3か月以内に更新すると言う僕の願いが萎んで行くのが解りますよ~(悲哀)
魔豚、髑髏の森にて魔獣と宴す
初めアロイスは、目の前の事態が全く理解出来ずにいた。
その眼前の出来事と言うのが、彼の脳の理解力、その限界を大きく逸した出来事であったからだ。
騎士甲冑で身を鎧ったオークを、まるで夢幻でも見るような、或いは、絶世の美女でも目の当たりにしてしまった童貞のような。
そんな呆けた表情で見ていた。半開きの口と、意思と言うものをまるで感じさせない節穴の如き碧眼を見よ。まるで間抜けか痴呆である。とても騎士の家に生まれた十九の男とは思えない、馬鹿で間抜けな顔と態度である。
「助けに来た」
チラと目線だけを一瞬此方に送り、甲冑を着た豚が言った。独り言では無い、確かにアロイスその人にこのオークは告げている。
顔をアロイスの方に向けないのは、見事であった。意識はアロイスの方に行っていると思いきや、その実、オークはその意識の殆どを、目線の四m程先で前傾姿勢を取る銀獅子に向けている。
余所見をすると、危険なのだ。銀獅子は狡猾な多成獣である。違う方向を向けば、その隙を縫って、飛び掛かって来るのだ。
自分の命を大事に思っているのなら、間違ってもあの魔獣から目線と意識を外せる訳がない。
「た、助けに……?」
この期に及んでアロイスはまだ理解出来ずにいるらしく、オークの言った事を繰り返して口にする。
「生きているだけでも儲けものだな。次からは、人の忠告はキチンと聞くべきだぞ」
このオークの言葉が皮肉でも何でもない事実であるのだから、アロイスとしては切歯扼腕せざるを得ない。その忠告とやらを破ったせいで、成程今彼は絶体絶命の危機に陥っているのだから。
さてやっとの事で、アロイスは状況のある程度を理解出来た。少なくとも、オークの皮肉が理解出来る程には。
このオークは先程彼に対して、「銀獅子と戦う事は止めて領地に戻れ」と言ったオークであると。そして忘れてはいない、この豚面の亜人が騎士道を標榜する世にも珍しいオークであると言う事も。
「お、お前……一体私を、何の為に……」
鎖骨と肋骨が折れた痛みに喘鳴しながら、アロイスが言った。
状況は呑み込めても、肝心要の事が解らない。何故、このオークが自分を助けたのか。その意図は未だ霧に隠されている。
甲冑を着たオークは言っていた。要するにアロイスを引き留めた訳は、この亜人の騎士道がそれを許さないからだ、と。
それを鵜呑みにする程アロイスも素直な性格ではない。いや、デュアール王国のみならず、言う種族を知る生命体なら世界の東西問わず、尽くが信じられる訳がない。
野蛮で、野卑で、略奪の限りを繰り返し、命を命とも思わない、蛮族と言う言葉の体現者。そんな彼らが、窮地に陥った人間を救うのだ。
何か裏があると踏むのが、真っ当な人類と言うもの。アロイスが信ずる宗教で言う所の、『無償の愛』では断じてあるまい。裏は何かはしれないが、決して明るい未来は約束するまい。
「先程も言ったが、騎士道の故だ……と言っても、信じはしないだろう。私とて、私と言う種族がどんな目で見られているか知らない訳じゃない」
「大方お前も、私が助けるのには何か裏があると思っているだろうしな」、とオークが付け加えた。
脂汗の浮かんだアロイスの顔に、ギョッとしたものが浮かび上がり、痛みに苦しむ表情と同居する。この発言が図星である事は、無論言うまでもない。
「とは言え、それを責める訳じゃない。オークと言う亜人が責められるのは、それ相応の訳があるのだからな」
豚面の亜人の表情は、油断なく銀獅子へと向けられている。アロイスには位置関係の都合上、このオークが如何なる表情をしているのかが解らない。
銀獅子は、前傾体勢を取ったまま動かない。石か何かのようだ。優れた武術の達人は同じ技量を持った人間との睨み合いの際には微動だにする事がないと言うが、まさか獣でありながらそれをやってのけるとは。
この銀獅子の状態が意味する所は、一つ。このオークが、アロイスよりも遥かに強い技者であると、認めていると言う事だった。なまじ野生の世界に生きる生物だけあって、そう言う事を嗅ぎ取る嗅覚は敏感なのだろう。
「私に助けられるのは嫌か?」
魔獣と睨み合いながらオークが訊ねて来た。アロイスは口をもごもごさせ、言い淀んだ。
本音を言えば、嫌に決まっている。だが今は、助ける人物を選り好みしている場合ではない。
このクラニオの森の深部に人が通る事自体滅多にないと言うのに、ましてやその人物が、銀獅子を相手に騎士道が廃ると言う理由だけで助太刀してくれる程の侠気の持ち主など、到底あるものではない。
雷に打たれる確率の方が、なお高かろう。それを理解してなお「助けて欲しい」と公言しないのは、偏に彼に騎士としての矜持が残っている――邪魔をしているとも――からだった。
――助けて欲しいと言わねば……――
命がない。それは頭では既に理解している事だった。しかしオークを相手にそれをいざ言うとなると、竜を倒す事よりも勇気が必要であった。
アロイス・ウリエル。彼は未だに、己が青二才だと理解していなかった。目の前のオークと比較して力が足りない事も然る事ながら、銀獅子と戦うまでは命など惜しくないとすら嘯いていたのに、今では命を途方もない宝物として愛でている。
自分自身がちぐはぐで、矛盾で構成された一人の男であると言う事を、彼は全く解っていない。それは折れた骨の痛みからか、まだ頭の中に多くの情報が錯綜しているからか。
「お前が嫌と言っても……結果的には、お前を助けるか、死なせてしまうかの二者択一になる事には変わりはない。この多成獣、人は銀獅子と言うのだったか?
