邂逅――盲目の女魔術師
「お前の住処とやらには、まだつかないのか」
「今の歩く調子だと、後三十分程で着くとは思う。何せあの沼から私の家までは、大分遠いからな」
銀獅子との一件から、二時間程が経過した。
二人、つまりアロイスとオークは沼から身体を引き上がらせ、オークが言う所の住処へと向かっている最中である。
二時間もずっと歩いていると、群棲する樹木の種類も大幅にその様相を変える。
今二人はヒノキがかなりの密度で林立したエリアを歩いており、頭上をみっしりとその梢と葉々が覆っている為か、まだ真昼であると言うのに薄暗い。まるで夜明け前のような光度だった。
魔や幽霊の類を恐れる二人ではないが、なるべく不気味な道を通りたくないと言うのもまた人情である。ましてや此処は、例え銀獅子がいなくとも、数多の亜人や肉食獣が跳梁跋扈するクラニオの森。
薄暗く、木々で入り組んだこう言った場所は、進行ルートとしては出来るだけ避けねばならない領域なのだ。それを承知で二人が此処を行く理由は一つ。まだ銀獅子への警戒心が心にあるからだ。
銀獅子が元来たルートをノコノコと進んで行くのは、馬鹿を通り越して最早愚かと呼ぶに相応しい所業である。鉢合わせする可能性が高すぎる。
だから二人は、銀獅子と遭遇する事は先ずないルートを移動する事にした。早い話が、万全に万全を期した遠回りだ。
名前から何まで興味すら抱いた事のない緑の雑草を踏み締めながら、二人は歩いて行く。オークが先導、彼の後をアロイスが追う。位置関係はそんな所であった。
奇跡的に、今の所は二人は亜人や野獣の襲撃を受けてはいない。二つの障害の内、どちらもまだ遭遇こそしていないが、何時出会うかは解らない。
そんな身に降りかかる火の粉を払い除ける担当が、道案内役のオークである。獣が出てくれば右手のバルディッシュで叩き殺し、亜人ならば交渉で退却させると言う寸法である。
彼はこのクラニオの森でも顔が広く、大抵の亜人に顔も強さも知られているらしく、交渉事には自信があるらしい。決裂した場合は、獣と同様叩き殺せば良いと言う辺り、彼もまたオークの血が流れている。
「早い所到着したいものだ……」
アロイスが愚痴めいた呟きを零す。
鎖骨と肋骨が折れた状態は、依然として変わらない。歩く度に胴体と首周りに生まれる、刺されるような痛みは健在で、これが歩調を遅めていた。
実を言えば彼のペースに合わせてオークも歩いている為に、大幅に時間が遅れているのである。
自分のせいで遅れが生じている。それが解っていても、これ以上豚の手を借りられないと言うプライドから、オークの手を借りずに自分の足で歩き、そして今もそれを続けている辺りの精神力は、流石と言うか何と言うか。
気丈を演じているが、しかし、アロイスが貫き通しているのはとどのつまりは『無茶』と『無理』だ。自分の肉体が痛みに悲鳴を上げている事位、自分が一番解っている。
早い所落着ける場所に辿り着いて、折れた骨を回復させてくれる――確証はないが――魔術師の所へと到着したい。と言う欲求が、アロイスの中でかなり強い。
が、この欲求と同じ程に、解消したい問題が彼の中で実はもう一つあった。それは、身体の至る所に纏わり付く、ベトベトとした、乾いた油のような感触である。
その感覚は、つい二時間程前にあの沼に飛び込んだ、言うなれば残滓とも言うべきもので、つまり、沼の水が乾いた結果こんな感触に至っている。
これが甚だ不快と言う他なく、しかもその不快さが髪の一本一本から股間、足の爪先に至るまで余す事なく蹂躙しているのだから堪らない。
骨折の痛みと、身体を犯すベタベタとした不快感、この二重苦が、彼を尚早な性分へと変貌させる。骨折は時間をおかねば治る事はないと最早覚悟を決めているが、このベタベタだけでも直したい。
