わたしのわたしのおにいちゃん
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今日も、人々の営みが終わろうとしている。
日は既に落ち、夕闇が空を覆い始めている。
外にいた多くのものは家路に着き、一家の団欒の時を過ごそうとしている。
そして、村の端のほうにあるこの家も一日の疲れを癒すべく、テーブルの上に夕食が並べられていた。
小さなパンに肉入りのスープ、そして火を通した温野菜。
だが、そのテーブルにいる人間はたった一人。出された料理も一人ぶん。
「……いただきます…」
その家のたった一人の住み主であるターニアは、消えそうな声と共に並べられた食事をゆっくりと口に入れ始めた。
「………」
口に入れても何の味もしない。別に味付けを忘れたわけではない。料理が下手というわけでもない。
ターニアは料理を作るのは好きだった。食べるのも好きだが食べてもらうのはもっと好きだった。腕によりをかけて傑作が
出来上がったときは、よく向かいのランドの家に持っていったものだった。
ターニアの家には料理を食べてくれる人間はいない。幼い頃、ターニアの両親は一人娘だったターニアを残して死んでしまったからだ。
別に両親がいなくて苦労したことは無い。村の人間はみな親切で幼いターニアを助け、見守っていてくれた。
村の人たちには感謝という言葉では括れないほどの思いは持っている。が、一人家の中でぽつんとしている
時間のとき、ターニアはほとんど覚えの無い『家族』というものの存在を感じてみたかった。
そんな時、薬草を摘みに来た山の中でターニアはぼろぼろになっている一人の青年を見つけた。
イザと名乗ったこの青年は、体の傷以上に心に傷を負っているようで、いつも何かに怯えおどおどしており、
助けてくれたターニア以外の人との関わりを避けるような雰囲気をもっていた。
自分が助け出した手前、ターニアはイザを自分の家で看病していた。それを快く思わないランドはことあるごとにイザを
ターニアの家から追い出そうとしたが、ターニアはイザを庇い続けた。
単に心身ともに傷を負っているイザを放っておけないという心理もあった。が、ターニアの心の中に『家族』という言葉が
イザを見ているとむくむくと湧きあがっていたこともまた否定は出来なかった。
同じ屋根の下、自分以外の人間が常に一緒にいる。村の人間はよくしてくれているが、あくまでも『他人』。
しかし、ターニアの家にやってきたこの青年は、ターニアを頼りターニアを必要としてくれている。
この青年が何者でどこからやってきたのか、そしてなにをしていたのか。
そんなことはターニアには関係なかった。
ターニアにとって重要なこと。それは、自分に『家族』ができたことだった。
ターニアの献身的な介護で、イザの傷はどんどんよくなっていった。まだ心の傷こそ治らないものの
家の外に少しだけだが出られるようにもなっていった。
出された料理をおいしく食べ、一緒に家事を行い、他愛ない話に付き合ってくれる。
傍から見てもターニアの態度が以前にも増して朗らかになったのが分かった。最初はどこから来たのか分からない得体の知れない男を
いぶかしんでいた村の人間も、ターニアの変化を見るにつれこれはこれでよかったと言う様になっていった。
ごく一部を除いて。
一歩引いた見方をすれば、それは『おままごと』。もしくは『兄妹ごっこ』といえるものだったのかもしれない。
でも、それでもターニアはイザと一緒にいる日常が楽しかった。
いつかはイザは自分のもとを離れていくだろう。が、その時が来るまではこの『兄妹ごっこ』を演じ続け
その時が来たら笑って見送ろう。そして、家の中で人知れず泣こう。そして、全てを思い出として心の中に残そう。
そうしようと思っていた。
- が、そうすることは出来なかった。別れはあまりにも突然にやってきた。
ターニアの前に現れたもう一人のイザ。
イザの本当の名前はイズラーヒン。南の国レイドックの王子で、この世を支配しようと目論む大魔王を倒すため、世界中を旅しているらしい。
そして、ターニアの家にいたイザと、イザの夢の半身であるイズラーヒンは一つとなり、
「また必ず来るから」
と言葉を残し、一緒にいた仲間と共にターニアのもとから去っていった。
『兄妹ごっこ』は終わってしまったのだ。
「……………ぁ」
イザたちが木に隠れ見えなくなるまで見送ったあと、いたたまれなくなったターニアは駆け足で家に駆け込んだ。
その瞬間、堪えに堪えてきた涙が両目から滝のように溢れ出てきた。
何の気配もせず、しんと静まり返った自分以外誰もいない家。昨日まで在った生活感は、今現在どこにもない。
「ぁ、ぁぁぁ……、お兄ちゃーんっ!!」
テーブルに頭をつけ、ターニアは外にも聞こえんばかりの大声で泣いた。ほんの数ヶ月の『兄妹ごっこ』だったが、
その時間はターニアに忘れ難い、いや捨て難いほどの甘い思い出となっていた。
イザが自分にとって他人だというのはわかっている。が、一緒に過ごした短い時間の間に、ターニアにとってイザという存在は、
実の兄といってもいいものにまで高まっていた。
「お兄ちゃん! お兄ちゃん! お兄ちゃぁん!!」
両親が死んだときは、自分がまだ『失う』ということを認識できなかったからか悲しいという思いをもつことが出来なかった。
だから、今のターニアは初めて『家族を失う』という気持ちを体験していた。
まるで自分の半身が切り裂かれるような、心の中にのみ響き渡る苦痛。もう二度と訪れることの無い至福の時間を心に浮かべながら、
ターニアはその夜、一睡もせずに泣きはらしていた。
「……………」
それまで何の味も感じなかったスープが、やけに塩辛く感じる。
何故かと思いスープを見てみると、自分の頬から伝うものがスープの中にぽたりぽたりと滴っている。
「………また…、思い出しちゃった……」
自分でも知らないうちにターニアは涙を浮かべていた。
イザが自分のもとを去った後、村人達の前では心配をかけさせないため努めて明るく振舞おうとしているが
一人になるとどうしてもあの楽しかった二人暮しを思い出してしまい、懐古のあまり落涙してしまうことが度々あった。
こんなことではいけない。そう思っても一度心と体が覚えたあの彩られた一時は決してターニアから消え去ることなく
べったりと全身にへばりついている。
切なさと空しさと心苦しさで胸がつまり、食欲が急速に消え失せていく。
たいして減ってもいない夕食だがもう見るだけで胸がむかついてくる。
ターニアはがたりと席を立ち、お皿に盛られた食事をさっさと片付けてしまった。イザがいたら勿体無いと一言こぼすのだろうが、
そんな小言を言う人間はもうこの家にはいない。
夜も更け、各々の家庭では団欒が繰り広げられている時間帯だ。だが、一人っきりのターニアには夜はただ延々と無為な時間を
過ごすことしかない。
