第26回 黒澤貞次郎が残したもの
2013.11.03更新
黒澤工場は、現在は「富士通ソリューションスクエア」のビルになっている。いつ、どのような経緯で黒澤工場が富士通になっていったのか。
黒澤工場の戦後の歴史をひもとくと、そのあたりの事情が見えてくる。
東京銀座六丁目にクロサワビルがある。かつて、黒澤貞次郎が興した黒澤商店の本社ビルである。このビルの八階には黒澤不動産株式会社と、株式会社クロサワという二つの会社が入っている。どちらも、黒澤商店を源流とする会社であることは、その名前からも容易に推測することができるだろう。
株式会社クロサワのホームページには沿革が記されており、その中に次の記述がある。
1917年(大正6年)~1939年(昭和14年) 米国スミス・コロナ社(タイプライター)、IBM社(会計機・タイムレコーダー)、バロース社(計算機)、マーゲンタラー社(ライノタイプ)等の総代理店として事務用機器の輸入販売を行う。
この期間が、まさに『生まれてはみたけれど』が撮影された当時の、黒澤商店(黒澤工場)の事業内容であったわけである。
関東大震災で、銀座の本社ビルと蒲田の工場が大きな被害を受け、黒澤貞次郎は一時廃業も考えたが、不屈の闘志で工場を再建していった。
黒澤貞次郎に大きなチャンスがきたのが、まさに小津安二郎が『生まれてはみたけれど』を撮っていた1932年(昭和七年)である。タイプライターの歴史を研究し続けている京都大学人文科学研究所付属東アジア人文情報学研究センター准教授の安岡孝一は、三省堂のワードワイズ・ウェブというサイト上に、この頃の黒澤貞次郎をめぐる興味深い記述を寄せている。
1932年7月、黒沢商店を含む6社は、逓信省から「和文印刷電信機」の設計書提出を依頼されました。当時の日本は、五族協和の夢と、満洲国への期待で沸き立っていましたが、それは同時に、アメリカと敵対する可能性を強く孕んでいました。そこで、「和文印刷電信機」の国産化に向けて、逓信省が動きだしたの です。期限は1932年12月末。黒沢は、松尾と共同で「和文印刷電信機」の設計をおこないつつ、まずはカタカナ・タイプライターの完全国産化に挑みまし た。「和文印刷電信機」のキー配列は「和文スミス」と全く同じだったので、「和文スミス」を国産化できれば、「和文印刷電信機」の国産化にもかなり寄与するはずです。すでに「和文スミス」の部品は、全て蒲田工場で生産できるようになっていました。あとは、スミス・コロナ社の特許に抵触しないよう、設計を少しだけ変更すれば、国産のカタカナ・タイプライターは十分、実現可能でした。
(『三省堂ワードワイズ・ウェブ』連載:タイプライターに魅せられた男たち・第58回 より)
まさに、昭和七年という年が黒澤商店を飛躍的に成長させる起点になったことが伺える記事である。満州に覇権を拡大しようと策略する日本陸軍の動きは、ルーズベルトを刺激しアメリカは日本に対して経済封鎖を行う。ここで、タイプライターは国産に頼らざるを得なくなり、「和文印刷電信機」に注力していた黒澤商店に注文が殺到した。その結果、黒澤商店はタイプライター、「和文印刷電信機」の国内需要をほぼ独占的に引き受けることになった。
しかしまもなく、日本とアメリカとの関係悪化は決定的となり太平洋戦争が始まる。そして、この戦争によって、黒澤工場は震災以来二度目の被害を受けることになった。
まさに、戦争によって業容を拡大し、戦争によって壊滅的な打撃を受けたのである。戦後、貞次郎は三たび立ち上がるが、1953年(昭和28年)脳溢血によって波乱の生涯を終える。その最後まで、この反骨の経営者は、株式会社化に抵抗し、大家族主義を貫いた。
黒澤貞次郎死去の後、組織は株式会社に改められ、株式会社黒澤商店が発足する。資本金は1億円。戦後八年を経て、黒澤商店は個人商店から、株式会社に改組することになった。