アロイス・ウリエルが切に思っている事であった。
愚痴を零したきり、アロイスはとうとう押し黙った。一々文句を言うのもやかましいし、騎士として見苦しいと思った為である。
それきり、両者は黙然とした様子で目的地へと歩を進めて行くのだった。元より人とオーク、種族的には本来相容れぬもの同士だ。
培われた先入観もあって会話も弾まないし、そもそも話す事自体お互いにない。二人の間に静かな沈黙の帳が降りるのは、至極当然の事と言えた。
そんな状態のまま、更に三十と数分程の時間が経過した。
物質的質量を伴ってもおかしくない程の、重圧的な沈黙の中、よくぞ此処まで二人とも黙り通せた物である。
「見えたぞ」、そう言って長らく続いた沈黙を打ち破ったのはオークの方であった。
彼が言わずとも、アロイスの目にもそれは見えた。今二人が歩いている、スギが群生――あれから樹木の種類が変わった――し、頭上が梢と葉々で覆われて、夜明けの如く薄暗い所とはまるで違う。
視界の先五十m程の所に、燦々と陽光が降り注いでいる所が見えているのだ。その陽光が降り落ちている所だけ樹が生えておらず、したがって、頭上を遮るものもない事位はアロイスにも解る。其処が、オークの住処であるようだ。
二人は心持足早に、その開けた場所へと向かって行く。
其処には湖が広がっていた。
三~四百平方m程の面積で、生のまま飲んでも支障がないであろうと言う程透き通った、綺麗な湖である。思わず手で掬って飲んでみたくなる。そんな不思議な魔力を醸し出していた。
ほぼ垂直から落下している太陽光の滝を受けて、湖面は光を当てられた水晶の如く輝いており、これがまた壮観な眺めだった。
「ほう……」
アロイスがそう嘆息するのも無理はない。実際彼はこのような圧倒される光景を見たのは、これが初めてである。
如何にウリエル家がクラニオの森に隣接した領地を持ち、かつこの森の資源のやりくりで生活していると言っても、この森の全てを知っていると言う訳ではない。
この森は百二十万エーカー以上と言う事実広大過ぎる面積を持ち、この広さの為に、殆どの人間はこの森の全構造を知る事が出来ない。
森に隣接した貴族領、其処に住まう貴族を含めた全領民は当然の事、そもそもクラニオの森の住民の殆どですらも知らないと言えば、この森がどれだけ広大で、そして謎に包まれているのか推し量れよう。
その謎の故に、アロイスが『この湖を初めて見た』、と言う様な反応を見せたのは当たり前の事である訳だ。彼はこの湖があるエリアを生まれて初めて見たのである。
「随分と……良い場所を拠点としたな」
オークに対してそう言った。世辞でも皮肉でも何でもなく、本心であった。
アロイスは洞穴か、さもなければ光の余り当たらぬ薄暗い集落へと案内されるのかと身構えていたのだが、こんなにも綺麗な場所に案内されると、寧ろ拍子抜けしてしまう。
今までの警戒心は、なんだったのか、と。
「私は幸運だったのだろうよ」
謙遜せずに、オークがアロイスの言葉を肯定する。
「ところで……お前には見えていないのか」
「? 何が……む、あれの事か」
オークに言われて漸く気付くアロイス。疑問気な顔が、直に納得の顔に戻る。
湖の美しさにのみ目を奪われてサッパリ気付けなかったが、それは確かにあった。湖の畔に建てられた、丸太を組み合わせて作ったログハウスが。
アロイス達の居る位置からは、この建造物を目に入れるなと言うのが無理な程、それが視界に映り易い所にあったにもかかわらず、彼はこの建築物の存在に気付く事が出来なかった。
我が身の未熟さを、彼は内心で恥じた。骨折の痛みなど、この場合は言い訳にならない。
「呆れたな……本当に見えなかったのか」
「ぐっ……」
