「クランやと?」
「知ってるの?セリーナ」
あえて知っているのか雷電とは言わない。
メタ的な意味で。
「王都に店出した途端、店を売れとか言ってきた失礼なおっさんや。うちに高級商品材の市場を荒らされたんで粉かけてきたって感じやな」
「ダウディング商会といえば王国でも一・二を争う総合商会じゃないか………そんな大手がえげつない真似するね…」
まさか店ごと買収しようとするとは思わなかった。
どれだけ金を積んだのか知らないが、人は金のみで生きるものではないし、ましてセリーナには商人としての志とプライドがある。
けんもほろろに断られて非常手段に頼ったということなのだろう。
あのチンピラにまともな自制心が期待できたとも思えない。
それはすなわち、そのクランという男がセリーナがどうなっても構わないと考えていたということでもある。
そう考えるとバルドは腸が煮えくりかえる思いを禁じ得なかった。
正直地下ギルドの影響力を過大に評価しすぎたという、バルド自身の判断ミスも大きい。
せっかくジルコから紹介状をもらっていたというのに、これでは本末転倒というべきだろう。
いや、地下ギルドのような本職が動いていなくて幸いだったというべきか。
「――――ダウディング商会となると王都キャメロンの商会長でもあり、いくつもの有力貴族に伝手があると聞きます。いささか厄介な相手ですね」
シルクの母が嫁いだランドルフ侯爵家でも、ダウディング商会が出入りしているのをシルクは知っていた。
ある程度の御用商人もいるが、この王都でもっとも多くの貴族と取引をしているのがダウディング商会であるのは紛れもない事実であった。
「そうやな。こいつらの証言だけじゃクランの首までは取れんかもしれへん」
バルドとシルクが証言を聞いているので、少なくとも無視されることはないだろうが、それでも証言の信用性を争われると裁判での勝敗は微妙である。
田舎から出てきたばかりの中小商会と、王都一の大商会では信用も実績も、納税での貢献も違いすぎるのだ。
下手をすればサバラン商会の利権を狙う貴族に目をつけられて、ダウディング商会が逆に勝利する可能性すらあった。
「悔しいですがここは彼らを捕縛したことでよしとしたほうが良いのでは………」
貴族として裏の事情に通じているシルクの考えはおそらく正しい。
だがコルネリアス伯爵家嫡男、銀光マゴットと鉄壁イグニスの一粒種バルド・コルネリアスとしての考えは違う。
どんな手を使おうと、いかに時間をかけようと受けた借りは返す。
それが恩であろうと仇であろうと、だ。
「ちょうどいい機会だ。奴が誰を敵に回したのか、たっぷり後悔してからご退場いただこうじゃないか」
正面から争うのが無理なら搦め手を使うだけのことだ。
もちろん情けをかけるつもりなど微塵もない。
これまでのところサバラン商会は下級貴族や裕福な平民を相手にすることで業績を伸ばしてきた。
砂糖の生産とそれを利用した菓子などの開発は、貴族が食べている高級なものを庶民に、というコンセプトであったし、金メッキも、大貴族しか持つことのできなかった金細工を下級貴族や平民にも、という戦略で売り上げを伸ばしているのである。
そもそも、わざわざ値段の安い亜流商品を買う大貴族はいない。
最近噂になっているゴートコレクションを集める好事家の貴族が、わずかにいるくらいだろうか。
そこでバルドとセリーナは王都進出を機会に大貴族、そして王族へと販路を伸ばすための新製品のアイデアに頭を振り絞っていた。
大貴族がどんなに金を積んでも欲しがる代替品のない嗜好品―――――。
それを説明しようとしたバルドを、その知識を与えた人格が乗っ取った。
『もうこれ以上我慢できなかったんです!』
突然叫んだバルドの言葉にシルクは首をかしげた。
バルドが何を言ったのか全く理解できなかったからである。
セイルーンとセリーナはバルドがこうした奇矯に出る理由を知っていたため驚くことはなかった。
「失礼しました。日本語では通じませんよね」
岡雅春が表に出てくるのはおよそ1年半ぶりのこととなる。
年若いせいか雅春は大陸公用語を覚え今ではバルドと変わらずこの国の言葉を話せるようになっていた。
「日本ほどとは言いませんが確かにマウリシア王国は住みやすい国です。衛生状態も悪くはないし、庶民にまで風呂が普及しつつある。ですかそれでは足りない!せっかくこうしてセイルーンやセリーナやシルクのような美少女に囲まれているというのに!それだけでは納得できないのです!」