奴は既に気が立っている。私すらも敵として認識しているよ。こうなったら、私もお前も、どちらも血祭りに上げねば気が収まる事はない。……奴を撃退しない限りはな」
助けてくれと言うべきか否か、未だに懊悩していたアロイスの苦悩を知ってか知らずか、オークは口早にこう言った。
意味理解が一瞬遅れたが、理解してしまえばこのオークの言う事は尤もだ。この亜人はアロイスの命を救うにあたって、彼に向かって躍りかかったその瞬間を狙って、脇腹にタックルをかまして吹っ飛ばしていた。
大型の肉食獣がこれをやられて、その蛮行を行った側を敵と認識しない筈がない。つまり甲冑を着たあのオークとしても、この場から易々と逃走出来ないのだ。
それこそ、あの魔獣を諦めさせない限りには。万が一にも諦めさせれば、アロイスの命も、結果的には生に繋がる訳である。今一度言うが、『それ』が出来るなら。
「……出来るのか」
目的語を伴わぬ言葉をオークに向かって投げ掛けた。彼がそれを理解しているのかは定かではないが、返答は存外早く帰って来た。
「私に攻撃が一発も当らなければ」
告げた瞬間、銀獅子がオーク目掛けて発条仕掛けの人形が如く飛び掛かる。
獅子の口は顎の限度いっぱいまで開かれていた。傍から見れば、顎関節を意図的に外して大口を演出しているのではないかと錯覚してしまう程だ。人一人程度、造作もなく呑み込めよう。
四mの距離が一瞬にして、銀獅子の攻撃の射程距離へと縮まった。このまま口を勢いよく閉じ、生え揃った牙で鎧ごとオークを咀嚼するつもりなのだろう。
彼のバルディッシュは今の間合いでは役に立たない。柄で攻撃すると言う手段もあるが、銀獅子相手では例えオークの膂力であろうとも役に立たないだろう。
彼は焦る事無く、泰然とした態度で、右方向にステップを刻み、銀獅子の口の軌道上から体を移動させる。離した距離は、一mと半。
ガチンッ、と、牙と牙の噛み合わさった、身の毛もよだつ音が響き渡る。オークが両足からスタと着地したのは、牙が噛み合わされた瞬間とほぼ同時だった。
亜人の回避するタイミングがほんの数瞬遅れていれば、彼の身体がズタズタになっていたに相違ない。真っ当な精神の持ち主なら、殺されていたかもしれないと言うifに震えるものなのだが、この亜人に関してはそれが一切ない。
並ではない肝の据わり方である。
銀獅子が空の口を閉じてから、十分の数秒経ったか如何かと言う短い時間の事だった。
銀獅子が此方の方向に顔を向ける前に、オークはブンッと右脚を蹴り上げさせ、多成獣の顎に脛甲を装備した脛の一撃を叩き込んだ。
その威力の程は、殴った音がアロイスの耳に聞こえる程大きいと言えば、どれだけのものか推察が出来る。
人間であれば骨は砕け内臓は破裂しているかもしれない程の威力を孕んだ蹴り上げであったのだろうが、其処は流石の銀獅子。持ち堪えた。
「――!?」
琥珀色の瞳は大きく見開かれ、強い疑念が蜷局を巻いていた。突如の衝撃に驚いている事が解る。
が、ダメージを全く受けていないのも理解出来る。口を完全に閉じきっていた瞬間に攻撃した為だろう。歯と歯を噛み合わせた状態では、頭部に叩き込まれる一撃はその威力が大きく減退するのだ。
結果的にはオークの蹴りは決定打にならなかったが、それでも負けてはいない。半tは誇るであろう銀獅子の上体が、蹴りの影響で数十cmも浮き上がり仰け反ったのだ。
並一通りの膂力ではとてもこうはならない。常人なら蹴った足の方が砕けるか折られるかするのがオチである。
「雑魚のようには行かない、か」
苦みばしった顔と声で、オークが愚痴を零した。彼の言う通り、あの蹴りが有象無象なら枯木のように圧し折ってしまう程の威力であったのは確実である。
が、相手は音に聞こえた悪魔の獣。蹴り一発で屠れるのなら、今日まで生きていられる訳がない。
仰け反らせ浮き上がっていた銀獅子の上体が元に戻り、タッ、と四本の足が地に着いた、その時。
銀獅子は急激に顔を此方に向け、やはりオークへと躍りかかって来た。地に足着いてから躍りかかるまでのこの間はまさに、電瞬のそれと言っても過言ではない。
銀獅子はオーク目掛けて、額から突進しようとしていた。助走距離は全く用意されていなかったが、そのスピードは初速の段階で恐ろしく速い。
今現在の距離関係からでも、まともにぶつかれば内臓と言う内臓が破裂しよう。
オークは焦る事なく腰を落として低く構え、円形盾を身体の前面に配置。真正面から、多成獣の体当たりを受け止めるつもりであった。
――激突!! ゴゥン、と言う鈍い音が鳴り響いたその瞬間には、彼は腰を落としていた体勢をそのままに、後方へと吹っ飛んでいた。
舌を巻くべきは、あの程度の助走距離で、鎧を含めて体重二百kgを越えているであろうオークを吹っ飛ばした銀獅子なのか。
それとも、半tを越す質量の突進を受け止めて吹っ飛びながらも、平然と地面に着地したオークの方なのか。
ただ一つ言えるのは、多成獣も亜人の双方共に、人智を逸した怪物であると言う事だった。
「怪物め、流石に手強いな」
ともすれば死が待ち受けているという状況であるにも拘らず、オークは苦笑い――のような表情を浮かべた。
彼は果たして、気付いているのだろうか、今の突進の影響で、円形盾がクレーターの如く凹んでいる事に。気付いていて、苦笑しているのかもしれない。
音に聞こえた銀獅子の、恐るべき強さにである。
短いが、それでいて、人を恐怖の淵へと叩き落とす程恐ろしげな咆哮を上げて、銀獅子が地を蹴って向かって来た。
魔獣とオーク、彼我の距離は六m程。銀獅子の体長からすれば極めて短い距離と言わざるを得ないが、銀獅子の加速力と質量、これら二つを利用した突進は、人を十人以上殺してなお余りある。
如何な頑丈なオークと言えども、これを喰らっては拙いと思ったか、これが騎士物語であれば『颯爽』と言う言葉がこれ以上なく相応しい位軽やかなサイドステップで、銀獅子の突進の射線上から逃れる。
体当たりをぶちかます筈だった相手がいなくなり、銀獅子が急停止。オークの方に顔を向けた、瞬間。彼は右手のバルディッシュを稲妻じみた猛スピードで振り下ろす。
狙いは、魔獣の脳天。奇しくもそれは、先程五体満足だった時にアロイスが騎槍で行おうとした攻撃と同じであった。アロイスもまた、騎槍で銀獅子の脳天を狙っていたのだ。
武器の種類こそ騎槍とバルディッシュでは違うが、同じ長柄武器だ。符号は、限りなく一致していた。
――その攻撃が、決定打足り得ていなかったと言う悪夢すらもまた、一致をみていた。
その振り下ろしは、ゴッ、と言う鈍い音を立てて魔獣の脳天に直撃。きっと、最も良い距離から、最も速いスピードを以って、最も力を込めて放った一撃に相違あるまい。
樫の樹すらも、真っ二つに割り裂ける威力だったろう。それだけの威力を以ってしてすら、銀獅子の頭は脳みそごと斬り断つ事が出来ないとは。
いや、正確に言えば、全く歯が立たなかったと言う訳ではない。バルディッシュの弓形の刃は、あの針金の如き獣毛を切断し、巌の如き筋肉に刃が一~二cm程食い込んでいるのだ。
惜しむらくは筋肉の強度の故と、頭蓋骨の尋常ならざる強度のせいで、刃が途中で止まってしまった事だ。