こればかりは、指摘されても仕方がない。痛い箇所を突かれて、嫌な声をアロイスは上げる。
「まぁ良い。色々あって疲れた、と言う事にしておこう。それより、あの小屋が、私ともう一人の住居だ」
オークの方から情けを掛けられたが、アロイスはその事をもう考えない事にした。
考えれば考える程苛々が募るだけであるし、この状況で怒ったとてアロイスには何の得にもならないからである。直に忘れる事にした。
オークの住んでいる小屋とやらを冷静に観察する。
貧乏貴族とは言え、腐っても子爵に列せられているウリエル家の長男である。その実家の館に比べればあの小屋は、豚小屋と言っても良い狭さであるが、贅沢は言っていられない。
洞窟や樹上で治療されるよりも遥かにマシな待遇だ。このクラニオの森で、家屋の体裁を保った所で治療されるなど、幸運と言う他ない。
治療される場所が全然マシな所、と言う点で、アロイスは少しだけ安堵したのであった。
「洞窟か何かで治療されるかと思ったが……」
「少し前までは確かに私もそんな生活をしていたよ、ほんの一年程前だったか」
「? 如何言う事だ」
「あの家は私の家ではない。正確に言えば、私の味方……先程も言ったな、お前の骨折を治してくれるだろう腕の良い魔術師の家だ」
そう言えばこのオークはそんな事を言っていた。
あの銀獅子か逃げると決めた時、アロイスの骨折を直してくれる、腕の良い女のオークの魔術師がいる、と。あの小屋の主は、本来ならその魔術師であるらしい。
「腕は……確かなのか、そのオークは?」
オークが魔術を使う、と言う事は極めて稀であるが有り得る事を知識としてアロイスは知っているが、その突然変異種を彼は今まで見た事がないから実感が湧かない。
よしんば使えたとしても腕前もお粗末な物なのでは、彼がそう思い、心配そうに目の前のオークに訊ねるのも仕方がない事だろう。
「? 何を勘違いしている。その魔術師がオークだとは、私は一言も言っていない。お前と同じ人間だぞ」
「な、何……?」
驚いたのはアロイスの方である。目は大きく見開かれ、平然と告げたオークの顔を見上げていた。
確かにこのオークの言う通り、彼が魔術師本人をオークだとは、一言も言ってない。それは成程と納得出来た。しかし、それは問題ではない。
彼とつるんでいるその魔術師が、『人間の女性』と言うのが問題なのである。エルフや、他の亜人種であるのならまだしも、よりにもよって人間とは。
凡そこの世界で、オークと聞いて嫌悪の念を抱かぬ人間は先ずいない。今までの悪行が悪行なのだ、当然である。このオークが自分にとっての命の恩人であると理解してもなお、アロイスには未だ嫌悪の念が拭い切れてない。
そんな、人類に害意しか及ぼさない、と言う共通認識すらあるオークと、好き好んでつるむ人間がいるとは……その事に、アロイスは深い衝撃を覚えているのだった。
「心配するな、私自信彼女と疚しい関係にはない」
「あ、当たり前だ馬鹿。お前がその女性を攫って来たとか言っていたら、真っ先にこの剣で――」
「私を斬る、と? お前に出来るのかね」
「ぬ……ぐ……」
歯を軋らせるアロイス。勝てる訳がない。このオークの強さは先刻いやと言う程見せつけられた。
鞘に納められた長剣、その柄から手を離したアロイス。剣だけは、捨てずにいた。軍馬は結局潰してしまったが、この剣だけは、手放せなかったのである。
「腕前の方だが、安心しろ。この森の下手なドルイドよりもずっと秀でている」
「そ、そうか……。なら安心した、早く案内してくれ」
「そうだな、家も近いのに、何時までも此処で立ち尽くす訳にも行くまい」
そう言う事になって、二人は小屋へと歩を進めた。
近付いてみれば、湖のその透明さが良く解る。
鳥瞰出来れば湖底すら確認出来そうな程透明で、湖中に生える水草や、その周りを泳ぐ魚すら目で見る事が出来るのだ。
