第三十二話

 三人の入浴から1時間20分が経過した。
 バルドはすでに脂汗すら出ずに干からびた老人のように憔悴しており、アルフォードも同様に忍耐の限界を迎えようとしていた。

 「すまない。誠にもってすまないが、もう私も娘をさらっていくかもしれない男と顔を突き合わせているのは限界なようだ」
 
 だったら隣の部屋にでも行ってくれよ、とバルドは思うが口には出さない。出した瞬間に戦争が勃発することは目に見えているからである。
 
 「落ち着いてください、閣下。私はお嬢様をさらったりしません」
 「ふふふふふ………自分から泥棒と名乗る泥棒はいないのだよ………!」

 血走った目でアルフォードに詰め寄られると、さすがのバルドも対応に苦慮した。
 相手は十大諸侯の当主、さすがに直接暴力で制圧するのもためらわれる、というかそんなことをすればバルドの身が危うかった。

 「悪く思うな。我が娘に近づいた君の運の悪さを呪うがいい」

 あわや、アルフォードの手がバルドの首にかかろうとした瞬間だった。


 「何をしているの?お父様」

 救いの女神がようやく帰還を果たしたのである。




 明らかに不審な動きで首に向けていた手をバルドの肩の上に置いたアルフォードは、ひきつった愛想笑いを浮かべて娘を見た。
 娘を奪う悪い虫は許せないが、それでも娘に嫌われるほうが身を切られるよりもつらい哀しい父の性であった。
 その姿勢のまま、娘に目を向けたアルフォードは硬直して言葉を失った。
 油のような不自然な艶ではなく、かといって脂分がなくパサパサに乾いているわけでもない。見事な輝きと艶を両立させながら、なおサラサラの金細工として製錬されたかのような髪である。
 くっきりと頭部に輝く天使の輪のような煌めき。
 これまで決して見たことのないものでありながら、不自然ではなくもともと持っていた美しさが内から曝け出されたかのような印象だった。
 
 「な、なんなのだ?いったいこれは………?」

 アルフォードは十大諸侯に数えられる大貴族である。
 その彼にしてこの美しい創造物に出会った衝撃は比類するものがなかった。
 たとえ同量の黄金を目にしたとしてもこれほどの驚きはなかったであろう。
 シルクは手櫛に髪を通して、サラサラと指からこぼれる感触を楽しむとともに、潤いと艶に満ちた髪に年齢相応の無垢な瞳を輝かせた。
 その屈託のないシルクの表情にアルフォードは再び表情を凍らせた。
 張りつめた重すぎる義務感を感じさせない、年齢相応のシルクの表情を見るのはいつ以来のことだったろうか。

 「すごい……本当にいつまでも触っていたいわ………」
 「まさかあれだけで髪がこんなに変わるとは思いませんでした………」
 「あかん……贅沢でも、もうこれは手放せんでえ」

 三人は予想以上の効果に夢心地から戻りきれないようであった。
 そんな娘たちの様子を見守っていたアルフォードはぽつり、とバルドに向かって呟いた。
 
 「………すまん、な。私は君に礼を言うべきなのかもしれない」

 娘の笑顔を取り戻してくれて。
 悲壮な覚悟に身を差し出していた殉教者のような娘を解放してくれて。

 「―――――――どうかな?バルド」
 「よく似あってるよ。とても綺麗だ」

 途端に照れたように顔を真っ赤に染め、俯きながら「えへへ……」と笑うシルクは何とも言えぬ可愛らしさであった。
 同じくうれしそうに頷きあうセイルーンとセリーナの姿を見たアルフォードは、冷たく視線を凍らせると自分の判断が間違っていたことを確信した。

 「…………所詮はあの男の息子か――――――」
 「えっ?ちょっ!閣下何す――――」
 「ちょっと!お父様いきなり何をやってるの!」
 「離せ!私のシルクに近づく男はすべて抹殺しなければならないんだあああ!」


 本能の命ずるままにバルドの首を絞めるアルフォードに、首を強化してなんとか耐えるバルド。
 アルフォードの手を必死に引き離そうとするシルクというカオスな情景が展開される。
 しかしそのカオスはシルクの一言によって打ち破られた。

 「お父様なんて大嫌いっっ!!」

 「のおおおおおおおおおおおおおおおおおおおっっ!」

 絶望の悲鳴が、言葉にならぬ慟哭が、ランドルフ侯爵邸に延々とこだましたという。






 それからわずか一週間ほど後のこと。
 ランドルフ侯爵家の伝手で、王国でも特上の階層にプレゼントされたトリートメントとリンスは上流階級の女性陣に計り知れない衝撃をもたらしていた。
 なかでも、マウリシア王国王妃と王女が晩餐会で眩い光沢に満ちた金髪を披露した事実は、たちまち王都の宮廷貴族に燎原の火のように広まっていった。
 あの美しい髪はどんな魔法がかかっているのか?
 当初あまりの美しさに、その正体が薬剤ではなく、新しい魔法による仕業だと噂した者もいるらしい。
 しかしそのでどころがどうやらランドルフ侯爵家である、ということがわかるとアルフォードのもとに問い合わせが殺到した。