だが、アロイスの渾身の刺突が額に全く刺さらなかった事を鑑みれば、オークの方は健闘した。健闘程度じゃ何にもならないのも、また銀獅子の恐ろしさか。
数十分の一秒遅れて、バルディッシュが刺さった部位から血が迸った。紅色であった。デュアール王国を恐慌の淵に陥れた魔獣と言えど、血の色は変わりない。
血がたばしると同時に、痛みも同時にやって来たのか。銀獅子が、苦悶の雄叫びを上げて、身を捩らせた。
銀獅子が身体をブルンブルンと捩り捻じりをする前に、オークは既にバルディッシュの刃を力任せに引き抜いていた。
良い判断である。武器は突き刺したままだと良い事が何一つとしてない。出血を抑える蓋として機能してしまう為に出血死を困難にさせるし、何よりも筋肉の収縮で抜けにくくなる可能性すらある。
判断自体も見事であるが、それ以上に、判断を下してからの行動スピードも、驚異的だ。騎士甲冑を着て気取ったオークだと馬鹿にしていたアロイスだったが、認識を少し改めかけていた。
この亜人が騎士であると認める事自体は未だに渋っているが、自分以上の場数は確実に踏んでいる、と言う事は今は疑いすらしていなかった。
銀獅子がバッ、と。巨体からは想像もつかぬ程の軽捷さを以って飛び退いた。
人がこの光景をみたら驚くだろう。凄まじい大きさの図体とそれに見合った体重の獣が軽やかに飛んだ事にでない。クラニオの森に根を下ろした暴君の多成獣が、反射であれ恐れであれ、距離を取ったと言う事がだ。
神すら恐れる事がなさそうな銀獅子が、目の前の、甲冑を着た豚に警戒心を抱いている。それは、別の意味で、夢のような光景だ。
森の暴君が、地面に着地する。ズンッ、と、地に足着いた影響で、地面が緩く震える。軽い振動ですら、今のアロイスには地獄の責め苦だった。折れた肋骨と鎖骨は、未だ痛みを訴えている。彼の表情が苦み走った。
今まで苦痛に対して呻き声を一切上げなかったのは、目の前で繰り広げられる、オークと魔獣の、夢幻の情景が如き戦闘模様のせいでその痛みを忘れられていたからだった。
そんなアロイスの痛みなど、オークも銀獅子も一切気を払わない。払ってられないのだ。オークの方は目の前の銀獅子を退けるのに必死だから、銀獅子の方は邪魔な豚を屠ろうとすべく意識を集中させているから。
琥珀色の銀獅子の瞳は、瞋恚に燃え盛っている。本当に、眦から炎が噴き出るのではないかと言う程、血走っているのだ。
気の弱いものが見たら、卒倒するのもやむを得ない、そんな、凄まじい敵意と気魄とが横溢している。それを受けるオークの方は、冷静沈着なものだ。
若緑色の瞳には一切焦りも恐れも見られない。脳の中に設けられた、恐怖を感じる部分にだけ、短剣を突き刺し、機能破壊を引き起こされているのではと疑いたくなる位に、彼は平然としていた。
「か、勝てそうか……?」
痛みに耐えて、アロイスが問う。酷い掠れ声だ。オークとの距離は容易く八m以上は離れている。
普通の人間なら聞き取れる事すらもままならぬ距離だろう。だが幸いにもこの亜人には聞こえたらしい。彼は、口を開き、こうのたまった。
「共倒れ以下の結果にならないようにはする」
それは暗に、勝てないと言う事を婉曲的に告げたようなものである。
そうとアロイスが理解する前に、銀獅子がオーク目掛けて走って来た。あの巨躯の何処に、そんなスピードを生む機能が、と、疑問を浮かべてしまいそうな剽悍さだ。
彼我の距離が四m程を切ったその時、彼もまた地を蹴って、走り出した。彼は彼から見て右方向に走りだし、銀獅子と対角線上に向き合わない様な位置にまで移動。
彼は小回りに弧を描くように走り、銀獅子の左脇腹まで回り込む。丁度良い塩梅の位置に立ったとみるや、彼はバルディッシュの柄を若干短く持ち、長さを調整。
調整した後で、下から掬い上げる様に得物を振るった。狙いは、銀獅子の腹下。これは盲点であった、確かに動物にとって腹部は急所の一つである。
其処をオークの膂力を以って攻撃すれば、銀獅子としても一溜りもないのでは。着眼点も然る事ながら、それを実行に移すと言う実行力も素晴らしい。
並の精神では、あの銀獅子の腹、即ち敵の懐にまで潜り込んで攻撃しようなどと言う勇気はおきまい。
だが、銀獅子は凄まじい避け方でその一撃を回避した。何とこの多成獣は、身体全身をほぼ垂直に、そう、人間が直立する様にして、後ろ足だけで立ち上がらせて、バルディッシュの振り上げを空ぶらせたのだ。
「何っ!!」
こう言い放ったのは、アロイスだったか、それとも、オークだったか。答えは、両人共にだ。
動物と言う括りを使う事すら躊躇われる、銀獅子の回避の仕方の技巧、その高さに、二人は同時に両目を瞠若させ、そしてまた同時にそんな驚愕の声を上げた。
バルディッシュの切っ先が、最頂点まで持ち上がったその瞬間、銀獅子がオークの方に倒れ掛かってきた。
いや、倒れ掛かってきたと言う言い方には誤謬がある。より正確に言えば、倒れ掛かった勢いを利用して、右前足を斧を力任せに振り回した様な風音を立てて振り下ろして来たのだ。
オークの着用する兜ごと、叩き潰すつもりだろう。直撃すれば、彼の肉体が、内臓や鎧ごと紙のように圧縮され、即死する。
「おおおぉぉぉッ!!」
そう叫んで、オークは思いっきり飛び退いた。一足で数mも引き離す、人外の脚力。
銀獅子の右前足が地面と衝突した。ズゥンッ、と、天蓋から大岩が落下したと錯覚してしまう程の激震が先ず巻き起こった。その後に、地面が、足の着いた所を中心として半径七~八m程の浅い擂鉢状に陥没。
直撃していれば、肉体など圧縮されるどころか消滅してしまうのではないかと思いを巡らせてしまう様な、凄い一撃だった。
若緑色の瞳と、琥珀色の瞳が交錯した。銀獅子の銀色の鬣と、顔の鋼色の獣毛は、ルビーみたいな紅色の血液で、壮絶に濡れて光っている。
銀獅子が吠えた。百万の葉々ですら一時に吹き散らしてしまいそうな咆哮を上げて、多成獣が疾風すらも抜き去りそうな速度で迫る。
無論、アロイスと言う名の雑魚には目もくれぬ。狙いは豚面の亜人、オークただ一人。
彼は身体を低く、腰を据えるようにして構え、盾を前面、自らの身体を覆うようにして持って来る。
彼我の距離が一mと半分に差し掛かった時、銀獅子が急激に立ち止まり、信じられない速度で腕を振り上げた。突進ではなく、腕を振り回すような行動を主軸に据えるらしい。
体当たりと言うヤマは外れた物の、読み違いなど戦闘に於いては良く起こり得る事。此処からの対処法が、寧ろ一流の戦士には求められる。そう考えると、オークは一流の戦士であった。
左足を銀獅子が振り上げたと言う事を即座に理解した彼は、右側へとステップを刻み、攻撃の射線上から逃れる。腕が振り下ろされた、大音と激震を伴って左前足が地面に衝突し、小規模のクレーターを刻む。
だが銀獅子の方も、漸く単発の攻撃ではこの亜人を仕留めるのは難しいと理解したらしく、連続攻撃を駆使して屠ろうと行動パターンを変化させた。
左足が地面に着くやいなや、この魔獣は右前足を横薙ぎにブンと振るい、オークの胴体を黒光りする爪で切り裂こうとした。
これを彼は円形盾で受け止め、防御する。銀獅子の力は相当強く、受け止めた彼の顔には谷みたいに深い皺が多量に寄っていた。