水晶に例えられるその透明さは言い過ぎでも何でもなく、これは或いは、水晶すら凌ぐほどの透明さかもしれない。
「此処の水は飲めるのか?」
小屋の玄関へと近づいて行くオークに対し、アロイスが訊ねた。オークの方を、彼は向いていない。
澄んだ湖の底で戯れる、何十匹もの淡水魚にその目線を奪われているのだった。
「当然だ……と言っても、流石に人がそのまま飲んだら腹を下す。私は平気だがな。人が飲むには、魔術で一旦不純物を濾過させる必要がある」
それは尤もだ。如何に此処の湖が綺麗であると言っても、こうして外界に面している以上は、大なり小なり細菌や塵埃と言った物と触れ合っている。
つまり生水はデリケートな人間が飲めば確実に身体を壊す。野生動物や一部の亜人などは体が丈夫の為生水でも大丈夫であるが、人やエルフなどはそういかない。
一旦魔術の力で濾過、或いは清浄させる必要があるわけだ。此処から、このクラニオの森で人間が生きて行くには、最低限水を濾過する魔術に覚えがなければならないと言う事が解る。
アロイスもこの点に関しては酷く心配したものであるが、逆に言えば、この問題さえ解決すれば、当分は水に対する憂いはない。
何故なら、この湖である。濾過する為に必要な魔力量さえあれば、水に困る事はないと言っても良いだろう。突発的に、水が枯れる事もない。
コンコン、と玄関口をオークが篭手を嵌めた右手でノックする。音の硬質さから、硬い木材で拵えられたドアであるようだ。
小屋そのものを今まで観察していなかったアロイスは、此処で改めて、これから――不本意ながら――世話になる小屋に目を通す。
それは丸太を組み合わせて作ったログハウスで、屋根は雪を払い落とす為の傾斜がついた三角形で、建物自体は直方体。
カーテンが閉められたガラスの出窓が壁に建て付けられており、階数は、きっと一階まで。と言うように、兎に角平凡な、何処の貴族領にも一つや二つはありそうな建物だった。
此処にオークが一匹と人間の女が一人住んでいる、等と言っても到底信じられまい。それ程までに、この建築物はこのデュアール王国にはありふれている。
奥行きや間取りをよく見ていない為断定する事は出来ないが、如何も、この二m半と言う魁偉を持つオークが住むには、この建築物は聊か小さすぎる印象も強い。
床から天井までの高さを概算するに、三mあるか如何かだろう。このオークにとっては、少し窮屈な家であるのかも知れない。
――自分の治療に使える部屋などあるのか……?――
この建物の規模では少し疑問である。アロイスは、小声で「むう」と唸った。
「私だ、ナタリア。ヘスリヒだ」
ドア越しに、オークが中にいるだろう女性に声を掛けた。
きっと今のオークの言葉は、ある種の合言葉のような役割があるに違いない。物騒な輩が多く跳梁するこの森に於いて、自分のテリトリーにおいそれと他種族を入れる事は滅多にない。
入れるとしてもそれは、信頼を勝ち得たもの以外にはありえない。そう言う者に成りすますと言う者もまた少なくないのだ、その成りすましを看破する為には、合言葉が一番良い。
この小屋の主――恐らくはナタリアと言う名の女性――の名前と、その仲間の名前が、この場合合言葉なのだろう、と、アロイスは踏んだ。
アロイスの読みが当たりだったのかは定かではないが、兎にも角にも、数秒後。
スッ、と音もなくドアが開かれ、中の住人がその姿を現す。やはり女性だったが、その姿を見てアロイスはカッと目を剥いた。
オークの言う通り、確かに主は人間の女性だった。
後ろ髪を背中まで伸ばした、銀とも白とも取れる色の髪と、晴れた日の海のように澄んだ蒼色が特徴的な女。