バルドの口からはっきりと美少女と告げられ三人は期せずして顔を赤らめた。
そんなことにも気づかず雅春の独演は続く。
「肌はいいでしょう。少なくとも若いうちはそれほど手入れしなくとも荒れないように気をつけていれば問題はありません。しかし!しかしながらこれだけはマウリシア王国に足りないと断言できる!それは――――――トリートメントとブラです!」
「はあっ?」
熱く語られはしたものの、その言葉がどんなものを指すのかという情報が三人にはない。
かろうじてセリーナが新たな商品のアイデアが出来たと聞かされていた程度なのである。
しかし女の本能というべきか、それが女性の美しさに関連した何かであるということを三人は本能的に察した。
「それで?そのトリートメントっていうのとブラってなんなの?」
「それがダウディング商会に対抗する切り札になるって言うのかしら?」
自信ありげに雅春は胸を張って微笑む。
いつの世でも女性が美を追い求める欲求とは、業が深いものなのだ。
そして家庭では尻に敷かれる男性が多いというのも、嘘偽らざる世の真実というべきものであった。
その真実の前には大貴族であろうと王族であろうとも逃れることはできない。
女性の心をつかむということは同時にこの国で一定の政治力を行使できるということと同義でもあったのである。
この世界に一つの人格として知覚したときから雅春はずっと不満に思ってきた。
髪は女の命と言われるほど素晴らしいものなのに、どうしてこの世界は髪に無頓着なのか――――そう、彼は髪に萌えを感じてしまう少々いけない趣味の人間であった。
一般的に庶民は髪を洗うのもただの水洗いであるのがほとんどである。
これが貴族になると香油を含んだ石鹸で洗うのだが、当然のことだがアリカリ性の石鹸で頭を洗うと、洗髪後にアルカリ分が付着してキューティクルが開いてしまうという現象がおこる。
そのため保湿がうまくいかずドライヘアになり、枝毛が増えるという事態になるわけである。
せっかくの美しい髪がパサパサに干からびていたり、逆に油でギトギトしていることに雅春は我慢がならなかった。
こういってはなんだが、セイルーンやセリーナたちもしっかりトリートメントして、綺麗な天使の輪を描く髪を取り戻せば魅力が二割増しに増えること請け合いである。
「一刻も早く製造方法を教えなさい」
魅力二割増しが思わず声に出ていたらしく、目の座った三人に囲まれた雅春はあっさりと主導権をバルドに返還することを決断した。
「後は任せた」
「いやいや、せめて彼女たちを抑えてからにしてよ!」
ここまで話した以上、放っておいても彼女たちがトリートメントを手放すことはありえないだろう。バルドの未来に幸多からんことを祈って雅春は眠りについたのだった。
現代日本においても毎日風呂に入り洗髪するようになったのは戦後になってからのことであり、江戸時代においては洗髪は月に一・二度というのが常識であった。
石鹸が高価であったために、同じアルカリ性物質である灰汁などで油よごれを落とし、菜種油やびんつけ油で髪を整える女性の姿が当時の浮世絵に描かれている。
それでも非衛生的であることは隠せず、恒常的に江戸の市民はシラミに悩まされてきたという。
衛生環境的にはまだマウリシア王国のほうがましと言えるが、毎日風呂に入れるのは裕福な貴族だけであり、庶民は週に数度公衆浴場へ行くか、家で水で身体を拭うというのが現状である。
「――――要するにアルカリ性石鹸で落とした汚れを綺麗に洗い流し、酸性のトリートメントで中和すると同時に痛んだ頭髪の内部に補修成分を与えるわけなんだけど………」
「何を言ってるのかわからないわ」
「うちもや」
「私も」
「ですよねぇ―――――」
それはそうだろう。
体験的なアルカリ性、酸性の区別はついても、それが科学的にどうした性質を持つのか、この世界ではまだ解明されていないのだから。
「百聞は一見にしかずというし、お三方で実験してもらうとしようか?」
バルドの言葉に三人は一もにもなく頷いた。
陽光に煌めく美しい髪が手に入る、しかもそれがバルドにとって非常に魅力的であるとわかった以上三人の乙女に断る理由など何一つなかったのである。
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