げに恐るべきは、銀獅子の爪の鋭さだった。何と盾に爪が食い込み、盾の裏側が軽く、爪の先端部分の形を保って突き出ているのだ。貫通にまで至らなかったのが、不幸中の幸いか。
「盾が全く役に立たん!!」
円形盾を持つ左腕を勢いよく振るい、力任せに銀獅子の右前足を弾き飛ばしてから、オークが忌々しげに叫んだ。
彼の悲痛な声の通り、この戦いで円形盾が機能しているとはとてもじゃないが言い難かった。
対人戦であればこれ以上となく頑丈堅固な、ある種の要塞となり得たろうその円形盾は、アロイスが見るに、良くて後二~三回、銀獅子の攻撃を受け止められるか如何かと言う塩梅だ。
いや、場合によっては後一撃で、薄氷の板みたいに砕け散ってしまうかも知れない。何れにせよ、盾に頼る戦法は意味を成さないだろう。
左前足を大上段から、右斜め下まで勢いよく振り下ろす銀獅子。それを身体を右半身にする事でオークは回避。
振り落とされた前足が地面に激突し、浅い擂鉢状の凹みが刻まれると同時に、彼はバルディッシュを巧みに操り、その石突で銀獅子の目を狙った。アロイスと同じ様な行動だ。
だがこの魔獣は、少し顔の位置を調整させた。石突は目ではなく額にぶち当たる。当然、其処は銀獅子にとって急所じゃない。この対処方法は、奇しくもアロイス・ウリエルに対して取ったものと同じ。
オークは歯噛みした。想像以上の、銀獅子の賢しさにだ。
此方の番と言わんばかりに、銀獅子が右足を僅かに上げ、横薙ぎに素早く振るって来た。
多成獣は学習し始めていた。動きが獣特有の、動作の読みやすい大振りのそれではなく、最小限度かつ隙の少ないそれへと移行しつつある。
最小限度と言っても、銀獅子程の質量と膂力の生物の最小限だ。人間、最悪オークにとっても致命傷なのは言うまでもない、しかもその上に速いと言うのだから堪らない。
現にオークは、想像以上の速度にかなり驚いたらしく、慌てて攻撃軌道を円形盾で遮断、薙ぎ払いを防御する。
彼の身体は防御した体勢のまま、綿埃みたいに舞い上がり、二m程も吹っ飛ぶ。彼が着地した瞬間、銀獅子はその着地した隙に合わせて急接近、右左足を振り上げた。
その爪を振り下ろし、彼を頭頂部から股間まで真っ二つにしようと言うのだろう。そうはさせじと、身体を左半身にして、黒檀みたいに黒光りする爪を回避。
反撃に移ろうとしたオークだったが、その行動は中断させられた。彼が攻撃に映るよりも速く、銀獅子が大口を開けて、彼の胴体を噛み砕き咀嚼しようとして来たからだ。
急いで地を蹴って飛び退く。ガチンッ、と言う身の毛も粟立つ音が鳴り響く、牙と牙の間にはオークの肉は挟まっておらず、彼がこの一撃を回避した事が解る。
タッ、と二m程距離を取って着地すると、銀獅子がまた突進して来た。如何やら相手は、彼に対して一切反撃する隙を与えず、矢継ぎ早に攻撃すると言うパターンに切り替えたらしい。
オークとアロイスはこの魔獣の行動の傾向を同時に読み取った。オークの方は、サイドステップを刻む事によって突進を回避。
地面に両足がついたとたん、彼は全速力で走り出す。七十kgを容易く超えているであろう鎧を身に纏っているとは到底思えない程の速度で、彼は、銀獅子の寝床。
即ち、銀獅子が先程まで眠っていた所を中心とした直径二十mの、モミの木が全く生えていないエリアから、モミの木が群生するエリアへと、背を向けて走り去った。
――逃げたのか!?――
アロイスは目を剥くが、直に考えを改めた。
あの亜人を信頼しての事ではない。その背中から、我に策あり、と言う空気を感じ取ったのだ。
本当に幸いだった事は、銀獅子がオークを追った事である。殺そうと思えば今なら赤子の手を捻るよりも容易く殺せるアロイスを無視してオークを追ったおかげで、寿命が延びた。
延びただけで、対策を練らねば死ぬと言う厳然たる事実は、未だに横たわっているのだが。
さてオークの方はと言うと、アロイスが尻餅をついている地点から四十~五十mも離れた所まで走っていた。
呼吸の乱れはまるでない。それは、まだまだ余力を残していると言う事の証だった。
バッと背後に振り返るオーク。銀獅子は、ウサギやイタチ、キツネと言った、小回りに長ける小動物みたいな器用さで、モミの木の幹を躱しながら、オークへと猛進している。
まさかあの図体で小動物並の繊細な動きが出来るとは、と、オークは冷静に分析。ぶるりと、武者震いでない震えを見せた。
彼我の距離が残り六~七mと言った所まで狭まったのを見るや、オークはグッと膝を曲げ、構えた。
残り四m、その地点で、銀獅子が大口を開けた。噛み砕く算段なのは誰にでも理解出来る。光を当てれば鋭く輝きそうな程鋭い牙が、心胆を寒からしめる。
残り三m、その地点で、オークはグッ、と膝を伸ばし、跳躍した。ガチンッ、と言う、牙と牙の噛み合わさる音。だが、この音が響いている限りは幸運と言える。何故ならこの音は牙と牙が奏でる音であって、牙が肉を咀嚼する音でないからだ。
この多成獣が本来噛み殺さんとすべき獲物は、宙を舞っていた。彼は、単純な垂直の跳躍で、銀獅子のバイティング(噛み付き)の範囲から逃れていた。
七十kgの全身鎧を装着した、二m半近い巨躯のオークが、単純な脚力で二m以上も跳躍した事も信じられない事であるのだが、彼は此処から更に驚くべき行動を取る。
何と彼は、銀獅子の頭頂部を思いっきり踏み抜き、更に跳躍したのだ!! 彼はつまり、銀獅子の攻撃を回避する事もそうだが、それ以上に、あの恐るべき銀獅子の頭をジャンプの足場とする為に飛んでいたのである。
突如として自らの頭に襲い来る衝撃に驚いた銀獅子は、一瞬足場にされた影響で突っ伏し掛けそうになるが、急いで体勢を整え、上を見上げた。
何度も言うが、オークの今の体重は、鎧を含めて二百kgにも達しているのだ。身体つきも逞しい成人した男性三人分である。
果たして、誰が信じられよう。それだけの体重を保持するオークが、銀獅子の頭を蹴った勢いで枝の一本に立つや否や、迅速にまた跳躍し、更に高い所にある枝にまた跳躍。
それを繰り返す都度、三回。小猿が如き軽やかな動きを以って、彼はこれをやってのけたのだった。
「さて」
タッ、と最後の着地を行うなり、オークは呟いたのだった。
彼は樹高十七mにも及ぼうかと言う高いモミの木の天辺付近の梢に、彼は身を屈ませている。
高い。眼前には、目に染みるような緑の大海原が広がっていた。森の樹木の葉々が見せる、美しい、緑の光景だった。
ある地点はエメラルドのように美しい緑の葉に覆われた地点だったり、またある地点は鮮やかな緑、またある地点は、暗く陰鬱とした緑色だったりと、同じ緑でも様相が異なる。
クラニオ、髑髏と言う不吉な言葉を意味するこの森が見せるには、余りにも不釣り合いな幻想的光景であるが、今はそれに見惚れている場合では無い。目下の目的を、果たさなければならないからだ。
眼下を見やるオーク。目を血走らせ、怒号が如き吼え声を上げる銀獅子が嫌でも目に映った。獣の言葉は、如何な野生と自然の厳しい環境に生きるオークとて理解は不可能である、が。
少なくともあの多成獣が何と言っているかは、今は手に取るように解る。「降りて来い」、これ以外に、何があると言うのだろうか?
