この小説の作者はこの小説を短編小説とかほざいてるらしいですね
弓よ、射手の心の鏡たれ
木の板すら貫きかねない鋭い目線を、男はその方向に投げかけていた。
視線の先に、川が流れていた。川幅は凡そ十と数m。激流である。川の流れる速度は余りにも急湍で、常人がその中に足を踏み入れればその水流の強さの為に一秒たりとも直立姿勢は維持出来ない。
水は空気のように透き通っており、そのままでも飲めそうである。事実、生で飲む事が出来た。先に述べたようにその激流の故に、人間の体内に取り込まれれば腹を下させてしまう細菌が住めないのである。
川岸には、直径が一m~二m程の、ゴツゴツとした角を残した大岩が、ゴロゴロと転がっていた。岩の大きさ、粗削りで球とも呼べない角ばった岩の形を見るに此処はある川の上流ないし其処に近い所なのだろう。
やはり男は、その激流をジッと見つめていた。――否、見つめているのは、正確には激流ではない。彼が見つめていたのは、川の向こう岸に転がる、岩の上で戯れる複数匹のチドリなのだ。
チュン、チュン、と、耳に快い鳴き声を上げて、チドリは岩の上を歩いていたり、仲間と一緒に身体を擦りつかせている。見ているだけでも心が和まされてしまう、あどけない光景である。
しかし、見ているだけで心癒されるこの光景を見つめる男の顔は、怖いものすら感じられる程厳めしく、真に迫った何かが感じられた。
まるでウサギやキツネでも発見して、今まさに猟弓から矢を放とうとする狩人宛らの表情である。
その男は地味な服装だった。
暗めの緑色をした長袖の上着と、踝まで届く程の同じく暗い緑色の長ズボン。上着にも下着にも、刺繍も何も施されていない。無地である。
身長の方も、何の特徴も無い。百七十cmにも満たない、大きすぎもしない小さすぎもしない。中背と呼ぶに相応しい背格好。
服装にも慎重にも何の変哲も際立った特徴も見受けられないがしかし、顔だちは個性的だった。
くすんだ茶髪を短くまとめた精悍な顔付きの男で、まこと野性的であった。短いが、伸びれば剛毛になるであろう無精髭が頬と顎にビッシリと生えている。
それが見るものに荒武者、或いは、長い間山に籠っていた猟師を連想させてならない。凡そ騎士とか言う華やかな存在には到底みられない、山賊、また、蛮族と見られるのが妥当な風防である。
だが、一目見て艱難辛苦を味わって来た事を感じさせるその佇まいは、只者ではない。現に、彼の身体から放たれる空気はピリピリした敵意を通り越して、剣呑な殺意とも言うべきもの。
一介の山賊や蛮族如きではこう言った気配は醸し出す事は出来ない。そして、とてもじゃないが、愛くるしく戯れるチドリ達を見る目でもない。
「――」
石像のように、男は押し黙っている。口はキツく一文字に引き結ばれ、一言も言葉を発する様子がない。
川岸の外側に男はいた。其処は岩がゴロゴロと転がる歩き難い場所ではなく、土の上に草の下生えが生えた、岩地に比べればやや歩きやすい場所である。
草の生えている部分に、茂みはない。ひょろりとした細い木々が、人が歩ける間隔でポツポツと点在するだけであった。だから、チドリが見えやすい。
――男の腕が動いた。
風切る音すらも響かない上に、目にも留まらぬその速度。ただ速く動かすだけではこうはいかない。凄い技術力だった。
その速度で両腕を動かし終えるやいなや、今まで空手だったその両手に、何かが握られていた。
それは、弓と矢であった。弓の方は――如何なる材料かは知らないが――靱性と弾性に優れた木をやや半円状に撓らせた長弓で、矢の方は、弓の方に適した長さと鏃を携えたそれである。
これら二つは、実は今まで彼の背中に背負われていた。彼が弓矢を使うと言うその証拠に、彼はその背に矢筒を背負っており、その中に何十本もの矢が備えられていた。
弓を持つ左腕を前に突出し、細い弓の弦に、矢の矢筈をかけた。
そして、矢を持ち構える右腕を引く。弦に構えて矢を引く際に一切の物音を立たせなかった事もそうだが、それ以上に、ピシッと垂直に伸ばされた背筋に、全く崩れていない姿勢も見事なものだった。
弓を行使するには腕全体の筋肉と、肩の筋肉、そして背中の筋肉が重要になる。これらが覚束ないと、人は矢を水平に打つ事すらままならなくなる。
飛び道具と言っても、力足らずがおいそれと撃つ事の出来る代物ではないのだ。
だが言うまでもなく、力自慢だけが扱える程弓は大味な武器ではない。当然、放たれた矢を確実に相手に命中させられる繊細さもまた求められる。寧ろ弓矢の場合此方の方が重要である。