「もう……、寝よう………」
起きていると、いつまでも楽しかった『兄妹ごっこ』のことを思い出してしまう。
もっとも、寝たら寝たでイザと一緒に暮らしている夢を見てしまうわけなのだが。
夢の中では、ターニアとイザは本当の兄弟で、ライフコッドの村で慎ましくも仲良く暮らしていた。
突然目の前から去ることもなく、いつまでも自分の兄でい続けてくれるイザ。
(せめて……夢の中だけでもお兄ちゃんと一緒に………)
辛い現実を一刻でも忘れようと、ターニアはガバッと布団を被り眠りに付いた。
夢の中でのほんの甘い一時。その逢瀬を楽しみ、起きたときに現実に引き戻され心に暗い影を落とす。
今回もそうなるはずだった。が………
-
「どこ……、ここ……」
太陽も出てないのに不気味に暗く空、真っ暗な雲、荒涼とした大地、半分枯れかけている雑草、葉の落ちた木々、毒々しい赤紫色に
染まり悪臭を放つ沼地。
自分は確かに家のベッドで寝たはずだ。外に出た覚えはまったくないし、そもそもこの目の前に広がる光景は見慣れたライフコッド
近辺のものではない。いや、とても人間が住める大地とも思えない。
「なんで…、私、こんなところにいるの……?」
ひょっとして、自分はまだ夢を見ているのではなかろうか。ターニアはそんな考えを思い起こした。そう信じたかった。
が、頬に当たる生ぬるい空気。しっかりと大地を踏みしめる感触。どこからともなく聞こえる獣の雄叫び。
そのどれもこれもがターニアの五感に紛れも無い現実感を与えていた。
何の前触れも無く、全く知らない場所に、突然一人ぼっちで投げ出される。
その現実を実感するにつれ、ターニアの心にぞわっとした恐怖心がむくむくと広がってきた。
「や、やだ……助けて、お兄ちゃん。お兄ちゃん!お兄ちゃん!!」
怯えるがあまりターニアは、一番の心の拠り所であるイザに必死に助けを求めた。が、もちろん言葉が帰って来るはずも無く
それがまたターニアの焦燥感を悪化させることになっていった。
「いや…いや…いやあぁ〜〜〜〜〜!!」
恐怖と怯えと焦りがターニアの心をどんどん蝕み、ターニアは両手で頭を抱えながら滅茶苦茶に走り続けた。方位も何も無く、
ただ足の任せるままに、息の続く限りどんどん先へと走り続けた。
「ハアッ、ハアッ、ハアァ………」
やがて、心臓が悲鳴を上げ足の筋肉がガチガチに張り始めて自然に足が止まった時、ターニアの目に今にも崩れそうなぼろぼろの
木の柵で覆われた集落が入ってきた。
一見するだけでも体に纏わりついてきそうな嫌な空気を放っているが、ターニアとしては一刻も早くこのおかしな世界のことを
知りたいので竦む足を何とか動かして柵の中へと入っていった。
「………」
集落の中、そこは正に死んだ世界だった。
所々にいる人間は全く覇気がなく、家の壁や塀に力なく腰を落としうな垂れている。道という道は全く整備されておらず石がゴツゴツ
と出ているかと思えば所々で窪み水溜りを形成し、そこから湧いた蚊がわんわんと音を立てて飛んでいる。
家というかバラックというか、とにかく人が住んでいそうなところは全て扉も窓も閉ざし中を窺うことはまったく出来ない。
あまりの酷さに声を失ったターニアの足元を、何か小さいものが通り過ぎていった。
「…ヒッ!」
見ると、痩せこけてはいるが目だけは異常にぎらつかせたネズミがターニアの事をじっと見ている。久しぶりに見る生きのいい餌とでも
思っているのだろうか。
「こ、こないで!」
ターニアが右足でバン!と地面を蹴ると、ネズミはビクッと体を震わせていずこかへと逃げ去っていった。
「な、なんなの、ここは……」
せっかく人がいるところに来たというのに、これではゴーストタウンとなんら変わらない。
「おや…、新入りかな?お嬢ちゃんは……」
ターニアの後ろから声が聞こえる。ターニアが慌てて振り向いた先には、髭も髪も延ばし放題の、仙人と見まがうばかりの老人が
気だるそうに地面に腰掛けていた。
「し、新入りって…、どういうことなんですか……?ここは、どこなんですか?!」
「ああ…。ここは絶望の町。表の世界で絶望に心捕らわれた人間が、大魔王デスタムーアによって作られたはざまの世界に囚われ
運ばれてくる町じゃよ……」
「えっ…」
- 大魔王デスタムーア、その名前は聞いたことがある。確かイザが別れる前に話していた、世界を支配しようとしている大魔王の名前だ。
「お嬢ちゃん、その年でこの世界に運ばれてくるなんて、よっぽど酷い思いをしたんじゃろうね……
それこそ、絶望で押し潰されそうになるくらいの思いを……」
「絶望で……心が潰されそうな……」
確かに、ターニアはつい昨日までイザがいなくなったショックで心は奈落の底の底まで沈み、笑いという言葉をなくしてしまって
きていた。イザがいなくなってからターニアの心が晴れた日は、一日たりとてありはしない。
が、そのためにイザがどこかにいる世界からも離され、大魔王の下に飛ばされてしまうとは夢にも思わなかった。
「や、やだ……」
こんな世界、ちょっとだっていたくない!お兄ちゃんがいる、あの明るいお日様が昇る世界に帰りたい!
「お、おじいさん!どうやったらこの世界から出られるんですか!私、こんな世界にいたくありません!!」
だが、老人はそんなターニアの必死の呼びかけにも俯いた顔を上げもせず、ただ淡々と語りかけてきた。
「そんなものありはせん。このはざまの世界に落ちた人間は、死ぬまで大魔王の手から逃れることは出来はしないんじゃ…
町の外に出れば、おっかない魔物がうようよしている。が、この町には入ってこん。何故だか分かるか?
大魔王はこの町にわしらを閉じ込めて、出来る限り長く絶望を与えようとしているからじゃ。話にはこの町の東にも町があるそうじゃが…
行って帰ってきたやつは一人もおらん。多分町などありはせん。みんな途中で死んだんじゃ。
だから諦めるんじゃな。この町で一生、大魔王に生かされるのがわしらの運命なんじゃよ……」
ここまで言ってから、老人は小さな溜息をつきその場にくたっと首を落とした。もうこれ以上喋ることすら億劫といった様子だ。
「ここで……、一生…、生かされ続ける……」
その恐ろしい意味に、ターニアは全身をガクガクと振るわせた。
この先、決して希望が開かれないまま無為に生かされ続ける。明日に訪れるかもしれない『いいこと』を感じられることなく、ただただ
日々を暗い絶望に心染めて過ごしていく。
確かに自分は、お兄ちゃんと別れてからの日々を暗い絶望の中で過ごして来た。
しかし、そこには『明日、お兄ちゃんが来てくれるかもしれない』という淡い希望もまた心の中にはあった。それがあったからこそ
ターニアはかろうじて自暴自棄になることなく生活できていた。
だが、ここにはそれすらない。
お兄ちゃんが大魔王デスタムーアを追っている以上、いつかはここに来るかもしれない。だが、表の世界と違い気が向いたらすぐに、