肌の色は、今まで陽の光を浴びた事がないのではと思う程に白く、純度の高いミルクをアロイスは想起した。其処までなら、別に良い。
だが彼女は、余りにも幼すぎた。そう彼女は、まだ十九歳のアロイスの目から見ても若過ぎると思わせる程、少女であったのだ。
年の頃は凡そ十三、いや十四くらいかもしれない。それでも若すぎる。少なくとも、彼女がこのクラニオの森の住人だと言われても誰も信じるまい。この森に運悪く迷い込んだ何処かの村娘と言った方がまだマシだ。
それに彼女の身体から発散される、アロイスやオークの身体から醸し出される精悍さや屈強さとはまるで真逆の、薄弱とした雰囲気だ。
この雰囲気が、着用している粗末な麻の上下の服の一枚下に隠された、か弱い肉体に起因している事は言うまでもない。
――こんな少女が……本当に?――
オークに、この小屋の主が人間の女性であると聞かされて、アロイスは当初妙齢の大人の女性か、それより少し年経た、婦人より少し上に見られる位の年齢の女性なのではと考えていた。
実際この森に住まう人間の女性の魔術師には、そう言った年齢の者もいる。しかし、この小屋から出て来たナタリアなる少女はありえない。この森に住まう亜人の養分、或いは慰み者と言うのが関の山だろう。
とてもではないが、このオークが言ったような、腕の良い魔術師には見えないのであった。
「あぁ、ヘスリヒ様!! 随分とお帰りの時間が遅かったですね……私、何かあったのではと心配で心配で……」
心底心配した、と言う様な声色で、銀髪の少女はオーク――ヘスリヒと言うのが名前だろうか――に声を掛けた。良く見ると、眦に薄らと涙が溜まっている。
彼女の声はその外見に相応しい良く通る愛らしい声で、妖精が喋っていると言われても信じられよう。
「すまない、もっと早く帰るつもりだったのだが……予定外の出来事があってな」
「? 何ですか、それは」
小首を傾げて少女が問うた。
それにしても、よくオークを相手に此処まで物怖じも嫌悪も抱く事なく会話出来るものだ、とアロイスは驚いていた。
オークについての知識と、その外見を確認出来る目さえ備わっていれば、先入観が邪魔をして会話する事など困難な筈である。
外見からは想像も出来ないが、余程オーク、いや、亜人に慣れた少女であるのかも知れない。
「銀獅子……クラニオの森を最近騒がせている多成獣の事だ。それに襲われている人間を助けて、此処まで連れて来た」
「まぁ!! そんな大変な事があったのですね……身体の方にお怪我は?」
「いや、私にはない。それより、その助けた人間の方が深刻だ。骨が折れている」
「え、そのお方は元の場所に帰らずに、今此処におられるのですか?」
「そうだ」
少女とオークのやり取りを聞いて、奇妙に思ったのはアロイスだった。
彼女はアロイスと言う男に、今の今まで全く気付いていなかった。通常そんな事はありえない、彼女の立っている位置からは彼の姿がほぼ確実に見えるのに、気付く事が出来ないと言うのはおかしい。
徹頭徹尾彼の方に意識を向けていない事から、彼女は自分の事を無視しているのではと、彼は思ったが、それも様子が違う。
オークに、アロイスがこの場にいると言われるまで、少女はアロイスに全く意識を向けていなかったからである。無視するにしても、最初の一瞬はアロイスの姿を見た上でそれを行う筈である。その一瞬すら、ない。
もっと奇妙なのは、オーク並びにアロイスの状態、つまり、未だ沼の水で濡れ鼠の状態に気付いてないと言う事である。普通彼ら二人の姿を見たら、真っ先にその点に探りを入れる筈なのに。
更に、一目見て怪我などしていないのに、オークの方を見て怪我のあるなしを訊ねたのも妙である。
この年若い女魔術師に奇異の目線を向けていたアロイスだったが、オークが脇に逸れ、少女からよく見えるような位置に移動したので、「む」、と唸った。
