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=======そもそも憲法というのは、成文化したから憲法なのではなくて、本来「その国の国民が、その国の歴史伝統文化に基づいて無意識に共有している理念ないし価値観」のことをいいます。
ですから歴史の古い国には、もともと文章化された近代憲法などありません。
そのようなものを作らなくても、国として国民が共有する理念も価値観も歴史の中にちゃんとあるからです。
十七条憲法のような規範としての憲法とは異なり、あくまで近代憲法としての憲法のことをお話しています。
日本も江戸時代まで「憲法」なるものは存在していませんでしたが、現代日本よりもはるかに治安のよい安定した国家を形成していました。
そのことがわかると、ではなぜ米国が憲法を制定したのかも、自然と理解できるようになります。
アメリカ合衆国は、移民国家であり、多種多様な欧州の緒民族による移民によって形成された国です。
そもそもスタート時点では、各州がそれぞれ別な国のいわば植民地であり、その植民地が連携して独立戦争を戦い、合衆国となった国です。
ですから当然のことながら、共有すべき理念や価値観の歴史的蓄積がありません。
ありませんからこそ、これを文章化して強制的に国民が共有化するようにした。
それがアメリカ合衆国憲法です。
そう考えると、世界最古の国家である日本の場合は、そもそも成分憲法の必要性があるのでしょうか。
実は、日本が明治のはじめに大日本帝国憲法を制定したのは、まったく別な理由によります。
当時の日本は、不平等条約に苦しみ、同時に有色人種国でありながら欧米列強と対等な国家となるために、ほんとうに涙ぐましい努力を続けていたという情況にありました。
鹿鳴館を造って、毎夜、社交ダンスパーティを開いたのもそのためだし、いまだにご皇室が外国大使をお招きするときに、日本料理でなくフランス料理を出すのもそのためです。
憲法も同様で、日本が有色人種国でありながら、欧米に負けない近代国家であるということを証明するために、伊藤博文や井上毅(こわし)が中心となって、大日本帝国憲法を起草しました。
この大日本帝国憲法も、策定時には全国で54の憲法草案が出されています。
まさに、当時の日本のおかれた現状を、みんなが理解し、欧米型近代国家の体裁をとりながらも、日本の歴史伝統文化に立脚した、わが国独自の憲法として制定されたのが、大日本帝国憲法であったわけです。
だからこそ大日本帝国憲法は、文語体でむつかしい表現にはなっているものの、成文化した憲法という欧米に倣ったカタチでありながら、中味は、日本の歴史文化伝統そのものです。
日本人が共有すべき理念や価値観の歴史的蓄積に基づく憲法になっています。
憲法の本質は「その国の国民が、その国の歴史伝統文化に基づいて無意識に共有している理念ないし価値観」と申し上げましたが、このことは、ひとことでいうなら「国の精神」です。
ですから、憲法が歪むということは「国の精神」が歪むということを意味します。
戦後のわたしたちは、GHQが押し付けた占領統治下の最高法規である「日本国憲法」を国の中心に据えています。
欧米人による日本国占領のための押し付け憲法ですから、その内容は、当然のことながら、日本の「歴史伝統文化に基づいて無意識に共有している理念ないし価値観」ではありません。
まったく別な、あくまで「占領統治を行う」ためという目的にのっとった憲法であって、人によっては、現行憲法はむしろ「歴史伝統文化に基づいて無意識に共有している理念ないし価値観」を破壊するために、軍事力を奪われた日本に、天皇を人質にとって無理矢理押し付けた憲法だと主張している人もいます。
ですから、どんなに美辞麗句や学説や憲法解釈論を並べてみたところで、はじめから日本人の価値観とは異なる精神が土台となっているわけですから、その憲法を遵守しようとすればするほど、国のカタチがおかしなものになっていくのは、当然のことといえます。
いまどきの多くの日本人は、憲法があって法があり、国がある、つまり「憲法>法>国」というイメージを持っている人が多いと聞きます。
けれど憲法というものが「その国の国民が共有する理念や価値観である」という、そもそも論に立てば、まずは国民の共有する精神が最初にあるわけで、その精神のもとに共同体としての国家が営まれ、その国家の運営のために法が整備され執行されるというのが、本来の姿です。