というわけには絶対にいかない。
そもそも、ここに来る条件が『絶望に心捕らわれた人間』ということは、大魔王を倒すという希望に胸を燃やしているイザが早々簡単に
来られるはずが無い。
もしかしたら、一生来られないかもしれない。
そうなると、自分は一生お兄ちゃんに会えない……
「そんな……」
ターニアは服が汚れるのもお構いなく、その場に力なくへたへたと崩れ落ちた。血の気が引いた真っ青な顔からは涙がはらはらと
こぼれ落ち、歯の根は無意識に震えガチガチと音を立てていた。
「お兄ちゃんに会えない。お兄ちゃんに会えない。おにいちゃんにあえない……」
それは、ターニアにとって何より勝る一番の『絶望』だった。
そのままターニアは暫くの間立ち上がることなく、眼前に突きつけられた自分の前途に広がる絶望に心を閉ざし、その場に両手で
頭を抱えたまま蹲り続けた。
前に寝転んでいた老人が居心地が悪そうにその場を動いても、全く気づくことなく。
-
どれほどの時間が過ぎたか、ターニアは突然むくりと立ち上がった。その顔は常に俯いて生気が感じられず、瞳は焦点が合ってない
ばかりか光すら失い、半開きになった口からは聞き取れないほどの小さな声を常にぶつぶつと囁いている。
足元はふらつき、歩幅は定まらずどこへ行くかも定かではない。
普通の人間が見たら、ああこの娘は気が触れたんだなと思うだろう。
実際、ターニアの心は崩れかけていた。絶望が更なる絶望を運び、もはや後戻りが利かない状況までもってきてしまった。
自分の現実を受け入れられなかった心の弱さが、大好きな兄であるイザとの距離を永遠とも言えるほど引き離してしまった。
もう、どれほど歩いてもイザとの距離は縮まらない。この世界のどこを探してもイザは見つからない。
(もう……、生きていてもしょうがない……)
どこかへ行く当てもなく、ふらふらと絶望の町を彷徨うターニアの足に何かがかちりと触れた。
「………」
焦点定まらないターニアの目元に入ってきたのは、割れているガラスのコップだった。
鋭利な破片が、薄暗い空の僅かな明るさにキラリと光っている。
(……これなら…、首に刺したら死ねるかな…)
そんな物騒な発想がターニアの心の中で躍る。
気がついたら、ターニアは破片をその手に握り締めていた。少し力を入れたせいか、破片が手の皮膚を破り血が滲み出ている。
(うん。死のう。お兄ちゃんがいないこんな世界、一秒だっていたくない)
両手で握ったガラス片を首下に近づけていく。ちくんとした感触が喉の神経を走っていく。
(今度生まれてくる時は、お兄ちゃんの本当の妹になりたいな……。バイバイ、お兄ちゃん)
ターニアは両手に力をこめ、グッと前に突き出した。いや、出そうとしたその時、
「やめなさい!なにしようとしているのさ!!」
ターニアのただならぬ雰囲気を察したのか、近くを通りがかった女性が慌てて近づき、ターニアの手からガラス片を払い飛ばした。
ガラス片はそのまま路面を転げていき、茶色く変色した草むらの中に消えてなくなった。
「あ……、ああっ!!」
ターニアは突然の出来事にしばし呆然としていたが、手の中の冷たい感触が無くなったことに気がつくと、慌ててガラス片が転がった
ほうへ走りだそうとした。
だが、女性はそんなターニアをがっちりと羽交い絞めで抑えこんだ。
ターニアはそれを必死に振りほどこうとばたばたともがく。が、女性もそうはさせじと腕に渾身の力をこめて制止し続けた。
「やめて!放してお願い!私を死なせて、死なせてよぉ!!」
「馬鹿なこと言ってるんじゃないよ!こんな世界だろうと、目の前で人一人が死ぬ瞬間なんて見たくもないんだ、よ!」
暴れるターニアに業を煮やしたのか、女性は両腕をターニアに回したまま腰を捻り、ターニアを後ろにぶん!と放り投げた。
そのまま地面にドサリ、と崩れたターニアは起き上がろうともせずその場で蹲り、肩をかたかたと振るわせてわんわんと泣き始めた。
「……どうして…、どうして死なせてくれないの?!
私もういやなの!お兄ちゃんのことぐずぐずと想い続ける自分が嫌なの!お兄ちゃんがいないこの世界が嫌なの!
何もかもいやなの、いやなの、いやなのよぉ!!
だからさっさと死にたいの!死んで生まれ変わって、またお兄ちゃんの傍にいたいの!
ただそれだけなのに、それだけの願いなのになんで邪魔するのよぉ!わあぁぁーーん!!」
「…バカ野郎!!」
パァン!
自身の破滅を願うターニアにイラッと来たのか、女性はターニアの襟を掴んで無理やり立たせ、その頬に平手をぶち込んだ。
「あんたが死んで、そのお兄ちゃんとやらが喜ぶと思っているのかい!あんたが死ぬことを願っているとでも言うのかい?!」
「え……」
自分の目の前にいる女性は、本気で自分に対して怒っている。いったい、何でなんだろう。
「手前はそれでもいいだろうさ。自己満足の中で死ねるんだからさ。
でもさ、残った奴はどうなるんだい。もし、どこかであんたが死んだことをお兄ちゃんが知ったら、どんな顔をすると思っているのさ!」
-
「!!」
女性の言葉にターニアはギョッとした。
確かに、イザが自分が自殺したことをどこかで知ったらどんな思いを持つだろうか。
「あたしにだってね、亭主がいたもんさ。いっつも夢ばっかり追い続け、世界中を周っているろくでなしだったけれどね。
たまーに家に帰ってきたときは、それは嬉しかったものさね。そん時思うのさ、ああ自分はこんな宿六をちゃんと愛しているって事をね」
そこまで言って、女性は何か懐かしむような目を空に向けた。
「でもさ、ある日知らねえ連中が家にきてさ、あんたの亭主はくたばりましたって言うのよ。
あたしゃその瞬間半狂乱になって家の中滅茶苦茶にして、一晩中泣き喚いたもんよ。そして、目が醒めたらこのとんでもない世界に
来ちまったって寸法さ。
あたしの亭主はおっ死んじまったけど、あんたのお兄ちゃんってのは生きているんだろ?
だったら、まだ会えるチャンスがあるじゃないか。希望を捨てたらいけないよ。まだ若いんだからさ」
女性は、ターニアの肩をばしばし叩いて励ましてきている。少々乱暴ではあるが、ターニアの沈んだ心には丁度いい刺激ではあった。
「………」
だが、ターニアの心を晴らすには程遠い。例えチャンスがあると言っても、それは蜘蛛の糸より細く砂粒より小さいものだ。
いっそ、全くチャンスが無い方がまだ救いようがある。小さな希望というものは、時には完全な絶望より心に大きな傷を与えるものだ。
「…こんな思いして生きるくらいなら……、死んだほうがまし……」
「……、あっちゃぁ〜〜〜」
ターニアがぼそっと口にした言葉に女性は頭を抱えてしまった。絶望に染まりきったターニアの心は、そう簡単に解けそうもない。
女性はしばし腕組みをして考え込み、暫くしてからぽん!と手を叩いてターニアのほうを向いた。
「ああもう!そんなクサクサした気持ちだからますます気分が落ち込むんだ!