 「実はある知り合いの伝手で手に入れたものでしてね。残念ながらまだ数が出回っていないらしいのですが……」
 「そこをなんとか!金ならいくらかかっても構いませんから!」
 「ここで手ぶらで帰ったりしたら妻が………」

 全く、大したものだ、とアルフォードは思う。
 アルフォードは王国で影響力ある諸侯のひとつではあるが、同時にトリストヴィーの王位継承者を保護する王族でもある。
 アルフォードはそうした政争の巷にシルクを放り込むつもりはないが、シルクを利用しようとする者も、邪魔で排除したい者もいることもまた事実であった。
 当然上層部の貴族に貸しを作っておくというのは、アルフォードにとって馬鹿にならない利得となるのである。

 「本来当家に頂いたものなのですが……わずかでよければおわけしましょう」
 「おおっ!感謝いたしますぞ!」

 (全くもって気にくわぬ小僧だが………才覚だけは認めてやってもいいかもしれんな)





 再び学校が休みとなる8日後を待って、バルドとセリーナは一人の男と約束をとりつけていた。
 「悪いけど今日はセイルーンはお留守番」
 「そ、そんなぁ!」

 がっくりとうなだれる侍女を学校に残して二人が向かった先は―――――ダウディング商会の本部である。

 「これはようこそおいでいただきました。バルド殿、セリーナ会頭」

 出迎えたのは年のころ30を過ぎようかという若者である。
 王都では珍しい黒髪に黒い瞳で、知性的な顔立ちをしている。
 物腰は柔らかいが、発散する気配が、この青年が決して低くない地位であることを告げていた。

 「申し遅れましたが私、当商会で国外商事部を任されておりますトーマス・フィリップスと申します」

 王都で最も大きい規模を誇るダウディング商会は、もちろん国外との貿易量も大きく分厚い販路網を所有していた。
 営業規模としては国内と国外ではやや国外の取り扱い高が大きく、国内のほうが利益率が高いという状態であり、両者はライバルとして社内でしのぎを削る関係にあった。
 中でも、どういうわけか途轍もなく利益を弾き出す高額物件を獲得するクラン部長と、論理的な営業展開で確実な利益を弾き出すトーマス部長は次期常務の地位をめぐって成績を争う関係だったのである。

 まずは商会を代表してセリーナが頭を下げた。

 「ご丁寧にありがとうございます。今日こうしてお邪魔させていただいたのはおそらくお耳に入っているであろう洗髪料の件でございます」

 「当社にも随分問い合わせが来ておりますよ。ダウディング商会では取り扱っていないのか、とね。国内貴族に得意先の多いクラン部長は頭を抱えているでしょう」

 そう言って楽しげにトーマスは笑う。
 ライバルの苦境が楽しいのか、あるいはすべての事情を知ったうえで笑っているのか、バルドには判断がつかなかった。

 「御存知でありましょうが………あの洗髪料を開発したのは当商会です」
 「そのようですね――――いったいどうやってランドルフ侯爵家と懇意になられたので?」
 
 それだけがトーマスにはわからなかった。
 新商品を開発するのはまだわからないではない。
 しかし貴族に伝手をつくるとなるとポッと出の商人には非常に困難なはずであった。
 今回の爆発的な洗髪料の反響も、王家につながりの深いランドルフ家の後押しなしにはありえなかったであろう。

 「………それは偶然のお導きということで」

 まさか娘に嫌われるのが嫌で土下座して便宜を図ってくれたとは言えない。

 「まあ、それはいいでしょう。それで?私を名指しで指名していただいた理由をお聞きしたいのですが」

 「先日クラン部長には当商会の買収を提案されておりまして、もちろん拒否いたしましたがなぜかゴロツキの襲撃に会いましたわ。地下ギルドにも話を通してありましたのに、私とても驚いていますの」

 セリーナの言葉にさすがのトーマスも眉がピクリと跳ねあがるのを抑えることができなかった。ここ数日、長年友好関係にあった地下ギルドや傭兵ギルドがなぜか非協力的であるという情報が部下から上がってきていたのである。
 もしも事実ならそれだけでも解雇に値する失態だった。
 ――――同時に、地下ギルドにまで伝手があるというサバラン商会には警戒の念を禁じ得ない。王都でもたまに依頼をする程度ならともかく、保護の話を通せるのはごく一部の大店だけである。

 「知り合いの傭兵が傭兵ギルドに顔が利いてね。その縁で今回は地下ギルドに手を回してもらった」

 バルドの言葉に合点がいったとばかりにトーマスは頷く。
 なるほど銀光マゴットを母に持つバルドならば、傭兵ギルドに仲介を依頼することは十分に可能なはずだった。
 
 「そこで意趣返しとしてはなんだが、この状況で国外向けの輸出用としてトーマス部長がサバラン商会と業務提携に成功した、となればどうなるかな?」

 バルドの意図に気づいたトーマスはニヤリと嗤った。

 「クラン部長の面目は丸つぶれですね。国内向けの需要は天井知らずです。当然国外部から商品を回せと言ってくるでしょうが……」
 「なぜ、国外部では出来て国内部では提携が出来なかったのか?地下ギルドの件も含めて暴露されたらどうなります?」
 「これまでどれだけ商会に貢献してきたとしても放逐は免れませんね。今後ダウディングの名のつく一切の部門から出入りを禁止されるでしょう」

 トーマス自身、非合法な手段を多用するクランの手法はダウディング商会の品位を下げるものだと苦々しく思っていた。
 この機会に追放できるのならば切り捨てておきたいところだ。

 「――――――まあ、それはついでとして商売の話に戻しましょうか」

 セリーナの言葉にトーマスは曖昧に頷いた。
 彼らの主目的はクランの排除ではなかったのか―――――?