そして、これもまた当然の事であるが、矢の的は小さければ小さい程当てる事が難しくなる。然るに、この男は命中させる事がとんでもなく難しいものを標的としていた。
それは、岩の上で戯れるチドリ。何と彼は、どう贔屓目に見ても体長二十五cmにも達していない、しかも小回りも効く上に素早いし空も飛べるこの小鳥を的にしているのだ。
如何な弓術の達人とて、おいそれとこの小さな的に命中させる事は出来ない。チドリの数は、全部で五匹。
よしんば命中させられたとしても、この内の一匹、運が更に射手に味方していて漸く二体、と言う所だろう。それ以上の数を命中させるには、人外の技術が必要となる。
――だが、今矢を番えている射手には、五匹全部をこの矢で撃ち抜く、そんな気概気魄に満ち満ちていた。彼は、やる気だった。
番えている矢の鏃は、木製だった。鉄や鋼は貴重であるから、節約の為に木材で鏃を拵えたのだろう。
だが如何に木の鏃とは言え、弓から放たれれば殺人的な加速度が加わり、当たり所によっては人を殺して余りある威力となる。ましてや体自体が小さいチドリである、当たれば即死は間違いない。そう、当たれば、だが。
射手とチドリ達の彼我の距離は、凡そ十六m程。命中率を抜きにした場合の、長弓の最大射程距離は、二百m半以上と実はかなり長距離。
そして実戦で、射手が標的に命中させられる有効射程は百五十m近くとかなり長い。
これらの射程から考えればつまり、十六m程のこの距離間でチドリに矢を命中させると言う事は、現実問題として可能なのである。
――但しそれは、相手が人間、或いは人よりも図体が大きく、かつ反射神経も鈍い動物と言う場合に限る。
相手は野性の鳥、しかも特に反射神経に優れる小鳥である。加えて、何度も言うように体も小さい為当てる事も難しい。こうなると先程の有効射程と言う『理』も消し飛んでしまう。
これらの有利不利を理解した上で、やはりこの射手はチドリを狙っているようだった。
射干玉のように黒い射手の瞳は、全くブレていない。一直線に、五匹のチドリ達だけを睨めつけていた。
矢を番え腕を引いたまま、男は石像如く動かない。微動だにもしていない。矢を射る最善のタイミングを、窺っているのである。
五体は今の所、一つの大岩の上でバラバラに散開していた。彼は、五体がほぼ一つの所に纏まったその時を狙っているらしい。
その瞬間を辛抱強く待つ事、更に二十秒。遂に望みの一瞬がやって来ると見るや、彼はパッと、右手を矢から離した。
ヒュッ、と軽い音を立たせながら矢がチドリ達の群れへと向かって行く。あるかなしかの一瞬の間に生じた斯様な軽い音とは裏腹に、射られた矢の速度は、時速百六十㎞。人は愚か、動物ですら避ける事は先ず出来ない。
――そしてそれは、チドリ達にしても同じだった。
パシュッ、と言う何とも言い難い音が射手の鼓膜が捉える。この音を、彼はよく理解している。聞かないでも解った、彼はその音の音源をシッカリと目にしていたのだから。
チドリの一匹を、鏃が貫いた音である。放たれた矢はチドリの一匹に当たるや、この一匹を微塵に粉砕した。余りの加速力及び、的の小ささ故に、チドリの肉体が耐え切れず粉々にしてしまったのである。
岩の周りに哀れなチドリの血肉が飛び散り、鮮血の斑を形成する。当たってしまったこの小鳥の周りだけ血肉が今もなお飛び散っており、それが霧のように見えていた。
更に矢の齎した惨劇はこれだけでない。矢はチドリの一匹を破壊しても尚勢いは死ななかった。その為に、最初に殺したチドリの後ろにいたもう一匹を、矢が貫いたのだ。
そのチドリは、開かせていた翼に矢をモロに喰らってしまい、穿たれてしまう。地に濡れた羽毛が空を舞った。
胴体に命中こそしなかったものの羽を射られれば鳥は最早死んだも同然。仕留めた、と言うのに数えても良いだろう。
さて、漸く仲間が殺された事に気付いた残りの三体が、算を乱して飛び去ろうとする。
鳥の心情はこの射手には解らないが、ただ一つ確かに解る事は、この三匹がまことに怯えきっていると言う事であった。忙しない動作から、三匹がその様な感情で支配されている事が解る。
チドリ達は慌ただしくその小さな翼を羽ばたかせ、飛翔。地を這う獣共が絶対に達する事のない、自由な大空へと逃げ去る――事を射手は許さなかった。
残像すら残りそうな程のスピードで、彼は後ろ手に右腕を動かし、矢筒から矢の一本を取り出す。そして信じられない程のスピードで矢を番え、彼から見て右側へと逃げ出したチドリの一匹に矢先の照準を合わせる。
凄い、としか形容の言葉が見つからない程スムーズで、迅速な動きだった。長弓と言うのは次の一本を番えるのに通常十秒程、早くて四、五秒程であると言うのに、この男は一秒にも満たない時間でこれをやってのけた。