ここはいっちょうパーッと気晴らしに騒ぐのが一番!!ちょうどいい場所も知っているんだ。ついてきな!」
女性はそのままターニアの手首をむんずと捕まえると、強引に立たせてつかつかと歩き始めた。
自然、ターニアもそれに付いて行く格好になる。
「あ、あっあの……そんな、困……」
「そう言えば、あんたの名前聞いていなかったね。あたしゃネネってんだ。あんたは?」
「……、タ、ターニア……。お願い、放して……」
「ターニアかい。ま、つべこべ言わずにこのままついてきな。きっと気分もスカッとするからさ!」
ネネはそのままターニアを引きずり、町の外にまで出てしまった。
ネネが向う先には、木々で覆われ数条の煙が立ち昇るなにかの施設のようなものが荒野の中にぽつんと立っている。
「あれは……?」
「ありゃあこの絶望の世界に落ちた人間が唯一羽目を外せる場所……、ヘルハーブ温泉さ」
そう語るネネの口元は…、僅かだが歪んでいた。
ネネと一緒に入ったヘルハーブ温泉の中にいる人々は、絶望の町にいた人間とは比べ物にならないほどの活況があった。
もっとも、その活況は怠惰と欲望に塗れたものだ。
ぐでんぐでんに酔っ払いながら通路を徘徊する者。草むらに敷かれた筵の上でへらへら笑い続ける者。顔を真っ赤に染めながら
互いの唇を吸いあう男女。どこからか悩ましげな声まで聞こえてきている。
「ぁ………」
それはターニアが今まで見たことも無いほど退廃的な光景だった。心を閉ざしかけていたターニアだったが、さすがにこんなものを
見せられては恥ずかしさから顔が熱くなってくる。
「まあ、ちょっとお子様には刺激が強いところかもしれないけれど……、憂さを晴らすにはここは一番のところさ。
正直、絶望の町にい続けたら気が滅入るどころかなくなっちまうしね」
どうやらネネはこのヘルハーブ温泉の常連みたいだ。ターニアの手を取りながらもすいすいと先へと進み、更衣室と思われる大きな
館へと先導していった。
「おや、いらっしゃいネネさん。今日はまた見慣れない子を連れてきたね」
更衣室の入り口にあるバーのカウンターのようなところから、バーテンと思われる親父がネネに声をかけてきた。手にはシェイカー
を持ち、絶えず上下に振り続けている。
- 「ああ、この子は新入りでターニアっていうんだ。絶望の町で落ち込んでいたから、ちょっと気分転換にここにね」
「………」
ターニアは、バーテンに軽く頭を下げた。少し無礼なのかもしれないがこれ以上の感情表現を出来そうに無い。
もっとも、バーテンもそれに対し全然構うことなくターニアに気さくに声をかけてきた。
「ふぅん、ターニアちゃんか。よろしくな。
ここの温泉は絶品だよ。一回入れば悩みも苦しみもぽーん!と消えてなくなっちまうんだ。外にいても町にいても絶望しか味わえない
この世界で、唯一歓楽といえる場所だからね。ここは…」
「さ、とっとと入りに行くよ!ぐずぐずしんさんな!」
バーテンの言葉が終わるか終わらないかのうちに、ネネはターニアを引っ張って更衣室の方へと消えていった。その後ろ姿を見ながら、
バーテンはポツリと呟いた。
「ま、ネネにかかったらあの子もすぐに……な」
バーテンの腰の下からは、鉤状の尻尾がひょろりと顔を出していた。
格子戸を空けた瞬間、強い香草の臭気が服を脱いで腰巻一丁になったターニアの鼻についてくる。見るとヘルハーブ温泉の湯は濃い緑に
染まっている。どうやらこの温泉は名前の通りどこかでハーブを溶かしこんで温泉に混ぜているようだ。
その香りのあまりの強さに、頭がクラクラしてくる感じがする。
そして、ターニアの前に広がる温泉の光景は、以前シェーナの町で見た公衆浴場とは比べ物にならないくらい大きく、そして爛れていた。
とにかく温泉に入っている人間の顔が尋常ではない。全員が全員魂が抜けたように呆けた顔をし、軽く流れている温泉の流れのままに
ぷかぷかと浮き進んでいる。
温泉の周りでは飲み物片手に夢うつつに浸っている者も数多く、さらに驚くべきことに魔物もそこいらにいたりするのだ。しかも、
周りの人間が誰もそのことに突っ込んだりしていない。
「ネネさん、これって…」
「ここはね、魔物にとっても憩いの場所なんだよ。実際、ここでは魔物も人間を襲ったりしないし人間も魔物を恐れたりしない。
一種の不文律みたいなものが成立しているんだよ」
ネネの説明にターニアは納得せざるを得なかった。ここが大魔王の創造した世界である以上、魔物が入ってこられない場所などない
はずだし、魔物を排斥する理由もまた見つからない。
「だから、ターニアも何も気にすることなく入ってくればいいんだよ。ほら、早く」
「は、はい……」
ネネに促されながら、ターニアはおずおずと湯船の方に向っていく。
その時、ターニアの目の前で湯船の中でぐたっとした若い女性が二匹のキラーバットに四肢を掴まれ、ばっさばっさと羽音を立てて
いずこかへと連れ去られていく光景が目に入ってきた。
「ネ、ネネさん!あれって……」
まさかあのまま食べられてしまうのでは?!そう思ったターニアは泡を食ったかのような顔でネネの方へと振り返った。
が、ネネのほうは大したことではないと言った顔をしつつターニアに語りかけた。
「ああ、大方湯あたりしたんでしょ。安心なさいな、さっき言ったようにここでは魔物は人間を襲ったりしないんだから。
どっか介抱出来る所に連れて行ってくれているのよ」
「は、はあ……」
まだ腑に落ちないといった思いを抱いていたターニアだったが、別段それ以上の疑問を持つことは無かった。というか、温泉から
発せられるムッとする香気がそれ以上の思考力をターニアから奪い取っていた。
「さあさあ、そんなこと気にしないで。早く早く」
ネネは急かすようにターニアに温泉に入ることを勧めてくる。それもターニアにとっては心に引っかかるものがあるのだが、自分に
対しネネが気を利かせているのだろうと心に思い込ませ納得しようとしていた。
「……」
だが、どうしても気になる。そのため、湯船の際まで足を進めながら、その後の一歩がどうしても踏み出せなかった。
それほど、目の前にあるなみなみと溢れる緑色の湯船からは妖しげな雰囲気が漂っていた。
「どうしたのさ?早くドブンとお行きよ」
「……、あ、あの私……、やっぱり……」
やっぱりこの温泉には入りたくない。そう言おうとネネのほうに振り返ったとき、ターニアの目に入ってきたのは苛立ちを隠せない
顔つきをしたネネが、ターニアに向けて両手を突き出している光景だった。
- 「じれったい娘だね!とっとと入れって言っているんだよ!!」
ドンッ!
ネネに力いっぱい突き出されたターニアはそのまま宙を舞い、下を見たときには足をつく空間は全て緑色の液体で占められていた。
ドッパーン!
そのままターニアは、背中からヘルハーブ温泉の中に入湯してしまった。
そして、体が湯船に浸かった瞬間、
(ングッ!!!)