「言われずとも来てやるさ」
言った後で、「急いでな」、と付け加えた。
元よりオークは逃げる為に、態々高いモミの木の天辺近くに来たのではない。攻撃する為に彼は此処まで上ったのだ。
が、それは当然の事として、それ以外にも二つ、速く行動を起こさねば拙い理由がある。
一つは、梢の問題。当たり前の事だが、モミの木の枝は彼の体重二百kgを支えられる程の強度と靱性はない。やがて圧し折れるのがオチだ。
枝が未だに折れていないのは、偏に彼の超人的と言っても良い、優れた体重操作の妙技がそれを可能としている。が、それにも限度がある。現に枝は、大きく弓形にひん曲がっているからだ。
そして二つ目が、銀獅子そのものの問題。銀獅子の膂力では、今彼が枝に居を構えるモミの木、その幹を足の一振りで粉砕させる事など造作もない。無論、その爪で切断させる事も出来る。
これが拙いと言うのは素人でも解る。この高さから落とされれば、受け身を取ったとて、オークと言えども大ダメージは免れない。
猛りに猛っている為今銀獅子はそう言った考えが念頭にないのだろうが、それを行動に移すのも時間の問題だ。
――深呼吸をする事、二回。キッ、と、銀獅子を睨めつけて、オークは一喝した。
「避けてくれるなよッ!!」
空気が破裂するような声でそう言うや、オークはバッ、と。何の恐れもなく、何の躊躇も迷いもなく、枝から飛び降りた。
凄まじい落下速度で、彼は地上へと落ちて行く。まるでそれは、遥かな高みから落とされた、岩塊のような。兎に角、凄まじい勢いと速度であった。
彼は膝頭を下にして落ちていた。その膝頭の下にいるのは、銀獅子、の、『頭頂部』であった。
初め銀獅子は、このオークは何をやっているのかと言う目つきで、落下する彼を見つめていたが、彼の意図に気付いた途端、カッと目を剥き、飛び退こうとした。
しかし、もう遅い。飛び退くと言う行為を実行する前に、この魔獣の額に、『オークの膝が激突した』。
ゴッ!! と、それは凄まじく大きな、鈍く低く短い音が響き渡った。
「痛かろうな」
タッ、と地面に降りてからオークは呟いた。
痛いどころの話ではない。間違いなく即死だ。十七mをやや下回る高さから、破壊的な落下速度を伴って、二百kgの物体が落下して来たのだから。
たとえ銀獅子であろうとも、これは堪える。ましてやこの攻撃が直撃した箇所は、頭だ。頭蓋骨が破壊されていても、何もおかしくはない。
真に恐るべきは、このオークだ。彼はこの、尋常ならざる勇気を大前提としたこの奇策を即座に弾き出して、そして本当に実行したのだ。
余りにも、惜しい。オークにしておくには、彼は余りにも出来過ぎていた。
銀獅子は、酒に酔ったようにフラフラと、呂律が回っていなかった。瞳の方も、焦点が合っていない。
頭部に強すぎる衝撃を受け、脳が激しく振動している故であった。さもありなん、と言うべき状態だ。
無防備甚だしい状態の今の銀獅子に、丸太を振り回すかの如き勢いの右回し蹴りを、魔獣の頸椎に叩き込んだ。
半tを越す質量の巨躯が、成す術も無く横倒れになり、足をジタバタと死に掛けの虫みたいにジタバタともがかせる。起き上がろうとしているらしい。
オークは目敏く、そして、一欠けらの容赦もなく、踵から銀獅子の右脇腹を踏み付けた。想像を絶する、苦悶の雄叫びが銀獅子の口から迸るや、今度は彼は、右足で思いっきり銀獅子の腹部を蹴り上げた。
其処で追撃の手を彼は止める。そして、地を蹴り、風に乗っているのではと錯覚する程の速度で前方方向に走って行く。
行く先は、アロイス・ウリエルが今も尻餅ついているあの場所であった。
ものの五秒程の時間で、オークはアロイスの元へと到着。
折れた肋骨の辺りを鎧の上から押さえながら、オークを見上げてアロイスが口を開いた。
「た、倒したのか……?」
信じられない、と言ったような声音で、アロイスが問う。
「と、思う。少なくとも、暫くの間は動けんようにした」
それでも十分過ぎる程の偉業である。少なくとも、自分には到底出来そうにないと、アロイスは判断した。
だからこそ、嫉妬せずにはいられない。目の前で自分を見下ろす、甲冑を着た豚の凄まじい実力と身体能力に、だ。
そんな彼の内心で渦巻く、醜いにも程がある感情など、オークは知る由もなく。口を開くなり、こう訊ねて来た。
「動けるか」
「いや、骨が折れている……」
自分のコンディションを、アロイスは包み隠さず打ち明けた。
このオークを信頼してる訳ではないが、どの道骨折を隠そうが隠すまいが、動けないと言う事は厳然たる事実だ。例え隠し通した所で、危機を脱する事は出来ない。
「やはりな、五体満足の状態ならとっくの昔に逃げる動作を見せるか、戦う動作を見せていた筈だ。何時までも尻餅をついている筈がない」
尤も、このオークにしても、アロイスの状態をある程度までは見抜いていたらしい。
その表情と声色からは、彼が最初に言ったように、「やはりか」、と言ったような感情がありありと見て取れた。
「何処の骨が折られている、満足に動く事すらままならぬ箇所ではないのか」
「鎖骨と肋骨が折られている」
「成程、動けもしないし、武器も振るえないと言う訳か」
その言い方が、何処か非難がましく聞こえて、アロイスは悔しそうに歯を食いしばらせた。
「今からお前を連れて私の根城まで逃げる。其処で身体を休めろ」
「お、折れた骨は如何する……」
アロイスの言う通りである。肉体の疲労や傷はまだ治るかも知れないが、折れた骨だけはどうしても完治するのに長い時間を必要とする。
このオークの根城に果たして、ギプスに類するものがあるのかどうか。いやそもそも、オークの住んでいる所に足を運ぶと言う事自体が、尋常ではない勇気を必要とする。正直アロイスの目下の懸念がこれであった。
彼の根城――それはつまり、オークの集落に等しい。当然他のオークも住んでいる。このオークは幸いにも人間に対しては割かし友好的と言えるが、他のオークもそうと言えるかは甚だ疑問だった。
「腕の良い魔術師がいる。彼女に治して貰え」
「ま、魔術師……?」
意外な言葉が飛び出して来たものだ。アロイスは碧眼を丸くしていた。
オークと言う種族は確かに人間よりも遥かに優れた運動神経や膂力を持っているが、彼らは人間の多くが有しているものを持たない事で広く知られている。
魔力である。そう、オーク、いや、オーガやコボルト、ゴブリンにミノタウロスと言った多くの亜人種は、一部の例外を除いてその殆どが魔術を行使する事が出来ないのだ。
そんな彼らの中でも、本当に極稀であるが、突然変異的に魔力を有した個体と言うものが生まれて来る。
しかし、これは先にも述べた通り本当に稀で、それこそ多成獣と呼ばれる生命体が生まれてくる確率とほぼ同等、或いはそれよりも下回ると言う。
目の前でアロイスを見下ろすこのオークは、そんな希少種と繋がっている、とでも言うのだろうか。しかも、女性のオーク。想像もしたくない。
「四の五の言っている時間はないぞ、何せ我々には時間が――」
全てを言い切る前に、オークは言葉を途中で打ち切った。
酷く神妙な表情をしていた。弾かれたように彼はアロイスから目線を外し、先程自分が走って来た方向に鋭い目線を送りだす。
アロイスの方も只ならぬオークの様子に面食らい、この亜人が身体を向けている方向に、顔を向けだす。アロイスの方も愚鈍ではない。
薄々、これから何が起こり得るか、気付いているのだ。不吉な音、地面を勢いよく蹴って移動する、大質量の何かが、此方へと猛速で、モミの木を圧し折りながら迫って来ているのだ。
「本当に時間がなかったな」
皮肉気な口調で、アロイスが言った。自分の命が懸っている状況であると言うのに、その声のトーンは何処か他人事で、なげやりだった。
迫り来るのは、銀獅子だった。この凶獣は頭からモミの木の幹に激突、その太い幹を砂糖で練り固めた棒のように破壊しながら、と言う凄まじく剽悍とした移動方法で、距離を狭めて行っているのだ。
げに恐るべきは、やはりこの魔獣であったと言う事か。
あれだけの衝撃を頭に直に受けていながら、その様子を見るが良い!! 瞳は殺意に血走り、口からは唾液を滝のように滴らせ、此方へ急いで向かうその足取りにはその身が裂けんばかりの殺意が宿っている。
銀獅子は、即座に気絶状態から回復し、急いで標的の事を思い出して、此方へと向かって行ったのだ。此方へと向かって来るその様は、先程の酒に酷く酔ったようなフラフラとした印象が欠片も見受けられず、何の迷いもなく、綺麗な一直線で此方へと向かって来る。
――『不死身』。思わずそんな言葉が、アロイスとオークの脳裏に過った程であった。
「逃げる事に異存は」
「ない、心が折れそうだ。お前に全てを任せる」
「心得た」
電光のような会話だった。アロイスの言葉を受けるや、オークは円形盾の縁を左手で掴み、その後、身体を限度一杯まで右に捻じり始める。
何をするのかとアロイスが怪訝そうな表情で見ていた、刹那。オークはブゥン、と身体を捻じっていた状態から勢いよく元の状態に戻し、その勢いを利用して、盾を握っていた左腕を水平に強く振るい、ある所で盾の縁持つ左手をパッと離した。
盾はクルクルと回転しながら、迫り来る銀獅子のスピードに負けず劣らずの速度で、その銀獅子へと一直線に向かって行くのだった。オークは、円盤投げの要領で丸盾を投げたのだ。
円形盾がガンッ、と銀獅子の鼻頭に激突、ブレーキこそかからなかったものの、それでも怯ませられはしたらしい。此方へと向かう速度が、半分以下にまで落ち込んだ。
――その時だった。オークは稲妻じみたスピードで、盾を投げて空手となった左腕を伸ばし、アロイスの襟首をガッと掴んだ。
掴んでから一ミリ秒も経っていないのではないかと言う程の凄まじいスピードで、オークは、アロイスの襟を強く握ったまま、銀獅子に背を向け、ダッと駆け出した!!