そしてまた、的に狙いを定める速さも人外であった。迷いも何もなく彼は矢から手を離し、それを発射。今まで地に足つけていた岩から六~七m程頭上を飛んだか否か、と言う所で、チドリは放たれた矢に胴体を撃ち抜かれた。
パシュッ、と言う音と同時にその小鳥は、パンパンに水を入れた皮袋を破裂させたように、鮮血と肉・内臓の破片を四散させ即死した。
頭上の一点に浮かび上がる、三匹目のチドリを撃ち殺した事により生じた血肉の霧を確認するや、またも射手は疾風の如き速度で右腕を後ろ手に動かし、背負った矢筒から矢の一本を手にする。
そしてその矢を滑らかに、それでいて猛烈な素早さで弦に番えて、四匹目に撃ち放つ。射手が狙いを定めたそのチドリは既に三十~五十m程も上空に飛んで逃げていた。
先程も言ったように長弓の有効射程は百五十mだが、それは的の大きい人を対象とした場合であり、人の内臓器官とほぼサイズの変わらない大きさのチドリでは、有効射程だから命中させられるとは一口に語れない。
この高さを飛び回る小鳥を寸分の狂いもなく命中させる事の出来る弓の射手、それは、古今稀なる弓術の体現者、と言ってもまるで言い過ぎではない。
そしてこの男は――その古今稀なる弓術の習得した男であった。
余りにも射手から小鳥が離れていた為に、矢が命中した音は聞こえなかった。
しかし、彼の視覚は確かに、頭上四十m以上上空を逃げていたチドリが、血肉を弾かせ即死するその光景を捉えていた。
当ててしまった。これ程の弓術の持ち主、デュアール王国を草の根分けて探し出しても数人といるまい。これ程までの絶技を有する男が、まさかこの国の中にいたとは!!
射手は、遥か高くを飛んで逃げていた四匹目のチドリを撃ち抜いても、喜びを億尾にも顔に出さなかった。
以前として彼の顔つきは仏頂面と言っても良い無愛想そうな顔付きで、これまでの凄い行いに対する達成感がてんで感じられない。まるで、出来て当たり前、とでも言うようである。
感傷に浸る間もなく、男は右手を素早く動かし、矢筒から矢を一本取り出し、長弓にそれを番える。
最後の一匹は、実に上空九十mを飛翔していた。これだけ離れていると、例え標的がチドリでなく人間であっても命中させる事は難しい。放たれた飛び道具と言うものは、何時も真っ直ぐ飛ぶとは限らない。
風向が作用する事で軌道が大きく修正されてしまったり、そもそもこれだけ離れていると標的に防がれたり回避されたりもしてしまう。ましてや相手が機動力に優れ的も小さいチドリなら……。
距離と言う、飛び道具を扱う上で最も重要な壁に立ちはだかった為か、流石に射手も今回に限り、直に相手に撃つと言う事はしなかった。
矢を番えたまま遥か頭上を睨み付ける。頭を動かさず瞳だけを動かして、鉄の板にすら穴開けんばかりの目線を送り続ける。この目線だけで、飛ぶ鳥すら撃ち落とせそうだった。
五匹のチドリの内、最初の二体を一時に仕留めた時のように、彼は狙っているのである。矢を放つ、最善の瞬間をだ。
――その時が来た。彼は矢を右手から離した。ビュッ、と、矢は一直線に物凄い速度で上空へと駆け上がる。
だが、此処で予想外の事が起きようとしていた。もしも矢が、このまま風の悪戯に晒される事なく一直線に進んだとして、その軌道上にチドリはいないのである。
見当違いの方向に、射手は此処に来て矢を放ってしまった。しかし彼は、次の矢を放とうと右腕を動かさなかった。ただ、事の成り行きを、ジッと見上げるだけだった。
すると、俄かに信じがたい事が起きたのである。
頭上百十mをまでチドリが飛翔した所で、この最後の一匹が急に、それ以上上に飛ぶのを止め、右に水平に飛び始めたのだ。其処は――射手の放った矢の弾道上であった。
遥か上空の一点が、ポッ、と赤く染まった。無論それが、チドリが矢で撃ち抜かれた事によって生じたものである事は最早言うまでもない。
何たる絶技だろうか。
この射手は、最後のチドリが何処を飛ぶのか読んでいたのである。次に相手が何処を移動するのか、それを予測し、その方向に矢を放つ。さしずめ、読み撃ちとでも言えば良いのだろうか。
予測した方向に放った矢の弾道に、チドリは強烈な磁力に引き寄せられるように吸い込まれ、鏃で身体を撃ち抜かれ死んでしまった。
傍から他人が見たら、矢に標的をフラリと誘惑してしまうような蠱惑的な香りか、魔性のオーラでも内包されていたようにしか見えないであろう。
無論、標的の次の行動を予測するだけだったら、誰にだって出来る。問題は、その予測が限りなく正しくなければならないと言う事で、この一点で、彼は人外の弓術の持ち主と呼ぶに相応しい男であった。