ターニアの全身に絡みついた湯が、ターニアの肌に甘い悲鳴を上げさせた。
熱いとも冷たいとも取れない絶妙な湯加減、肌をピリピリ刺激するハーブの効能、そして適度な流れがもたらす神経へのマッサージ。
そのどれもが、これまでターニアが感じたことの無い陶酔感をその体に与えてきていた。
(あ、ふうぅぅ………)
湯船の中に沈むターニアの表情は、たちまちだらしなく緩み、全身の力がすぅーっと抜けてただ流れの任せるままになってしまっている。
(ああ…、こんな気分初めて……。気持ちよくって何も考えられない……)
脱力の心地よさを、今ターニアは全身で味わっている。ネネが言っていた嫌なことも忘れられると言う言葉が、今になって思い出される。
たしかにこんな気分を味あわされたら、嫌なことも悲しいことも吹っ飛んでいってしまうだろう。
暫くした後、浮力の力でターニアの顔がぷかりと浮かんできた。その表情は完全に他のヘルハーブ温泉の湯治客同様、温泉から与えられる
愉悦に蕩けきり、思考という意思を失った緩んだ笑みをたたえたものだった。
そんな笑みを浮かべて回遊するターニアの姿を見たネネは、満足そうに微笑んで頷いていた。
もう何週しているだろうか、そんなことを考える思考さえターニアにはなかった。ただただ温泉の流れるままに身を委ねる。それだけの
ことがこれほど気持ちが良いとは思いもしなかった。
もうここから出たくない。このままずっとこの温泉に浸かっていたい…。そんな考えさえおぼろげに浮かんでくる。それほどこのヘルハ
ーブ温泉は心地よいものだった。
「はい。お楽しみはここまでだよ。ターニア」
が、温泉の快楽を愉しむターニアの腕が突然ネネにガシッと引き止められ、そのまま湯船の外にずるずると引きずり出されてしまった。
「あ…、あぁ……」
体に纏わりつくお湯の感触が突然なくなってしまった。慌てて湯船の方へと歩き出そうとしたターニアだったが、腕を掴む手ががっちり
と食い込み放そうとしない。
「や、やだ…。放して……」
「あのね、ここは無料だけれどいつまでも入っているわけにはいかないんだよ。そんなことしたらこの温泉が人間と魔物で溢れかえっち
まうじゃないか。これ以上はダメなんだよ」
ネネの言うことはもっともだ。でも、ターニアは納得することが出来ない。
「でも、でも……、私、もっと入っていたいの……。もっと、もっとぉ……」
「あらら、たった一回ですっかり虜になっちまったみたいだね。でも、これは決まりなんだからダメ。それに、そろそろ閉館の時間だ。
もし入るんだったらまた明日来ることだね。ほら、これをやるから今日は大人しく上がりな」
そう言ってネネは手に持ったコップをターニアの前に差し出した。
コップの中には温泉と同じ透き通った緑色の液体がなみなみと注がれている。
「さっきのオヤジからふんだくってきた物さ。安心しな、酒じゃないよ」
ネネの言うことには、これはヘルハーブ温泉のお湯を汲み出し炭酸と砂糖で割ったものらしい。氷を入れてあるので風呂上りには
こたえられないヘルハーブ温泉の名物だそうだ。
温泉のお湯と聞いてターニアは目を輝かせ、ネネからコップを渡されるとなんの躊躇いも無くクイッと喉に流し込んだ。
「んんぅ〜〜〜〜んっ!」
食道を流れ落ちる温泉水のハーブの香りが鼻に抜ける爽快感と炭酸のピリピリした感触が、熱く火照った体に適度な涼味を送ってくる。
炭酸に咽るのも構わずターニアは、手に持ったコップを一息で空にしてしまった。ほぅ、と軽く息を吐いた顔は、まるで酒に酔ったか
のように紅潮している。
- 「さ、これで満足したろ?今日はとりあえず町に帰りな」
「はぁい…」
霞がかかった表情のままこくりと頷いたターニアは、そのままふらふらと更衣室の方へと歩いていった。
その姿を見て、ネネはクスクスと微笑んだ。
「たった一日であの有様……。もう四、五日も通えば染まりきるね……」
唇をぺろりと舐めたネネの舌は、異様なほどに長かった。
その翌日も、ターニアは目が醒めたと同時にヘルハーブ温泉に直行し、まったりと温泉の味を堪能していた。もちろん時間制限により
湯船から上がらされはするのだが、その後にすぐ順番待ちの行列に紛れ込み二度風呂、三度風呂をする始末。
結局その日は日が昇ってから沈むまで、ほぼ丸一日温泉の中に浸かり続けていた。
さらに次の日も、その次の日も次の日も、ターニアはただただ温泉を求め絶望の町とヘルハーブ温泉を行き来していた。
温泉に浸かれば浸かるほど、体に感じる心地よさは増していき、もっともっと長く湯船に浸かりたくなってくる。他の何がどうなっても
構わない。とにかくヘルハーブ温泉に少しでも長く逗留していたい!
絶望の町に帰っても、ターニアはヘルハーブ温泉のことを一時たりとも忘れることが出来ず、悶々とした夜をすごすようになっていた。
(…温泉に入りたい。早く、早く、はやくぅ…)
胸は常に細かく動悸を刻み、赤く染まった顔からは切なげな息をせわしなく吐いている。頭の中の隅々まで温泉温泉と考えているうちに
肉体よりも精神の方が疲労を訴え、いつの間にか深い眠りに入っていく。
そして、また夜が明けた。朝と言っても多少薄明るくなっただけで夜との違いはたいしたことは無いのだが、ターニアの敏感になった
神経は、僅かな光のさし方を敏感に捉え、一気に頭を覚醒させた。
「温せん……、おんせんにいかなきゃ……」
まだ周りの人間が殆ど動き始めない中、ターニアは覚束ない足取りでヘルハーブ温泉への道を歩き始めた。
ここ数日の温泉通いで、ターニアの頭の中には温泉のこと以外の思考がほとんど消失してしまっていた。体は温泉から与えられる陶酔感
のみを求め、意識は温泉の湯気に覆われたかのようにうっすらと煙がかっている。
瞳は光なく濁り、口は締まりの無い緩い笑みが常に浮かんでいる。温泉の快楽に浸っている自分を夢想しているのか、歪んでいる口元か
らはつぅぅと涎が零れ落ちている。
その涎は、ごくごく薄めではあるがヘルハーブ温泉と同じ緑色をしていた。
「おやおや、これで五日連続かい。すっかりはまっちまったみたいだね」
比較的流れの緩やかな端っこに陣取り、グラス片手にどろどろに蕩けているターニアを見て、ネネはあきれたような声を上げた。
「でも、ここにきてよかったろ?嫌なことなんかぜーんぶ、忘れることが出来てさ」
「……あははぁ…」
ネネの声にもターニアは全く反応しない。右手に持ったグラスをきゅーっと仰ぎ、左手は人前にも関わらず胸をさわさわと弄っている。
嫌なことを全部忘れた、というより何も考えられないと言った方が適切であろう。
ただ温泉と肉体の快楽を貪り続ける肉人形がそこにはいた。
「んふふぅ…しあわせぇ………」
「そうだろそうだろ?こんな絶望だらけの世界でさ、そこまでハイになれるターニアはとっても幸せ者だよ」
湯船の中でへらへらと笑っているターニアを見て、ネネはそのまま温泉の中へ腰を落としてきた。ターニアをはじめ温泉に入っている
人間はそのどれもが意思をなくしたような呆けた顔をしているのに、何故かネネはちゃんと意思を持った顔立ちのままだった。
「どうだい?お兄ちゃんなんかいなくったってぜんぜんいいだろ?温泉にただ入るだけで、こんなに満ち足りることが出来るんだからさ」
「おに……いちゃん……?」
ネネはその言葉は特に意識して出したものではなかった。温泉の虜になりきったターニアに多少の皮肉を込めて放ったに過ぎなかった。
が、その言葉にターニアはピクッと反応を起こし、濁りきった瞳に少しだけ意志の光が戻ってきていた。
「おにいちゃん…、おにいちゃん……、おにいちゃんに、あいたい…
あいたいなぁ……、あって、おにいちゃんといっしょに……、うふふふぅ………」
ターニアの緩んだ意思からは、それ以上の言葉を発することはできなかった。が、ネネはこのターニアの言葉に酷く衝撃を受けていた。
- 「な……、こんだけヘルハーブ温泉の湯に浸かっていて、まだ自我があるってのかい……」
ネネの計算では、昨日か今日ぐらいにターニアの全身はヘルハーブ温泉の湯に染まりきり、意思も何もなくなるはずだった。
しかし、ターニアはおぼろげではあるが確かに自我を持ちこっちの言葉に反応すらしている。なんという強い意志だろうか。
「こりゃあ……、もっと面白いことが出来るかもしれないねぇ。おい!ちょっとこっちに来な!」
ネネが手くばせをすると、上空を飛んでいた小悪魔キラーバットがネネの元に降りてきた。
「こいつを源泉に運んでいくよ。お前は足を持ってるんだ。いいね」
「ギッ」
ネネの言うことに従い、キラーバットはターニアの足、ネネは腕を掴むとそのまま上空へふわりと飛び出した。
よく見ると、ネネの背中からは魔族が持つ悪魔の羽が伸びている。ネネは魔族だったのだ。
ネネとキラーバットはそのままヘルハーブ温泉の真ん中に鎮座する小島の裏に回り、さりげなく空いている穴の中へと入っていった。
真っ暗な岩で覆われた通路。そこをターニアはネネに担がれながらかつかつと足音を響かせて通り抜けていった。
通路は下へ下へと伸び、先が切れる様子も見せない。周りからは温泉の香気と湯気が時々立ちこめ、ここがヘルハーブ温泉の真下だと
いうことを認識させてくれる。
「さ、ついた。ここだよ」
ネネが通路の果てに現れた禍々しい意匠が施された扉を片手でギギギッと押し開いた。その先には…
あひ、あひぃっ…
おうっ、おおぅっ!!