であれば、本当は「国民精神>共同体としての国家>法」という順序になっているというのが、本来あるべきあたりまえの姿です。
憲法があるから国があるのではなく、民族という共同体があるから、そこに憲法があるわけです。
そうでなければ、成文化した憲法を持たないイギリスなどは、国とさえいえなくなってしまいます。
大英帝国を国家ではないなどと考える人は、誰もいないと思います。
「文章に書いてあるから憲法」ではないのです。
いま、憲法改正論議などがはじまろうとしています。
それにはいろいろな手順があると思います。
現行憲法無効論もあるし、改正論もあります。
さまざまな議論はあるでしょうが、必要なことは、わたしたちの国のわたしたち国民が、歴史伝統文化に基づいて無意識に共有している理念ないし価値観」を、わたしたちは憲法にしていかなければならないということです。
ですからその新憲法は、当然のことながら、世界最古の歴史、伝統、文化を持つ日本という国の、本来国民が共通している伝統的価値観や理念が、明確にカタチとなったものとなるべきであろうと思います。
そうでなければ、それは、「日本人の日本人による日本人のための憲法にはなりえない」からです。
もうひとつ、質問をします。
現在、国連加盟国は世界に193カ国ありますが、そのなかで、改正されていない世界最古の憲法を持っている国は、どこの国でしょうか?
実は、日本です。
日本国憲法は、昭和22(1947)年に制定されてから、現在まで、ただの一度も改正されたことがありません。
いまや、改正されない世界最古憲法となってしまいました。
たとえ理不尽な押し付け憲法であっても、ひとたび陛下の宣旨をいただいた憲法であれば、どこまでもこれを遵守してきた国民、その改正のための手続き法すらつくらなかった国民というのは、ある意味、たいへん立派なことであろうと思います。
美徳はたいせつです。
けれど、いまどき「護憲派」などと言っているのは、もはや政党の名にさえ値しない弱小政党に成り下がった社民党くらいなものです。(共産党は護憲ではなく、そもそも憲法否定です)
憲法とは、「その国の国民が共有する理念や価値観である」と書きました。
では、その日本とは、いったいどのような理念や価値観を持った国なのでしょうか。
「日本を取り戻す」ということは、単に景気を取り戻すという意味だけでなく、日本古来の理念や価値観を取り戻すということでもあろうかと思います。
その日本の理念や価値観は、どのようなカタチをしているのでしょうか。
実はこのことも、アメリカ合衆国憲法をはじめとした近代憲法のなりたち考えると、たいへん鮮明になってきます。
そもそも欧米の近代思想というのは、主として18世紀以降の啓蒙思想、もしくはその延長線上の思想をさしています。
そしてこれら啓蒙思想の根幹をなす世界観や人生観の特徴は、合理主義や実証主義の名のもとに、歴史の蓄積を否定しているところにあります。
どういうことかというと、それらは一面に於ては個人に至高の価値を認めています。
そして、個人の自由と平等を主張します。
けれど、他面に於ては、国家や民族を否定します。
世界性は国家を上回ると規定していますが、ではその世界性というものがどのようなものかは、いまだに明らかにされていません。
つまりそれは、尊厳を認められた個人が、それぞれに勝手に妄想する架空の夢物語でしかないということです。
そして個人主義の思想は、歴史的全体からみると、実は孤立したものです。
要するに過去の歴史の統治体制と対立し、闘争し、否定して、新たに、抽象化された個人と、その集合体としての世界なるものを重視しているわけです。
このことは、宗教的戒律や、王制による制約の厳しかった欧米諸国の国力を、飛躍的に成長させる原動力になったといえるかもしれません。
自然科学にせよ、人文科学にせよ、そうした制約や制限からの自由を得ることで、飛躍的な進歩を遂げたのは事実です。
だからこそ、個人主義は実証主義的に「正しい」とされてきたわけです。
ところがこの「正しい」とされた近代思想も、さらに発展して社会主義や共産主義、さらにはもっと過激な無政府主義などが登場するにおよんで、一方には、反対方向に極端にすすんだ全体主義(ファッショ)や国民主義などが登場し、思想的混乱が起こります。
これらの種々の思想は、すべて根は、同じ個人主義の発展形です。
ということは、その個人主義自体が、行き詰まりを起こし出したということです。