チ、チ、チ、と。力も何もない、虫の鳴く声のような音を、射手は捉えていた。
この音は、先程撃ち抜いた五匹の内二体目、つまり、翼を撃ち抜かれて空を飛ぶ事が出来なくなり、血と肉片に塗れた岩の上で横たわるチドリの声であった。
その小鳥は余りの痛みに、その細い両足で自重を支える事が出来ずに横に倒れており、もう失血で長くないのだろう。小刻みに身体が震えている。
身体自体にも生命力を感じなければ、声にも生の力を感じない。このチドリの断末魔を彼が耳にしたのも、彼が極めて優れた聴覚を持っていたからであって、並一通りの人間では、激流の轟く音にその鳴き声は呑まれて聞こえなかったであろう。
冷ややかな目で、血に濡れた岩の上で転がるチドリに一瞥くれてやった後に、男は後ろを振り返った。振り返りざまに彼は口を開き、こう言うのだった。
「如何か、我が師よ」
その顔に違わぬ、低い、凄味の効いた声であった。
岩か大地が擦り合って喋っている、と言われても納得が行くだろう。それ程までに、威圧的な声である。
この言葉の客体は他ならぬ、射手の後ろにいる一人の人物に対しての物だった。そう、射手がチドリに対して矢を撃とうとした瞬間から今まで、ずっといたのである。彼が師と呼ぶ人物が、だ。
「……」
下生えの上に胡坐をかき、その老人は射手の貌を睨みつけていた。
貫頭衣状のローブを着用した老爺である。ローブはカーキ色をしており、一見すればそれは、土で汚れたりしたのだろうかと思ってしまうが、如何やら元の生地からしてこの色であるらしい。
しかし長い間着用されていた為か、洗いざらされて色は褪せ、布の厚みも紙のように薄くなっており、何よりも其処らじゅう虫食いのように、小さな穴がポツポツと散見出来る。
小柄な老人でもあった。
身長は百六十あるかなしかと言う程で、胡坐から直立の状態に移行したとしても、目の前の射手を見上げる形になってしまう。
頭には髪が一本も生えていない。光を当てれば顔すら映ってしまうだろうと思われる程見事に禿げ上がっている、が、一方で顎髭の方は豊富に蓄えられており、老人の胸まで伸びている。
髭の色の方も、余程手入れされているのか、鶴の羽のように真白で、絹糸のようにサラサラである。
また、胡桃のように皺の刻まれた顔つきは七十代とも、八十代とも見て取れて、彼の年齢の正確な判別を困難としていた。
「如何か」
射手が再度問うた。数秒経っても、老人の方から返答がなかった為である。
年故に耳が遠いのかと一見すれば思ってしまうが、悪魔に魂を売ったような弓術を持ったこの男は、その可能性を真っ先に排斥している。
寧ろこの老人の聴覚は、十代の多感な青年よりも、いや、事によったらウサギよりも優れていると知っているからだ。
「……俺はお前を弟子にした憶えはまだない」
錆びた歯車が回るような緩慢さを以って口を開く老人。
彼の口から紡ぎだされた言葉は、その口の動きに従うようにまたゆっくりとしていたが、聞き取りにくい訳ではない。
声がこの年の年寄りに特有の掠れ声と言う訳ではないし、声自体の大きさも小さくないからである。
「何を言われるかと思えば、そんな事」
返答するのがワンテンポ遅い老人と比較すると、この射手は間断がない。言われたら、すぐに答える。そんなスタンスであるらしい。
呆れたような声音でそう言いながら彼は肩を竦めて見せ、その後に持っていた長弓の末弭を突き付けて、強い声で老人に言葉を投げつけた。
「『嘗てはデュアール王国で雷鳴のようにその勇名を轟かせていたこの俺に弟子入りを志願するとは大したうつけもの。俺の弓術の妙を我が物にしたくば、お前の弓の腕前を見せてみよ。半端な腕なら即座にこの渓谷から叩き返す』。そう申し上げたのは他ならぬ貴方ではないですか」
これは暗に、『俺の腕前はお前の目に叶うものだっただろう』と言っているも同然の言葉だった。
凄まじい自信の表れであるが、あれだけの弓術を見せつけられれば、寧ろ謙遜してしまう方が不自然に感じてしまうだろう。あの弓の技は、誇っても良い位である。
現にこの老爺は彼の腕前だけは認めているのか、彼の言葉に一切の反論を見せず、黙然と押し黙っているのであった。
「五匹の小鳥を寸分の狂いなく撃ち抜いたあの芸が意にそぐわねば、今の芸と同じ距離から、空飛ぶ小虫も撃ち抜いてご覧にいれよう。それでも尚気に召さぬなら――」
「待て待て、少し黙らぬか。誰もお前のあの技をつまらぬとは言ってない」
口早に捲し立てる射手を、老人は静止させる。
「正直に言えばの、お前の弓術は極まっているよ。俺の弟子になる必要などない、と言う程度にはな。俺がお前程の年の頃は、恥かしい話だが、お前程の弓術の技などあらなんだ」