あぁん、あんあんっ……
だだっ広く開かれた大広間と数々の嬌声や媚声、そして所々に溢れる濃い緑色の温泉の源泉。咽返るようなハーブの香り。
そして、最奥に鎮座するぶよぶよとした巨大な塊。
どうやらここがネネが言っていた源泉らしい。
「まあほとんど意識をなくしているお前に言ってもしょうがないんだけれど、ここは私ら魔族が表の世界を乗っ取るための施設と
言ったところなのさ。
絶望の町に堕ちた人間をヘルハーブ温泉に連れてきて、身も心も温泉付けにしてその心をドロドロに溶かしちまう。そして…」
ネネたちの向こうで地面から湧きでている温泉に浸かりながら喘ぎ声を上げていた女性が、突然ガクガクと体を揺らしたかと思うと
意識を失ったのかぴくりとも動かなくなった。
その脇では、倒れていた男性が目を爛々と輝かせながらざばりと温泉から這い出してきている。
「ここに湧いてるヘルハーブ温泉の源泉には、人間の心に魔を吹き込む力がある。理由はもうすぐわかるけれどね。
ああしてさらに源泉浸けにして心を魔と化して、地上に送り込んでいるんだよ。姿は人間、だけど心は魔。面白いだろ?」
歩きながら本当に面白そうに微笑むネネを、ターニアはぼーっと眺めていた。
「正直、最初はあんたもそうするはずだったんだ。心をどろどろにした後に魔の者にして地上に送り出そうと、ね。
でも止めた。あんたみたいな意志の強い人間は最近あまり見たこと無いからね…。だから…」
ネネはターニアを抱えたまま最奥へ向けて歩き続けている。奥に行くに従い、ターニアの瞳に奥で蠢くぶよぶよしたものの全容が
明らかになってきた。
-
グニュリ、グチャリ…
それは四方から伸びる鎖で拘束され、時折全身をぐにぐにと蠢かせる全高4mもある巨大な芋虫だった。所々から伸びる突起からは濃い
緑色の液体が絶え間なく分泌され、下に大きな緑色の水溜りを作っている。
「こいつは、『魔物の魂』と言われている奴さ。ここまで大きいのはここにしかないけれどね……
こいつは人間を魔物に変える力がある。小指ほどの大きさのを飲み込んだだけで、人間は魔物になっちまうのさ。もっとも、よほど
強い心を持っていない限り、知能も何も無いモンスターになっちまうけれどね。
そして、こいつが分泌している体液こそが、ヘルハーブ温泉のお湯のもとなのさ」
なるほど、下に溜められた体液は細い流れに導かれ、横で轟々と湧き出しているお湯に流し込まれていっている。
「馬鹿な人間は、この体液入りのお湯をありがたがって入りに来るのさ。そして、内と外からじわじわと魔に汚染されていって
魔を受け入れやすい体に知らず知らずのうちに変化していっているって寸法なのよ」
ネネは体液をちょいと掬ってターニアの口元に近づけてきた。上に温泉とは比べ物にならない強烈な芳香がターニアの鼻腔をくすぐってくる。
「あ、ああぁ…」
体液に冒されているターニアにはそれは堪え難い香りだった。たまらずターニアは舌を伸ばし、ネネの手を濡らしている体液を舐め取っていく。
「うふぅ、ふぅぅ…!」
ひと舐めするごとに体の奥がどうしようもなく燃え上がってくる。もっと飲みたくてたまらない!
「のみたい、もっとのみたいのぉ……」
「いいわよ。そのためにあんたをここに連れてきたんだから」
ネネはターニアを下ろし、芋虫の前に相対させる。ボタボタ垂れる体液に、ターニアの顔はみるみる喜悦に染まっていった。
「さ、思う存分飲みな。ここでは誰も邪魔することは無い。気の済むまで飲むがいいさ」
「は、はぁいぃ……!」
目をぎらつかせたターニアは、足を縺れさせながら体液の池に飛び込んでいった。ザボン!と顔を水面に付け口一杯に体液を含む。
(お、おいしいよぉ……。上で飲んだのと濃さが全然違う…)
幸せ一杯の笑みを浮かべ、ターニアはごくりと飲み込んだ。スッという清涼感が鼻どころか全身を抜けていくような感触がある。
「おいしい、おいひいぃ……」
ターニアは腰まで浸かりながら両手を忙しなく動かして貪るように体液を喉に流し続けた。最後には掬うことすら面倒になったのか
直接水面に口をつけてごぐごぐと飲むようになった。
「ふふっ、溜まっているのを飲むのも美味しいけれど、搾りたてを飲むのもまた格別だよ」
ネネが指差した先には、体液がだらだらと流れ落ちる半透明の突起がある。ちょうど、口にふくめるような大きさだ。
「あはっ…」
それを見たターニアは、一も二もなくそれにむしゃぶりついた。唇をギュッと押すと魂を蕩かす体液の味が舌に直接叩きつけられてくる。
「んーっ!んーっ!!」
ターニアは芋虫にしがみつき、忙しなく唇を動かして一滴でも多く搾り取ろうと躍起になっていた。
その時、口に含んだ突起が不意にプルプルと動いたかと思うと芋虫と繋がっている部分が外れ、ちゅるんとターニアの喉へ流れ込んでいった。
「!!」
その瞬間、ターニアの頭の中に無数の星々が煌き胸の奥から破裂しそうな官能が湧き上がり、全身を犯し貫きまわった。
「あ、あふぅ………!」
ターニアは一瞬白目を剥いた後ガクンと腰を崩し、そのまま体液の池にどぼんと崩れ落ちた。
「ふふっ、並の人間の心では『魔物の魂』の放つ力に耐え切れず精神が壊れてしまう。
でも、あんたぐらいの強い心を持った人間なら、きっと立派な魔族に生まれ変わってくれるさ。この私のように…、ウフフ」
水面に浮かぶターニアは意識こそ失っていたものの、その顔は悦びに歪み渇いた笑みがべったりと貼りついていた。
-
「んっ……」
薄くあいたターニアの唇に、ネネが紫のルージュを引いていっている。キュッと唇を閉じて定着したルージュは子どもっぽいターニアの
顔立ちには不釣合いとも思える色なのだが、ターニア全身からかもし出される雰囲気と重なって不思議とマッチしている。
そのまま続いて錐の様に尖った爪一本一本に黒のマニキュアを丁寧に塗り始める。
「いいかい?爪の手入れは女の嗜みだよ。いっつも気をつけていないと、肝心な時に肉を裂けないからね」
「はぁい……」
言ってることがどことなく物騒な感じがするのは気のせいだろうか。
次に目元にはルージュと同じ色のシャドーをすっすっと引いていく。パッチリした瞳に微妙なアクセントがくわえられ、少し大人びた
印象を周囲に与えている。
最後に、下品にならないくらいのアクセサリーをところどころにさりげなく付け加えコーディネート終了。
「はい、これでおしまい。どうだい?生まれ変わった姿は」
ネネは丸く大きな鏡台の前にターニアを立たせた。今までしたことも無かった化粧を施した自分の姿が映し出され、ターニアは
思わず目元をほころばせた。
「これが……私?