その混乱はいまなお続いていて、それが民族の対立やテロにまで発展し、世界の混乱を招いています。
なぜなら個人主義は、結果として、個々が対立し闘争していくものにしかならないからです。
「個人がまずあって、その個人の集団が国家である」と規定すると、君主は智、徳、力が基準になります。
徳があればその位につき、徳がなければ、その位を追われ、あるいは権力を握ってその支配者としての地位にのぼり、権力を失ってその地位を追われ、あるいは主権者である民衆の意のまゝに、選挙によってその地位を得たり失ったりします。
つまり、人の仕業や力関係だけで、その地位が定まるのです。
けれど、その地位に就くための徳や力というものは、実は相対的なものです。
「人より力がある」、「人と比べて力がある」というだけのことだからです。
ですから力を持つために、いきおい権勢や利害に流されます。
それは、個人の活動も、国の活動も、常に権勢や利害によって流されてしまうということを意味します。
思うに、国の中心となる者が、個人の上下関係と支配と従属の関係に基づく権力者であれば、そこにあるのは、常に「対立と闘争」です。
選挙もその意味では、「対立と闘争」の産物です。
国においても、企業においても、人の集団のすべてが、「対立と闘争」の関係に陥ってしまうのです。
そしてこうした思考がわが国の近代化とともに、わが国に入り込み、そして戦後は、その思想が「憲法」にまでなることによって、「和の国」であったはずの日本人が、いつのまにか「対立と闘争」が「正しい」ことであるかのような刷り込みがなされて、現在にいたっています。
昨今、ようやく保守政権としての安倍内閣が誕生したとみるや、安倍内閣を論評し、批評し、叩くことがまるで正義であるかのような論調が目立つようになってきました。
もとより私は、誰が総理にふさわしいか、総理にどうしてほしいかなどを論評する立場にないし、そんなことをする気もさらさらありません。
むしろ、そのような「対立」ばかりが、ことさらに喧伝されるという社会自体を、嘆かわしいと思う者のひとりです。
そもそも、わたしたち日本人は、西欧諸国のいわゆる「人民」という概念とは、まったくその本質が異なる存在です。
どういうことかというと、諸外国におけるたとえば大統領と人民(国によっては書記長と人民だったりもします)との関係は、常に「政治権力者と対立する人民」とか、「まず人民があって、その人民の発展や幸福のために、政治権力者を定める」という関係です。
おのおの独立した個人の集合体である「人民」が、権力者と対立し、または権力者を擁立するような関係においては、権力者と人民の間に、これを一体化する紐帯というか、深い根源が存在しません。
日本においては、幕府と民、百姓の関係も、天皇と皇民の関係も、店主と丁稚の関係も、もともとはつねにひとつ根源から生まれ、国のはじまりから一体となって栄えてきたという関係を重視していました。
武士は百姓と同源であるという関係が、そのまま名字になったのが源氏ですし、武士も百姓もおなじ平らな関係だということが名字になったのが平氏の姓です。
つまり日本社会は、すべての階層、すべての組織において「はじめから一体」です。
日本全国に姓の数は約30万種あるのだそうですが、それらの各姓のご先祖を辿って行くと、かならず誰もが天皇家とのつながりをもっているというのも、日本の特徴です。
はじめから国家最高の存在と、誰もが血縁関係を持っている国など、世界中さがしてもそうそうはあるものではありません。
そしてこのことは、大変重要な問題を提起します。
つまり、「はじめから一体」という関係と、「はじめから対立」という関係では、まったく異なる、ということです。
日本は、「はじめから一体」という関係を大道として、わたしたち民衆(これを臣民といいます)の道の根本としてきました。
これは、諸外国とはまったくその選択を異にするものです。
そして、さらに大事なことですが、どこの国においても、その国の最高権力者と民衆との関係には、それぞれの歴史的背景があります。
その背景にともなう、情義があります。
ですが、それらはそれら諸国における関係であって、日本のものとは異なるということを、わたしたちはまず、理解する必要があるように思います。
同時に、国のはじめから、自然と人とを一体化し、みんなが一体であるという道を現じて、それによつて栄えてきたわたしたちの国のような国家は、実は決して、その例を外国にみることができないものです。