わたしは、戦前昭和の時代の、「吾等が村」を作るほどの企業が、戦後まで個人商店の形で営まれていたことに、あらためて驚きを禁じ得ない。だが、「吾等が村」は個人商店であったがゆえに可能な擬似家族共同体であった。株式会社となった黒澤商店はもはや、「吾等が村」の理念を継続してゆくことはできなかったのである。
1957年(昭和32年)には富士通株式会社と共同出資により黒沢通信工業株式会社(現富士通アイソテック株式会社)が設立される。資本金は5億円である。これが、現在の富士通ビルに繋がってくる。
そもそも、この合弁話がどちらから申し出されたものなのか、仲介者がいたのか、何故黒澤と、富士通なのかということの詳細はよくわからない。
戦後黒澤ビルはGHQに赤十字ビルとして接収され、1953年の黒澤貞次郎の死後、個人商店だった黒澤商店は、その財産の多くを失う。1947年(昭和二十二年)に施行された非戦災者特別税は過酷なものになり、1953年の貞次郎死去に伴う相続税も莫大な金額にのぼった。この間、黒澤商店は、資産の大半を納税のために売却せざるを得なかったのである。黒澤商店の実質的な経営はここで潰え、息子たちがそれぞれ分与された資産を引き継ぐことになったのだろう。そこに、計算機、通信機器に事業拡大を狙う富士通が接近する・・・。
以上はわたしの推測に過ぎないが、後にコンピュータ分野に進出する富士通の思惑が伺える経緯である。
インターネット上で、論文検索をすると、(碩田商学第3a3号1999年12月)『富士通(株)の組織能力形成に関する一考察』という宇田一理氏の論文が見つかる。
その中に興味深い一文があった。
1950年代後半には,入出力装置の必須な事務用コンピュータ市場が日本でも拡大しつつあった。そのため,富士通も事務用コンピュータFACOM212の開発に乗り出した。しかしながら,事務用コンピュータに必須の周辺機器は十分なものを自社生産できず,I BMの機器を購入し,本体に付属させなければならなかった。IBMに周辺機器を依拠し続けるのはビジネスとして得策ではないと判断した富士通は,1957年に電報用の和文タイプや和文印刷電信機の製造を行っていた黒沢商店との提携を企図した。結果,富士通と黒沢商店との合弁会杜「黒沢通信工業(株)」を設立した。これが,富士通のコンピュータ開発に関する初めての企業間関係の生成であった。この黒沢商店との合弁は,富士通が,黒沢商店が有しているテレタイプの技術と製造工場の利用を考えたためであった。
(碩田商学第3a3号1999年12月)『富士通(株)の組織能力形成に関する一考察』より)
この文章には脚注があって、富士通信機(株)『富士通信機ニュース』No.17,6ぺ一ジ,およぴ,筆者による黒沢張三(黒 沢不動産椙談役)とのインタピュー(1998隼8月ユ2日)と記されている。
この論文には、漠然とではあるが、わたしが考えていたとおりの背景が詳述されていた。
わたしたち隣町探偵団は、三か月の間、まさに黒澤村の庭を歩き回って調査していたわけである。
かつての本門寺道駅、後の道塚駅のプラットホームのあった位置に、一軒の古いそば屋がある。名前を「ひぐちや」という。戦前からこの地でそば屋を営んでいたという老舗である。
偶然立ち寄ったそば屋の主人は、黒澤村のことを良く覚えていた。
「そういえば、よく出前に行ったよ」と主人は語り出した。
(図版77. 黒澤村に出前をしていたそば屋にて) |
おそらくは、戦後間もない頃であった。当時高校生であった「ひぐちや」の現主人は、出前で黒澤工場に何度も出入りしていたそうである。当然のことだが、残念なことに当時の黒澤商店の詳細までは把握できる立場にはなかった。ただ、この主人から、現在の「ひぐちや」が、もととも道塚駅のプラットホームだった場所であり、店の直ぐ前から黒澤村まで、幅一メートルほどの六郷用水が流れていたという証言を得ることができた。環状八号線ができる前の、道塚周辺の六郷用水の流れる風景について記憶している人物が、今でもこの地でそば屋を営んでいることを知り、歴史の流れが細々と続いていることには、感慨を覚える。