凄い……。今までの自分と、全然違う……」
幼げで可愛いという印象が強かったターニアだが、そこにいる自分は明らかに以前の自分とは異なっていた。
見るものを虜にする瞳。官能的に光る口元。扇情的な胸。キュッと引き締まった腰。すらりと伸びた腿。そして…
こめかみから伸びる漆黒の角。口から伸びる2対の牙。真っ黒に染め上げた10本の爪。背中から生える猛々しい翼。
そして腰から伸びる鉤状の尻尾。
「生まれ変わった…、魔族の私……。うふ、うふふ、うふふふふ………」
低い声で肩を震わせて微笑むターニアの姿は、どこから見ても魔族のそれだった。
「素晴らしいよターニア。ここまで完全な魔族になるなんて思いもよらなかったわ」
「これもネネさんのおかげです。ネネさんのおかげで私は弱い人間から魔族に生まれ変わることが出来たんですから」
そう、あの絶望のあまり自殺しようとした自分をネネが止めていなければ、自分はこんなにもすがすがしい気持ちを味わうことは
出来なかったのだ。そういう意味でもネネにはターニアはいくら感謝してもしすぎることは無い。
「あんたのその姿を見れば、あんたのお兄ちゃんだってきっと虜になるはずさ。そうすれば、お兄ちゃんは決して離れることなく
永遠にターニアのものになるんだ。凄いだろ」
「はい。もう待つだけの生活なんてイヤ。この体でお兄ちゃんを私なしでは生きていけない体にして、永遠にこのデスタムーア様の
世界で一緒に暮らすんです。もちろん、お兄ちゃんと一緒にいる連中、特にあの女達は全員この手で殺してから……。あははは!」
ターニアは伸びきった手の爪をわきわきと蠢かせ、その瞬間を思い浮かべ腕を鳴らした。
「あそこの旅の扉を使えば、表の世界のどこにでも行くことが出来るわ。なんなら、早速お兄ちゃんを迎えに行く?」
ネネが指差した先には、淡く光る旅の扉が顔を覗かせている。普段は、あれを使って魔の者になった人間を送り出しているのだろう。
「もちろんです!早くお兄ちゃんを、あの女たちから取り返さないと!!」
「…はいはい。じゃあお兄ちゃんが今どこにいるか、見てみましょうか」
ネネが手を軽く振ると、鏡台の鏡が白く曇り何も写さなくなった。
「ターニア、その鏡に触れあなたのお兄ちゃんの顔を思い浮かべな。そうすれば、お兄ちゃんの今の姿が鏡に浮かんでくるから」
「はい…」
ターニアはネネの言われるままに手を鏡に添え、イザの面差しを思い浮かべた。
すると、次第に鏡の曇りは取れていき、そこには見慣れた青い髪の青年の姿が映し出されてきた。
「おにいちゃ……」
久しぶりに見るイザの姿。思わず声が弾んでしまったターニアだが、次の瞬間その表情は凍りついた。
「あら?あれって……」
ネネも鏡に映ったその光景に目を見開いた。
なんと、イザの目の前には人間だった時のターニアと瓜二つ…、いやターニア本人が姿を表していたのだ。
- 「な、なにあれ……。なんで私が、お兄ちゃんと一緒にいるのよ………」
鏡越しに見る人間のターニアは、それはそれは朗らかな笑顔を浮かべていた。もちろん、イザもまんざらではない表情を浮かべている。
「私はここにいるのに、なんで私がライフコッドにいるの……?」
訳がわからないといった感じで混乱するターニアの横で、ネネが納得したかのように手を叩いた。
「なるほど…、どうやらあんたのお兄ちゃんは夢の世界のあんたに会っているみたいだね」
「夢の、世界……」
そう言えば、あの時自分の前に現れたもう一人のイザは、自分を夢の世界の半身と言っていた。と、言うことは夢の世界は本当にあって
いつも夢に見ていた本当の兄になったイザと暮らしている自分は、本当に夢の世界にいるということなのか。
自分がどんなに願っても実現することが出来ない現実を、夢の世界の自分は労せずして成し遂げていると言うことなのか!
「くっ……」
鏡に映る団欒風景を見ているうちに、ターニアは自分の拳をぎゅっと握り締め、怒りでわなわなと細かく震え始めた。伸ばした爪が
肌に深く食い込み、血がだらだらと零れ落ちている。
「…許せない……」
「まあ、自分の大事なお兄ちゃんが浮気しているから怒るのも無理は無いけれど…。自分を傷つけるのはよくないよ」
ネネはターニアが自分を無視して夢のターニアに会っているイザに怒りを向けているのかと思った。が、
「違うの!!」
ターニアは声一杯に張り上げてネネのいうことを否定した。
「あの女が許せないの!あの女がお兄ちゃんを無理やり引きとめていたから、お兄ちゃんは私に会いに来てくれなかったのよ!
私が寂しさでいつもベッドの中で泣いていた時、あいつはお兄ちゃんと一緒に楽しい一時を過ごしていたに違いないわ!
許せない、許せない!許せない!!あいつが許せない。お兄ちゃんの本当の妹のあいつが許せない!
あいつにも私と同じ苦しみを与えてやらないと、もう絶対に気がすまない!!」
ターニアは、夢の中のターニアに激しい怒りと嫉妬を振り向けていた。イザをこの手に入れる前に、夢のターニアをめちゃくちゃに
してやりたい激情を抑えることが出来なくなっていた。
「ネネさん、お兄ちゃんを連れてくるのはやめるわ!そのかわり、お兄ちゃんたちがライフコッドからすぐに教えて!
私、これからデスタムーア様に会って魔物の兵隊を貸してくれるようお願いしてくる!」
そう言うなり、ターニアは源泉の入り口に向けて走り出そうとした。それをネネは阻止せんと慌ててターニアの腕を掴んだ。
「ちょちょちょ、ちょっと待った!デスタムーア様が私達なんかに会うわけ無いだろ!落ち着きなさいな!!」
「じゃあ、この近くでそういうお願いできる人って誰がいるんですか?!」
ターニアの目は完全に据わっている。その迫力に思わずネネもたじたじになってしまった。
「そ、そりゃあ…、牢獄の町のアクバー様かな…。あの人、バカだけど一応魔王だし……」
アクバー様ですね!とターニアは叫び、ネネの腕を振り切って羽根をばたつかせ、物凄い速さで飛んで行ってしまった。
「ちょいとー!!牢獄の町の場所は知ってるのかいーーっ!少しお待ちよーーー!!」
が、ターニアの返事はなかった。
「は〜〜〜っ、あそこまで激しい性格があったとは思わなかったわ。あれならヘルハーブ温泉に浸かっても自我が残るはずよ。
それにしてもあの子、兵隊なんか借りて何をしようとしているのかねぇ」
首をかしげるネネの後ろの鏡では、相変わらずターニアとイザがつかの間の憩いの時間を楽しんでいた。
月も出ていない夜の帳がライフコッドを包み込んだ時、惨劇は始まった。
いつの間にか村を囲い込んでいた魔物が、一斉になだれ込んできたのだ。
あまり戦いに慣れていない村民はたちまち魔物の餌食になり、村の所々から火の手があがっている。
そして、山際にあるターニアの家でも…
「え……?あなた……、私?!どうして……?」
腰を抜かしたかのように床に尻餅をついているターニアの前にいるのは、姿形こそ魔族の体を為しているがその顔は明らかに
ターニア本人のものだった。
「ふふふ、あなたには分からないでしょうね。何にも知らず、私のお兄ちゃんを奪い取ってのうのうと暮らしてきたあなたには」
自分を見下ろすターニアは、毎日見ている顔なのに生まれてから今までに一度も見たことも無いようないやらしい笑みを浮かべていた。
- 「あなたが私のお兄ちゃんを取っていったから、私は毎日毎日寂しい思いをして、笑うことなんか忘れてしまって、ついにはこんな姿に
なってしまったのよ。私だけ、こんな思いをするのって不公平だと思わない?