かぶりを振りながら、老人が言った。自虐的な発言であるが、不思議とネガティヴな印象は所作からは与えられなかった。
「だが、お前は矢を放つ際に殺意を込める」
ギラリ、と、老人の瞳が刃の先が放つような鋭い眼光を放った。
身体の中に一振りの剣でも埋め込まれているみたいな、そんな危険な気配を彼は射手に当てている。
普通ならばビクッと身体が反応する物だが、暗い緑の服の男は、恬然とした様子である。まるで物怖じしていない。
「殺意を込めた……だから何だと言うのでしょうか」
それが如何した、とでも言わんばかりの声音である。
「とどのつまり攻撃と言うのは、相手に当てて初めて功を成す。如何に貴い理念があろうと、如何に考え抜かれ磨かれた技術があろうと、剣は相手を斬れねば意味がないし矢は相手に刺さらねば意味がない。
殺意が込められていようが、技術のへったくれもない速いだけの攻撃であろうが、相手に当たって打ち倒せればそれで良い。違いますか?」
「それもまた真理よ」
老人は、射手の言葉を是として認めた。
「だがな、お前の扱う武器は弓矢だ。剣や槍や棒以上に、扱う人間の心理を反映しやすい、鏡の如き武器よ。射るものの心理如何では、神話の中の投槍が如く狙った獲物を外さぬし、普通に射れば絶対に当たるような距離でも外しうる武器にもなる」
今度は、射手の方が黙っている番だった。石みたいに動かず、彼は素直に老人の言葉に耳を傾けている。
「解るか。優れた弓矢の使い手はな、弓をその手に握っている限り、あらゆる雑念を払わねばならぬ。殺意は勿論の事、愛するものとの色恋の事、身体が痛むなぁと言う事、腹が減って来たぞと言う事。
斯様な人間的な感情は、弦に矢を番えている限り全て捨てよ。弓の道を往くものが、弓を握った時に考える事は、二つ。相手は何処を動くのか? 矢を避けられたら自分は何をすべきか?
この二つ以外には何も考えるな。弓を手にしている時は、清らかで落着いた、邪念の欠片もない心境を心掛けよ。空気と我とが一体化するような感覚を心掛けよ。これを――」
「明鏡止水」
「ほっ、弓一辺倒の馬鹿かと思ったが、意外と学はあるみたいだな」
キュッ、と口の端を吊り上げて、老人は射手をからかった。が、老爺の言葉に、彼は全く反応しない。
樹脂で顔面固められたのかと思ってしまう程に、表情が動かないのだ。眉も口も、ピクとも動く事はなかった。
「だが、私は殺意を秘めながらも五体の小鳥を仕留めた」
仮面のように動く事のない表情で、射手が言った。その通りである。
確かにこの射手は、矢を射る際には好ましくない、殺意を身体の肚裡に秘めて打つと言う行為を実行しながらも、五体のチドリ全てを寸分の狂いもなく撃ち抜いた。それを、この老人は如何説明するのか?
「それはお前が世に稀なる天才児だからだろうよ」
なんとこの老人は、射手の才能を明白に認めると言う言質を以って、この矛盾を説明してしまった。
余りにも身も蓋もなさ過ぎるが、射手を認めた老人のその言葉には、迷いも躊躇もまるでない。あそこの一隅に花が咲き誇っている、と言うような自然さで認めたのである。
この余りのあっさりぶりは、ある意味で気持ちよさすら感じてしまう。
「その通り、雑念煩悩の類を胸に秘めていようが、達人が振るう剣の剣閃は凡人には見切り難いし、弓矢の名手が放った矢も避けがたい。俺の殺意秘めるべからずと言う教えも、一つの真理ではあろうが絶対の真理ではない」
「なら――」
「だが」
老人は射手の言葉を無理やり遮った。有無を言わさぬ、強い力がこの老爺の言葉にはあった。
「疎かにして良い真理ではない。若いの、目上のものに対する叛骨の心構えは重要ではあるがな、時には謙虚に教えを取り込むと言う柔軟さも学ばねばならない。反発してばかりでは腕前は上がり難い。
俺の弟子になりたいのなら、俺の教えを素直に聞け。弓矢を扱う時には殺意を秘めるな。扱うその時だけは機械になれ。そうすれば、お前の天稟に更なる磨きが掛かる」
「――殺意、か」
小さく口の中で言葉を転がしながら、射手は、後ろを振り向き、夢見るような瞳で遥か頭上を仰ぎ見た。
先程射手が言っていたが、今二人がいる場所は平地を流れる川ではなく、渓谷であった。
目に快い色の緑に覆われた二つの山脈に、あの急湍な河川が挟まれた侵食谷で、川自体は山脈に沿って流れている。
今でこそ、此処チーユ渓谷の山々は気持ちの良い位の緑に溢れ返っているが、これが秋になると夢想境にでも迷い込んだかと錯覚してしまう程の、紅葉と黄葉の色彩の乱舞で満ち溢れる。
