「筋力の強化を意識しすぎちゃだめだ。むしろ半分は認知伝達系に力を注がないと役に立たない」
「難しいわね………」
1回生トップの身体強化能力を持つシルクにしてなお、バルドの持つ身体強化を真似ることは難しい。
身体全体のベースアップを図る基本的な身体強化と比べると部分強化は扱いが難しく、危険も大きい。
実のところバルドも何度は骨折したことがあり、さらに骨折した箇所をカバーするために別の部分を身体強化させられるという、常識を疑うような修行をさせられていた。
バルドの師である銀光マゴットはこの部分強化における規格外的な達人で、身体強化で強化しなければまともに視る、ということすら不可能な速度を実現した。
当然そうした速度には、その速度を生かすだけの脳神経の伝達処理が必須であり、こうした速度向上をマゴットはほとんど反射でやってのける。
筋肉や骨格の向上と違い、伝達系の向上は人間の構造学的な理解とイメージが必須であり、現役の騎士でもこれを使いこなす者は少ないと言われている難事なのである。
「考えるな、感じろ!」
「うん。それ無理」
楽しそうに訓練を続ける二人に注がれるクラスメイトの視線は痛かった。
それでなくともバルドは美少女メイド、セイルーンになぜか気に入られていることが判明している。
さらに無愛想なクールビューティーであったはずのシルクが、笑顔を振りまいて楽しそうに話していた。
シルク自身にも説明のつかない心の動きなのである。
最初はバルドの規格外の武力を教えてもらいたいとしか思っていなかったはずなのに、ともに話せば心浮き立ち、教え以外の部分まで独占したい欲望にかられる。
見果てぬ夢でしかなかった祖国の解放が、実現可能なのではないか、と希望をもってしまう説明のつかない求心力のようなものがバルドにはある。
それがなんと呼ばれる心の動きなのか、シルクは知らない―――――。
この状況でバルドが集団暴行の洗礼を受けていないのは単純にクラス最強のシルク、ブルックスと友人でかつ自身も講師に匹敵する武力の持ち主であるからだ。
「憎しみで人が殺せたら―――――」
血の涙を流しそうなクラスメイトの怨念を前にバルドは居心地悪そうに背筋を震わせた。
「最近この感じ、多いなあ………」
「………メイドのこの身が口惜しい……女狐の跳梁をみすみす見逃さねばらならないとは……」
同じころ、食堂で皿を磨きながらブツブツとつぶやくセイルーンがいた。
その感覚が非常に身近に存在することを、まだバルドは知らない。
「それでは授業を始める」
歴史学を受け持つのはヒョロリと190cm近い長身で、騎士のイメージからはほど遠いグラフトン講師である。
年も34歳と若く、もともと王宮で書記官の一人として働いていたが、その学識を買われてスカウトされたらしい。
「前回の授業までは統一王朝期からマウリシア王国の建国までを説明したわけだが……」
マウリシアの初代王は大陸を統一した最初の統一王朝スペンサー朝の四男として生を受けた。
今から360年ほど前、皇帝と皇太子が権力闘争の末内乱に発展すると、残された王子たちもまた、自らの領地を拠点に群雄割拠を始めたのである。
運よくマールバラ大平原を所有し諸侯を糾合して独立勢力として頭角をあらわしたのがヘイスティングス王子、のちのマウリシア初代王であった。
その後王朝は北方のノルトランド王国と南方トリストヴィー王国、帝都を抑えた後継国としてアンサラー王国、そしてマウリシア王国に分裂する。
さらにガルトレイク王国、サンファン王国、ネドラス王国、ケネストラード王国などの無数の小王国が生み出され、その中にはマウリシア王国の宿敵となるハウレリア王国も含まれていた。
「君たちは騎士になる以上、現在の王国のしがらみと無縁ではいられないだろう。今日は王国を取り巻く状況について説明することとしよう」
7代目を数えるマウリシア王国の現国王、ウェルキン5世は現在46歳と脂ののった君主である。10年前の戦役で疲弊した王国経済を立て直し、さらに大勢の貴族が戦死した機会を捉えて王権の拡大に成功した。
血統の途絶えた貴族領は王室の直轄領に編入され、さらに王室に強い影響力を持っていた王の従兄弟にあたるコンラード公爵が戦死したこともあり、王位継承者も少なくなったことも大きかった。
その後ウェルキン5世は四男二女に恵まれその治世は順風満帆に見える。
だが一時数を減らした貴族であるが、断絶した家系の再興を求めるなど影響力を取り戻すために水面下で工作を続けている。
対外的にはハウレリア王国の南部にあたるサンファン王国と同盟を結び、長女を現在も大陸でもっとも巨大な国家であるアンサラー王国王太子に嫁がせることに成功した。
対するハウレリア王国は自国の経済発展よりも軍備拡張を優先しており、10年前より国民の生活は目に見えて悪化した。
しかし軍事力だけをとってみればマウリシア王国の二倍以上の兵力を、おそらくは練度でも上回る状態で整備していると考えてよい。この兵力を長く維持し続けることは困難で、いずれハウレリア王国は軍事投資を取り戻すために戦争を開始せざるを得ないというのが王国上層部の一致した見解である。
ところがここで政策の見解は二つに割れることになる。
国防部としては侵略を防ぎ、これに打撃を与えることは当然の義務である。もちろんその中には優勢な敵に対する先制奇襲も含まれる。
これに真っ向から反対なのが宰相を頂点とする文官宮廷貴族である。
もともと戦争は多大な出費と流血を必要とし、それに見合う見返りを獲得することは少ない。