お兄ちゃんは私のものよ。私だけの、私だけを見てくれる、私以外は必要ないお兄ちゃんじゃなきゃいけないのよ」
人間のターニアには魔族のターニアが言っていることはさっぱり理解できない。ただ、このターニアが大切な自分の兄を狙っている
のだけは語感から理解できた。
「あ、あなたみたいな悪魔にお兄ちゃんは渡さな……」
ボグッ!!
「きゃあぁっ!」
反論しようとした人間のターニアに対し、魔族のターニアは怒気を露わにしながらその鳩尾を思いっきり蹴り飛ばした。その勢いで
ターニアは椅子を蹴散らしながらテーブルの足に思いっきり頭を打ち付けた。
「あぐっ……」
「お前が軽軽しくお兄ちゃんなんて言葉を使うな!!お兄ちゃんをお兄ちゃんって呼んでいいのは私だけ!!
そのことを、これからはざまの世界で思いっきり教えてあげる。その体に、たっぷりとね……あはははは!!」
嘲笑する魔族のターニアの下でうずくまるターニアは、激しくえづきながらも聞き取れないような小さな声で呟き続けた。
「助けて……、お兄ちゃん………」
だが、そこにお兄ちゃんはついに現れなかった。
ライフコッドが燃えていると聞き、イザたちは慌ててライフコッドに駆けつけてきた。
だが、すでに村は焼け果て、木々は折れ、所々に怪我人や死体が散乱する目も覆わんばかりの惨状となっていた。
当然イザはターニアは無事かと家に向っていったが、イザ達の家は他にも増してメチャメチャに壊れ、いまだに火が燻り続けていた。
慌ててイザは瓦礫の下を探してみるが、そこにターニアはいなかった。
ならばと村の隅々まで探し回ったのだが、ついにターニアを見つけることは出来なかった。
髪の毛の一筋さえも。
そのころ、はざまの世界では
「お兄ちゃん…」
牢獄の町の牢屋に閉じ込められたターニアが、膝を抱えながらイザのことを思い浮かべていた。
あの後、魔族のターニアにこの町に運ばれ、散々肉体的にも精神的にも徹底的に嬲りぬかれた後、この牢屋の中に放り込まれてしまった。
一日二食の粗末な食事は出るものの、誰も来ることなく、誰も声をかけるものも無い。
完全な孤独がターニアの周りを覆っていた。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう。自分は普通に、村で暮らしていたはずなのに。
お兄ちゃんと二人で、暮らしていたはずなのに。
つらい時も、悲しいときも、いつもお兄ちゃんが傍にいてくれた。お兄ちゃんを心の支えにして、今まで生きてこれた。
旅に出るって言った時も、帰ってきてくれると信じていたから待っていることが出来た。
が、ここにはお兄ちゃんはいない。いくら叫んでもお兄ちゃんはやってこない。
あの悪魔の自分が言っていた事が、ちょっとだが分かる気もしてきた。
会おうと思っても適わないことが、これほど辛く感じるなんて。
「寂しいよ……、お兄ちゃん……」
自然、ターニアの瞳から涙が零れてきた。これほどの孤独を感じたことは、生涯に一度も無かったのではないか。
誰もこない牢屋の中で、ターニアは誰にも見られることなく泣き続けていた。
「どうかしら?少しは私の気持ちが分かったかしら?」
何日ぶりだろうか、自分に向けている人の声が聞こえる。ふらりとターニアが振り向いた先には、牢屋の鍵を開け中に入ってくる
魔族のターニアの姿があった。
「さびしいでしょ?苦しいでしょ?誰も自分に声をかけてこないってことが、どんなにつらいものか、わかったでしょ?」
その言葉に、ターニアは力なく首を縦に振った。
- 「ふふふ、相当参ったみたいね。
まあいいわ。十分気も晴れたし、ここからあなたを出してあげる。もちろん、お兄ちゃんにも会いに行かせてあげるわ」
お兄ちゃんに…あえる?!
ターニアに瞳に、急速に生気が戻ってきた。もうあえないと思っていたお兄ちゃんに、また会えることが出来る!!
「ほ、本当ですか?!」
「本当よ、ただし……」
ニヤッと笑った魔族のターニアは、手に握り締めていたものをターニアの前に差し出した。そこにはもぞもぞと蠢く小さな芋虫がいた。
「これを飲んでくれれば、ね…」
「こ、これを………?!」
この不気味な芋虫を飲む。そう想像するだけでターニアの背中にぞわぞわと寒気がたった。しかし、
「これを飲まないと、ここから出してあげないわよ。大丈夫、ちょっと勇気を出してグッと飲み込むだけだから、さ」
魔族のターニアは意地悪くターニアに語りかけてくる。要するに、これを飲まなかったらここから出すことすらしてくれないらしい。
「別に無理強いはしないわよ。ここが好きだって言うんなら構わないし、お兄ちゃんに会いたくないんだったらそれはそれでいいし」
「………」
その言葉がターニアに一つの決意をさせた。一瞬の我慢をすれば、ここから出てお兄ちゃんにまた会うことができる!
「わかりました……。その芋虫を渡してください。そのかわり、飲めば本当に……」
「ええ。ちゃんとここから出してお兄ちゃんにもあわせてあげる。約束するわ」
そう言って、魔族のターニアは芋虫をターニアに手渡した。
決意を固める時間が必要だったのか、ターニアは手で蠢く芋虫を暫くジッと見てから、意を決したかのように素早く手を口に持っていき
ゴクリと一息で芋虫を飲み込んだ。
「ぐっ……!はアッ、ハアッハアァッ………」
喉にぬるぬるとした感触が下っていくのを感じる。そんなおぞましい感覚をターニアはなんとか耐え切った。
「はいおめでとう。これであなたもモンスターの仲間入りよ」
それを見ていた魔族のターニアが、手をパチパチと叩きいやらしく微笑みながら言い放った。
「モンスターの…、なかま……?」
訳がわからずきょとんとするターニアを、魔族のターニアは勝ち誇ったように睥睨している。
「それは魔物の魂って言って、飲んだ人間をモンスターに生まれ変わらせるの。私もそうやって人間から魔族になったしね。
でも、もしあなたが私みたいにうまく魔族になっても自我なんか残させないわ。アクバー様に頼んで心なんか吹き飛ばしちゃって
一匹のモンスターにしてお兄ちゃんの前に送ってあげるわ。もちろんターニアって分からないようにしてね。
そして、お兄ちゃんの手で殺されてきなさい。ターニアは、私一人でいいんだから」
「なっ……」
ニヤニヤと笑う魔族のターニアを見て、ターニアは自分が嵌められたことを悟った。
だが、その事に抗議の声を上げようとした矢先に胸の奥が突然ドクン!と熱く燃え上がった。
「あっ………、あああっ!!!」
胸から湧き出してくる官能にとても立っていられず、腰を曲げたターニアはガクンと膝を折り牢屋の床にどさりと転げ落ちた。
「あつっ、熱い!あああぁ〜〜〜!!」
胸をぎゅっと抑え、顔笑みで綻ばせながら悶え狂うターニアを、魔族のターニアは面白おかしそうに眺めていた。
「ふふふ…、これでお兄ちゃんは本当に私だけのもの……。もうすぐ、もうすぐ迎えに行ってあげるね、お兄ちゃん………」
目の前の人間が次第にモンスターに変わってゆく様を見ながら、ターニアは愛する兄のことを思い浮かべていた。
終
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