何たる速さか。このオークが今や鎧を含めて二百kgを超す質量を有しているとは既に幾度となく述べた通りであるが、今はアロイスを片手に保持してもいるのだ。四捨五入して三百kgを越している。
であると言うに、その動きには全く衰えがない。僅かにスピードが落ちただけで、春風が如き軽やかな動きは全く色褪せていなかった。
「ぐっあ……っ!! お、折れた骨が……痛む……!!」
碧眼を引ん剥き、涎をだらだらと垂らして、アロイスが文句を垂らした。
無理もない、実際確かにオークの動きは軽やかであるのだが、地に足着いた際に伝わる振動までは、完全に殺し切れていない。
当然アロイスにもその振動が行く。その振動が、折れた骨に響くのは、至極当然の事であった。
「止まれと言うのか? 死ぬよりはマシだろう、これ以上弱音を吐くなら舌を抜くぞ役立たずめ!! 気絶でもして黙っていた方がまだ逃げやすい」
これに対するオークの返答は、厳しいなどと言うものではなかった。辛辣を極めている、と言っても言い過ぎじゃない。荒げられた声からは、怒りすら感じられる。
勇猛果敢で知られる子爵家の長男坊を役立たず呼ばわりし、剰え気絶していた方がまだ仕事しやすい、と言うこの仕打ち。状況が状況でなければ、アロイスは憤死していたかもしれない。
今はそれに対して激昂する気力もなかった。骨の痛み、銀獅子に追われているという極限状況。この二つが、アロイスから正常な思考力をこれでもかと言う程奪っていた。
後ろから迫る、獣の姿をした死神が生み出す、地を蹴る音のペースが速まって来る。それは、怯みから回復し、徐々にスピードを速めつつあると言う事の何よりの証。
銀獅子の速度が上がって来ている事を、オークは振り向かずとも音で察知していた。向こうは重しも何も背負っていない、丸裸の状態。此方は全身鎧で身を固め、片腕にアロイスと言う荷物を保持した状態。
やがて追い付かれるのは、子供でも解る事。但しそれは、『地上を走っていた場合』である。相手と同じ土俵で、この生死を掛けたレースで勝負する必要など更々ない。
オークは走りながら、本当に一瞬、それこそゼロカンマ一秒程の速度で膝を曲げ、一気に飛翔。総計百四十kgにも上る荷物を背負った亜人の跳躍力だと、果たして誰が思おうか!!
彼はこれだけの重荷を背負っていながら五m以上も跳躍し、一瞬でモミの木の枝の一本へ着地する。だが、今や三百kgにも達しようとしている彼の体重を支え切れる程、枝も頑強ではない。
現にミシミシと言う不吉極まりない音を、枝の根元近くの部分が立てているのだ。枝が折れる前に、彼はまた枝を蹴り跳躍。跳ね上がった影響で、今度こそ枝はボキィと言う音を立てて圧し折れ、地面に落ちた。
跳躍した彼は、別のモミの木の枝にまた着地。枝が大きく撓り出した瞬間に、彼はまた枝を蹴り跳躍。また別のモミの木の枝に着地、跳躍、また着地……こんな事を、このオークは幾度となく繰り返す。
それにしても、何たる絶技か。いやこれは最早、神技と言っても言い過ぎではない。
このオークは地上を走って銀獅子を撒けるとは到底思っていなかった。だからこそ、彼はモミの木の上を跳躍して逃げる事にしたのだ。初め銀獅子から背を向けて逃げ出したのは、モミの木が軍勢するエリアまで移動して、跳躍して枝に乗り易くする為であった。
今も彼は、モミの木の枝からモミの木の枝へと、ヒュンヒュンと、まるで別の木から木へと滑空するムササビみたいに移動しているのだ。
今この神技を行っているのが、豚の亜人であるオークだとこの状況を与り知らぬ他人が知ったら、皆卒倒してしまうだろう。それ程までに軽やかかつ滑らかな動きであった。
枝から枝へと跳躍すると言う行為に神経の殆どを傾けている為、後ろ、即ち銀獅子の方を振り返る余裕などこのオークにはない。
しかし、ある程度は銀獅子の方へと意識を集中させねば不味い。彼は、聴覚だけをあの多成獣へと集中させていた。――させねば良かったと、彼は後悔した。
ベキベキベキィ、と言う太く大きな音が何回も何回も連続して聞えて来た。銀獅子は、モミの木を圧し折り破壊しながら、オーク達を追跡しているのだ。
先程みたいに、モミの幹を回避しながら追うと言う器用な真似は完全にやめていた。粉砕して移動した方が、速いと踏んだのだろう。それは、余程この魔獣が猛り狂っていると言う事の何よりの証左でもあった。
「がっ、ぐぅ!! な、何ては、速さ、なん、だ!!」
骨の痛みを必死に堪えながら、アロイスが叫んだ。短剣でも突き刺されたような痛みに耐えながらも、目線は、折って来る銀獅子の方に向けられていた。
彼の言う通り、銀獅子の追跡する速度は信じられぬ程速い。馬よりもスピードが出ている。
今までの戦いでは、銀獅子には助走距離と言うものが全く設けられておらず――よしんばあったとしても十m程が関の山だった――、全く加速出来なかった。
しかし今は違う。オーク達を追跡している内にグングンと加速して行き、ついには今の速度と相成ったのである。
なお恐ろしい事には、現在の速度でも十分彼らに追いつけると言うのに、まだ加速していっていると言う事だった。
一歩一歩、足が地を蹴る度に、徐々にではあるが、しかし、確実に速くなっている。このまま無限に速くなり続けるのではと、実際にはそんな事はありえないのに思ってしまう程であった。
それでもまだ、オーク達と銀獅子との距離が十m以上も開けているのは、オークが樹上を飛んでいるからだ。
モミの葉が巧みに彼らの姿を見え難くし、しかも枝の上を跳躍しているという移動方法の都合上、当然彼らの方が銀獅子より上に来る。
つまり、銀獅子からはオーク達が見難いのだ。現にこの多成獣は上を見上げながら全力疾走している為か、走行姿勢がかなりフラフラ――これはオークが与えたダメージもあるだろうが――で、直線的ではない。
更に言えばオークの方も、こう言った位置関係から来る錯覚を重々承知しているらしく、銀獅子を攪乱するような軌道、たとえばジグザグだったり、わざと一回後ろに戻ってから左右どちらかに飛んだり、と魔獣の混乱を招く様に移動している。
彼がこう言う風に枝から枝を飛ぶ度に、銀獅子は、移動するスピードをそのままにあらぬ方向に十m以上も進んでしまい、その方向にオークがいないと解ると慌ててUターン、気付いた時にはオークは遥か先を飛んでいる。この繰り返しだった。
そんな事を、オーク達は五分以上も続けた。気付いた時には彼らと銀獅子との間に開いた距離は六十m近くにも及んでいた。
一見すると、オーク達の方が遥かに有利。あわよくばこのまま逃げ切れるのでは、とすら思える。しかし、現実は甘くなかった。
オークの方に、並々ならぬ疲労が溜まっているのだ。無理からぬ事だろう、枝の上から枝の上を飛ぶと言う余りにも無茶な移動方法、その上にアロイスと言う成人男性を片腕に跳躍しているのだ。
疲れが溜まらぬ訳がない。一方の銀獅子の方は重荷も何も背負っておらず、十全、ベストの状態で彼らを追跡している。やがて彼らに追い付くのは、時間の問題だった。
「に、にげ、逃げ切れる……、か? こ、れは……!!」