もしも先の戦役と同様の経済的損失と人材の消耗を強いられた場合、最悪この国は国王を筆頭に貴族という階級を通り越して平民によって国家経営がなされる可能性があった。
それでなくとも下級行政官への平民の進出は著しく、中には一代貴族として高級官僚に出世する平民も出始めていたため、彼らの憂慮は決して故ないものではなかったのである。
もちろんウェルキン5世も望んで戦争をするつもりはなく、ハウレリア王国と戦争になった場合、損失は膨大で得られるものは何もないという最悪の状態になると予想している。
だからといってハウレリア王国軍侵攻に対して何の用意もしないわけにはいかないのが為政者というものだ。
ところがいたずらにハウレリア王国を刺激することになる、という理由で国境の要塞化は遅れるばかりで、在地領主が自腹で整備しなくてはならないというのが実情であった。
バルドの故郷コルネリアス領にいたっては破壊された砦と城塞の補修すら自らの費用を持ち出している。
そのため辺境貴族と軍部、そして宮廷貴族との間には抜き差しならない軋轢が生じつつある。
国王は不気味な沈黙を保っているが、強かな王国のこと、この対立を利用してさらなる王権の強化を習うでつもりであろう。
「騎士団の定数もいまだ戦役前の水準まで回復していないというのが実情なのは問題だ。軍部は決して主戦論に組するものではないし、いざというときの備えは平和な時間にこそ必要だということを理解してもらえないのは遺憾というほかないな」
もとは文官であるグラフトンですら現在のマウリシア王国の危うさは理解できる。
万が一想定外の敗北を喫すれば、立ち直る機会すら与えられずこの国は亡国を迎えるだろう。
現在の戦力は防御に徹する最低限のものであって、予備となる戦力がないためである。
せめて王妹の嫁いでいたトリストテヴィー王国が健在であれば援軍をあてにできていたのであろうが………。
トリストヴィー王国で内乱が発生したのは8年ほど前に遡る。
当時マウリシア王国とハウレリア王国の戦役で戦争特需に沸いていたトリストヴィー王国では商人階級の力が増大し商人区画を一種の自治領として国王に認めさせるまでになっていた。
商人の経済活動を保護し、その税金で国を富ませることを国是としていた国王は、むしろ商人の権益を拡張することで戦役後もより強く経済成長を達成するという政策を実行したのだが、これに真っ向から反対したのが王弟にあたるクレマンソー大公である。
商人の自治権の拡張と、移動関税の廃止は貴族の権利侵害と同義であり、中には貴族としての生活が破たんし財政を実質的に商人に乗っ取られるものが続出していた。
そして貴族出身が多い王国騎士団を味方につけた大公はクーデターで国王を処刑し、トリストヴィー公国大公に就任したのである。
ウェルキン5世の王妹であるカタリナ王妃はかろうじて国境を越え故国にたどりついたが、夫の処刑を聞いて失意のまま、わずか数か月で病死してしまった。
本来であれば援軍を送るべきマウリシア王国であったが、戦役で人材も財政も払底しており、とても外征をできる状態にはなかった。
あるいはクレマンソーも、マウリシア王国がその状態であるからこそクーデターを決行したのかもしれない。
問題はここからである。
大公の就任でかつての権利を取り戻した貴族であったが、すでに彼らの財政は商人の協力なしには成り立たなくたっていた。
横紙破りに搾取しようと強制的に税を搾り取ろうとする貴族もいたが、続々と大商人が国外に逃亡するか、あるいは港湾都市マルベリーに拠って抵抗を開始するとたちまち困窮して大公に改善を要求するものが続出した。
翌年、大公は貴族軍を糾合しマルベリーに攻め込むが豊富な資金で傭兵を大量に雇った商人組織は陸でも海でも大公の軍を撃退することに成功した。
早期に商人を屈服する可能性が失われたことで、ある程度商人の要求をのみ妥協するべきであるという勢力と、あくまでも商人の財産を搾取するべし、という勢力が分裂。そこに商人組織の資金援助で、王位継承者を再び王位につけようとする王党派が介入してトリストヴィー公国は誰が誰の味方なのか定かならぬカオスな地獄と化したのである。
最近は商人組織も大公派とある程度の妥協を成立させた大公派と王党派、さらに噂ではあるがアンサラー王国に亡命した商人たちは、かつての商業国家トリストヴィー王国が復活してしまっては困る、と内乱が長期化するために両方の勢力に資金援助を行っているらしい………。
「残念ながらトリストヴィー公国の内乱が早期に収束する可能性は低い。難民の流入や国境での匪賊の出没による犠牲を考えればかの国が安定してくれることが望ましいのだが、我が国も到底トリストヴィーに出兵できる余力はない。残念ながら我が国が支持する王党派の勢力は各勢力のなかで最低でもあるしな………」
グラフトンの講義をつらそうな顔で聞き続けるシルクを、見るとはなく見てしまったバルドは初めて年相応の顔をシルクが見せたような気がして胸が痛んだ。
戦役がコルネリアス領に刻んだ傷痕も決して浅いものではなかったが、ここにも理不尽で救いのない現実が存在したのである。
騎士の修行を終われば、シルクはこの終わりの見えない戦場に身を投じるのだろうか。
そのために彼女はあんなにも必死に強くなろうとしているのだろうか。
それは彼女にとって本当に幸福な選択と言えるのだろうか。
自分の故郷のために自分が何をするべきか、ということにバルドは悩んだことはない。
しかしシルクにとって最良の選択とはなんなのか、いくら考えてもバルドは答えを出すことができなかった。
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