警察、検察、裁判所の故意、過失は重大」と結論づけた。再審で実体判断が行われた場合には無罪判決を受けたことは明らかであるとして、実質的に被告を無罪と認定し、事実上事件が冤罪であったことを認めた。(ただし、拷問が原因で死んだ5人や60人を超す他の被害者については未決のまま)
註19:自白を強要されるっていうのは日本の捜査・司法の一番の問題
2013年5月、国連拷問禁止委員会で「日本は自白に頼りすぎではないか。これは『中世』の名残である」と日本の刑事司法制度への批判があった。自白のみを証拠とする捜査・司法は、常に、自白の強要・冤罪が問題となり、最高検察庁は2006年から、一部の事件の取り調べで録音・録画の試行を始めたが、一部だけでは検察にとって都合のいい部分だけを証拠にできるため、「取り調べ全過程の録音・録画(可視化)」を日弁連などは求めている。
註20:『風流夢譚』事件
「中央公論」に掲載された深沢七郎氏の小説『風流夢譚』の中に皇太子・皇太子妃が民衆に斬首される描写があり、1961年、右翼団体の少年が嶋中社長宅に行き殺傷事件を起こし、雅子夫人は重傷、側にいた家政婦が死亡した。
註21:高倉輝(タカクラ・テル)の論文
高倉輝(1891年・明治24年~1986年・昭和61年)は、劇作家、小説家、政治家、著述家。ロシア革命の影響を受け、河上肇によってマルクス主義に接近。戯曲や翻訳を手がけ、やがて著述家として独立。1932年(昭和7年)以後、再三検挙され、戦後、1945年10月に釈放されるとともに日本共産党に入党。1946年衆議院議員に当選。1950年マッカーサーは日本共産党の非合法化を示唆し、高倉は1950年6月全国区から参議院議員に当選したが、翌日マッカーサー指令により公職追放となった。公職追放の指令は1952年のサンフランシスコ平和条約の発効とともに解除された。
◆Index 「横浜事件」という事件はない← →治安維持法がひどくなるきっかけだった