樹上からまた別の樹上へ飛ぶと言う都合上、当然来たる震動も生半なものでなく、其処から、折れた骨が生み出す痛みが如何程のものかも察せると言うもの。
そんな痛みを押し殺しながら、苦悶の声でアロイスがオークに訊ねた。アロイスはこの場で、涙一筋流してない事を、誇りとすら思い称賛しているのだった。
「このまま枝を飛び続けているのなら、間違いなく不可能だろうな。私にも肉体の限界がある」
アロイスの問いに対してオークが答えた。彼の声音からは疲労のそれが感じられない、流石であった。
「あの多成獣の体力は天井知らずと言っても良い。いや、体力はあちらが無限大であろうとも、私一人なら逃げ切れる自信はあるが――」
「クッ、悪、かったな……!! 私が荷物、とでもいいたいのっ、だろう……!!」
オークの言葉から、アロイスは非難の念を感じ取った。この亜人は、アロイス・ウリエルと言う男が逃走を図る上で完全に邪魔な荷物であると言う事を最早隠しもしていない。
そしてそれが厳然たる事実であるのだから始末が悪い。今やアロイスですら、自分が文句の付けようのない役立たずであると、自覚し始めている。
「自覚があるのならば結構、だが今はお前の自虐に付き合っている暇はない。事態は一刻を争う」
月が沈めば日が昇る、そんな当たり前の事を言うような口ぶりで、オークはアロイスの言葉を認めた。
アロイスの頭に血が上る、その前に。オークは口を開き、言葉を言い放とうとしていた。
「オイ、私の質問に答えろ。貴様、何分息を止めていられる」
「な、何……?」
今も彼ら二人が樹上を猿みたいに器用に跳躍しまくっているのは周知の通り。そんな極限状況だと言うのに、オークの質問は、およそ要領を得ていない。奇妙としか言いようがなかった。
だが本人は至って真面目に問うているのは言うまでもない。表情からは諧謔の色が一切認められなかった。
「良いから答えろ、何分止められる」
「せ、正確に、計った事はなっ、い……が……ぐぁっ、三分程度なら……多分耐えられる。だっ、がっ、骨が折れている今では果たして……」
呼吸を止めて無心に剣を打ちこみまくる訓練を過去にこなした事がある。
兎に角剣を矢継ぎ早に何度も何度も打ちこんでいる最中と言うのは、呼吸をしている暇がない。肉体が剣を振る事に集中し過ぎて、呼吸が二の次どころではない、かなり優先順位が下げられてしまうのだ。
無論この訓練は実戦に於いて必要なものである。素人が思う以上にそう言った、剣を何度も何度も連続して振るうと言う状況は起こり得る。
そう言った状況で重要になるのは、どれだけ速く、またどれだけ長く剣を振るいまくれるかと言う事だ。これら二つを一定以上の高みへと引き上げるには、どれだけ無呼吸でいられるかと言うのが重要になる。
とは言え身体を全力で動かしながら無呼吸でいると言うのは、想像する以上に苦しいもの。アロイスですら四十~五十秒程が限界であるが、それはあくまで剣を振るいながらの話。
ただ単に息を止めていれば良いと言うのなら、三分、いや四分は余裕である。だがこれも既に知られている通り……今のアロイスは鎖骨と肋骨が折れている。平時の半分以下しか、無呼吸の時間は持たないだろう。
「三分か――なら、六分は耐えてもらうぞ」
「な、何……?」
オークの言動が余りに奇矯だったので、アロイスは一瞬痛みを忘れて目を丸く、呆然とした表情を作ってしまった。
「この先に、多くの亜人や野生の獣達が水飲み場として活用する沼がある」
言い終えた後に、「そら、あそこだ」、とオークが前方方向に顎をしゃくる。
その方角二百m程先を見ると、成程確かに沼が見られた。それは、水辺にアシやガマにマコモ、水上にはミツガシワやトチカガミ、ウキクサ等が浮いている、二平方km程の小沼であった。
よく目を凝らすと水面にはマガモやガチョウと言った、水面を活動範囲とする水鳥が、ゆったり、そして平穏にたゆたっている。
今だけは外敵の心配がない為か。その動きには呑気さすら感じられる。
「あ、の沼がっ、如何したと……」
如何もこのオークは、その沼地へと向かっているらしい。気のせいか、最後のスパートと言わんばかりに、枝を飛ぶペースが速くなった気がする。
「銀獅子をやり過ごす」
「ど、如何やって……」
「鈍い男だな。先程何分息を止められるか、と言った私の質問から考えてみせろ」
言われて素直に、アロイスはオークの言った言葉、その意味を反芻する。
骨の痛みに苦しみながら思案すると言う行為はまさしく苦痛そのものであるのだが、意外にも、即座に答えが導き出せた。
意味を導き出せたからこそ、驚愕した。ハッとした表情で、目線をオークに向けるアロイス。
「ま、まさか」
「ほう、骨が折れていると言うに中々察しが良い。その通り、あの沼の中に飛び込むぞ」
今日の天気を語るように平然とした態度で、オークが驚くべき事を言ってのける。
「ば、馬鹿!! 何を言っている!! 気でも狂ったのか!!」
骨の痛みすら忘れて、アロイスは猛反発する。
湖沼の中に潜ってやり過ごせば、成程如何な銀獅子とて追跡出来まい。半tを越す程の銀獅子の質量は地上戦に於いては脅威以外のなにものでもないが、それはあくまで地上戦でのみしか機能しない。
水中ではその質量の故に沈むだけ、つまりあの多成獣の体重は水上戦に於いては無意味でしかならないのである。
だが――しかし。アロイスもこのオークも、それは同じ事だった。彼らは重い鎧で身を鎧っている為、水に浮く事はない。必然的に水中に没してしまう。
此処から演繹出来る可能性は、一つ。即ち、銀獅子をやり過ごす前に、此方が水中で窒息死。湖沼の底泥と還ってしまうかも知れないと言う事であった。
「私は真剣だ!! このまま奴から逃げ切れると思っているのか!! 水底で死んだふりでもしない限りは、到底生きて帰れんぞ!!」
アロイスの反発に、オークは猛り狂いながら反論した。
言葉に詰まったのはアロイスの方である。そう、この亜人の言う通り、このまま行けば銀獅子は確実に彼ら二人に追いついてしまう。もうそうなったらどうしようもない。
オークは逃げ切れるかも知れないが、アロイスの方は死が確約してしまう。それを回避する為に湖沼に飛び込むと言う考えは、確かに理に叶っている。叶っているが、余りにも過酷な選択だった。
「沼までもう直だ、深呼吸しろ!! 飛び込む準備を整えるんだ!!」
オークの一喝でアロイスは覚悟を決め、数回の深呼吸の後、大きく息を吸い込んだ。
ダッ、と。二人は沼から二m程度離れた所に生えていたブナの木の枝に着地。モミの木より枝が太い為、それが圧し折れる時間には幾許か余裕があった。
その幾許の時間の間に、オークはグッと強く膝を屈め、跳躍!! 鋭い角度を以って跳躍。アロイスを片手、しかも全身鎧を装着していると言うに、オークは立ち幅跳びで十数mの距離を一気に飛翔した。
アロイスはグッと目を瞑り、来たるべき水の衝撃に備える。オークの方は、瞬き一つしていなかった。
――竜巻のような水煙と、火薬を水中で炸裂させたような入水音が生じたのは、ほぼ同時であった。