「自己紹介位はしておこうか。考えてみれば、互いに名前すら知らない」
オークの言う通りである。アロイスとこの亜人は初めて出会ったその時から銀獅子と戦闘している最中、そして現在に至るまで、自分達の事について全く教え合っていなかった。
尤も、アロイスにはこのオークの名前はヘスリヒであるとは既に察しがついているのであるが。名前を教え合わないと何かと不便なのではと考えたアロイスは、口を開いた。
「アロイス。アロイス・ウリエルだ」
仏頂面をつくりながら、無愛想な声色でアロイスは己の名を告げた。しかたが無いとは言え、オークに名前を教えるのは癪、と言う念がまだ彼にはあるのだった。
また、この時初めて彼が声を上げた為か。少女は身体をビクと強張らせ、明確に彼の方へと視線を投げかけた。
「私の名はヘスリヒ。そしてこの娘が……」
オーク――ヘスリヒの言葉を受けて、少女がペコリとお辞儀をする。
「ナ、ナタリアと言います」
人見知りをする性質なのか、声が固く、緊張の色が見て取れた。この態度だけを見ても、クラニオの森で生きて行くには不適合な娘にしか思えない。
そしてもう一つ、アロイスは彼女が抱える、もとい、背負わされているであろうハンディキャップを薄々ながら予測していた。
「……目が見えないのか」
何気なく口にした言葉であったが、如何やら正鵠を射ていたらしい。ヘスリヒとナタリアが、その言葉に目敏く反応した。
「良く解ったな……」
素直に驚いている声である。
「色々と奇妙な点があったからな、其処から推察させて貰ったよ。そうしたら案の定、と言う訳だ」
彼女、ナタリアの、サファイアを想起させるような綺麗な蒼色の目は、潰れてもおらず、傷がついている様子もない。
アロイスの目と同じく、当たり前のように見開かれている。が、その目が目として、つまり視界の確保と言う機能がが全く働いていない、と言う事は、恐らく病か何かの類で彼女は盲いているのだろう。
「――何れにせよ、先ずは我々は沼の汚れを落とす所から始めねばなるまいよ」
ヘスリヒがアロイスに対してそう提案する。確かにその通りだ。
今まで沼の水の水のベトベトとした不快感を忘れていたが、ヘスリヒにこう言われて、アロイスはその嫌な感覚を思い出した。
意識すると、早く洗い流したいと言う衝動に駆られてしまう。清浄な湖の水が近くにあるのだ、堪らなく汚れをこそぎ落したい欲望に彼らは駆られる。
「家から桶を持って来るから、待っていろ。それと、ナタリア。君はアロイスが寝るであろうベッドの所で待機していてくれないか」
「解りました、ヘスリヒ様」
そう言って二人は小屋の中へと入って行き、各々のさし当たっての役割を果たそうとする。
ナタリアの方は盲目の為か、ヘスリヒのキビキビとした動きとは真逆で、のろのろとした動きで小屋の中を動き回っていた。
――……こんな少女が本当に私の傷を……?――
癒してくれるのだろうか。アロイスがそう思うのも当然であった。
幼い、盲目の女魔術師。ナタリアに、自分の傷を治させると言う事に、未だ彼は一抹以上の不安を抱いている。
この時アロイスは、ナタリアに対して運命的な何かと言うものを全く感じなかった。
自分の折れた骨を治療してくれる、腕の方が訝しい魔術師、と言う域を越える事が出来なかった、と言うべきなのだろう。
しかし、我々は知っている。彼女が後に、如何なる数奇な運命を辿ってか、アロイスと結ばれ、何人もの子を成すと言う事を。
それだけの縁を後に結ぶだけの女性と、初めて此処で出会ったにも関わらず、アロイスは、運命も宿縁も、何も感じなかったのであった。
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