その光景たるや、一目目にしてしまえば余りの美しさに見たものは呆然とし、絶景と言う世にこれ以上ない陳腐な褒め言葉すら脳外に弾き出されてしまう程に見惚れてしまう程だと言う。
尤も今の季節は秋ではなく春であり、紅葉の時節もまだ数か月と待たねばならない。紅葉の美には数段劣るものの、今の緑に覆われた光景も中々乙なもの。
一度風がそよごうものなら、山々の緑はさざ波みたいに波立ち、これまた見たものの心をガッチリと掴むに足る情景を演出する。
射手は一見すれば、山の緑に目線を送っているようにも見えたし、はたまた、澄んだ青い一枚板でも敷いた様な青空を眺めているようにも見えた。
しかし男は、その実何も見てなかった。何も見えてなかった。興味がないのである。自然の演出するダイナミックな光景は当然の事として、宝石や貴金属が見せる高貴な光ですら、彼の関心を奪う事は出来まい。
果たして今目の前にいる射手が、先程絶技を以って五体のチドリを撃ち殺した男だと誰が信じられよう。まるで覇気も生気も感じない。枯木が其処に佇んでいるようにしか見えないのである。
「人である以上、誰かを殴りたい、傷付けたい、死なせてやりたい。そう思う事は、まぁあろうよ」
射手が此方に背を向けた事に、別段老人は怒っていないらしい。射手が聞いているのか如何かなどお構いなしに、老いた男は言葉を紡いで行く。
「殺意を我が裡に秘める事自体は、これはしょうがない事だ。が、一つだけ聞きたい事がある」
一呼吸置いてから、老人が口を開く。その間、射手は何も言葉を発さなかった。
「何の為に俺の弓術を盗もうとする」
訊ねた。
「……」
無言だった。
「復讐か?」
老いた弓の達人が訊ねた。
「然り」
短く、射手が首肯しながらそう言った。
「何故殺す」
鏃もかくや、と言う程に老人の目が細まった。有耶無耶にする事も嘘を吐く事も許さぬ、と言う強い表れが一目で解る。
「肉親を含めた一族郎党、及び、領地に住まう民や賢明な領主ですら、皆殺しにされた為」
これに対する射手の答えは明瞭極まりなかった。
大切な人を殺されたから、復讐を誓う。この世界ですら有り触れた、しかし、万人の納得し得る動機でもある。
「殺すべき存在は人か」
「否」
即答する。
「亜人か」
「否」
またも。
「――獣か」
ピクッ、と、射手の身体が電流でも流したような反応を見せる。これが正解と睨んだ老人が、矢継ぎ早に言葉を浴びせかける。
「獣に対して復讐など、栓なき事とは思わぬのか? 狼か、獅子か、熊か。何に殺されたのかは知らぬがな、この国だけでも何匹、この三種がいると思っておる」
「正確に言えば、その獣は多成獣です」
今度は老人の方が、先程の射手同様、電流を流して見せたような反応を示した。尤も射手の方は背中を向けている為に、知る由もないのだが。
「多成獣か……ならば、特定も容易いな。だが、知っているだろうよ。多成獣ほど不自然で、目につきやすい獣もない。お主が裁かぬとも、誰かが裁くのではないのか」
「貴方は……このチーユ渓谷から何年、外に出ておられないのだ」
「もう三十二年にはなろうな。俺がこの渓谷に隠棲を決め込んだのは……俺が四十五歳の時だったか」
――チッ、それなら解る筈もなかろうな――
内心で舌打ちしながら、射手はこの老いた弓の名手に悪態を吐いた。
この男の評判と今現在の状況を聞いた時から、世捨て人、換言すれば、隠者に等しい人間の生活を送っている事位は容易に想像がついた。
ある程度外部の情報から遮断され、外に疎い事は覚悟をしていたが、まさか此処までのレベルであるとは思ってもみなかったらしい。
三十二年。この射手が生まれるよりも前に、この老爺は隠居を決め込んでいたと言う事か。その間ずっと、弓の腕だけを頼りにこの渓谷で野の獣を狩り生活すると言うのは、想像を絶する修練であろう。
何が彼にそうさせたのかもまた興味の対象であったが、射手は脳内からこの疑問を焼き払った。彼には成すべき重大な事柄があるのだから。
「あれは誰にも裁けない、殺せない。確信を以って断言します」
「強いからか」
「あれを殺せる生物は、亜人を含めて、この王国にはいないでしょう」
「そんな多成獣にお前は弓を引くつもりなのか」
「えぇ」
ヒクッ、と、射手の鼻が一瞬痙攣した。
「私以外に、その多成獣を殺せる人間は、世にいませんから」
臆面も何もなく、射手は言ってのけた。凄まじい自信と、義務感が、言葉の端々から迸っている。
この男は如何やら本気で、その多成獣を一人で殺せる、と思っているらしい。そしてそれを使命だとも思っているのだ。
だが決して、大法螺やハッタリでこんな大言壮語を口にしている訳ではない事も、理解する事が出来る。