さしたる外敵も無く優雅に沼地を泳いでいたマガモやガチョウ、アヒル達は、このオーク達の勢いよき入水と言う突然のハプニングに、豆鉄砲でも当てられたように驚愕。水面を蹴り、忙しなく両翼を羽ばたかせ、青空へと逃げていった。
沼、とは言うが水は澄んで綺麗な物であった。成程、野生の獣や亜人達が水飲み場として活用していると言うのも頷ける。
目を見開けば、コイやドジョウ、ナマズと言った淡水魚が、突如として巻き起こった水の衝撃に驚いて、蜘蛛の子散らすみたいに逃げて行くのがよく見える。それは水が濁っておらず、透明であるが故に認識出来る事だった。
だがアロイスは目を瞑っていた。彼は、耐えているのだ。
水は冷たくない。春も盛りである為水は温い。寧ろ頭の先まで浸かってしまえば、心地良い位だった。鎧の隙間から沼の水が入って行く感覚が、気持ち良い。
呼吸が出来ない!! それが、無上の苦しみを彼に強いていた。頭に徐々に血が溜まって行く。大脳が急激に酸素の供給を欲している。仕方なく今は、身体の中の酸素を燃焼させている状態だ。
オークから役立たずと叱責されたアロイスだったが、混乱して手足をバタつかせていないと言うのは流石であった。
普通の人間は地に足が着かない事と、急いで水上に浮上しなければと言う意思に従って手足を無造作に動かしてしまうのだが、これは徒に疲労を招き、体内の酸素を無為に消費してしまう危険な行為なのだ。
訓練の賜物と言うのもあるが、もう一つ。湖の深さが比較的浅かった――それでも三mはある――為に、湖底に両足が着いていると言う状態であると言う事があった。
オークは沼の中にあっても、まだ目を開けていた。彼だけは、水面を確認する義務があったからだ。
彼は湖中から振り返り、水面を仰ぎ見る。と其処には、今し方銀獅子が水辺に到着したらしく、茫然と、湖の方を見つめていた。
恐らく、先程上がった水飛沫の余波と、大岩でも放り込んだ後のような、水面を走る波紋とに目を奪われているのだろう。そして彼らが、水底に沈んでいる事も、理解しているに相違ない。
まさかこの多成獣も、水底からオークが、銀獅子が去るのを今か今かと待ち構えているなど夢にも思うまい。この沼は透明で、通常湖底まで見えるのだが、何故銀獅子が気付かないのか。
水草が銀獅子の視界を阻害しているのだ。アシやガマと言った水辺の抽水植物は沼の周りに鬱蒼と生い茂っているし、水上のミツガシワやトチカガミは絶妙にオークら二人が沈んでいる位置を隠蔽している。
逆に水に沈んだ二人からは、銀獅子の姿が見えると言うのが、神の采配以外のなにものでもなかった。尤も見え難いと言うのは仕方ないが、見えないよりは遥かにマシである。
――速く去れ!!――
心中でオークが必死に叫ぶ。アロイスの方はまだ余裕があるが、元々骨が折れているのに無理して湖沼の中まで付き合わせてしまっているのだ。呼吸はそう長くは持つまい。
アロイスよりももっと厳しい状態なのが、実はオークの方であった。何㎞ものマラソンの後で、水に顔をつけると、人は数秒も無呼吸でいられない。犬みたい息をハッハッ、と荒げてしまう為である。
今のオークがまさにこの状態で、彼は実はアロイスよりも必死に呼吸を止めているのである。オークの若葉色の瞳は今、憤怒の気迫で血走っている。
水は人間の生命維持に必要なものであると同時に、人にとって危険な凶器の一つである。アロイスとオークが陥っている状態では特に、だ。
溺死の原因は大きく分けて二つ程。先ず一つが、肺の中に水が溜まるか水浸しになるか。そしてもう一つが、酸素の欠乏による死だ。
肺は生命維持に欠かせぬ最も重要な臓器の一つである。それこそ心臓や脳と同格、いやそれ以上と言っても言い過ぎじゃない位に。
肺は酸素を取り込んで、不要になった二酸化炭素を吐き出す事を主な仕事としている。酸素を供給すると言う事は人体にとってこれ以上とない大事である。
人は数時間程度水や食料にありつけない程度では死ぬ事は先ず起こりえないが、酸素は一~二分取り込めないだけで深刻な事態に陥る。酸素の供給が不可能の状態になった場合、七~十分が死のリミットである。
水中に長くいる、と言う事は、この最も重要な器官を酷使すると言う事である。内臓器官は押し並べてデリケートであり、本来は手酷く扱うべきではない。
急いで水面に飛び出すべきなのだが、今はその時ではない。銀獅子が、水辺に佇み、沼の方向をジッと見つめているからだ。
――ひょっとして、わざとやっているのではなかろうな……――
オークのこの猜疑心は尤もな所だろう。あの狡猾な多成獣の事だ。此方が溺死するまで、座して待つと言う事位、やりかねない。
相手の方が状況的に遥かに有利なのだ。待ちの戦法は有効的である。だが今は、獣の頭がこの待ちの戦法の優位性を理解していない事を祈るしかない。
何故なら、アロイスがいよいよ危険な領域へと突入しているからだ。呼吸を無意識の内に行ってしまいそうな目口を両手で押さえており、生理反応を必死に殺している。
顔面が、全身の血が集まっているのかと思ってしまう程赤い。無理している事が一目で解る。このままでは、銀獅子に殺されるよりも先に、溺死する。
早く、早く、早く!!
二人は一丸となって銀獅子が此処から去ってくれる事を望んでいた。
――そして、その願いが叶ったのかどうかは解らないが、銀獅子は沼の側に尻を向け、元来た道を歩いて行った。水底で死んだもの、と思っているのだろう。
だがまだ油断は出来ない。あと二十秒程は待つ必要がある。ひょっとして油断して浮上した所を、狙う算段かもしれないからだ。
オークは心臓の搏動するリズムで、二十秒と言う時間を概算。それだけの時間が経過するや、アロイスの襟を掴みながら、浅瀬の方へと泳いで行った。
水掻きでもついているのかと思う程スムーズで素早く、そして水流を味方につけた見事な泳ぎ方だった。とても豚が泳いでいるとは思えないだろう。
更に十秒程経って、彼らは抽水植物、即ちアシやガマと言った植物が生えている所まで到着。其処は水底まで一mと言うとても浅い地点であった。
オークは待ちかねたように顔を上げ、めい一杯深呼吸。酸素を取り込んだ。
未だ嘗て此処まで、何気なく吸っていた気体を恋しく思った事はない。彼はまさに、貪るように酸素を吸った。この森の植物が光合成の末に生み出した酸素を全て吸引し尽くさんばかりの勢いだった。
アロイスもまた同様に、碧眼を血走らせ、過呼吸に陥ってしまうかもしれぬペースで、酸素を貪っていた。二人とも顔どころか身体中ずぶ濡れであるのは言うまでもないが、アロイスの碧眼の周りだけ、水晶色の綺麗な水で濡れていた。
それが涙であると指摘する事を、オークは止めた。今だけは、必死に呼吸するのを堪えていたアロイスに茶々を入れるのが、野暮であると思われたからだ。
銀獅子は遥か前方二百m程におり、もう此方へと向かって来る気配はない。見事に、オークとアロイスは逃げ延びたのだ。
天使の誘いを受け天国の門をくぐっていてもおかしくなかった、二人の水中での三分三十四秒と、銀獅子との最初の死闘はこうして幕を閉じたのだった。
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