ここに、世界無比のわたしたちの国、日本の国のカタチの根本があります。
その「一体性」のことを、わたしたちは「和」と呼びました。
その「和」は、日本の国のはじまりからの大道であり、わたしたちの国の歴史生成の力であり、日常のわたしたちの人の道の根本です。
人があくまで自己を主とすれば、それは「我」となります。
「我」は、常に矛盾と対立を呼びます。
ですから「我」をはればはるほど、そこに「和」は生じません。
ということは、「我」を根本におく個人主義では、この矛盾や対立を調整緩和するための協同や妥協や犧牲はあっても、どこまでいっても「和」は存在し得ません。
なぜなら、個人主義の社会は、万人の万人に対する闘争の社会であり、歴史はすべて階級闘争の歴史となってしまうからです。
つまり、個人主義は、実は、わたしたちの国の根本精神である「和」とはまるで相容れない主義主張であるわけです。
ですから、欧米諸国の個人主義を、無批判に受け入れて日本社会の政治や社会の形態や、理論的背景を形成しようとしても、それらはどこまでいっても、「和をもって尊しとなす」わたしたちの国の精神から、遠ざかってしまうものとなります。
西欧的な学説で、わたしたちの国が理解できなくなる理由が、実はここにあります。
では、わたしたちの国における「和」とは、どのようなカタチをしているものなのでしょうか。
すくなくともそれは、互いに対立した平等かつ機械的な協調などではありません。
ではどういうものかといえば、全体の中に「分(ぶ)」をもって存在し、その分に応じて精一杯の努力をし、ひとりひとりが全体とよく一体を保つことをいいます。
それが「和」です。
それぞれが、それぞれの良さやすごさを互いに認識し合って、互いが互いを敬愛し、互いに努力する。
友達の◯◯君は、数学では学年で一番だけど、国語なら、俺が一番だ。
友達の◯◯君に、成績ではかなわないけれど、駆けっこだったら、俺が一番だ。
それぞれが全体を尊重し、それぞれがそれぞれに自己のプラスの部分を活かして全体の中に「分」を得、互いの分を認め合い、協調しあうところに、「和」が生まれます。
こういうことは、単なる機械的な同質を求める妥協や調和や平等とは、まったく意味も内容も形態も異なるものです。
各々が、それぞれの特性をもち、互いに相違しながら、しかもその特性(すなわち分)を通じて、みんなが互いに切磋琢磨しながら一体化していこうとする、積極的な意味を持つからです。
そしてそれぞれが特性を活かし合い、葛藤しながらも、全体を支えようとすることで、この「和」は、ますます偉大なものとなり、内容も豊かなものとなります。
そしてさらには、ひとりひとりの個性がいよいよ伸長され、特質は美しきを放ち、しかも同時に全体の発展や隆昌をなしていきます。
これを「おおいなる和=大和」といいます。
いかなる国の、いかなる革命も、その国の歴史、伝統、文化的背景を無視しては決してなりたたないものです。
そしてその革命は、必ずその国の歴史の繰り返しとなります。
支那しかり、ロシアしかり、英米しかりです。
いま、中東では、爆弾テロなどがさかんにおこなわれています。
日本でも、そこまではいたらないものの、かつて左翼が暴動を繰り返した時代がありました。
けれど、いまの日本で、暴動やテロなどをして、国を変えたいと思う人は、おそらく誰もいないし、もし万一、そういうことによって、新たな国家を建設したとしても、おそらくその国家は、いかに民衆の弾圧や虐殺を繰り返したとしても、数十年を経ずして必ず崩壊します。
そしてそれ以上に、そんな事態にならないよう、しっかりとした国つくりをすることが、いま、まさに政治に求められている最大の課題であろうと思います。
そして新しい国つくりに書かせないのが、批判や評価ではなく、わたしたちがもういちど「虚心坦懐に日本を学びなおす」ということなのではなかろうかと思います。
なぜなら、国つくりというのは、常に歴史的価値観に裏付けられたものによってしか生成し得ないからです。
未消化で、外国ですら混乱を招いている個人主義を、いたずらに日本の国内に普及しようとしたところで、無理があります。
わたしたちには、わたしたちの歴史伝統文化があるからです。
※以上の考察は、昭和12年に文部省が出した「国体の本義」をもとに、私なりに考察を加えて書かせていただきました。

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