彼の身体から、陽炎のように怒りが揺らめき噴き出ているのだ。可視化させられるのなら、きっと彼の身体は紅蓮の焦熱で燃え盛っているに相違ない。
弓を握る左手は強い力が込められ、グリップ部分が今にも彼の握力で握りつぶされ、粉砕されてしまいそうであった。
一人の男の並々ならぬ、怒りの放射を老爺は見ていた。
射手の着る服の下で、筋肉が、別の生き物みたいに蠢いているのも老人は理解している。
色気も何もない地味な服装、中背と言う変哲のない特徴に隠された、射手の筋肉の凄さを老人はしっかりと見ているのだ。
丸太のように太い首、千年近く生きた大樹の枝の如く太い両腕、金属の塊のように盛り上がった肩の瘤、岩崖の如き厳つさの背。
弓を扱う上で疎かにしてはならない上体の筋肉が、恐ろしいまでに鍛え上げられている。人が一年や二年かそこら身体を苛めた位では、とてもこんな実用的な筋肉は搭載出来ない。
何年も、それこそ血反吐と血尿を垂れ流す程壮絶な鍛錬でも積まない限り、である。
老人の筋肉の方も、凄まじいものである。
ローブに空いた虫食い状の穴から彼の胸筋や腹筋が、そしてローブから露出した両腕が確認出来る。同じ年代の老人と、いや、彼よりも遥かに若い二十~三十代と比較しても、見事な筋量と、引き締まり方だった。
筋肉自体は、並一通りの若い男性より少し多いと言った程であるのだが、その引き締まり方が尋常の物ではなかった。宛ら、何百本もの革鞭を束ねたようである。
だが、射手の筋肉はこの老人とは比較にならない。しかし、じきに八十代にもなろうかと言う老人と、正味三十代かそこらの脂の乗った男とでは比較対象にはならない。
この老人の全盛期、二十代後半から三十代の半ばまでの時期の筋肉と比較しても、この射手の今のそれには到底敵わないのである。
如何なる執念で、この男は今の身体を作り上げ、今の弓術を手中に収めたのだろうか。
老人はそんな事を考えていた。弓を射るのに理想的な筋肉を作るのと、弓術の絶技を習得するのは、等号で結ぶ事が出来ない。それぞれ別々の鍛錬を収めねばならないのである。
だがこの射手は、これを解決した。素手で戦っても無双し得るであろう体骨格の搭載と、まさに飛ぶ鳥落とす弓の技の習得を彼は並行して行い、そしてそれを成功させている。
それ自体は珍しい事でも不可能な事でもないが、彼程の年齢でそれを可能とする、と言う事自体が俄かに信じ難い事なのである。神の力でも借りない限りは。
きっと、怒りと執念がそれを可能にしたに違いない。老人はそう解釈した。
身体を焼いて滅ぼしかねない怒りを、この男は鍛錬に向けた。その結果が、今の彼なのだろう。
岩を彫刻したような太くて分厚くて堅固な筋肉、宙を舞い飛ぶ蜂にすら当たりそうな凄まじい弓術。そして、身を滅ぼす事必定としか思われない、怒りと殺意。
怒りに身を任せ身体と技を鍛えた事で、これら三つを兼ね備えた今の彼が在るのだった。
――ペキ、と言う乾いた音を、射手と老人が捉えた。普通の人間なら、今も轟く激流の音で、この音は全く聞こえる事がないだろう。
しかし此処にいる男達は普通の範疇から大きく逸脱した人間なのだ。しっかりと、その聴覚はこの不審な音を捕捉していた。
竜巻の如き勢いで射手が振り返り、振り返りざまに右手で矢筒から矢を一本取った。
老爺の方は今まで、胡坐をかいていた為か一回立ち上がる必要があった為に、射手に若干出遅れてしまう。立った後で、彼は凄い勢いで後ろを振り返った。
彼が立ち上がりながら、今までずっと背負っていた短弓を右手にかけ、立った後で弓を構える頃にはもう遅い。射手の方が老人よりも遥かに速く、矢をビュッと放っていた。
風みたいな凄い速度で、矢は一直線に素っ飛んで行く。矢が老人の左頬の一cm半左を掠めた。
もう数cm横なら後頭部を豆腐みたいに破壊していたろうが、そうはならなかった。射手は、わざと掠めるように狙って放ったのである。
ギャンッ!! と言う何とも哀れっぽい声が聞こえた。
射手と老人は、それが何故に起こったのか理解している。射手の放った矢が、二十m背後にいた狼の右目を貫いたからである。余りの痛みに、そう吼えたと見える。
矢の進行は狼の頭を貫いた位では全く止まらず、肛門まで鏃が達し、狼を右目から肛門まで串刺しにしたその状態のまま、十数mも一直線に進んで行った。
カッ、と肛門から突き出た鏃が、細い木の一本に突き刺さった。何とも、悪夢的な光景である。一本の矢に狼が絶命した状態で串刺しにされ、細い木の幹に縫い付けられているのである。
しかもこの光景が、人間が何十分も苦労して作った光景ではなく、矢を射ると言う動作一つだけで作り上げたと聞いて、果たして誰が信じられようか。