そば屋を出てさらに、付近を探索しているとこの辺りには不似合いな教会があった。カトリック蒲田教会である。教会の事務棟のような建屋を尋ねると、神父さんが出てきて応対してくれた。神父さんは比較的最近この教会に就いたということであった。
それでも、この教会は黒澤貞次郎と関係があるのではないかという予感があったので伺ってみると「この教会の土地は、黒澤から引き継いだものです」という返事が返ってきた。
後でカトリック蒲田教会のホームページで、教会の沿革を調べてみると次の記述があった。
「1958年土井大司教は、蒲田教会の建設の準備を開始した。1961年建設用地が獲得され、1961年5月11日にドイツ・ケルン教区からの祈りと援助により 、城南の一角に教会の建設がかなえられ、聖フィリッポに奉げられた蒲田教会が誕生し土井大司教の司式で献堂式が荘厳 に執り行われた。初代主任司祭井手雄太郎師、助任司祭青山和美師司牧のもと、大森、洗足、田園調布その他の教会から移動した約300名の信徒でスタートした。」
1958年の設立準備ということは、黒澤貞次郎はすでに鬼籍に入っており、この教会の土地めぐって黒澤の遺族と土井大司教とのあいだでどのような話がなされたのかについては、はっきりしたことはわからない。
学校横の道のところで書いたが、黒澤貞次郎は蒲田御薗の私邸の一部を、蒲田教会に提供している。そして、その教会には、黒澤の妻、長女、二男、三女が信徒として名を連ねていた。蒲田教会はプロテスタントの教会であり、こちらのほうはカソリックの教会である。ふたつの教会の関係は不明である。ただ。黒澤貞次郎も、その一族も熱心なクリスチャンであったことがわかっている。
(図版78. カトリック蒲田教会) |
先に引用した、三省堂ワードワイズ・ウェブというサイトで、安岡孝一は貞次郎とキリスト教に関する逸話にも触れている。その記事によれば、黒澤貞次郎がクリスチャンになった機縁は、かれが最初にアメリカに渡った洋上にあったということである。ワシントン州タコマに向かうノーザン・パシフィックの蒸気船の16日に及ぶ旅の中で、貞次郎は足を怪我してしまい、それがもとで生死の境をさまようことになった。この体験と、そこからの脱出が黒澤貞次郎をクリスチャンにしたという。アメリカ西海岸に就いたのちも、貞次郎は日曜日ともなれば地元のYMCAに顔をだしていたとのこと。
YMCAは、宗派を問わない団体であるので、この記述だけでは黒澤がカトリックなのか、プロテスタントなのかよく分からない。西海岸は、アメリカの中でも比較的カトリックが多い地域だが、それでもやはり少数派である。黒澤が、洋上で瀕死の状態のときに、どのような人物に出会って、キリスト教に目覚めたのか。そこまでを明らかにした資料は今のところ見いだせない。
黒澤は宗派にはこだわっていなかったのかもしれない。いずれにせよ黒澤貞次郎は、熱心なクリスチャンとして日本に帰ってきた。日本で事業を興して成功をおさめ、「吾等が村」の中に、幼稚園、小学校、テニスコート、プール、農園、水道などを作ったが、教会を作ったとの記述は見いだせない。おそらくは、幼稚園はキリスト教の教えに従った情操教育の場であったのだろう。
今日この地を歩いていると、黒澤貞次郎の残したものはほとんど何も見当たらない。わずかに、黒澤村に接する一角にカトリック教会が、残るのみである。そして、そのカトリック教会は、熱心なクリスチャンだった黒澤貞次郎と繋がっている。戦後、黒澤村一帯は空襲で焼かれ、税金で資産は切り売りされ、事業継承は必ずしもうまく行かなかった。黒澤商店は、事実上富士通に買収された形になって、かつての黒澤村の面影は失われたが、わずかにカトリック蒲田教会が往時の面影を現在に伝えているということかもしれない。