 「サバラン商会はダウディング商会の販路と流通網を非常に高く評価しています。当商会には商品はあれど販路と流通力が不足している。しかし莫大な利益を生む商品は当商会でしか販売できない。―――――私たちは良いビジネスパートナーになれると思うのですが」

 そこまで言って初めてセリーナはずっとかぶりっぱなしであった帽子を取り去った。
 滑るようにサラサラと流れる黄金の金細工、そして宝石のような輝きのなかにもしっとりと濡れるような潤いを秘めた髪にトーマスはあんぐりと口をあけたまま絶句した。
 ―――――女神がこの世に降りてきたのではないか―――不覚にもトーマスはこのとき本気でそう思いかけた。
 それほどにセリーナは美しく幻想的で犯しがたいものに思えたのである。
 同時に、この髪が手に入れられるのならば、どれほどお金を積んでもよいと言う貴族は国内ばかりか国外にも腐るほどいるであろうことをトーマスの頭脳は計算し始めていた。
 それを売りさばくだけの顧客と信用がダウディング商会にはある。
 サバラン商会が求めているのはまさにその点にあるに違いなかった。
 このビッグチャンスを逃すのなら、商売人など今すぐ辞めてしまうがいい。
 トーマスは持てる権限と財力のすべてを投じてこの機会を捉えることを決断した。

 「マウリシア広しといえどサバラン商会の期待に応えられるのは当ダウディング商会だけでありましょう」

 今後一大ブームを巻き起こすサバラン・ダウディング商会の提携が成立した歴史的な瞬間であった。




 「そ、それで提携のお祝いに二人で食事でもいかがでしょうか?セリーナ会頭」
 「うち、これでも身持ちの堅い女やねん。勘弁な?」

 覚悟を決めて誘ったにもかかわらず0.2秒で秒殺されたトーマスは、商売で取引に失敗したよりはるかに深く落ち込んだという………。






 「くそっ!くそっ!どいつもこいつも!俺がどれだけ金を運んでやったかも忘れやがって……恩知らずめが!」

 ダウディング商会を解雇され、取引先にも再就職を断られたクランは街で浴びるようにアルコールを流しこんでいた。
 もとより相手の弱みにつけこむ才能はあっても、正当な営業力があるわけでもなく、ダウディング商会という看板のなくなったクランを必要とする商会などあるはずもなかった。
 しかし金看板の元特権階級にのさばっていたクランはかつての栄光を忘れられず、またぞろ地下ギルドに依頼を出していた。
 サバラン商会さえ手に入れればまた返り咲ける、それだけがもはやクランにとって最後のよすがであったのだ。

 「もっとだ!早く酒をよこせ!」
 「………やれやれ、飲みすぎても知りませんよ?」
 「お前の知ったことか!この店で一番強いのをもってこい!」

 いかにもアルコール度数の強そうなブランデーを呷るように飲んだクランはゴホゴホとむせった。
 胃が燃えるように熱く、吐き気がのどの奥からせりあがってくるのを感じる。
 いかん、飲みすぎたか?
 店のカウンターの盛大に胃の内容物を吐き出したクランは、目の前の光景に目を剥いた。
 胃の内容物と思っていたものは、大量の真っ赤な鮮血であったからだ。
 吐き気はとまらずに次から次と鮮血が吐き出され、話すことさえままならない。
 早く医者を呼んでくれ!
 声にならぬ声でマスターに助けを求めたクランは、先ほどまで愛想のよかったマスターがゾッとするほど冷たい目でこちらを見て嗤っていることに気づいた。

 「ギルドマスター(おやじ)は最初から忠告しておりましたよ。手を出すな、と」

 地下ギルドまで俺を裏切って殺すというのか!
 ゴポゴポと嫌な音を吐き出しながらクランは狂ったようにのたうちまわった。
 死にたくない。再びあの栄光を取り戻すそのときまで。
 血の塊がのどで詰まり、呼吸さえ怪しいものになってくると、次第にクランの意識は深い闇に吸い込まれ始めた。
 意識を失ったら死んでしまう。
 なんとか意識を繋ぎ止めようと、クランはカウンターに自分の頭をうちつけた。
 しかしほとんど痛みすら感じない。
 だめだだめだ!なんとか意識を繋ぎ止めないと!

 「………これはせめてもの情けってやつです」



 困ったような顔でマスターの振り上げたアイスピックが、クランが見た最後の光景となった。







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