「お前も気付いていたのか」
幹に刺さった狼の方に目線を注ぎ、老人が言った。
「獣の匂いには敏感な物で」
何たる事か、この射手は臭いを感じ取って初めて、あの憐れな狼の存在を察知したらしい。
彼が不自然に、鼻をピクと痙攣させたのは、この為であったらしい。人間離れした、犬と比較しても何ら遜色のない嗅覚だった。
「俺はあの音が鳴り響いて初めてあの狼の存在に気付いた」
老人が溜息を吐きながら、負けを認めた。
恐らくあの狼は二人の姿を見るや、音も立てずにソロリソロリと近づいて行き、油断した所を噛み付いて殺し、今日の糧とする予定だったのだろう。
しかしこの獣は若干間抜けだったらしく、乾いた枝を踏んで圧し折ってしまい、音を立ててしまった。それが、狼の命運を別ってしまった――が。
結局音を立てずともこの獣の運命は一つしか無かった事は、射手の言葉からも容易く推察出来る。まさか安全な場所で動向を見守っていた、その時点で存在を認知されていたとは、死んだ狼は夢にも思うまい。
「それにしても、凄かったぞ」
「私の弓の術がですか」
「お前の殺意がだ」
老人が否定すると、得意げな顔だった射手の顔が、一転。サッと無表情へと転じて行った。
「あの狼を殺す時、お前の殺意は、空気すら揺らめかしかねぬ程の圧倒的な物に転じた。あの五体の小鳥を撃ち殺す時のそれすら、あの狼を撃つ時のそれに比べたら煙のようなものだっただろうよ」
「四本の足で歩く生物を見ると、ついつい殺気が籠り過ぎてしまうのですよ」
「尤も」、と射手は付け加えてから、更に言葉を紡ぐ。
「あれが狼でなく『獅子』であったなら、もっと殺気を出してしまったかもしれませんがね」
「獅子?」
「えぇ、その獅子がもし……銀の鬣に、灰色の獣毛を持っていたりでもしたら――!!」
言葉を紡ぐ毎に、射手の声の大きさと殺意は比例的に跳ね上がって行き、最後の『ら』と言う言葉を口にした時には、溢れる怒りを抑えきれぬか。
電光の如きスピードで右手を動かし、筒から矢を取り出して、それを放っていた。ヒュンッ、と言う風切音を立てて、矢は狼の左目に向かって行く。
突き刺さる。眼球は磨り潰され、矢は羽巻まで体内に沈まんばかりに、狼の体内に潜り込んでいた。
狼の身体からは見るからに生暖かそうな、ドロッとした血が滴り、下草を不吉な赤に染め上げている。その様子を見て、射手は酷く陰惨な笑いを浮かべ、口を開く。
「俺だけが、奴を殺せる……。そう、俺だけが……」
意識せねば激流に呑まれて消えていたであろうこの小さな言葉を、老爺はしっかり耳にしていた。
彼は思った。この男は、自分の師事の下で、間違いなく強くなる。自分など問題にならぬ程の弓術を身につける。
――だが、長く生きる事は出来ない。恐らくは、いやきっと、四十と言う男盛りの年齢になる前にこの男はその命を燃やし尽してしまう。
その抑える事の難しい殺意と、身を大炎上させる怒りの故に、きっと彼は弓の絶技を身に着けてから間もなく死に失せる。
死なせるには、余りにも惜しい男。恐らくその怒りと殺意を克服すれば、この王国どころか、やがては世界中で広く膾炙され、永劫その名を歴史に刻み続けられる大英雄になれたであろうに。
この男は、誰にもその弓の技の凄さを知られずに、死んでしまうに違いない。そしてこの射手はその事を何ら問題にしていない。
世に神と言うものがいるのであれば、何とも底意地の悪い性格をしているのだろうか。
こんな男を、誰にも知られずして殺される運命を是とするなんて。
そして、こんな凄い男に師事した自分の名を歴史に残す機会を剥奪してしまうなんて。
――これも、天の配剤……か――
口を三日月のように吊り上げる射手を、老人は何とも可哀相なものを見る目で見つめていた。
射手は、夢見るような瞳で、やがて来る運命を夢想していた。
鋼のような色の獣毛を持つ巨大な獅子が、睾丸と両目を矢で撃ち抜かれ、血の海に沈むイマージュを、彼は妄想しているのだ。
あの狼のぐったりとした死にざまと、やがて来る銀の獅子の最期とを、彼は重ね合わせているのだった。
激流の激しい音だけが、この場に鳴り響いていた。
射手がその弓術の妙技を示す、その試金石となった五匹のチドリの内、翼を撃ち抜かれた二体目のチ、チ、チ、と言う断末魔もまた消えていた。
それは、あの狼が右目を貫かれて吹っ飛んで行き、木の幹に縫い付けられるのとほぼ同時であったとは、この場にいる二人は知らないのであった。
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